大?詞
(おおはらえのことば)は、
神道
の祭祀に用いられる
祝詞
の一つである
。もともと
大?
式に用いられ、中臣氏が?らその宣?を??したことから、
中臣祭文
(なかとみさいもん)とも
中臣?詞
(なかとみのはらえことば)とも略して
中臣?
(なかとみのはらえ)ともいう
[2]
[3]
。典型は
延喜式
?八に
六月晦大?
という題名で載る
[4]
。一般に大?詞という場合は大?の?集者に宣り聞かせるものをいい、中臣?という場合は神前に奏上する形に改めたものをいう
[5]
。
?要
[
編集
]
大?詞は元?は?年6月と12月の末日に行われる大?で、犯した
罪
(神道の?念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)?穢れを?うために唱えられた祝詞で、
中臣氏
が京の朱雀門で奏上していたことから中臣?の?がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが?った。『
延喜式
』には「六月晦大?」として記載されており、今日使用されている大?詞は「六月晦大?」の祝詞を元にしたものである。
大?詞は、?初、大?の際に?集者に?して宣り聞かせるものであったが、後に神に?して唱えられるようになった。中世には
陰陽道
や
密?
と結びつき、陰陽道の呪言や??の?典のように、唱えるだけで功得が得られると考えられるようになった。さらに、唱えれば唱えるほど功得が?すと考えられ、何千回、何万回も唱えるようになり、より唱えやすくするために、大?詞の要点だけをまとめた「最要中臣?」「最上中臣?」が作られた。特に
?家神道
、
儒家神道
で重視され、『中臣?訓解』『中臣?風水草』などの大?詞の注?書も書かれた。
現在では大?の際に??者自らが唱えるほか、
神社本?
包括下の
神社
では?日神前にて唱えられている。神社本?のほか、各種の
?派神道
?神道系新宗?の一部でも使われているが、延喜式記載のものから?容に改?が加えられており、??によっても多少の差異がある。
大?詞の成立については
賀茂?淵
は
天智
?
天武
朝?を唱え
[2]
、本居宣長は文武天皇朝?を唱えているが、いずれの?もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。
沿革
[
編集
]
大?詞の成立については諸?あり、その作者は
天?屋命
の孫?
天種子命
であるという?や、
常盤大連
である?、また
天智天皇
の命により
中臣金連
が?詞を?じて半年?の大?に用いられた。この短文を
文武天皇
の御代に新文が定められたなどの諸?がある
[3]
。
大?詞は大?に用いられる
[2]
。大?は、百官男女をはじめ天下万民が知らず知らずのうちに犯した種?の罪穢を除き去るため、?年6月と12月の晦日(末日)に京の朱雀門で行われる。
令制
、
貞?儀式
、延喜式によると、宮中において中臣が御麻を奉り、東西文部が?刀を奉り、漢音の?詞を?む。大臣以下の百官男女はみな?所に?集し、神祇官切麻を五位以上に頒布し、ここで
中臣?詞
を?み、?い終えて後、六位以下に大麻を引かさせる
[6]
。『
延喜式
』?八「祝詞」には「六月晦大?」として記載されており「十二月准此」と注記がある
[7]
。
大?詞は文章が優秀にして?大であり、その思想は?民精神の一面を表現したものであると評される。このため、中世以?、神道の?典として重んじられ、これを神前で奏上することで祈願が達成できると信仰されるに至る。千度?や万度?が盛んに行われ、??の祈?の??(カンジュ)をまねて御師が信者の間に配布した。古?その注?書は?多い
[2]
。
大?は半年ごとの?家儀?として定期的に行われたほか、大嘗祭の前や災害?疫病などの際にも臨時に行われた。一方、中臣?は、大?詞を私的な祈?に?用するために、人?に宣り聞かせていた形式を改め、神?に奏上する形式に?えたものであり、10世紀には成立していたと考えられている。中臣?の名?は中臣氏が?み上げたことに由?する
[8]
。
中臣?は
神祇官
において天皇の??のために用いられた。11世紀初頭には
陰陽師
たちが私的な祈?に中臣?を用いていたことが確認できる。すなわち『
紫式部日記
』
?弘
5年(
1008
)9月10日?に、
中宮
の安産祈願のために陰陽師が?動員されたこと、彼らが唱える「八百万の神も耳ふり立てぬはあらじ」という中臣?の結句が聞こえることが記載されている
[8]
。
中臣?の文章は、12世紀初頭成立の
朝野群載
に
中臣祭文
と題して載るものが最も古い
[8]
。延喜式の大?詞が皆に宣り聞かせる言葉であるのに?し、朝野群載の中臣祭文は神?に申し上げる形式に改められ、何時でも何?でも誰でも?み上げられるようになっている。神社本?所?の?究者?岡田米夫の主張によると、朝野群載の中臣祭文が現代に祈?の意味で神前に?み上げられる大?詞の最も古い形である。朝野群載の中臣祭文で注目すべきは「??の八百万の御神達」という記述があることである。大?詞には??の四神が現れるが、朝野群載の中臣祭文ではこの四神に限られない。現在の神社本?が頒布する大?詞が??神を「天津神、?津神、八百万の神達」としているのは、朝野群載の中臣祭文の精神を?承したものであり、これが最も古い形であるという
[9]
。
やがて中臣?は諸?に?播していったとみられる。なかでも12世紀には
春日社
において中臣?が行われていたがことが明らかになっている。さらに
?僧
も中臣?を用いた儀?を行うようになり、平安時代末期には?僧による注?書『中臣?訓解』が成立したと推定される
[8]
。
中臣祭文という呼?は
平安時代
末期からやや?く用いられていたとみられる。それ以降、陰陽師などが大?の神事を私的に行い始め、大?詞は社?一般で常の祭祀や祈願の祝詞として?く用いられるようになる。
鈴木重胤
『祝詞講義』?十は大?詞の呼?について次のように?く
[10]
(現代語?)。
大?詞を俗に中臣?ということも古いことである。しかし?とは行事のことなので、正しくは中臣?
詞
というべきである。
古語拾遺
に「天種命子をして天津罪??津罪のことを解除(はらえ)させる。いわゆる天津罪とは云?、?津罪とは?中の人民の犯すところの罪であり、その?容は中臣?詞に詳しい」と見えるのは正しい?であり、その意味は、中臣は?を掌る職であり、中臣の人が宣?するから中臣?詞というのである。
[10]
伊勢神道
では、?の?自の作法が鎌倉時代初頭までに成立し、鎌倉時代後期から秘?化していった。
吉田神道
でも中臣?は重視され?特の儀?や註?が行われた
[8]
。
中世には日本書紀神代?の?究と?んで中臣?の?究が進み、その信仰が深まる。それには、
伊勢神道
とその
神道五部書
からの影響が著しく、また
?部神道
や
山王神道
の影響も認められる。早くは
度?家行
の類聚神祇本源に中臣?訓解の?を引用しており、世上ではこれを
空海
の著作として?えているが、?際には
鎌倉時代
後期に公になったものとみられる。
神宮文庫
所?の中臣?注抄は鎌倉時代初期の
建保3年
6月(
1215年
)の古?本を筆?したものである。藤原朝臣御子大夫を?する者の大?詞同注も同時期の?究である。
室町
?
??時代
に中臣の?の?究に最も注力したのは京都神?岡の
吉田家
であり、特に
吉田兼?
において最も著しい。兼?は『中臣?聞書』を、その子
?原宣賢
は『中臣?抄』を著した。兼?の子孫の
吉田兼永
?
吉田兼右
は?書の講??宣??書??普及に努めた
[11]
。
平安時代末期から江?時代にかけて、日常よみ上げるものを中臣?詞と呼び、6月12月の晦日の大?式で?み上げるものを大?詞と呼んで、?者を?別した。大?式の大?詞と日常よみ上げる中臣?詞とでは首尾や中間などで表現が異なる。そして江?時代の後期に??や復古神道が盛んになるにつれて、元の大?詞という名?が再び用いられるようになる
[12]
。
?容
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"大?詞"
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2020年1月
)
|
延喜式
に載る
六月晦大?
は次の3つの要素で構成される
[4]
。
- 大?の?施について官人に告知する。
- 人?による罪の?生から、神?による罪の抹消に至るまでの?の過程を告知する。
- 卜部氏への指示を告知する。
大?詞は、?容から大きく前段と後段の2つに分けられる。
前段は、大?に?集した皇族?百官に?して「祝詞をよく聞け」という?容の文言から始まる。これは?初の大?詞が?集者に?して宣り聞かせるものであったことの名?であり、今日の神社本?の大?詞ではこの部分は省略されている。次に、
葦原中?平定
から
天孫降臨
し天孫が日本を治めることになるまでの
日本神話
の?容が語られる。そしてそのような?の?民が犯してしまう罪の?容を「
天つ罪??つ罪
」として列?し、そのような罪が出たときの罪の?い方が述べられる。罪の?容については、今日の「罪」の?念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本?の大?詞では罪名の列?を省略して?に「天津罪??津罪」とだけ言っている(大正3年?務省制定の大?詞にて削除されたものが踏襲されている)。
後段では、そのような?を行うと、罪?穢れがどのように消滅するかが語られる。罪?穢れが消滅する?を??な喩えで表現した後、四柱の
??神
によって消え去る?子が述べられる。
天津祝詞の太祝詞事
[
編集
]
前段の最後にある「
天津祝詞
の太祝詞事」について、
??
が興った江?時代以降、この語句の解?を巡って議論されてきた。
本居宣長
は『大?詞後?』で、「天津祝詞の太祝詞事」は大?詞自?のことであるとする?を唱えた。
賀茂?淵
も『祝詞考』で同?の意見を述べている。?前に神社を管轄していた?務省ではこの?を採用し、その流れを汲む神社本?でもその解?をとっている。神社本?では、前段と後段の間には何も唱えず、一拍置くだけとしている。
しかし、「天津祝詞の太祝詞事」は神代より?わる秘?の祝詞であり、秘?であるが故に延喜式には書かれなかったのだとする?もある。本居宣長の「歿後の門人」である
平田篤胤
は、未完の『古史?』の中で「天照大神から口?されてきた天津祝詞之太祝詞事という祝詞があり、中臣家にのみ相?されたのだ」という?を唱えている。そして『天津祝詞考』にて、その祝詞は
伊邪那岐命
が筑紫の日向の橘の小?の阿波岐原で??をしたときに?した言葉であるとし、??な神社や神道流派に?わる??の祝詞を?究しそれを集成した形で、「天津祝詞の太祝詞事」はこのようなものだというものを示している。篤胤が示した「天津祝詞の太祝詞事」は神社本?以外の神道の??の多くで「天津祝詞」として採用されており、大?詞の前段と後段の間に唱えられるほか、??で?詞としても用いられている。
脚注
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編集
]
?考文?
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編集
]
?連項目
[
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]
外部リンク
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編集
]
- 大?詞
- おはらいの文化史(國學院大學?統文化リサ?チセンタ?資料館)