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この項目では、一族ないし一門の正嫡の??について?明しています。
- ?馬島の大名?豪族、華族の伯爵家だった宗家については「
宗氏
」をご?ください。
|
宗家
(そうけ)は、ある
一族
、
一門
において正嫡(
嫡流
)の家系。またその家系の?主。
本家
。
日本ではこれから?じて、
能?
などの?統芸能や
古武道
などで
家元
の言いかえとして用いられる
??
として用いられる。もとは能?のシテ方
?世流
で
?世?之丞家
に?して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家?とも。流派の??、普及活動及び一門の統率、門下生の?育を旨とする。流派により宗家自ら
師範
となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合がある。
?要
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宗家
とは、ある一族、一門の本家、もしくは本家の?主のことである。
古代日本においては
末子相?
があったとする?もあるが、通史的には
家父長制
あるいは
長子相?
が基本とされ、宗家の?承は、基本的に長兄に?して行われる(これを
嫡流
という)。他の子族は
庶流
(庶家、傍系、分家などとも)となったが、長兄が
?嫡
されたり他家へ養子に出されたり、あるいは?門へ出家したりなどで、長幼の序にしたがった弟が宗家を?承する場合もあった。
また朝鮮においては、門中は,墓祭を行うための資金を確保し,また高名な祖先の遺した文物があればそれを保存するために,共有の財産(位土と呼ばれる田畑,墓地を置く山林,集?を開くための祭閣など)をもち,有司や門長などの役員をおいて事務を?理する。
門中
の
始祖
から代?その後?ぎとなってきた家(長男の系統)を宗家(チョンガchongga),その?主を
宗孫
(チョンソンchongson)と呼ぶが,これは門中の象?的中心である。
[1]
「宗」の字義
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「
宗
」の漢字は、もともとは
祖先?
に?する
祖先信仰
を表す。?じて、“ものの始まり”を意味する「
もと
」や、中心を表す「
むね
」の訓みを合わせた。つまり、もともと「
宗家
」は
氏族
の中心をなす唯一に定まる血筋の家系を指す。
宗家と嫡流
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日本では古代の早い時期から「
地位
」という?別によって一
氏族
を上位の?力が支配する構造が生まれ、?に血統による?承ではなく、後述する「
氏長者
」による統制によって秩序を維持した一面があった。一族は氏長者がもつ財産の?承により安定な生活が保?される(
?領
はこれにちなむ)が、なんらかの理由で長者が亡失、あるいは失墜することは、生活に困難をきたし一族存亡の危機となるだけでなく、支配階級にとっても支配制度の根幹を?るがしかねない。そこで宗家の?絶を忌避するために「
嫡流
?承」と「
氏
的?承」との2つの解?が生じた。
養子
や
猶子
はこのような背景による要請で生じた制度である。孫や甥、非嫡出子が養子となったり、まったく血?のない者が養子に入り宗家を名?ることもあった。また男子を複?の妻を娶ることが一般的であった時代、父?制でありながら母系が上位?力の血筋の場合は、年の序列に?係なく
側室
の子よりも
正室
の子が優先されることもあった。嫡流でありながら何らかの事情で一族を統率するいわゆる嫡宗?を失った血筋を嫡家といい、代わって
庶流
が一族の統率?を得れば宗家を名?った。時代が下がるごとに宗家の定義は複?さを?していくが、複?の家の間でどちらが宗家であるかをめぐり?いとなった?史上の例は
神話
の時代から枚?にいとまがない。
江?時代における
御三家
や
御三卿
は、
?川宗家(?川?軍家)
の後嗣が絶えても?威の安定を?るための家柄制度(ただし明文化された「制度」ではない)であったともされる。
氏長者
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これは
藤氏長者
や
源氏長者
というように、
氏
(うじ)の代表者の呼?である。例えば、源氏長者は源氏一族の代表者であるが、この源氏の下位の家族集?として足利氏や?川氏(ただし?川氏の源氏は自?という?が有力)があり、それぞれに宗家がいた。それゆえ、氏長者は宗家よりもより大きな一族集?の代表者の意味である。
足利?軍家
や?川?軍家は、それぞれ足利宗家、?川宗家であると同時に源氏長者でもあった。
北?氏の「得宗家」
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鎌倉幕府
における
北?氏
の?領の家系を、
北?時政
の子である
北?義時
から9代
高時
への嫡流に限り「
得宗家
」と呼んでいた。ただ、史料においては北?氏嫡流の?主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。あるいはこの得宗は?崇、?宗とも書かれ、謂れは2代義時の別?、後世での戒名、追?など諸?もある。
能?
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能?では家元のことを宗家と呼ぶが、もとはシテ方
?世流
で分家の?世?之丞家に?して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。ただ宗家の名?は江?幕府の?軍より?えられたものであるとする?もある
[2]
。今日では?世流以外の家元家でも宗家の呼?が使われている。原則として宗家は世襲であり、?子がいない場合は親族から養子を迎えて今日まで?いている。
能?のうち、特にシテ方(主人公)流派の宗家の?限は?大で、?統的に演目、演出、上演、人事(認定?破門)、免?、
?本
刊行等の?限を有する。能?師の育成は
?生流
では宗家のもとで行われるが、?世流では一定の家格を持つ家(職分家以上)に能?師の養成を認めている。
能?はもともと武家の式?だったので、江?時代には幕府や各地の大名家の庇護を受け、各流派はそれぞれ扶持をもらっていた。?世流は江?幕府の庇護を受けていたので、明治維新後、
?川宗家
が駿府に?棲すると、?世宗家の22世?
?世?孝
はこれに義理立てして?岡へ移住し、東京は分家の?世?之丞家の5代目?
?世紅雪
と初世?
梅若?
(52世?六?)が預かる形になった。その間、?世?之丞家と梅若家は?自に免?を?行するなどの家元同然の活動を行い、?世宗家が東京に?ってくると、免??行?の返還を巡って?者は?立するようになる(いわゆる
?梅問題
)。大正10年(
1921年
)、?世宗家24世?
?世元滋
は梅若一門(梅若六?家、梅若吉之丞家、?世鐵之丞家)を?世流から除名し、梅若一門は新たに
梅若流
を興したが、その後梅若流も分裂して、最終的には昭和29年(
1954年
)、能?協?の斡旋により梅若流は?世流に復?した。
武術
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天神?楊流柔術家元、神田於玉ヶ池、磯又右衛門(磯正智、1818-1881)。『天神?楊流稽古出席帳』(明治15年)より。
日本
の武術流派では、流派の家元のことを宗家と呼ぶ。ただし
明治
以前は、各流派の武術指導者は、師範や指南役等と呼ばれており、宗家(家元)という呼?が一般化したのは明治以降である。例外的に、
天神?楊流
、
?山一?流
、
北辰一刀流
のように明治以前から宗家(家元)制度を敷いていた流派もある。
武術流派における家元制度の起源は
小笠原流
などの弓馬術である。これは
弓術
?
馬術
が他の武術と比べて、早い時期から儀?的、遊芸的なものとなり、他の者から勝負を挑まれるような事態を回避することができたからである。本?、武術は?力勝負の世界であるから、もし敗北すれば流派の家元としての?威を保つことはできない。しかし、弓馬術においては、射?、犬追物、笠懸、流鏑馬など、技法が貴族的な儀?として行われるようになった。このため、小笠原家は世襲的に弓馬術の家元となりえた
[2]
。
江?時代には、多くの武術流派で特定の家柄が世襲的に師範や指南役を?承する、ある種の家元のような存在はあったが、他の芸道の家元のように全?の門弟を統制下におくような家元は、上記諸流派を除いて一般的ではなかった
[3]
。これは、幕藩?制下においては各藩は他藩に?して?立的な封鎖社?を構成しており、特に武力は完全な藩?立?部の秘密事とされていたため、藩という?境を越えて、全?の門弟を家元が統率することは困難だったからである
[4]
。それゆえ、弟子が師匠から免許や指南免許等を得た時点で、?自に門弟を指導し、免許を?行する?利(免許?行?)も?えられるのが一般的であった。このため、江?時代には各地に多くの分流や分派が生まれた。ただし、天神?楊流の磯家や北辰一刀流の千葉家のように宗家(家元)にしか免許?行?がなかったり、支部には目?までの?行?しか?えず免許?行?を制限する流派もあった。
また、御流儀、
御家流
、
御留流
などと?して、他藩への?授を禁止したり、上士にしか?授されない流派もあった。例えば、
紀州藩御流儀
の
?口新心流
や
富山藩御留流
の
四心多久間四代見日流
などである。また、薩摩藩御流儀の
示現流
のように、東?家宗家(先?代までは師範の??)のみが唯一の師範で他には一切師範資格を?えなかった流派もある
[5]
。ただしこれらの流派でも正式な指南免許が出たかは別にして、結果的に支藩や他藩に?わった例はある。
同一藩?においては、藩や師範家の承認なしに勝手に分流や分派ができないような制約もあった。例えば、
?丸自?流
(野太刀自?流)が示現流から?立する際、門人の移動を巡って示現流宗家の東?家と?丸家との間で?いが起こった。このとき、
?丸兼武
は屋久島へ遠島蟄居の?分を受けている。?丸家と東?家は示現流開祖?
東?重位
以?、親密な?係にあったが、東?家の?威が認められる形となった。子の
?丸兼義
の代になって、ようやく?立が認められた。
明治以降、それまでの幕府や諸藩の庇護がなくなり、近代化の波が押し寄せてくると、多くの武術流派が消滅したり、技法の一部が失?するなど?承の危機を迎えた。生き?った流派では、宗家(家元)制を導入して組織の全?化を?ったり、全?の門弟を統率できるようにした。しかし、宗家制の導入に際して、同一流派の別系統の同意を得ずに一方的に宗家を名?ったり、所?流派の許可を得ずに分派して宗家を名?るなどの問題も?生している。
免許皆?と指南免許
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通常の全??習の?としての免許皆?と、弟子を取り立てて?授する事を師匠が許す指南免許を?別する流派も存在した。指南免許の位置付けは免許皆?の前の段階とする流派と免許皆?の後とする流派があり、前者は流派における師範代的な印可であり、後者は免許皆?を得ても指南免許を得なければ正?な?授資格者とは認められず、?授者の同地域?における飽和を防ぐ意味合いがあったと考えられる。極端な話としては皆??を晩年に宗家や師範家に返?すると言う風習のある流派もあったと言われている。
歌舞伎
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歌舞伎の世界では、
市川團十?
のことを市川宗家と呼ぶ。
その他
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陰陽道宗家
は、
朝廷
陰陽寮
に?する
陰陽師
のうち、
陰陽道
の
家元
的な存在になった
賀茂氏
と
安倍氏
を指す?史的名?。
脚注
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]
- ^
株式?社平凡社世界大百科事典 第2版
[1]
- ^
西山松之助『家元の?究』(西山松之助著作集第一?)吉川弘文館、1982年、262頁?照。
- ^
同上、289頁?照。
- ^
同上、273頁?照。
- ^
島津義秀『薩摩の秘? 野太刀自?流』新潮社、2005年、88頁?照。
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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