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報??
(ほうとくこく)は、
7世紀
後半に
百?
?
高句麗
が滅んだ後に、
新羅
が
唐
に?抗するため名目的に高句麗遺民を冊封した
傀儡政?
。報?の語義について『
三?史記
』新羅本紀の
分注
では、?順を意味するものか、あるいは地名なのか、不明であるとしている。
7世紀中頃の新羅は、西方は百?、北方は高句麗から?迫されて滅亡寸前まで追い?まれていたが、
武烈王
の?唐外交が成功し、唐と協力して
660年
に百?を、
668年
に高句麗を滅ぼすことができた。しかし、唐は新羅の半島統一を援けるために百??高句麗征討を行なったわけではなく、百?の故地に
熊津都督府
(現在の
扶余郡
)、高句麗の故地に
安東都護府
(現在の
平?市
)を置き、それぞれの遺臣を用いて統治させる
羈?政策
を用いようとしていた。新羅に?しても詔勅によって?全?を
?林州都督府
としており、新羅を含めて朝鮮半島全?を唐の支配下に置こうとしていたことが明らかであった。
このような?況下で
670年
に、高句麗の最後の王である
??王
の娘の子、あるいは末期の?臣
淵蓋蘇文
の弟の淵?土の子とされる
安勝
を?ぎ上げた高句麗遺民集?が新羅に亡命してきた。そのため、新羅の
文武王
は彼らを藩?として扱い、高句麗遺民集?を?百?の領域であった金馬渚(現在の
全羅北道
益山市
金馬面)に居住させた。さらに670年8月1日に安勝を高句麗王に
冊封
し
[1]
、
674年
9月に報?王に封じた
[2]
。
こうした新羅による報?王の冊封は、唐に?して高句麗の?民を支配していることを誇示し、朝鮮半島の自治を勝ち取る目的と、?高句麗領域の住民を新羅の支配下に?やかに取り?むための方策として行なわれたと見られている。
680年
には文武王の妹が報?王の安勝に降嫁し、さらに
683年
には安勝に
蘇判
(官位3等官
?飡
の別名)の官位とともに新羅王と同じ金姓が?えられ、王都金城(
慶州市
)に移された。
しかし
684年
11月になると、安勝の一族の?軍の大文が金馬渚にて反?を起こし、高句麗?民が集?となって新羅の官吏を殺害して回るという出?事が起こった。
神文王
は軍を派遣して?を??し、この地の住民をより南方に移住させることとした。安勝に?してどのような?遇があったのかは明らかではないが、その後は報???報?王の名は現れなくなった。
脚注
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]
- ^
『三?史記』6?新羅本紀?文武王紀十年秋七月?
- ^
『三?史記』7?新羅本紀?文武王紀十四年九月?
?考文?
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