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?永寺

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
?永寺
根本中堂
所在地 東京都 台東? 上野?木 一丁目14番11?
位置 北緯35度43分17秒 東?139度46分27.5秒  /  北緯35.72139度 東?139.774306度  / 35.72139; 139.774306 座標 : 北緯35度43分17秒 東?139度46分27.5秒  /  北緯35.72139度 東?139.774306度  / 35.72139; 139.774306
山? 東叡山 [1]
院? 円頓院 [1]
宗旨 天台宗
寺格 ?東?本山
本尊 ?師如? [1] 秘? 、重要文化財)
創建年 ?永 2年( 1625年
開山 天海 [1]
開基 ?川家光
正式名 東叡山?永寺円頓院
札所等 江?三十三?音札所 第6番(?水?音堂)
文化財 ?本坊表門、?水?音堂、木造?師三尊像ほか(重要文化財)
?川家?廟
公式サイト 東叡山?永寺公式サイト
法人番? 5010505000200 ウィキデータを編集
寛永寺の位置(東京都区部内)
寛永寺
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??永寺五重塔(重要文化財)
?重 名所江?百景 』より?永寺?水?音堂が描かれた「上野?水堂不忍ノ池」。

?永寺 (かんえいじ)は、 東京都 台東? 上野?木 一丁目にある 天台宗 ?東?本山の 寺院 。山?は東叡山(とうえいざん) [2] 。東叡山?永寺円頓院と?する。開基(創立者)は 江?幕府 3代?軍の ?川家光 であり、開山(初代住職)は 天海 、本尊は ?師如? である。

?川?軍家の祈?所?菩提寺であり、?川?代 ?軍 15人のうち6人が?永寺に眠る。 17世紀 半ばからは 皇族 が?代住職を務めて 朝廷 との?がりが深かった。 日光山 比叡山 をも管轄する天台宗の本山として近世には?大な?勢を誇ったが、 幕末 の動?期に主要な 伽藍 が?失した。かつての境?の大部分は 上野公園 となっている。

?史 [ 編集 ]

創建と伽藍整備 [ 編集 ]

江? にあった ?川家 の菩提寺のうち、 ?上寺 は中世から存在した寺院であったが、?永寺は 天海 を開山とし、?川家により新たに建立された寺院である。 ?川家康 ? 秀忠 ? 家光 の3代の?軍が?依していた天台宗の僧?南光坊天海は 江?城 鬼門 の方角を憂慮し、そのことを知った秀忠は、 元和 8年( 1622年 )、現在の 上野公園 の地を天海に?えた。?時この地には伊勢 津藩 主? 藤堂高虎 弘前藩 主? 津?信枚 、越後 村上藩 主? 堀直寄 の3大名の下屋敷があったが、それらを?公して寺地にあてたものである。秀忠の?居後、 ?永 2年( 1625年 )、3代?軍?川家光の時に今の 東京?立博物館 の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された [3] 。この年が?永寺の創立年とされている。

創建?時の年?をとって「 ?永寺 」とすることを許され、京の都の鬼門(北東)を守る 比叡山 にならい、「 東の比叡山 」という意味で山?を「 東叡山 」とした [2]

?永寺の 伽藍 は延?寺の?式に準じて造?された [2] 。?永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多?塔、輪?、東照宮などが、?永8年(1631年)には?水?音堂?五重塔が、 根本中堂 の建設は5代?軍 ?川綱吉 の時代、元?10年7月1日に 柳?吉保 が?奉行を?命し開始され、元?11年( 1698年 )8月11日に 上棟式 が行われ落成した [注 1] [3]

位置?係では、根本中堂と護?寺、根本中堂と?草寺を結ぶ線は一直線につながる。また、根本中堂は日光の表?道の延長線上に存在している。

?永寺と?上寺 [ 編集 ]

近世を通じ、?永寺は?川?軍家はもとより諸大名の?依を受け、大いに?えた。ただし、創建?初の?永寺は?川家の祈?寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。?川家の菩提寺は2代?軍秀忠の眠る、芝の?上寺( ?土宗 寺院)だったのである。しかし、3代?軍家光は天海に大いに?依し、自分の葬儀は?永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代 家綱 、5代 綱吉 の廟は上野に?まれ、?永寺は?上寺とともに?川家の菩提寺となった。?然、?上寺側からは反?があったが、6代?軍 家宣 の廟が?上寺に造?されて以降、?代?軍の墓所は?永寺と?上寺に交替で造?することが慣例となり、幕末まで?いた [注 2] 。また、 吉宗 以降は幕府財政?約のため、?永寺の門の?が削減されている。

輪王寺宮 [ 編集 ]

?永寺では第三代以降幕末まで?代の住職に法親王が就任した [2]

?永20年(1643年)、天海が?した後、弟子の 毘沙門堂 門跡? 公海 が2世貫主として入山。その後を?いで3世貫主となったのは、 後水尾天皇 第3皇子の 守澄法親王 である。法親王は 承? 3年( 1654年 )、?永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明?元年(1655年)には 天台座主 を兼ねることとなった。

以後、幕末の15世公現入道親王( 北白川宮能久親王 )に至るまで、皇子または天皇の猶子が?永寺の貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊?され、 水? ? 尾張 ? 紀州 ?川御三家 と?ぶ格式と絶大な 宗? 的?威をもっていた。

三山管領宮 [ 編集 ]

?代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山?日光山? 比叡山 の3山を管掌することから「 三山管領宮 」とも呼ばれた [2] 東? 皇族 を常駐させることで、 西? 皇室 を戴いて 倒幕勢力 が決起した際には、 ?東 では輪王寺宮を「 天皇 」として擁立し、 ?? における 四神相? の土地相とし、?川家を一方的な「 朝敵 」とさせない?の安全?置だったという?もある(「 ?羽越列藩同盟 」、「 北白川宮能久親王(東武皇帝) 」?照)。

?代?永寺貫首(輪王寺宮) [ 編集 ]

  1. 天海
  2. 公海
  3. 守澄法親王 (第179世 天台座主 。輪王寺宮門跡の始まり。 後水尾天皇 第3皇子)
  4. 天?法親王 後西天皇 第5皇子)
  5. 公弁法親王 (第188、190世天台座主。後西天皇第6皇子。 赤?事件 で?軍 ?川綱吉 の諮問を受ける)
  6. 公?法親王 (第196、199世天台座主。 東山天皇 第3皇子)
  7. 公遵法親王 (第203、206世天台座主。 中御門天皇 第2皇子)
  8. 公啓法親王 (第208世天台座主。 閑院宮直仁親王 第2王子)
  9. 公遵法親王 (再任)
  10. 公延法親王 (第213世天台座主。 閑院宮典仁親王 第4王子)
  11. 公澄法親王 (第216世天台座主。 伏見宮邦?親王 第2王子)
  12. 舜仁入道親王 (第226世天台座主。 有栖川宮織仁親王 第4王子。)
  13. 公紹法親王 有栖川宮韶仁親王 第3王子)
  14. 慈性入道親王 (第230世天台座主。有栖川宮韶仁親王第2王子)
  15. 公現入道親王(のち還俗して 北白川宮能久親王

衰退と復興 [ 編集 ]

上野??後、?け野原になった境?

江?時代後期、最盛期の?永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、 子院 は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の 上野公園 のほぼ全域が寺の?境?であり、最盛期には、更にその2倍の面積の寺地を有していた。例えば、現在の 東京?立博物館 の敷地は?永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水?場は、根本中堂のあったところである。

江?時代には 飛鳥山 と?ぶ?の名所として知られており、庶民の行?地であった [2] [4]

しかし、上野の山は、幕末の 慶? 4年(1868年)、 彰義隊 の?( 上野?? )の?場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇を?失し、?された建物は五重塔、?水堂、大?殿などだけとなった [2] 明治維新 後、寺領は??され、輪王寺宮は還俗、 明治 6年(1873年)には?境?地が公園用地に指定されるなどして、?寺?態に追い?まれるが、明治8年(1875年)に再?足。江?時代の境?地だった場所は、上野公園や 上野? の用地となり大きく?貌をとげた。明治12年(1879年)子院の1つの大慈院があった場所に 川越 喜多院 (天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、復興の途についた [2] [3]

太平洋?? 中の 東京大空襲 では、?時?っていた ?川家?廟 の建物の大部分が?失した。2度の?災をまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園?の各所に点在している。

伽藍 [ 編集 ]

?本坊表門(重要文化財)
不忍池と弁天堂

現存する伽藍 [ 編集 ]

?伽藍 [ 編集 ]

葛飾北? 筆 東叡山中堂之?
幕末の?永寺付近の地?(大日本?史地?より)

すでに述べたように、現在の上野公園のほぼ全域が往時の?永寺の境?であった。松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「?小路」と?したが、これは?軍が?永寺にある?川秀忠らの?廟に?詣するための?道であり、防火の意味で道幅を?げていたため、?小路と呼ばれた。

上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と?する橋があって寺の正面入口となっており、その先に?門にあたる「?門」があった。上野公園?中央を通り、大噴水、東京?立博物館方面へ向かう道がかつての?道であり、文殊?、その先に法華堂と常行堂、多?塔、輪?、根本中堂、本坊などがあった。その周?には?水?音堂(現存)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、 不忍池 の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建)などが建ち、また、36か院にのぼる子院があった。

天海は江?と?永寺との?係を、京都と比叡山の?係になぞらえて構想していた。すなわち、根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延?寺にも同名の建物があり、?水?音堂は京都の?水寺になぞらえたもの(傾斜地に建つ建築?式も類似する)、不忍池と中島の弁天堂は、 琵琶湖 とそこに浮かぶ 竹生島 ??寺 弁才天 にならったものである。

かつて存在した建物
  • 根本中堂 - 他の諸堂より?れて 元? 11年( 1698年 )落慶。現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造、間口45.5メ?トル、?行42メ?トル、高さ32メ?トルという?大な規模の?堂であった。中堂前には方形に回廊をめぐらし、正面に唐門を設けていた。
  • 本坊 - 根本中堂の裏、現在の東京?立博物館の敷地にあった。前述のとおり、正門のみが上野??で?け?り、しばらくは博物館の正門として使用されていたが、その後博物館の東の 輪王寺 に移築されている。博物館本館裏の日本庭園は?永寺本坊庭園の名?りである。
  • 法華堂?常行堂 - 入母屋造の同形の?堂2棟を左右に?べ、その間を屋根付きの高廊下で?いだもので、?詣者は高廊下の下をくぐって根本中堂へ向かった。?永4年(1627年)、 紀州藩 主の ?川?宣 尾張藩 主の ?川義直 の寄進で建立されたものである。?永期を描いた『江???風』には中堂の位置にある。
  • 文殊? - 入母屋造重層の門。?永4年(1627年)建立の仁王門が貞享2年(1688年)?失した後、元?10年(1697年)に建てられたが、上野??で?失した。
  • ?門 - かつての?門。現在の上野公園入口から噴水?場へ至る?い道の途中、?水?音堂の下あたりにあったもので、簡素な冠木門であった。幕末の上野??には?け?ったが、明治40年(1907年)、東京都 荒川? 円通寺 に移築され、同所に現存する。彰義隊?士の遺骸が円通寺に葬られた?で移築されたもので、門には上野??の時の?痕が多??る。なお、現在、?水?音堂近くにある?門は復元されたものである(?述の?本坊表門も?門と通?されるが別個の門である。)。

子院 [ 編集 ]

現在は、以下の19か院。

  • ?如院
  • 寒松院
  • 林光院
  • 吉祥院
  • 泉龍院
  • 修?院
  • 現龍院
  • 見明院
  • 福聚院
  • 本?院
  • 元光院
  • 東漸院
  • ?成院
  • 春性院
  • 等?院

※以上15か院は、東京?立博物館東側に所在。

  • 養?院(?永寺本堂裏手)
  • 津梁院(?永寺本堂裏手)
  • 円珠院(東京芸術大?音??部の西側)
  • 護?院 (東京芸術大?美術?部に隣接)
    • 昭和2年(1927年)、東京市立二中(?制第二東京市立中?校、現在の 東京都立上野高等?校 )の創立にあたり護?院境?地の大半を東京市立二中へ?渡。

?川家?廟 [ 編集 ]

東京?立博物館裏手の?永寺墓地には、?川?軍15人のうち6人( 家綱 綱吉 吉宗 家治 家? 家定 )が眠っている。 ?有院(家綱)?廟 常憲院(綱吉)?廟 の建築物群は、東京の?光名所として知られ???に指定されていた貴重な?史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を?失。?け?った以下の建造物は現在 重要文化財 に指定されている。

  • ?有院?廟勅額門、同水盤?、同?院唐門、同?院?塔
  • 常憲院?廟勅額門、同水盤?、同?院唐門、同?院?塔

??家?堂 [ 編集 ]

??家?堂は、 ???一 の前妻?千代の17回忌にあわせて建てられたと?えられている。?堂は一般公開されていない。

いずれも?永寺?園?にあり(?有院?廟の勅額門は外の道路から見ることができる)、通常は一般公開されていないが、5名以上の??に限り予約制で?月3日間程度公開されている [5] 。また台東?役所が主催する特別公開が?年秋に1日だけ行われている [6]

文化財 [ 編集 ]

上野恩賜公園?の?水?音堂

重要文化財 [ 編集 ]

  • ?水堂(?水?音堂)
  • ?本坊表門( 輪王寺 所在)
  • ?有院?廟(※印の物件は?永寺でなく個人の所有)
    • 勅額門
    • 水盤?  
    • ※?院唐門(銅造) 
    • ※?院?塔(銅造)
    • ※附:浚明院?塔、文恭院?塔(各石造)
  • 常憲院?廟(※印の物件は?永寺でなく個人の所有)
    • 勅額門
    • 水盤?
    • ※?院唐門(銅造)
    • ※?院?塔(銅造)
    • ※附:有?院?塔、孝恭院?塔、?恭院?塔、天璋院?塔(各石造)
  • 木造?師如?及?脇侍立像 - 本堂(根本中堂)に安置する秘?本尊の?師三尊像。中尊も含め、3?とも立像である点が珍しい。中尊と?脇侍は??を別にしており、中尊は滋賀??石津寺から、?脇侍は山形?? 立石寺 から移されたもので、?永寺の創建より古い平安時代の作である。本堂?は非公開で、夏場に檀家相手に1日だけ開扉するだけなので、一般??はできない。(?師三尊像は 2006年 3月28日~5月7日に 東京?立博物館 で開催された特別展「 最澄 と天台の??」に出展され、初めて一般公開された)
  • 絹本著色 ?界曼?羅 ? - 東京?立博物館に寄託。
  • 天海版木活字 264,688箇 - 開山の天海が刊行した「天海版一切?」の印刷に使われたもの。2003年に重要文化財に指定。
  • ??永寺五重塔(所有者は東京都、 恩賜上野動物園 構?に所在)

登?有形文化財 [ 編集 ]

  • ??家?堂 - 1898年建立 [7]
  • 根本中堂
  • 葵の間

その他 [ 編集 ]

  • 算額  昭和42年5月 下平和夫奉納(非公開)

交通 [ 編集 ]

?連文? [ 編集 ]

  • 浦井正明 『上野?永寺?軍家の葬儀』( 吉川弘文館 、2007年)
  • 浦井正明『「上野」時空遊行』( プレジデント社 、2002年)
    著者は?永寺執事長、子院現龍院住職。?永寺及び上野の?史?究者。
  • 坂谷徹念「江?の北極星信仰」(『?史?本』59?9?、2014年)242-243頁
  • 坂谷徹念「地理情報サイトで??」(『月刊地理』748?、2017年)112-113頁

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ それまでの約70年間は本坊が根本中堂の代用だった。
  2. ^ ?川?軍15名のうち、家康、家光、慶喜を除く?り12名は、?永寺と?上寺に6名ずつ葬られている。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b c d 江?名所?? 1927 , p. 224.
  2. ^ a b c d e f g h 東叡山?永寺 ”. 東京?立博物館 . 2019年10月28日 ??。
  3. ^ a b c ?永寺根本中堂 ”. 東京とりっぷ . プレスマンユニオン. 2020年8月3日 ??。
  4. ^ ?と花見の?史 ”. 2020年8月3日 ??。
  5. ^ 特別??のご案?
  6. ^ 上野の山文化ゾ?ンフェスティバル[?永寺特別公開]
  7. ^ ?永寺??家?堂 - 文化遺産オンライン 文化?
  8. ^ 交通案? ?永寺公式ホ?ムペ?ジ

?考文? [ 編集 ]

  • 特別展?? 『創建三六?年記念 上野?永寺展』、日本??新聞社、1985年
  • 根岸?衛  『 耳?  (全3?)』  長谷川? 校注、 岩波文庫 、1991年。 - 江?時代の?筆。?永寺についての逸話も?む。
  • ?藤長秋 編「卷之五 玉衡之部 東叡山?永寺」『 江?名所?? 』 3?、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、218-219,224-260頁。 NDLJP : 1174157/114  

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]