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李成桂

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太祖 (朝鮮王) から?送)
太祖 李成桂
李朝
初代 ?王
太祖大王御?
王朝 李朝
在位期間 1392年 8月5日 - 1398年 10月14日
都城 開京 漢陽
姓?諱 李旦(初名:成桂)
君晋
小字 仲潔
? 松軒
諡? 康?至仁啓運?天肇統??永命聖文神武正義光?大王
廟? 太祖
生年 元統 3年 10月11日
1335年 10月27日
?年 永? 6年 5月24日 [1]
1408年 6月18日
李子春 桓祖
懿?王后 (永興崔氏)
王后?王配 神懿王后 (安?韓氏)
神?王后 (谷山康氏)
妃嬪 下記?照
子女 定宗 太宗
陵墓 健元陵
※高麗時代は、一夫多妻制で、神懿王后韓氏は、故?に住む第一夫人で、李成桂が朝鮮を建?する1年前に他界している。神?王后康氏は、開京に住む第二夫人であり、李氏朝鮮王朝の初代王妃である
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李成桂
各種表記
ハングル 太祖 / 李成桂 / 二段 / 중결 / 軍陣 / 송헌
漢字 太祖 / 李成桂 / 李旦 / 仲潔 / 君晋 / 松軒
?音: テジョ / イ?ソンゲ / イ?ダン / チュンギョル / クンジン / ソンホン
日本語 ?み: たいそ / り せいけい / り たん / ちゅうけつ / くんしん / しょうけん
ロ?マ字 Tejo / I Seonggye / I Dan / Junggyeol / Songheon
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李 成桂 (り せいけい [2] 、イ?ソンゲ、 李成桂 太祖 康?大王 1335年 10月27日 - 1408年 6月18日 )は、 李氏朝鮮 の始祖であり [3] 初代?王。在位は 1392年 から 1398年 である [4]

高麗 の有力武官であったが、 昌王 の親 反明政策へ反?し、 への遠征中に起こした ク?デタ? で高麗王を?位せしめ、1392年に新政?を作り王位についた [5] 。?初は??を高麗のまま明を 宗主? として?係の改善に努めたことで [5] [6] 、翌1393年に明により ?知高麗?事(高麗知事代理) 冊封 され、同年に「朝鮮」の名を新??として?えられて李氏朝鮮の創始者となった。1394年に 漢陽 漢城 、現 ソウル )に遷都し、 抑?崇儒政策 推進で高麗の ?? ??、寺院や ?茶 など??に結びついているを法規制や重?で??し、 朱子? 儒? )を??とした [5] 。しかし、1398年に息子たちの王位?承?いに苦しみ退位したが、それでも?まらなかったために晩年は??徒になって ?門?依 をした [5] 。1401年に第3代?王 太宗 の時代に漸く明により 朝鮮?王 として 冊封 されたことで、 死後 初代李氏朝鮮?王 の??が送られ [7] 、1897年からの 大韓帝? 期に 太祖高皇帝 の??を送られた。

和州(後の永興府、現在の 咸鏡南道 金野郡 )の出身 [8] 。『李朝太祖??』によれば 本貫 全州李氏 という [注 1]

略? [ 編集 ]

1335年 、李成桂は ?城?管府 [注 2] の咸州(咸鏡南道 咸興市 )で 李子春 永興崔氏 中? 山東半島 登州 人で 咸鏡道 移住 していた [9] [10] 懿?王后 )の子として生まれた [8]

朝鮮王朝建?までの道程 [ 編集 ]

高麗に?順する以前の李成桂の行跡については、?っている記?がほとんどない。『 李朝?? ?序』は、若い頃の李成桂が神弓に近い弓術を披露したり、勇猛で北方の野人から畏敬されたという??的な話が?片的に?えている。1356年、高麗の 恭愍王 は反元政策を?げ、元に奪われていた領土の?復を推進した [11] 。領土奪還のためには全州李氏一族の協力が必要であった [11] 。李成桂の父で、?時元朝の斡東千?所千?の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した [11] 。恭愍王は?城?管府攻?の直前に、李子春を 開京 に呼んで小府尹という高位の官職を?えた [11] 。東北面兵馬使 柳仁雨 率いる高麗軍が?城を攻?すると、李子春は?部から呼?して高麗軍と共に?い [11] 、?城を容易に?落させた [11] 。この功により 李子春 は?二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられ [11] 、全州李氏一族は高麗に復?した [11]

?城?落から4年後の1360年に李子春は朔方道万?兼兵馬使に任命されたが [12] 、その直後に46?で亡くなった。?に彼の息子である李成桂は武?となっており、翌年には朴儀の反?を??して功を立てている [12] 。また、この年に李成桂は二つの大きな?いを??している。一つ目は 紅巾軍 の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した [12] 。首都奪還?において2000名を率いて開京一番?りを果たした [12] 。この?いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった [13] 。二つ目は元軍との?いである。?城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅し、ここでも勇名を高めた [14]

?時の中?遼東地方では、元の?威が弱まったことに?じて、元の 納哈出 (ナガチュ)が行政丞相を自?して?大な勢力をもっていた [12] 。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撒(咸鏡南道 北?郡 )?忽面(咸鏡南道 洪原郡 )にまで迫った [12] 。1362年2月、李成桂は東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを?破して咸?嶺(洪原の西15km)まで追?したが納哈出を逃してしまった [12] 。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを?破し、納哈出に高麗侵入を?念させた [12] 。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の恭愍王を?し、恭愍王の叔父である?興君王?を王位に就かせようとしたが、高麗は?固としてこの要求を拒んだ [14] 。1364年、元は高麗の反逆者 崔儒 に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は 崔瑩 らと共に?境近くでこれを殲滅した [14] 。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干?からほぼ完全に?却した [15] 。そして同年2月、遼東から大軍で侵入して和州(咸鏡南道金野郡)以北を占領していた女?族を李成桂は討伐して領土を奪還した [12] 。この女?討伐?の時に文官として?軍したのが、親友でありながら後に李成桂と?立した 鄭夢周 である [12] 。李成桂は1370年には東北面元帥として 東寧府 を攻め、さらには元の 遼陽 までも制?した [14]

南方の? 倭寇 ?では、1377年に 智異山 で倭寇を殲滅したことによって名?を確固たるものにし [12] 、同年8月にも西海道( ?海道 )一?の倭寇を大破していた [14] 。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も?力な倭寇の集?が雲峰( 全羅北道 南原市 )の引月?を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻?させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は?指揮官に任命され、首領 阿只?都 率いる倭寇を引月?に進?してこれを破った(荒山??) [12]

一連の?いで名?を得た李成桂のもとには、新興官僚 [注 3] や地方豪族が集まっていくことになる [16] 。1388年、 が高麗領である?嶺以北の割?を一方的に通告してきたため、高麗の第32代?王 王禑 と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の?力を退けようと計?した [15] 。李成桂は右軍都?使に任じられ [8] 、前線指揮を?った [17] 。李成桂は四つの不可論 [注 4] を理由に出兵を反?していたが、王禑は崔瑩の意見に?い反?論を無視し遠征を開始した [8] 。?はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった [15] 。王禑は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激?の言葉を一つもかけなかった [11] 。また、反?に備えて遠征する武?らの家族は王宮に?させて人質(回軍の時には全員?出した)とした [11]

1388年5月、遠征軍は鴨?江河口の威化島に到達したが、大雨による?水で河を渡ることが出?ず、日が?つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた [8] 。このような?況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は?自に撤退を開始した( 威化島回軍 [8] 。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ?じた [11] 。また民衆も回軍を?迎し [11] 、李成桂に希望を持つ歌が流行した [注 5] 。一方の高麗朝廷は?に民からすでに見放されており [11] 、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった [11]

6月1日に開京に着いた李成桂は、王禑に遠征の責任を問い、崔瑩の?罰を要求した。しかし、王禑は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を?えるという?書を出したため [11] 、李成桂は交?を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした [11] 。崔瑩は?刑されずに遠方に流され(二か月後に?刑されている)、王禑は王の地位を失わなかったが、?力を失い名ばかりのものとなった [11] 。王禑は王?を取り?すべく、?侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され [11] 、子の 王昌 曹敏修 らに擁立されて王位に就いた [11]

しかし、李成桂らに擁立された 恭?王 に1389年、王位を奪われ [8] 、王昌と王禑は?刑された。恭?王も朝鮮王朝樹立の2年後の1394年には李成桂の命令で?刑された(李成桂自身は王氏一族を?地に復?させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の?い要請によって?刑せざるを得なかったとされる) [11] 。このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。?位の後3年間王氏一族を 巨?島 などの島?に集めて監視し、1394年4月に一?に海に投げたり斬殺したりして王氏を虐殺した。元?王氏一族ではなかったが高麗王家から姓を賜った者たちは死は免れたものの、本姓に?るよう命じられた。王氏一族の一部は姓を?えて?れることができたが、 文宗 により王氏掃討の令が解かれた後にも王氏一族の多くは復姓しなかったとされる。文宗の時になって隣人の密告で捕まった王氏が許され一族を?いだが、韓?統計?が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。高麗王家では日本の武家同?、後?者に危害の及ばぬように後?者以外の王子は出家させたり母側の姓にすることが一般的であり王氏の?は元?少なかった上、このときの皆殺しで王氏の?が激減したことも原因とされる。

政治の??を握った李成桂? 鄭道? ?趙浚らは親元的な特?階級、?力と結びつき腐敗した??勢力が私有地を?大したために?庫が?きている現?を痛烈に批判し、1390年から田制改革を?行した [8]

?知高麗?事から?知朝鮮?事 [ 編集 ]

1392年7月、?家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に?位を要請し、恭?王を追放した [8] 。「 ?? 」の形式による新?家樹立であった [8] 。李成桂は、「 ?知高麗?事 」を正式に名?ったが、「知」「事」が高麗を?んでおり、「?」は日本の ?大納言 ? ?中納言 と同じで「副」「?」という意味であり、「?知高麗?事」とは、?に高麗の政治を取り仕切る人という意味である [18] 。このように李成桂は、事?上の王でありながら、「?知高麗?事」を名?り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代?中?との 朝貢 により、王(という??)が?えられたため、高麗が から王に認めてもらったように、李成桂も から王に認めてもらうことにより、正式に李氏朝鮮となる。 小島毅 は、「勝手に自分で名?れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗?を?に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮?王として認めてもらいました」と評している [19] 。王位に就いた壬申年7月17日(??)、つまり1392年8月3日(陽?)から癸酉年2月14日、つまり西?1393年3月26日まで李成桂は形式上では高麗の王であり、1393年3月27日から正式に朝鮮王となった。 吉田光男 によると、明の初代皇帝 朱元璋 は李成桂には1392年に ?知高麗?事 という??を?え、??を?更を迫った後に李成桂が提案した「和寧」「朝鮮」の二つから朝鮮へ?えることを1393年に認めた後も ?知朝鮮?事 とさせた。その結果、第三代?知朝鮮?事だった 太宗 が1401年に明の 建文帝 から 朝鮮?王 の??を受けたときは、王朝開設から12年が過ぎていてた。そのため、死後に太宗によって、初代朝鮮?王の??が?えられた [7]

李成桂と??下賜 [ 編集 ]

李成桂は 1392年 、明が 冊封 した 高麗王 禑王 ? 昌王 恭?王 を?位して高麗王位を簒奪して高麗王を?した後、すぐに に使節を送り、?知高麗?事としての地位を認められたが、 洪武帝 は王朝が交代したことで、??を?更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に???更を計?し、朝鮮と和寧の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった [20] 。和寧は李成桂の出身地の名であったが [20] 北元 の本?地 カラコルム の別名でもあったので、洪武帝は、 前漢 武帝 にほろぼされた王朝( 衛氏朝鮮 )の名前であり、 平? 付近の古名である朝鮮を選んだ。そして李成桂を ?知朝鮮?事 に封じたことにより、朝鮮は正式な??となった。和寧が?に李成桂の出身地であるだけなのに?し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮? 箕子朝鮮 ? 檀君朝鮮 の正統性を?承する意味があったことから本命とされており、???更以前からそれを意識する儀式が行われていた [21]

??が朝鮮という二文字なのは、中?の 冊封?制 に、新王朝の君主が 外臣 として?加して、一文字の??を持つ ?臣 より一等級格下の?遇を?えられていることを意味する [22]

??を洪武帝に選んでもらったことは、 事大主義 を象?していると揶揄されるが(例えば ?文雄 は、「 李朝 の太祖?李成桂は、『 易姓革命 』によって高麗朝を簒奪した事?と??支配の獲得を 太祖 に認知させるため、 ?家主? を明に?り渡し、明の ?? と決め?んだ。朝鮮の ?? 王位 を明によって 下賜 されるかたちをとったのである」と述べている [23] [20] 、新王朝が擬定した朝鮮の??は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を?化した箕子朝鮮を?承する意?があり [24] 、首都が 漢陽 に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、 檀君 箕子 を直結させることにより、正統性の?り所にする意?を持っていた。朝鮮という?名は、 の賢人 箕子 が、 武王 によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由?ある中?的な呼?であるため [25] 、洪武帝は、新王朝が箕子の?統を?承する「忠?な ?? 」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた 武王 のような賢君になりたいと祈念した [21] 。?って、中?への事大主義を?是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の?承を意?する朝鮮の??を奏請したことは適切であった [26]

後?者?いと失意の晩年 [ 編集 ]

李成桂は、八男の 李芳碩 (神?王后康氏の子)に後を?がせようとし、神懿王后韓氏を後宮(側室)にした。建?に奔走した神懿王后韓氏の生んだ王子たち、特に五男の李芳遠はその仕打ちに激しく反?し、 1398年 に反?を起こした( 第一次王子の? )。これにより、李芳碩と功臣 鄭道? が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は李芳遠の?める次男の李芳果( 定宗 )に?位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は?き、 1400年 、今度は四男の李芳幹が反?を起こす( 第二次王子の? )。この?は李芳遠によって??され、?後に李芳遠は定宗から王位を?位され?位した( 太宗 )。

長男から六男までが神懿王后韓氏の子で、七男と八男が、神?王后康氏の子である李成桂は自分の息子達の?いに嫌?がさし咸興に引きこもって?門に?依した。 1402年 、神?王后康氏の親戚であった安?府使の 趙思義 がむごい仕打ちを受けた神?王后康氏の仇を討つべしと 咸鏡道 の豪族たちを率いて決起した( 趙思義の? )。太宗に恨みがあった李成桂もこれを後ろで支持したとされる。?が??された後、李成桂は太宗と和解してソウルに?って?て、?璽を太宗に授け正式に朝鮮王として認めた。

太宗は父から後?者として認められようと咸興に使者(差使)を送ったが、李成桂はソウルから差使が?る度に遠くから矢で射て殺してしまったとされ、そこから任務を遂行しようと行った人が?って?ない?態、またはそのような人を指す「 咸興差使 咸興差使 )」という故事成語を生じた。しかしこれはあくまで??であり、最後の咸興差使としてもっとも有名な朴淳は?は趙思義の?に加わった都巡問使の朴蔓を?得するべく?地に向かい殺されている [27] 。その後李成桂は政治には?心を持たず念?三昧の生活をしていたと言う。

1408年 、74?で 薨去 した。御陵は健元陵(京畿道九里市、 東九陵 の一つ)である。また李成桂は自分を神?王后康氏と一?に葬るべしとの遺言を?したが、神?王后を恨んだ太宗はこれを守らなかったため神?王后は健元陵に葬られることはなく、御陵は都の外へ移された後破?されその墓石は橋の修理に使われ民がこれを踏みにじると言う酷い侮辱を受けた。

年表 [ 編集 ]

  • 1335年 :咸州(現在の咸鏡南道咸興市附近、 ?城?管府 のあった所)で、元朝の斡東千?所千?兼 ダルガチ 李子春の次男として産まれる。
  • 1355年 :父と共に高麗朝廷に入朝し、 恭愍王 に謁見する。
  • 1356年 :李子春、高麗に?返り、 ?城?管府 ?落の手引を行なう。
  • 1361年 :父の死に伴って高麗の官吏になる。同年に高麗へ侵入する紅巾軍と交?して、都の開京を奪還。
  • 1362年 :咸鏡道に入り?んだ納哈出(ナハチュ)軍を?退する。
  • 1363年 :元朝、恭愍王を?位し、代わりに?興君王?を王位に建てようとする。
  • 1364年 :崔儒と?興君王?が引率した元軍を迎?して殲滅させる。
  • 1370年 遼東 地域に侵攻する?に遠征を行う。
  • 1374年 :恭愍王、宦官に殺され、庶子の 王禑 李仁任 の推戴により第32代高麗王に擁位される。
  • 1376年 :倭寇が公州を落とし開京が危機に?ったため倭寇討伐に赴く。
  • 1377年 :李成桂の相やけである池奫が李仁任と?立して??される。
  • 1380年 :倭寇の首領アキバツ( 阿只?都 )の軍を雲峰で?退した( 荒山?? )。
  • 1382年 :女直のホバツが朝鮮東北部を荒らしたのでこれを?退した。
  • 1385年 :咸州に入り?んだ倭寇を?退。
  • 1388年 :崔瑩と協力して李仁任一派を??し、守門下侍中(副宰相)を?命される。同年5月、?嶺以北の割?を要求してきた に?抗して遼東への攻略を命じられたが、兵を開京へ向け軍事ク?デタ?を起こし、崔瑩を追い出す( 威化島回軍 )。王禑を退位させ、世子の 王昌 を第33代高麗王に擁立する。配流に?せられた崔瑩は?刑される。
  • 1389年 :王禑と王昌を殺害し、第20代神宗の7代孫を恭?王として第34代高麗王に擁立する。
  • 1390年 :?勢家の私田を??する田制改革が?行される。これを通じて新王朝建?に必要な??力を確保する。
  • 1392年 恭?王 を?位して、 高麗王 として?位( ?知高麗?事 )。
  • 1393年 :明より王朝交代に伴う???更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に???更を計?し、洪武帝が「??はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「 朝鮮 」(朝の?けさの?)と「 和寧 」(平和の?)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「 和寧 」は 北元 の本?地 カラコルム の別名であったので、洪武帝は、むかし 前漢 武帝 にほろぼされた王?の名前である「 朝鮮 」を選んだ、そして李成桂を ?知朝鮮?事 に封じたことにより 朝鮮 を??とした。和寧(和州)と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では??の本命ではなかったとの意見が多い [28]
  • 1394年 :漢陽(漢城、現在のソウル)に遷都。 三陟 に追放していた 恭?王 を謀反の疑いを理由にその子とともに殺害する。
  • 1398年 :李成桂は八男の李芳碩を後?にしようとしたが、五男の李芳遠が反?を起こし李芳碩を殺してしまう(第一次王子の?)。この時病床にありこの?いに嫌?が差した李成桂は、?事を放棄し、李芳遠の推?した次男の李芳果( 定宗 )に?事を?る。
  • 1399年 :定宗、開京に遷都。
  • 1400年 :定宗の弟で、李成桂の四男である李芳幹が第二次王子の?を起こし、その??に功の有った李芳遠( 太宗 )に定宗は?事を?位する。李成桂は、ショックで咸州に引きこもってしまう。
  • 1401年 :明から正式に?王?が認められる。
  • 1402年 :太宗と和解し、開京に?る。
  • 1405年 :漢陽に再?還都する。
  • 1408年 昌?宮 にて死去(73?)。晩年は念?三昧の日?を送ったという。

家系 [ 編集 ]

宗室 [ 編集 ]

※高麗時代は一夫多妻制であり、故?に住む第一夫人が神懿王后韓氏、神?王后康氏は、都の開京に住む第二夫人であった。

李氏の出自 [ 編集 ]

李成桂の祖先について [ 編集 ]

李氏朝鮮王室の根元である 全州李氏 の始祖は『 太祖?? 』によると 新羅 司空 を努めた 李翰 である。

李翰 とその子孫たちは 全州 の有力者として影響力を持ち、 1170年 武臣の? を契機に 開京 の中央政界に進出した [11] 。しかし全州李氏一族の?展はすぐに?くことになる。李成桂の六代前の 李璘 は兄の 李義方 と共に 武臣政? 成立の勢いに?じて中央で活躍したが、 1174年 に李義方が 鄭仲夫 により??されると、李璘も開京から追放され、故?の全州に都落ちする身となった [8] 。李璘の子の李陽茂も苦難の日?を過ごした。そして彼らは都での?力??に敗れると、全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる [11] 。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である 李安社 は180?に及ぶ一族??を率いて故?を離れた。

最初彼らは 三陟 に定住したが、中央からの追手に見つかったため、宜州(現在の 元山市 )に移り、後に モンゴル 元朝 )に投降した [11] 。朝鮮王室の記?では「穆祖(李安社)が山城別監(地方の役人)と官衙の妓を巡って激しく?立し、その別監が何かにつけて揚げ足をとり、軍隊を動員して穆祖を害そうとした。それに堪えられなかった穆祖は一族??を率いて三陟に避難したが、その別監が人事異動で三陟の按廉使(地方長官)として?ることになったので、再び一族??を率いて海路を通じて東北面の宜州に移住した [11] 。高麗朝廷は、穆祖を宜州兵馬使に任命し、 高原 を守って元軍を防ぐようにした。?時、 ?城 の以北は 開元路 に?し、元朝の山吉大王が?城に駐屯し?嶺(現在の 高山郡 )以北を取ろうとした。山吉が穆祖に何度も人を送り投降するよう促すと、穆祖はやむを得ず1千?を伴い元朝に投降した [29] 。そこは元朝の影響下にあり、?外亡命の?相を呈した」 [30] と記している。しかし現在では?究が進んだ結果、これが事?ではないことが明らかとなった。その?態は中央政府の監視や?力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を?した末に敗北して亡命に至ったと考えられている [11]

斡東(現在の 慶興郡 )に亡命した李安社は元朝から ダルガチ の職責を?えられ周?の 女?族 の統治を任された [31] 。しかし女?族との間に徐?に?立が生じると、李成桂の曾祖父の 李行里 (翼祖)は一族??を率いて南方の登州(現在の 安?郡 )に移住して [31] 、妻である 貞淑王后 崔氏( 本貫 は登州 [32] [33] であり、登州で?長を務めていた崔基烈の娘)とのあいだに 李椿 を授かり、一族は磨天嶺以南(以北には 女? 族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の?立政?を築いた [31]

論点 [ 編集 ]

李成桂の出自は公的には 全州李氏 とされているが、 三田村泰助 は「がんらい李成桂は、全羅道全州の名門の出といわれるが、疑わしく、?代まえより、北朝鮮の咸鏡道にいた」と述べている [34] 池?宏 は、全州李氏という如きは決して信じるべきではないと斥けている [35] 六反田豊 は、高祖父の李安社の時代に全州から東北面に移住して、 元朝 に入仕した後各地を??とした。あるいは父の李子春は、?城などの千?として元朝に仕えたが、 1355年 に高麗に??して小府尹に任命され、翌年高麗が行った?城?管府攻?の際に、恭愍王の命令を受けてこれを攻?して?功を立て咸鏡道の万??兵馬使の任命されたというのは「 ?? 」として [36] 、「こうした??は、『 高麗史 』『 太祖?? 』『 ?飛御天歌 』等にみられるが、どこまで史?を反映したものであるかは疑問である」と述べている [37] 生母 懿?王后 崔氏は、もと 中? 山東半島 登州 人であり、 咸鏡道 移住 して暮らしていた [9] [10] 。一方、李成桂を 女?族 とする?や モンゴル 軍閥 とする?もある。

女?族? [ 編集 ]

池?宏 [38] 岡田英弘 [39] 山?弘一 [40] などは、李成桂が 女?族 あるいは女?族の血を引いている可能性を指摘している。 宮嶋博史 は、「全州李氏の一族とされるが、女?族の出身とする?もある。父の 李子春 は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の?城?管府に使える武人であった。この地域は女?族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女?人の力が大きく作用した [41] 」「女直とは女?族であり、朝鮮と女?との?係は李朝の建?以後においても、格別深いものがあった。李朝を建?した李成桂の配下には、多くの女?族が含まれていた。彼が高麗末に傑出した武?としての地位を占めることができた理由の一つが、女?族の武力の吸?にあったのである [42] 」と記している。

モンゴル軍閥? [ 編集 ]

韓?の東洋史?者? 尹銀淑 (ユンウンスク)と中?の モンゴル人 ?者? エルデニ?バタル ?モンゴル大? ?授)は博士の?位論文を通じて、李成桂はモンゴル 軍閥 出身で、李成桂の家門は?高麗領に置かれた元の直轄統治機構である ?城?管府 でほぼ100年間にわたりモンゴルの官職を務め、勢力を伸ばしたために、李朝を建?することができたという新しい??を提唱している [43] [44] [45]

尹銀淑は?位論文『蒙元帝?期オッチギン家の東北?州支配』において13~14世紀に東北??州地域を元のオッチギン家が支配したという事?に注目したと述べている。 チンギス?カン が1211年に征服した土地を近親者に分け?え、弟の テムゲ?オッチギン には東北??州地域を統治させた。オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で?立的な勢力を形成していた。

李成桂の高祖父の李安社は 全州 から豆?江流域の斡東地域に移り、後の1255年に千?長、ダルガチの地位をモンゴル皇帝から賜ったが、千?長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職であることから、?質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと述べている。1290年にオッチギン家で?紛が起きたため、李安社の子の李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千?長、ダルガチの職位は李行里の曾孫である李成桂の時まで五代に渡って世襲された。エルデニ?バタルは?位論文『元?高麗支配勢力?係の性格?究』において李成桂一門はオッチギン家を通じ、?時最先端にあった モンゴル帝? の軍事技術を直接吸?し、その後、オッチギン家直?の斡東と ?城?管府 の多くの?件を活用して自らの勢力を育てた。李成桂は1362年に元の?軍ナガチュとの??で、この先端技術を用いて勝利していると述べている。

尹銀淑は1388年の 威化島回軍 も、モンゴルの?部事情に精通している李成桂が、明軍の攻勢によって ブイル?ノ?ルの?い で?敗した 北元 の軍事力が崩?されたことを把握した上で起こした「?モンゴル?軍の裏切り」と見るべきだと述べている。?って、 李氏朝鮮 の建?は朝鮮半島の自生的産物としてだけでは見る事は出?ず、 モンゴル帝? の中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀に起きた激?の?史の??的果?として生まれた王朝が 李氏朝鮮 であり、朝鮮王朝は表面では 親明事大 を標榜していたにもかかわらず、 パクス?モンゴリカ ?制の中心である北方遊牧帝?の?統を事?上維持し?けていたと述べている。

李成桂と箕子朝鮮の?係 [ 編集 ]

李成桂は、李氏朝鮮建?前に北方民族を?柔するための 榜文 のなかで、 朝鮮 征服 して 箕子朝鮮 を建?した 中? 殷王朝 政治家 である 箕子 について、「 と?び立つ 武王 が箕子を朝鮮に封じ、 遼河 の西の疆域を下賜した」と主張するなど、箕子の業績を?彰、その威?を?えている [46] 。また 明朝 に??の命名を要請し、新王朝の樹立の正統性を明から得た後も「箕子,始興?化之君」を語り、箕子による 朝鮮人 ?化 の意義を?調している [46] 。李成桂は箕子の祭祀について、「箕子が朝鮮に封じられ、 文化 の礎となった。前朝( 高麗王朝 )の始祖は、三韓統一に?力した人物なので、祭田を設けて祭祀をおこなうのが妥?であろう」と主張し、 ?家 ?史 ? 文化 の象?である箕子の業績を?彰、その威?を?えるため、箕子を祭祀することを主張した [46]

李成桂が登場する作品 [ 編集 ]

  • 開? - 韓? KBS で1983年に放送。李成桂の生涯を描いている。演: イム?ドンジン
  • 龍の? - 韓?KBSで1996年から1998年にかけて放送。威化島回軍から朝鮮を建?し、?するまで晩年の姿が描かれている。演: キム?ムセン
  • 辛旽 高麗中興の功臣 - 2005-2006年、韓? MBC で放送。高麗の武?として?力を握っていく過程が描かれている。演: イ?ジヌ
  • 大風水 - 2012.10.10~2013.02.07-韓? SBS で放送。高麗の武?として朝鮮を建?するまでの過程が描かれている。演: チ?ジニ
  • 鄭道? - 2014年、韓?KBSで放送。倭寇を滅ぼした武?の彼が次第に民の苦痛に共感し始め、朝鮮の建?へと進んでいく過程が描かれている。演: ユ?ドングン
  • パイレ?ツ - 2014年製作の映?。明の皇帝から贈られた?璽を運んでいた使節船がクジラと衝突。紛失した?璽を取り?すまでの?末を描く。演: イ?デヨン
  • 六龍が飛ぶ - 韓?SBSで2015年から2016年に放送。彼を含む6人の英雄=“六龍”が腐敗した 高麗 を倒し、新たな理想?家を建てるため活躍する?を描く。演: チョン?ホジン
  • 私の? - 韓?JTBCで2019年に放送。腐敗した 高麗 を倒し、朝鮮を建?したが、バンソクを溺愛してバンウォンを冷酷に扱う王として描く。演: キム?ヨンチョル
  • 太宗イ?バンウォン - 韓?KBSで2021年から2022年に放送。朝鮮建?に導いた指導者イ?バンウォンの父として描く。演: キム?ヨンチョル

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 太祖??の?序によれば、「太祖康?至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
  2. ^ 元?、高麗の領土であったが、1258年の モンゴル 軍の第四次侵略において、 高麗 の土着の豪族が投降する動きがあり、これに??してモンゴルは、和州に設置し、周?を領土化した。 村井(1999)
  3. ^ 儒? の知識を持ち、腐敗した??勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を?家に取り?すことなどを訴えた。 李(2006)
  4. ^ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は?を?げて遠征すれば、倭寇がその?に?じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に?たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『?史物語 朝鮮半島』 朝日新聞社 、2006年、120頁より引用)
  5. ^ 平?城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平?と安州の間を往復する李?軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容??、 日本評論社 、2006年、57頁 - 58頁より引用)
  6. ^ “大君”の??ができたのは1401年(太宗元年)。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 『李朝太宗??』?十五, 太宗八年五月壬申?による。
  2. ^ 日本大百科全書 李成桂 』 - コトバンク
  3. ^ “<Wコラム>朝鮮王朝おもしろ人物列?~朝鮮王朝を建?した初代王?太祖” . wowKorea(ワウコリア) . (2016年6月7日) . http://www.wowkorea.jp/section/column/read/167648.htm 2020年11月28日 ??。  
  4. ^ 日本?語大?典 李成桂 』 - コトバンク
  5. ^ a b c d 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ?際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大?典+Plus,デジタル大?泉,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本?語大?典,世界大百科事典. “ 李成桂とは ”. コトバンク . 2022年9月15日 ??。
  6. ^ 百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ). “ 李朝(朝鮮)とは ”. コトバンク . 2022年9月15日 ??。
  7. ^ a b 吉田光男 (2009年). 近世ソウル都市社??究: 漢城の街と住民 - 58 ペ?ジ . 草風館  
  8. ^ a b c d e f g h i j k 姜(2006)
  9. ^ a b 斗山世界大百科事典
  10. ^ a b rootsinfo
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 李(2006)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l 麗(1989)
  13. ^ 伊藤(1986)
  14. ^ a b c d e 李(1989)
  15. ^ a b c 水野(2007)
  16. ^ 旗田(1974)
  17. ^ 金(2002)
  18. ^ 小島毅 『「?史」を動かす―東アジアのなかの日本史』 ?紀書房 、2011年8月2日、129頁。 ISBN   4750511153  
  19. ^ 小島毅 『「?史」を動かす―東アジアのなかの日本史』 ?紀書房 、2011年8月2日、130頁。 ISBN   4750511153  
  20. ^ a b c 矢木毅 2008 , p. 43
  21. ^ a b 矢木毅 2008 , p. 44
  22. ^ 矢木毅 2008 , p. 40
  23. ^ ?文雄 『日本の植民地の??』 扶桑社 、2003年10月31日、137頁。 ISBN   978-4594042158  
  24. ^ 矢木毅 2008 , p. 45
  25. ^ 矢木毅 2008 , p. 41
  26. ^ 矢木毅 2008 , p. 49
  27. ^ 太宗?? 2年の記事。?遣上護軍朴淳于東北面, 被殺于彼軍中。淳至咸州, ?都巡問使朴蔓及州郡守令, 勿從思義, 遂被殺于彼軍中。?
  28. ^ 武田幸男 編『朝鮮史』 山川出版社 世界各?史 〉、2000年8月1日、143頁。 ISBN   978-4634413207  
  29. ^ 『李朝???序』
  30. ^ 李大淳 監修 李成茂 著『朝鮮王朝史(上)』 金容? ?、 日本評論社 、2006年、78 - 79頁より引用
  31. ^ a b c 「壬辰倭?、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily (朝鮮語) 、2007年2月8日
  32. ^ ?朝紀年 』「貞淑王后崔氏籍登州」
  33. ^ 東?輿地勝? 』?48『 定陵碑 』「皇曾祖諱行里、襲封千?、今封翼王、陵號曰智、配登州崔氏、今封貞妃、陵號曰淑」
  34. ^ 三田村泰助 『明帝?と倭寇』 人物往?社 〈東洋の?史〉、1967年、153頁。  
  35. ^ 池?宏 『李朝の四祖の??とその構成』 中央公論美術出版 〈?鮮史?究 近世編〉、1972年、29頁。  
  36. ^ 六反田豊 1986 , p. 45
  37. ^ 六反田豊 1986 , p. 77
  38. ^ 池?宏 『李朝の四祖の??とその構成』 中央公論美術出版 〈?鮮史?究 近世編〉、1972年。  
  39. ^ 岡田英弘 『モンゴル帝?の興亡』 筑摩書房 、2001年10月1日。 ISBN   978-4480059147  
  40. ^ 山?弘一 著、 武田幸男 編『朝鮮王朝の成立と?班支配?制』 山川出版社 〈朝鮮史〉、2000年8月1日。 ISBN   978-4634413207  
  41. ^ 岸本美? 宮嶋博史 『明?と李朝の時代』 中央公論社 〈世界の?史 (12)〉、1998年4月1日、17頁。 ISBN   4124034121  
  42. ^ 岸本美? 宮嶋博史 『明?と李朝の時代』 中央公論社 〈世界の?史 (12)〉、1998年4月1日、247頁。 ISBN   4124034121  
  43. ^ “李成桂の家系はモンゴル軍閥” . 朝鮮日報 . (2009年10月4日) . http://www.chosunonline.com/news/20091004000002  
  44. ^ “一歷史學家主張“李成桂是高麗系蒙古軍閥”有望引起爭論” . 朝鮮日報 . (2006年9月5日). オリジナル の2010年4月30日時点におけるア?カイブ。 . https://web.archive.org/web/20100430111049/http://chinese.chosun.com/big5/site/data/html_dir/2006/09/05/20060905000004.html  
  45. ^ (朝鮮語) 보르知己다이 에르데니 바타르 (ボルジギダイ?エルデニ?バタル) 『팍스몽골리카와 高麗 (パックス?モンゴリカと高麗)』, 慧眼 (2009/08). ISBN 9788984943674
  46. ^ a b c 姜智恩 (2017年6月). “朝鮮儒者中華認同的新解釋 ─「天下」與「國家」的整合分析” (PDF). 中央?究院近代史?究所集刊 ( 中央?究院 ) (96期): p. 50. オリジナル の2020年2月16日時点におけるア?カイブ。 . https://web.archive.org/web/20200216221629/http://www.mh.sinica.edu.tw/MHDocument/PublicationDetail/PublicationDetail_3253.pdf  

?考文? [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]

先代
-
李氏朝鮮 ?王
初代:1392年 - 1398年
次代
定宗