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宣?王
(せんとくおう、生年不詳 -
785年
2月26日
)は、
新羅
の第37代の王(在位:
780年
- 785年)であり、姓は金、
諱
は良相
[1]
。第17代
奈勿尼師今
の十世孫であり、『
三?史記
』新羅本紀?宣?王紀に?れば、父は海干(4等官の
波珍飡
)の金孝芳、母は第33代
聖?王
の娘の四
炤
夫人。それぞれ?位後に追封して開聖大王、貞懿太后とした。王妃は
角干
(1等官)の金良品の娘の具足夫人。『
三?遺事
』王?においては、祖父を元訓角干、父を孝芳海干、母を四召夫人、王妃を良品角干の娘の具足王后とする。
780年4月に先代の
?恭王
を殺して王位に就いた。宣?王以降を新羅の下代といい
[2]
、王都での反?が?き、王位簒奪が繰り返されることとなった。
?位まで
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]
?恭王の10年(
774年
)9月に
伊飡
(2等官)の位で
上大等
に任命された。?時の新羅の貴族の間では、王の下で律令訂正を推進しようとする?派と、王?を抑えて中央貴族連合?制に復?しようとする?派とで?いを繰り返しており、
769年
の貴族連合派の反?、
770年
の律令派の反?が平定されたところであった。良相が上大等に着任した後にも
775年
6月?8月に貴族連合派の反?が起こっており、??されてもいる
[3]
。王?が伸張したために抑えられがちにあったとはいえ、上大等の立場は貴族連合を代表するものであり、良相はこうした立場から
777年
4月には王に政治批判の上書を行なった。?恭王は貴族連合派に配慮する形で、王族から金周元を侍中に任命して律令派と貴族派との提携を?ったが、780年2月に再び貴族の反?が起こって王宮を包?することになった。この反?に?して良相は伊飡の
金敬信(後の元聖王)
とともに?兵し、反?を平定するとともに?恭王までも殺害し、自ら王位に立つこととなった。
治世
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]
?位して直ちに宣?王は金敬信を上大等に任命し、
782年
閏正月には
唐
に?して
朝貢
を行なった。勢力を?めている
渤海
に備え、北方面の守備に努め、
781年
7月には
浿江
(
大同江
)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には
漢山州
(
京畿道
?州市
)の住民を
浿江
?(
?海北道
平山郡
または
金川郡
)へ移住させている。
祭祀においては、王系の?革となったために自らの父を開聖大王として追封して五廟を保ち、また社稷の壇を築いたことが?えられている
[4]
。
在位6年目の
785年
正月になってようやく唐の
?宗
から<?校太尉??林州刺史?寧海軍使?新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去し、宣?王と
諡
された。遺詔によって火葬され、
日本海
に
散骨
された。王陵は未詳。
評?
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武烈王
に連なる王系から見れば、奈勿王十世孫という宣?王は傍系に過ぎず、決して王になれるような立場ではなかった。王族の有力な一員として、中央貴族層の代表格となる上大等に任命されて王の政治を補佐することを期待されていたこともあり、上大等と王とは異なる性格のものであると考えられていた新羅の政界で、上大等が王に取って代わるという新たな事態は一種異常であった。このため新羅の?部でも「下代」として時代の?わったことを認識されることとなり、以後王位簒奪が相次ぐこととなった。宣?王自身は王となってから5年余りで死去したために、
?恭王
時代からの政治的混?を?めることしかできず、本格的な回復は次代の
元聖王
の治世に持ち越されることとなったと見られている。
また、新羅の金氏王統の始祖?承には、
金閼智
?
金勢漢
?
味鄒尼師今
のほかに
奈勿尼師今
とするものもあるが、これは新羅の下代には王系が武烈王直系から傍系に?じたことと、宣?王(奈勿尼師今十世孫)?元聖王(奈勿尼師今十二世孫)が奈勿尼師今に連なる系統であることを主張したことが反映されている可能性が指摘されている
[5]
。
脚注
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編集
]
- ^
『
三?遺事
』王?では諱を亮相とする。
- ^
『
三?史記
』新羅本紀?敬順王紀に記される?分に基づく。始祖から??女王までを上代、武烈王から?恭王までを中代、宣?王から末王?
敬順王
までを下代とする。
- ^
ただし775年8月の反?については律令派によるものとも見られ、評?は一定していない。詳しくは
?恭王
の項目を?照。
- ^
該?記事は『三?史記』新羅本紀には見えず、同書?祭祀志や『東?通鑑』に見られる。(→井上?注1986 p.116 注7)
- ^
井上?注1980 p.316 注72.
?連項目
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]
?考文?
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]
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---|
- ?字は?代、( ) ?は在位。「居西干」「次次雄」「尼師今」「麻立干」はいずれも新羅?自の「王」?。
- 赤字
は女王。
|
上代
| |
---|
中代
|
29.
武烈王
(654-661)
/
30.
文武王
(661-681)
/
31.
神文王
(681-692)
/
32.
孝昭王
(692-702)
/
33.
聖?王
(702-737)
/
34.
孝成王
(737-742)
/
35.
景?王
(742-765)
|
---|
下代
|
36.
?恭王
(765-780)
/
37.
宣?王
(780-785)
/
38.
元聖王
(785-799)
/
39.
昭聖王
(799-800)
/
40.
哀?王
(800-809)
/
41.
憲?王
(809-826)
/
42.
興?王
(826-836)
/
43.
僖康王
(836-838)
/
44.
閔哀王
(838-839)
/
45.
神武王
(839)
/
46.
文聖王
(839-857)
/
47.
憲安王
(857-861)
/
48.
景文王
(861-875)
/
49.
憲康王
(875-886)
/
50.
定康王
(886-887)
/
51.
?聖王
(887-897)
/
52.
孝恭王
(897-912)
/
53.
神?王
(912-917)
/
54.
景明王
(917-924)
/
55.
景哀王
(924-927)
/
56.
敬順王
(927-935)
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