尖閣諸島?時遭難事件
(せんかくしょとうせんじそうなんじけん)あるいは
尖閣列島?時遭難事件
(せんかくれっとうせんじそうなんじけん)は、
太平洋??
末期の
1945年
7月に日本の小型船2隻が
アメリカ軍
機の攻?を受け、?時、無人島だった
尖閣諸島
に漂着した事件である。約50日後に救出されたが、??と飢餓などにより50人以上が死亡した。
石垣島
から
台?
へ民間人を
疎開
させる途中に遭難したもので、
?馬丸
以外に
沖??
からの疎開船が?沈破された?少ない事例である。
台?疎開石垣町民遭難事件
、あるいは遭難船名に由?して
一心丸?友福丸事件
とも呼ばれる
[1]
。
事件の?過
[
編集
]
1945年(昭和20年)6月24日、石垣島の住民に?し、24回目となる
台?疎開
希望者の募集がされた
[2]
。台?へ物資を受け取りに行く
?立混成第45旅?
「水軍隊」所?船の往路を使った輸送であった。
6月30日
の夕刻に
石垣港
で?船が始まり、友福丸(軍呼?:「第一千早丸」)と一心丸(軍呼?:第五千早丸)の
?玉エンジン
搭載小型船2隻に約180人が?り?んだ
[3]
。?船者のほとんどは女性と子供で、男性は高?者が少?
[4]
、
朝鮮人
と
台?人
も少?いた。?船者?を各120人程度の約240人とする回想もある
[5]
。
船?は空襲を避けるためになるべく夜間航行を選び、6月30日夜7時頃に石垣港から台?の
基隆港
を目指し出航、7月1日午前2時頃に?由地である同じ
八重山諸島
の
西表島
船浮
へ入った。?間は碇泊して7月1日夜に航行再開する予定であったが、友福丸のエンジン故障のため出港を延期し
[6]
、7月2日の午後7時に船浮を出た。船?は台?直進ではなく、尖閣諸島付近まで迂回した欺騙針路で進んだ
[7]
。
船?が?時間で基隆入港予定という
7月3日
午後2時頃、定期哨戒中のアメリカ軍機(日本側では
B-24爆?機
と判?
[7]
)1機によって?見されてしまった。アメリカ軍機は船?側方から3回の爆?投下と
機銃掃射
を行い、さらに船尾方向から航過しながらも機銃掃射を1回加えた
[8]
。日本側は機?銃で??したが、?果は無かった
[6]
。船上では一心丸の宮城三?船長以下死傷者が?出し、銃?で割れた?から味?が流れて血と混じる??となった
[4]
。一心丸は船?中央部に爆?が命中して炎上沈?
[注? 1]
、友福丸も機銃?でエンジンが破損して航行不能となった
[9]
。アメリカ軍機は、友福丸も沈?するものと判定しつつ立ち去った
[8]
。友福丸から
?馬船
が降ろされて救助作業が行われたが、?船者には?力に劣り泳げない者も多かったため相??が溺死した
[10]
。
友福丸は浸水しながらもかろうじて沈?を免れ、有り合わせの布をつなぎ合わせて帆を張り
[11]
、翌7月4日朝にはエンジンも再始動できた
[9]
。?船者の中に尖閣諸島で
古賀商店
の
?節
製造事業に携わった??者がいたため、尖閣諸島へと向かうこととなり
[11]
、4日午前9時半頃に魚釣島
[注? 2]
に到着した。このとき尖閣諸島には、本船?とは別に遭難して漂着した日本兵6人がおり、合流している
[11]
。
上陸?初は米や?節など乏しい食糧を出し合って野草入りの
?炊
にする協同炊事が行われたが、1週間
[10]
から2週間ほどで打ち切りとなり
[4]
、以後は各自で食糧を集めた。魚釣島には淡水が湧くため?料水には困らず、石垣島民に別名で「クバ島」と呼ばれるほど食用樹木の
ビロウ
(地方名:クバ)も豊富だったものの、100人以上の食糧としては不十分だった。ネズミやヘビも生息していたが、動きが素早くて捕まえられなかった
[12]
。サクナ(
長命草
)などの野草や、磯?で獲った小魚や
ヤドカリ
などで命をつないだ。?力の低下が激しく、?人の餓死者が出た。毒草を食べて苦しむ者もあった
[10]
。B-24爆?機も島に連日飛?したが、幸いに死傷者は出なかった
[13]
。
救援を呼ぶために一部の者が友福丸で出?したが、すぐに機?故障を起こして航行不能となり、やむなく船?を放棄して?馬船で島へと?った
[13]
。その後、手漕ぎの
サバニ
を作って救助を呼ぶことが計?された。遭難者の中にいた船大工1人と陸軍
工兵
を中心に、海岸にあった難破船の?骸を資材として建造は進められ、10日ほどで全長5メ?トルのサバニが完成した
[14]
。陸軍兵と船員??者ら8人の決死隊が編成され
[9]
、出?直前に?く希望する
主計
准尉
1人も加えて、8月12日午後5時頃に石垣島を目指して出?した
[13]
[14]
。帆走と漕走で進んだ。途中で3度も敵機に遭ったが、攻?は受けなかった。8月14日午後7時頃に石垣島の
川平?
へと到着、川平駐屯の日本軍部隊を?由して?混第45旅?司令部に連絡がされた
[15]
。
8月15日、事態を知った?混第45旅?の要請を受け、台?所在の日本軍機が魚釣島に飛行、
乾パン
と
金平糖
を
パラシュ?ト
投下した
[16]
。石垣島からも?混第45旅?水軍隊の長谷川
少尉
が指揮する2-3隻の救助船が
軍?
を?せて出?し、
終?の日
の後である8月18日に到着した。救助船は魚釣島所在の生存者を?容し、19日午後に石垣島へと?還した。救出されたにもかかわらず、急に多量の食物を?取したことによる
消化器
疾患や、助かったと言う安堵感により死亡した者もあったという
[17]
。
また、救助船到着時に
南小島
(別名:トリ島)へ食料採取に出かけたまま?島不能で消息不明になっていた者が6人あり、取り?されてしまった。6人が魚釣島へ?ったときには救助船が去った後で、うち2人はその後に病死した
[注? 3]
。?る4人は、11月に家族が雇った
[18]
台?漁船によって救助された
[19]
。
?牲者?については諸?あるが、『沖??史』の統計表では?船者180人余のうち死亡75人
[3]
、『
琉球新報
』によれば救出までの死者70人?救出後の衰弱死等20人近くとされている
[1]
。このほか、少ない?値では?死者約45人?餓死者8人
[8]
、多い?値では約240人?船で半?死亡とする回想もある。また、『沖??史』では、八重山諸島住民の??死者??179人のうち、船の沈?による死者??37人となっている
[20]
。
背景
[
編集
]
太平洋??も後期となった
1944年
(昭和19年)6月の
アメリカ軍サイパン上陸
を契機に、
大本?
は沖??民の島外疎開を?討し始めた。そして、同年7月7日の
閣議
で、女性?子供?高?者を?象に日本本土へ8万人?台?へ2万人を疎開させる計?が決定された。一般住民の島外疎開はあくまで??の形式で行われ、?や警察による?い
行政指導
は伴ったものの法的?制力は無かった
[21]
。本事件の遭難者の回想でも、台?疎開は?故を?る自由疎開だったと述べるものがある
[2]
。ただ、この点について、「軍命」であったと主張する者もある
[22]
。
?童疎開船?馬丸や軍隊輸送船
富山丸
の?沈などがあったため疎開に?募する者はなかなか?えなかったが、1944年10月10日の
十?十空襲
でようやく機運が高まり、1945年3月上旬までに九州へ約6万人、台?へ
宮古島
?石垣島から2万人以上(ほか本島からも2千人)が疎開した
[23]
。石垣島から台?への疎開は、4月の沖?本島へのアメリカ軍上陸後も?けられており、本船?は24回目の石垣島から台?への疎開船であった。
厚生省
の調査では沖?からの疎開船延べ187隻が確認されたが、そのうち?馬丸がアメリカ?水艦の雷?で?沈された以外には被害がなかった
[23]
。本船?2隻の遭難は、?馬丸以外に沖?からの疎開船が被災した?少ない例ということになる。なお、
鹿?島?
の
?之島
からの疎開では
武洲丸
が同じアメリカ?水艦の雷?で?沈されている。
本事件遭難者の多くの出身地である石垣島は、沖??において地上?にはならなかった地域である。守備隊としては陸軍の?立混成第45旅?(旅?長:宮?武之
少?
)が配備され、指揮下に
海軍石垣島警備隊
などが存在した。地上?は無かったものの空襲は受けており、十?十空襲の際に4日間で延べ約40機が?襲したのを皮切りに、1945年3月末から6月下旬にかけて
イギリス機動部隊
を中心とした空襲が頻繁であった。アメリカ海軍の
PB4Y-2
(B-24爆?機の海軍仕?)も占領した沖?の飛行場等から作?行動を行っていた。ただ、7月に入ってからは沖?本島での組織的な地上?が終わり、空襲も減少していた。八重山諸島では、島外疎開を選ばなかった住民に?し6月から山地への島?疎開が命じられており、
波照間島
などの住民は西表島へ移住させられていた
[24]
。
石垣島の?混第45旅?では、沖?本島にアメリカ軍が上陸して八重山諸島が孤立化した後、海上輸送用に?用船や修理した沈?船を集めて「水軍隊」と?する船舶部隊を編成していた。水軍隊は長谷川小太?少尉を指揮官に、軍呼?第一千早丸(原船名:一心丸)、第三千早丸、第五千早丸(原船名:友福丸)の3隻を?備していた。第五千早丸の機?長によれば第一千早丸、第二千早丸とも150トンの貝採取用の漁船
[1]
、別の第五千早丸?員の回想によれば第一千早丸は150トンの
機帆船
(石垣島の井上造船所製)、第五千早丸は200トンの機帆船(本土?用)であったという
[5]
。水軍隊は5月にも同じ尖閣諸島迂回航路で台?へ往復しており、本事件は同航路での2度目の航海で起きた。3隻の保有船のうち第三千早丸は故障中のため?加しなかったが、別に長谷川少尉の指揮する小船が傷病兵を輸送するために同時出航したとも言われる
[7]
。
?後の慰?と補償
[
編集
]
尖閣諸島?時遭難事件については生存者の多くが口を閉ざしており、まとまった形で資料となったのは
1974年
(昭和49年)?行の
『沖??史』第10?
が初めてであった
[1]
。その後、回想をまとめた記?集などが?行されている。アメリカ側の??記?も?見された
[8]
。
遺骨
の?された尖閣諸島は無人?態が?き、沖??がアメリカ軍の占領統治下におかれた?係もあって現地での慰?活動は困難であった。
1969年
(昭和44年)に
石垣市長
一行が島に上陸して、「台?疎開石垣町民遭難慰?之碑」を建立した。遭難者遺族代表らも同行し、再び不幸な漂着者があった時には食糧となるよう、長命草と
パパイア
の種子を島に植えている
[22]
。
1978年
(昭和54年)には遺族?が結成され、2002年(平成14年)に石垣市新川にも慰?碑を建立した。石垣市新川の慰?碑において?年
7月3日
に遺族?による慰?祭が行われている
[25]
。
2011年
に石垣市が尖閣地域での慰?祭?施の要望を政府に行った
[26]
。一方、遺族?は「ナショナリズムの思想を持つ活動家が過激な行動で挑?し合っている不?なこの時期の慰?祭は、紛?の火種になりかねない」「『武力』に守られながら慰?祭を行うことは考えていない」として現地尖閣での慰?に執着しないと表明している
[27]
。
2012年
(平成24年)には魚釣島にて慰?祭を行うべく、超?派議員連盟
日本の領土を守るため行動する議員連盟
の所?議員が政府に上陸許可申請を行ったが認められず、付近の洋上で慰?祭を行った
[28]
。その際、?加者のうち東京都や兵庫?の地方議員5名を含む約10人は、政府の許可なく島に上陸している(
日本人活動家尖閣諸島上陸事件
)
[29]
。地方議員らが上陸する約10日前に日本の領土を守るため行動する議員連盟?長の
山谷えり子
?議院議員は、政府に出す上陸許可申請に遺族?の署名を求めていたが遺族?は拒否し、そののちに行われた議員連盟の慰?祭や地方議員らの上陸を?しく批判している
[30]
。
?牲者に?する補償も行われていなかったが、1969年に石垣市から決死隊員や船大工に?して感謝?と記念品が贈られた。1972年(昭和47年)には、石垣町民34人に?して見舞金3万円ずつの給付と
??
があった。別に、?死した軍?船長ら3人は
恩給
の?象となっている。沖?外地引揚者協?は、本事件が「軍命」による疎開で?生したと主張して、?馬丸?牲者同?の給付を求める運動を行っている
[22]
。これに?する日本政府の見解は、軍人軍?と同視できる沖?地上?死者のような特別の事情を欠くので恩給?象外であり、?馬丸遭難?童のような特別支出をすべき事情も無いとしている
[31]
。
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
日本側回想では、3度目の攻?で船?中央部に
ロケット?
が命中して火災が起きたとするものがある
[5]
。
- ^
回想では「クバ島」と呼んでいる例もあるが、ここでは
久場島
ではなく魚釣島の別名。
- ^
1人は崖から?落死したとする回想もある
[18]
。
出典
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
?連文?
[
編集
]
- 尖閣列島?時遭難死?者慰?之碑建立事業期成? 『沈?の叫び―尖閣列島?時遭難事件』 南山社、2006年。
- みやら雪朗 『
あほうどりのちかくで
~かあちゃんの尖閣列島遭難記~』 近代文芸社、1995年。
?連項目
[
編集
]