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大中臣 ?麻呂
(おおなかとみ の きよまろ)は、
奈良時代
の
公卿
?
歌人
。名は
?万呂
?
?万呂
とも書く。
姓
は
中臣朝臣
のち
大中臣朝臣
。
中納言
?
中臣意美麻呂
の七男。
官位
は
正二位
?
右大臣
。
??
[
編集
]
三河?
?
式部大丞
?
神祇大祐
?神祇少副などを?て、
天平
15年(
743年
)
?五位下
?神祇大副に?任される。
聖武朝
末の天平19年(
747年
)
尾張守
として地方官に?じるが、
孝謙朝
に入り
天平勝?
3年(
751年
)?五位上に?せられ、天平勝?6年(
754年
)神祇大副に還任し次いで
左中弁
に任ぜられた。
その後は、天平勝?9?(
757年
)
正五位下
、
天平?字
3年(
759年
)正五位上と
藤原仲麻呂
政?下において順調に昇進し、
天平?字
6年(
762年
)正月に
?四位下
?せられると、同年12月には仲麻呂の子である
訓儒麻呂
?
朝狩
と共に
?議
に?任され公卿に列した。また同年8月には、藤原訓儒麻呂?
上道正道
らと共に
中宮院
に侍して
淳仁天皇
の
勅旨
の宣布??達する任務を務めた
[1]
。翌天平?字7年(
763年
)左大弁?
?津大夫
を兼ね、天平?字8年(
764年
)正月には?四位上に任ぜられる。
しかし、同年9月に?生した
藤原仲麻呂の?
においては、孝謙上皇側について
正四位下
に昇?され、翌
天平神護
元年(
765年
)には
?四等
の
??
を受ける。また同年??天皇
重祚
後の
大嘗?
に
神祇伯
として供奉したが、幾度にも亘り神祇官の
官人
を務め、?廉で勤勉であることを天皇より賞され
[2]
、
?三位
に?せられている。
??朝から
光仁朝
にかけても、
神護景雲
2年(
768年
)
中納言
、神護景雲4年(
770年
)
正三位
?
大納言
と引き?き昇進を?け、
??
2年(
771年
)には
左大臣
?
藤原永手
の
薨去
や
右大臣
?
吉備?備
の
致仕
に伴い、
?二位
?
右大臣
に?任されて、以後??11年(
780年
)末まで
太政官
の首班を占めた。なお、??2年(
771年
)
皇太子
?
他?親王
の
東宮傅
となるも、翌??3年(
772年
)他?親王が皇太子を?されたために東宮傅を免ぜられる。しかし、??4年(
773年
)に今度は山部親王(のち
桓武天皇
)が
立太子
すると再び東宮傅に還任された。また、この間の
神護景雲
3年(
769年
)中臣朝臣から
大中臣朝臣
姓に改姓している。
??3年(
772年
)正二位。
天?
元年(
781年
)
桓武天皇
の?位後間もなく致仕を許され、
延?
7年(
788年
)7月28日薨去。
享年
87。最終
官位
は前右大臣正二位。
人物
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?家の昔のことをよく知っている老臣であり、
朝廷
の儀式について多くを?んじかつ熟練していた。高位の
官職
にあって政務を見るにあたって、年老いても精勤で怠ることがなかったという
[2]
。
?時としては異例の87?という長?を保ち、
文武
朝から
桓武
朝の九朝に亘って生き、
聖武
朝から桓武朝の六朝に仕えた。
歌人として『
万葉集
』に5首が採?されている。
官?
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]
注記のないものは『
?日本紀
』による。
系譜
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編集
]
「中臣氏系?」(『
群書類?
』?62所?)による。
脚注
[
編集
]
- ^
『?日本紀』天平?字6年8月11日?
- ^
a
b
『
?日本紀
』延?7年7月28日?
- ^
『大日本古文書(編年文書)』2?335頁
- ^
『大日本古文書(編年文書)』15?130頁
- ^
a
b
『公卿補任』
?考文?
[
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]