大川 平兵衛
(おおかわ へいべえ、
享和
元年(
1801年
) -
明治
4年
9月11日
(
1871年
10月24日
))は、
江?時代
末期(
幕末
)の
?術
家。
流派
は
神道無念流
。
武??
川越藩
(後に
上野?
前橋藩
)?術師範。
諱
は
英勝
。
生涯
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生い立ち
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享和元年(1801年)、
武??
埼玉郡
上之村(現
埼玉?
熊谷市
上之)の農家?渡?家の三男として生まれる。幼くして、?成田家家臣にして上之村名主?小?新右衛門(忍城を眺望する門が現存)の養子となり、?次?と?す。
農民ながら幼少の頃から?の道に?み、近隣の箱田村の神道無念流の達人?
秋山要助
の道場に入門する。?は農耕、夜は道場で?術に?み、20?にして免許皆?を受けた。
文政
5年(
1822年
)、
入間郡
?沼(現
坂?市
?沼)の
名主
?大川?左衛門の娘??子と結婚、
?養子
となり大川姓に?わる。邸?や
川越
通町に道場を設ける。要助流の地味で重厚な?術で信?を得、
仇討
に助勢して仇を斬って成功させた。
天保
7年(
1836年
)1月、
甲源一刀流
第5世?
逸見長英
との試合に敗れたが、同年7月に甲源一刀流の大橋半之輔との試合に勝ち、名?を高めた。
川越藩仕官
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弘化
5年(1848年)2月、平兵衛は
川越藩
に一代限りの徒士として13
石
4人扶持で召し抱えられた。ただし、この仕官は平兵衛の?術の腕が理由ではなかった
[1]
。平兵衛自身も?初は川越藩に仕官するつもりはなかったが、川越藩の?術を?用的な?容に?革する目的で仕官したという
[2]
。
仕官に伴い、藩士への神道無念流?術の指導も認められたが、神道無念流の扱いは藩から制度的???的な支援がない「?稽古」にとどまった。これは、
松平家
藩政期の川越藩では武術流派が身分制度と連動しており、上?中級藩士が入門する「表稽古」と呼ばれる公式に認められた武術流派と、下級藩士?
足?
が入門する「?稽古」と呼ばれる非公式な武術流派とに分かれていた。そのため、同じ武術を複?の流派を?ぶことや他流試合も禁じられており、藩?では平兵衛の神道無念流のみ
竹刀
と
防具
を用いる
打?稽古
を行っていた。
平兵衛は仕官後、下級藩士?足?に神道無念流を指導し、
嘉永
2年(
1849年
)閏4月には道場も設け門人も?えていった。同月に平兵衛は、費用は自弁で藩外へ定期的に?術修行に出ることの許可を申し出、許可された。藩士が藩外に定期的に?術修行に出ることは川越藩では初めてのことであった。藩は平兵衛に農民や町人との試合は禁じていたが、平兵衛はこれを守らず、村落の道場でも試合をしている。また、藩外からの?術修行者を受け入れて他流試合を門人らにも行わせていたが、川越藩の受け入れ手?きが時間がかかるため、手?きの簡略化を求めたが、これは却下された。藩外からの受け入れ手?きの簡略化が?現するのは、
文久
2年(
1862年
)12月になってからであった。
安政
2年(
1855年
)8月、平兵衛は川越藩を?めることを申し出たが、藩は平兵衛を一代限りから代?仕える「御譜代」に待遇を?えて引き留めた。
藩の?術改革
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政情の不安定化から軍備?化が要請される?況を受け、
文久
2年(
1862年
)11月、川越藩では大規模な軍制改革が行われ、これの一環として藩主?
松平直克
より、それまで禁じられていた他流試合の?施が通達された。そのため、すでに?際の試合を行っていた神道無念流が重要視されるようになった。また、平兵衛は徒士から大役人に昇格し、正式に神道無念流師範に任じられ、下級藩士で新たに?術を?ぶ者は神道無念流を?ぶことが義務づけられた。これにより神道無念流は公式流派化した。ところが、百姓出身者が藩の指南役に任じられたことや修行する流派を指定されたことが藩士の反?を呼び、平兵衛に?する中傷を含む軍制改革反?を藩主家の本家にあたる
福井藩
に訴える者や、平兵衛の?居?制を?策する者、集?での闇討ちを計?する者などが現れた。これに?し、平兵衛は私?や私怨を避けた?かな振舞を?けたという。しかし、それまで他流試合を禁じてきた「表稽古」各流派師範の反?により、全流派に他流試合?施を?制せず、他流試合を希望する藩士は他流試合を行う流派の稽古にも出て行う、という妥協案を藩は提示することになり、川越藩の?術改革は一旦挫折した。
それでも徐?に改革の?運は高まり、
元治
年間(
1864年
-
1865年
)から上?中級藩士の神道無念流入門が?えてゆき、本?は下級藩士?足?が?ぶ流派だったにもかかわらず、稽古人?の?加のため下級藩士?足?に稽古をつけられない?況にまでなった。藩側も改革を進めるため元治元年(1864年)7月、所?する流派に?係なく打ち混じって稽古し、神道無念流も?授する「寄合?術」を開始した。これにより、流派を?えることなく神道無念流の技術を?べるようになった。また「表稽古」流派からも、
江?
の長沼道場(
直心影流
)へ留?して
竹刀打?稽古
を?ぶ者が現れた。
慶?
元年(
1865年
)6月、平兵衛は川越藩の
飛び地
の
上??
望陀郡
に常駐している藩士への?術指導のため、定期的に高弟を派遣することを申し出、藩はこれを許可した。この中で平兵衛は、常駐している藩士の神道無念流?術の技術を向上させることが同地の防衛?制?化につながると主張しており、それまで平兵衛が提出してきた意見書と異なり、藩の軍事政策に?する意見を含んだものであった。
慶?3年(
1867年
)に松平直克は川越藩の飛び地だった上野?の
前橋城
に還城する(以後は
前橋藩
と呼ばれる)が、これに先立ち、慶?元年(1865年)10月に前橋に完成した練武所は、「表稽古」流派中で?術改革に理解のある有志により運?され、寄合?術と同?に神道無念流を中心に他流試合を行なった。慶?年間には、寄合?術?加者?名が上州赤堀村の本間道場(
本間念流
)へ他流試合へ行くことも?現し、「表稽古」流派も他流試合を行うようになり、?術改革はほぼ達成された。また同時期に、藩は平兵衛の高弟らの身分を昇格させ、慶?4年(
1868年
)に平兵衛は練武所?授方となった。
明治2年(
1869年
)4月、前橋藩は藩?の?術流派を統合して、試合稽古中心の「新流」という流派にし、??の?術流派師範は全員解任された。同日に平兵衛も練武所?授方を解任されているので、同時に神道無念流師範も解任されたと思われる
[3]
。同日、「表稽古」流派で他流試合に積極的だった者や平兵衛の弟子が練武所の師範に任じられている。
晩年
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その後、平兵衛は?里の入間郡?沼に?り、師範として門弟3千といわれた道場を構えた。そこから
尾高惇忠
や
???一
など多くの志士を輩出した。
同地で明治4年(
1871年
)9月11日、死去した。墓は同地(現?埼玉?
坂?市
)の大川家墓所にある。
また
?藩
後、平兵衛の高弟たちは前橋に「養?館」という道場を開いた。
親族
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「日本の製紙王」と呼ばれた?業家?
大川平三?
は平兵衛の孫にあたる。平三?の母は
尾高惇忠
の妹、妻は
???一
の娘である。埼玉?坂?市の大川平兵衛の道場跡地には、
松平春嶽
の題字、
日下部鳴鶴
書の碑があり、坂?市の記念公園になっている。ここはまた大川平三?記念公園にもなっている。平三?の孫に競馬評論家の
大川慶次?
がいる。
脚注
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]
- ^
『下級武士と幕末明治』 P.201
- ^
『下級武士と幕末明治』 P.202
- ^
『下級武士と幕末明治』 P.225
?考文?
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]
- 布施賢治 『下級武士と幕末明治 -川越?前橋藩の武術流派と士族授産-』 2006年 岩田書院
- 『坂?市史』 1983年 坂?市?育委員?
- 『川越の人物誌?第二集』 1986年 川越市?育委員?