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この項目では、?棋棋士について記述しています。ドカベンの登場人物の同名の人物については「
坂田三吉 (ドカベン)
」をご?ください。
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坂田 三
𠮷
または
阪田 三
𠮷
(さかた さんきち、
1870年
7月1日
(
明治
3年
6月3日
) -
1946年
(
昭和
21年)
7月23日
)は、
明治
から
昭和
初期の
?棋棋士
。贈
名人
?
王?
[2]
。
小林東伯?
八段門下
[2]
、もしくは
小野五平
十二世名人門下
[4]
。
大阪府
堺市
出身
[2]
[1]
。
姓
については「
坂田
」と「
阪田
」の表記があり、一定しない(
後述
、?みは同じ)。なお「吉」の正確な表記は「??」
[注 3]
[2]
。
生涯
[
編集
]
堺?
大鳥郡
?松村
(現?
大阪府
堺市
堺?
協和町
)で出生
[5]
。生業の草履表づくりを手?いながら、?棋を?える。
1886年
(明治19年)ごろ、
日本橋
の履き物問屋に
丁稚奉公
し、町角の?台?棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、?棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。
その後は?家に?り家業を手?いながら賭け?棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の?棋指しとして大阪で有名になる。
1891年
(明治24年)頃、
?根金次?
(?時三段または四段)と堺の料亭一力で初?決し、?敗。このことで坂田はプロの道を決意したとされる。なお、初手合わせは1892年(明治25年)?1893年(明治26年)?1895年(明治28年)という?
[6]
、1894年(明治27年)頃という?
[7]
もある。また、この?局は?者とも賭け?棋を否定しているが、賭け?棋であるとの意見もある
[8]
。
また、これまで??で?棋を?んでいた坂田は、?根を通じて初めて師と呼べる人物に出?う。?根が?時「大阪名人(?西名人)」と呼ばれていた
小林東伯?
(
天野宗?
四天王の一人)に?った際に坂田との棋譜を見せたところ、小林は坂田の素質に驚き、自分に紹介するよう?根に?んだ。?根の仲介で坂田と?った小林は、坂田の才能を褒め、さらに上達するための助言として大駒の使い方などを?えた。坂田は小林との出?いが大??みになったと?述しており、これをもって小林門下とすることもある
[3]
。
1903年
(明治36年)、四段格の坂田は、七段の?根と「香香角」の手合いで??する。香落ちの棋譜は?っており坂田の一勝一敗となっている
[9]
。坂田の語りを??した著書『?棋哲?』では、「若いころで自分が四段か四段半のころ、七段の?根さんとの?局で
千日手
になり、自分(坂田)が攻め方だったため、?根から、?根側の勝ちと言われて、勝負を打ち切られた。天下の七段の?根が、自?四段?四段半の素人の自分に?して、男らしくない」「この敗?の悔しさから、家?に、今日から本?の?棋指しになると宣言した」とある。この「千日手の攻め方打開のル?ルを知らずに敗れた」のは、棋譜が?っていない、?根角落ちの一番という?もある
[9]
。
1906年
(明治39年)4月22日、「五段半」の坂田は、八段の?根と大阪阿?陀池
和光寺
境?の藤の茶屋で?局(?根の香落ち)をする。?方互角の勝負であったが、終盤坂田が
千日手
の?時のル?ル(攻め方による打開が必要)を知らず、無理に打開してペ?スが狂い惜敗したとされるが、上記の坂田著書『?棋哲?』の「四段のころに、千日手のル?ルをしらず、ル?ル違反で?制的に負けにさせられたことがある」という記述と一致しない。そのため、坂田が「坂田が千日手のル?ルを知らない」エピソ?ドがあったのは、
1903年
(明治36年)の?根が角または香を落とした一番だという?もある
[10]
[11]
)。坂田にとって「私を本物の?棋指しにしてくれた」一?であった。以後、坂田は打倒?根を目標として貧困などの危機を?り越えていく。
北?秀司
原作による?曲『
王?
』では、この年(
1906年
?明治39年)に?根と初??したことになっており、千日手のため、審判の判定で坂田が反則負けにされたと描かれている。
1907年
(明治40年)?時の三人の八段である
?根金次?
?
井上義雄
?
小菅?之助
の平手?局が
神?新聞
により企?され、「六段」の坂田は神?で
小菅?之助
と??(小菅の香落ち)して勝つ。この頃には坂田の才能を見出す後援者にも?まれ、
1908年
(明治41年)
大阪朝日新聞
?託
となる。こうして生活も少しずつ安定し同時に技術人格ともに成長していく。同
1908年
には、?根と「香角香」の手合で??する。
1910年
(明治43年)7月、坂田を盟主とする
?西?棋?究?
が?足する。同時期に後援者の協力を得て七段への昇段を宣言する。もっともこれは自?であり、大阪朝日新聞紙上で「自分は七段の?力があるから自分で七段を認定する」と突如?表したものだった
[12]
。坂田は「自分で?力があると信じて名?りをあげたのだから、もし異存があればいつ何時でも手合せに?ずる」と述べ、昇段に異議を唱えて挑?してきた棋士を全て駒落ちで破っている。
1913年
(大正2年)4月に初の東京行きを果たす。4月6日?7日に東京?築地??部において催された?迎?局で?根八段と?局(?根の香落ち)して勝利をする。この?局において坂田は『銀が泣いている』という言葉を?したとされる(泣き銀の一局)
[注 4]
。正式に七段として認められたのはこの時ともされている。4月9日には?根の弟子の
土居市太?
(?時は六段)と平手で?局して敗れたものの、7月14日には大阪を訪れた?根と大阪朝日の主催で平手で??し、
袖飛車
を用いて勝つ。
1914年
(大正3年)、大阪に出てきた?根と??し敗れる。
1915年
(大正4年)、
小野五平
名人により八段昇段を許された。これ以降、坂田は小野門下を自?するようになった
[4]
。同年に?根と?ぶ東の?力者である
井上義雄
八段と??して勝つ。「泣き銀の一局」は一?にはこの?局のことであるともいう
[注 5]
。
1917年
(大正6年)に八段となり、
柳?保?
伯爵の後援の下で翌年にかけて?根と平手で6局の?局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、?根の一番弟子の土居市太?(七段)には敗れており、土居の八段昇段を許すこととなる。
1919年
(大正8年)5月11日、
木見金治?
の七段披露の席で大阪を訪れた土居と??し、
阪田流向かい飛車
を使用して勝利する。この?局は坂田が途中で角損をしており、「角損の一局」とも呼ばれる。
1920年
(大正9年)、小野名人の90?祝賀?棋大?で上京した際の、
大崎熊雄
七段との香落ち?は、坂田の奇手「角頭?突き」で有名な?局だが、この?局には敗れている
[13]
。同時期の東京での
金易二?
七段との香落ち?での、坂田が不利な局面で打った七一角は、夢でみた「天から降った角」と自身で語っており、「夢の名角」と呼ばれている
[14]
。
1921年
(大正10年)5月、小野名人の死去を受け、?根が「十三世名人」を襲位した。この時点では坂田も?根の名人襲位には?成していたとされる。
この頃、坂田は眼病を患い、一時は失明の危機に?る。
1925年
(大正14年)3月、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により
名人
に推薦され、柳?伯爵の?同も得て「名人」を名?る(なお、坂田が?したのは「
名人
」である
[15]
が、東京の名人と?別するために、現在では「
?西名人
」、「
大阪名人
」などと表記する者もいる)。この背景には、
1924年
(大正13年)の東京棋界再編で「東京?棋連盟」の結成に貢?した
木見金治?
、
大崎熊雄
、
金易二?
、
花田長太?
が褒賞として昇段し、それまで?業プロ棋士では坂田三吉、土居市太?のみ
[注 6]
だった「八段」の棋士が一?に?えたことに?する不?があったとされる
[注 7]
。このことは東京?棋連盟から名人僭?とみなされ、連盟を追放される原因となった。
報酬をめぐって大阪朝日との?係がこじれ、
1933年
(昭和8年)、?託の座を
神田辰之助
に奪われることになると、後援者の多くも神田を支持するようになり、坂田はますます孤立を深めた。この時期に
星田啓三
を?弟子に迎えている。
1935年
(昭和10年)からの
神田事件
による?棋界の分裂が
1936年
(昭和12年)6月29日に?束後、??より東京よりであった木見派のみならず神田派も?棋大成?(現在の
日本?棋連盟
の前身)に?加するようになり、坂田は?棋界で完全に孤立した。
坂田は復?を目指し
??新聞
や金易二?に?きかけを行い、その結果
1937年
(昭和12年)に坂田は東京側と和解し?棋大成?に復?することになる。同年2月に京都の
南?寺
で
木村義雄
八段と?局(「
#南?寺の決?
」、後述)、3月には
天龍寺
で花田長太?八段と?局。いずれも「後手番、初手端?突き」の奇策を取るが、連敗した。
復?後、八段格として第2期
名人?
挑?者決定リ?グ(八段リ?グ)に?加し7勝8敗の成績をあげたが、それを最後に名人?に?加せずに引退。引退後は大阪市
東住吉?
田?の自宅にこもり、文字通りの?遁生活であった。窮乏を知った木村より顧問の就任を打診されたが「いまさら木村が、なにいいまんね」と拒絶したという。家族によると、?棋を指すのが?社やクラブへの稽古?棋程度になってしまい、「本?の?棋が指したい」と折りたたみの?棋盤でひとり?棋をしていたという。
終?直後、
1946年
(昭和21年)7月23日、
大阪市
東住吉?
[16]
の自宅で死去。食?たりでの急死であったという(少し傷んでいた
鯨肉
を、家族の知らぬ間に食べてしまったのが原因といわれている)。坂田の死亡を報じる新聞記事はたった10行のベタ記事で??もなく、おまけに死亡日が3日も異なっていたという。しかし?後まもなく製作された
新?劇
の演劇作品?
北?秀司
脚本『
王?
』が好評を得たため、坂田の名は?棋指しとして不朽なものとなった。
1947年の?曲『王?』と、それを原作とする映?『
王?
』が大ヒットとなり、死去から9年後の
1955年
(昭和30年)、
日本?棋連盟
は
名人位
と
王?位
を追贈。「贈名人」は
伊藤看?
に?き二人目、「贈王?」は坂田が史上唯一。また、坂田に?えられた「王?位」のもととなる「王??」という棋?名について、
倉島竹二?
は、そもそも、坂田を主人公とした?曲「王?」に由?していると推測している
[17]
。
また、1969年(昭和44年)、新世界町?連合?によって
大阪市
浪速?
の
新世界
の
通天閣
下に「王?」の碑が建立された。また生家跡にも
1989年
(平成元年)11月、「王?阪田三吉?彰碑」が堺市によって建立された。墓は大阪府
豊中市
の
服部?園
。これは、坂田のファンであった
高橋龍太?
の寄附によって
1954年
(昭和31年)に日本?棋連盟が建立した墓であり、除幕式には
土居市太?
、
木村義雄
、
升田幸三
、
大山康晴
ら40名以上の棋士が集まった
[18]
。しかし、坂田三吉墓は
?水次?長
の墓と同じ?に扱われてか、?棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、墓石が損傷している。
1988年
(昭和63年)から、出身地の堺市で「阪田三吉名人杯?棋大?」(
堺市立陵西中?校
?育館、アマチュア棋士?象)が開かれている。
人物
[
編集
]
勉?を好まず、早期に?校を?めたことにより、生涯を通じて?み書きができなかった
[19]
。?棋を親しく?わった
升田幸三
は、生涯?えた漢字は「三」「吉」「馬」の三字だったと?言している。坂田の代筆をしていた書道家の北野千里は、この他に「坂」の字も書けたと?言している。現在、日本?棋連盟から販?されている扇子にはこの「馬」の字が使用されており、他の棋士の扇子よりも値段が高く、今なお?棋ファンに根?い人?がある。
ウィキクォ?トに
坂田三吉
に?する引用句集があります。
北?秀司
原作による『
王?
』というタイトルの?曲(三部構成)や映?、さらに歌のモデルになった。坂田は生前「わしが死んだらきっと芝居や活動??にしよりまっせ」と言っていた。しかし、映?などでの坂田像は多分に誇張されたものであり、??の坂田とはへだたりがあるという、坂田と?際に?った棋士たちの複?の?言がある。
坂田は映?では無法者であるかのように描かれているが、?際には極めて?儀正しい人物であり(ただし、?際に?った棋士たちも坂田の晩年に近いときに?った話であり、若いころから?儀正しかったかどうかはわからない)、文字は知らなかったが江?時代の古い?棋を相?よく知っていた(なお、?曲版では、坂田の過?な?儀正しさは、喜劇的な調子でまで相?に描かれている。)。坂田?棋も完全な??ではなく、坂田以前に大阪名人といわれた
小林東伯?
からアドバイスを受けたことがあった。
有名な
阪田流向かい飛車
も江?時代の定跡を元にしたものである。僧侶などの知識人の話を聞くなどの耳?問で一般常識などは身に付いていた。ただ、文字を知らないための奇行があったことは、?際に親しく?棋を?えられた
升田幸三
も認めており、食堂のメニュ?が?めなかったり、坂田の記?係だった
大山康晴
が、算用?字で考慮時間を記?していたのを見た坂田は「英語で記?しているのか」と聞いたりしたという。また坂田自身は字が書けないことを?にしておらず、頭を指さして「ここに?棋が一杯入ってまんねん。」とおどけた。
「ほんまの先生は?率という言葉がありますやろ。あの通りですわ。ちょっと?わったとこはあったけど、素直で生地のまま、それはもう何のまじり?もない、あんな人がよう?棋させるなと思うような、純?でええ人でした。」
? 知人の書道家北野千里の?言
坂田夫婦が
鳥?山
の日蓮宗系の「みょうけんさん」(妙見堂)の熱心な信者だという、映?版でも描かれている有名なエピソ?ドも、?曲作者の
北?秀司
が追加設定したフィクションであった
[20]
。なお、?際の坂田夫婦は、三吉の眼病快癒のため、京都の
柳谷?音
を信心していた
[21]
。
なお、?曲作者の
北?秀司
は、?曲『王?』第一作の執筆前に、坂田の遺族(次女夫婦)に取材を申し?んだが、拒否されたとしている
[22]
。また、?曲を盛り上げるために意識的にフィクションを盛り?んだのだが、作品の大ヒットにより、?曲の描?が「坂田三吉の人生そのまま」と受け取られることに困惑していた
[23]
。また坂田の家族の反?としては、?曲第一作の上演の際、坂田の息子や次女は、好意的な反?をしたという記?がある
[23]
。
その一方、?曲第一作(および映?第一作)の大ヒットを受け、坂田の?西名人在位期を描く?編(『?王?』)の執筆のため北?が再度取材しようとした際に、「父をこれ以上、阿?よばわりされたくない」(特に
伊藤大輔
監督、
阪東妻三?
主演の映?版?第一作の『王?』への反感があった)という坂田次女の意向により箝口令が敷かれ、北?は?係者への取材を拒否されたという
[24]
。
人?少女漫?『
ガラスの?面
』の主人公?
北島マヤ
のモデルは『王?』の坂田である
[注 8]
。
後?者たち
[
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]
弟子に
藤?金吾
、
星田啓三
、高浜禎がいる。また、棋士系統?においては弟子とされていないが、
神田辰之助
は長く坂田の下で?棋を?わっていた
[注 9]
。
その他、ライバルの木見門下である升田幸三の才能を坂田は特に評?していた。坂田は升田が?棋を?えている社交クラブへ出向いて色?なアドバイスをし、「木村(義雄)を負かすのはあんたや、あんたのほかにおらへん」と激?したという。
坂田が得意とした
振り飛車
?法は、木見門下である
大野源一
が改良を加えて引き?いでいる。坂田が創始者とされる?法に
阪田流向かい飛車
?
袖飛車
があり、特に袖飛車では花田長太?が?抗する定跡を作り上げるまでは?時不敗を誇ったと??記者の天狗太?は記している。
坂田の一番弟子の藤?金吾(1893年-1968年)は弟子を多く育て、
高島一岐代
、
?藤國雄
、
若松政和
を始めとする「坂田三吉の孫弟子」、さらには若松から「坂田三吉の曾孫弟子」で十七世名人の
谷川浩司
を生んだ。藤?は元?は棋士でもなんでもなく一介の?維業者であり、坂田とはいわゆるタニマチとしてのつながりでしかなかった。しかし、個人的に稽古をつけてもらっているうちに坂田の魅力にひかれ、?がつけば39?からプロ棋士になっていたという。
坂田三吉の系譜
[
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坂田三吉 名人王?━┳━藤?金吾 八段━┳━高島一岐代 九段━┳━高島弘光 八段
┃ ┃ ┣━脇謙二 九段
┃ ┃ ┣━東和男 八段
┃ ┃ ┗━森安多?子 女流四段
┃ ┃
┃ ┣━?藤國雄 九段━┳━神吉宏充 七段━━━渡?正和 五段
┃ ┃ ┗━三枚堂達也 七段
┃ ┃
┃ ┣━若松政和 八段━┳━谷川浩司 十七世名人━都成?馬 七段
┃ ┃ ┣━井上慶太 九段━┳━?葉陽 八段
┃ ┃ ┗━藤原直哉 七段 ┣━菅井?也 八段
┃ ┃ ┣━船江恒平 六段
┃ ┃ ┣━出口若武 六段
┃ ┃ ┣━?山友紀 四段
┃ ┃ ┣━狩山幹生 四段
┃ ┃ ┣━藤本渚 四段
┃ ┃ ┗━上野裕? 四段
┃ ┣━森安秀光 九段━┳━本間博 七段
┃ ┃ ┗━野田敬三 六段━┳━長谷川優貴 女流二段
┃ ┃ ┗━山根ことみ 女流二段
┃ ┣━森安正幸 七段━┳━?山成幸 八段
┃ ┃ ┣━?山? 八段━┳━?藤?太? 八段
┃ ┃ ┣━宮本?志 五段 ┗━?田?之 五段
┃ ┃ ┗━折田翔吾 四段
┃ ┣━小阪昇 八段
┃ ┃
┃ ┣━淡路仁茂 九段━┳━久保利明 九段━┳━?菜吟 女流2級
┃ ┃ ┣━村田智弘 七段 ┗━久保翔子 女流2級
┃ ┃ ┗━村田智? 女流二段
┗━星田啓三 八段 ┗━酒井順吉 七段
南?寺の決?
[
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]
坂田の復?を記念し、
??新聞社
主催で特別?局が行われることになった。?に名人の?根は引退を表明しており、?根の弟子で、?時行われていた第一期の?力制名人?での、最有力優勝候補であった、
木村義雄
と
花田長太?
が?局に臨むことになる。
木村との?局の舞台は京都の
南?寺
。
1937年
(昭和12年)2月5日から7日間、持ち時間30時間というル?ルの下で行われた。現在の公式?で持ち時間が最も長い棋?は名人?の9時間であり、名人?は創設?初でも15時間の持ち時間で指されていたことからも、30時間という持ち時間は非常に長い。このとき66?の坂田にとっては?しい?いになることが予想された。
この?局は後手となった坂田が2手目に△9四?と指した(「坂田の端?突き」)。?時の常識では後手でありながらなお1手損とするのと同?であるこの指し手は、?西の棋界を背負っていた坂田の、東京への反骨精神の表れとも見られている。
?時は非常に注目を集めた勝負であり、
織田作之助
は新聞で坂田の端?突きを知り、感激して「坂田はやったぞ。坂田はやったぞ。」とつぶやいたと、作品「?雨」で回想している(織田作之助は坂田ファンで、二度も作品に坂田を取り上げている)。一方で正攻法の?棋を重んじ、奇手や小技を潔しとしなかった木村義雄はこの手に「これには私もたまげたが、同時に『ははん、これは』と思った」とのちの自著に記している。?型は坂田の向かい飛車に木村の居飛車となる。
「坂田の端?突き」は?時の棋士からも坂田がわざと不利な?件で指していると認識はされていたが、『イメ?ジと?みの?棋?』(2008年刊行刊行、
鈴木宏彦
著,
羽生善治
,
谷川浩司
,
渡?明
,
佐藤康光
,
森?俊之
,
藤井猛
述)で現在のプロ棋士の目からは、この端突きの一手には後手のメリットはないが、的確に咎めるのは難しい、とくに▲2六?の居飛車も
後手一手損角換わり
となるので、先手は振り飛車模?で端でなく中央志向の▲5六?が良いのではないかとみている。また後手端?が緩手になるのは相振り飛車など、逆に生きるのが後手振り飛車?先手の居飛車の一局とみているので、振り飛車とくに中飛車や四間飛車で、三間飛車は石田流などでは△9四?が緩手でなくなってしまう可能性があるとしている。また平成になってから2008年までに公式棋?では2局指されて、いずれも先手が2勝している。
結局この一手が響いた形となり、結果は95手で先手の木村義雄の勝ち。のちに坂田の孫弟子に?たる?藤國雄は、自著『阪田三吉名局集』(講談社, 1979)の中で、この南?寺の決?を「三百七十年に及ぶ?棋の?史の中で、最大の一番」と記している。
天?寺の決?
[
編集
]
??新聞社の??記者である
西條耕一
によると
[25]
、?時は?根金次?が名人位を返上し、木村義雄らによる第1期の名人決定リ?グ?のさなかであった。名人?は
東京日日新聞
(現在の
?日新聞社
)が主催していたが、小さな新聞社であった??は名人の?威を逆手に取り、リ?グ?の上位で名人位獲得が有力視されていた木村義雄、花田長太?の2人の?力者と坂田を?局させることを企?したという。名人位の失墜を恐れる?日は反?したが、木村が「(もし?局が受け入れられないなら)?棋大成?を?退し、個人として?加する」ことを宣言して?局は?現した。このことは、木村にそこまで言わせるほど坂田と??できるということに魅力があったことを示している。
花田との?局(
1937年
(昭和12年)3月)は「
天龍寺
の決?」と呼ばれ、このときは後手となった坂田が2手目に△1四?と南?寺とは反?の端?を突いている。結果は169手で花田の勝ちとなった。このときの?型は坂田の力?中飛車に花田の居飛車であった。
この端?突きについては手合いの不?やどうせ勝てないとみてのはったり、阪田流の大見得などの?とともに、これをみた花田や木村らは絶?に負けられないと思ったと?えられる。『イメ?ジと?みの?棋?』では、現在のプロ棋士らの見解として、後手2手目の△1四?は△9四?のそれよりもかなり咎めにくいとしている。振り飛車にしても損はせず、相振り飛車にすると△1四?が生きてくるとし、また▲2六?の居飛車もやはり後手一手損角換わりにされれば緩手になることはないとみているが、
矢倉
模?にすると、△1四?が?くなる可能性があるとしている。
2手目△1四?は平成に入ってから公式?でも2008年までに4局指されており、特に
田丸昇
が2局指して
深浦康市
と
桐山?澄
にそれぞれ勝利している。
坂田三吉の妻
[
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]
?曲『
王?
』で坂田の妻は「小春」であるが、これは『王?』の作者である北?秀司の創作で?名は「コユウ」という。坂田コユウ(1881年-1927年)は坂田との間に四男三女をもうけている。子供たちの?言では、コユウは坂田が長い間想っていた女性でコユウが離?したのち坂田のもとに嫁いだという。コユウは貧しさに耐えながら夫を支えつづける。劇中の?道自殺未遂も?際のことである。この事件は
1913年
(大正2年)頃と推定されるが坂田は初めて家族の大切さに?付き、その後の生き方に大きな影響を?えたと言われている。
その後生活は安定するが、長年の苦?や夫の眼病の看護などでコユウ自身病に倒れる。1927年(昭和2年)に死去。臨終の床で「お父ちゃん、あんたは?棋が命や。どんなことがあっても、アホな?棋は指しなはんなや。」と三吉に言っている。三吉はコユウの亡骸をいつまでも抱くようにしていたという。
「坂田」か「阪田」か
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三吉の苗字については、
つちへん
の「
坂田
」と
こざとへん
の「
阪田
」という2種類の表記が混在している(「阪」は「坂」の異字?)。このような複?な事情が生じた?緯はおおむね以下の通りである
[26]
。
三吉の存命中は表札、免?の署名(俳人である中山眉山や書道家である北野千里の代筆)、著書の名義(代筆)、新聞の記載などいずれも主に「坂田」と表記されていた。三吉本人も指導?局を行った際の謝?の領?書には「坂」の一文字でサインをしていた。しかし、少?ながら「阪田」と表記する例も存在し
[注 10]
、?時から表記?れがあった。
三吉の死後に??記者?
東公平
の調査によって三吉死亡時の?籍が「阪田」になっていることが判明した。もっとも、
1872年
編纂の?籍では「坂田」となっており、
1916年
に編纂された?籍で何らかの理由により「阪田」に改められたものであった(改名の理由は不明)。三吉の娘によると、三吉は漢字の?み書きがほとんどできなかったため、「坂」と「阪」の違いがよく分かっていなかったが、最終的に?籍上の本名が「阪田」となったのは間違いないとのことであった。
現在では、存命時の表記に準?して「坂田」とする場合と、死亡時の?籍に準?して「阪田」とする場合と、どちらも見られる。
エピソ?ド
[
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]
- 故?の
?松村
からは
泉野利喜?
という部落解放運動家が出ており、
1939年
(昭和14年)には第2期名人?リ?グの2年目の?局(?手は
花田長太?
)の際、泉野の紹介で
[27]
部落解放運動家の
松本治一?
に立?ってもらい、後半?は勝ち越すことができた。このとき坂田が松本に贈った記念の
?棋盤
や「馬」と書かれた?棋盤は、
?松人??史館
?にある「阪田三吉記念室」に展示されている
[27]
。
- 長年のスポンサ?に京都の毛皮商
家村喜三?
がいるが、これも被差別部落出身の?によるものであったとされる
[27]
。
- 洋食を好んだが、特に牛肉が好きで食堂でも牛肉料理をよく注文した。「牛肉食べな丈夫で賢ウなられへん。」というのが持論であった。後に眼病を患った原因だともいわれている。
- 身だしなみにも相?な?を使うダンディであった。坂田の孫娘曰く「とても服?には?を使っていた」。和服派で、家の中でも外でも紋付き羽織に袴姿で通し、?ぐときに見える着物の裏地にまでこだわり、白い羽二重に墨で「馬」と「三」の字を書いていた。「勝負師は、他人に哀れな目で見られてはならない」という信念から、年を取ってからは爪を丹念に磨きピカピカにし、白?が目立たないよう?をつけていた。
- お?儀が非常に長いことで知られていた。?時坂田と交友のあった人は、皆口をそろえ「坂田先生がお?儀をした時、自分はもういいと思って頭を上げたら、先生はまだお?儀をしていた。慌ててお?儀を?ぎ足した」と?言している。
- お金に頓着しない性格で、もらったお金はみな?前よく使ったり、他人にパッとばらまいてしまった。と同時に、棋士の卵たちに援助することも忘れなかった。まだ?け出しだった頃の
大山康晴
も、坂田からお金を貰ったことが忘れられない一人で、「棋譜取りの仕事をすると、仕事代全部をつぎ?んでも食事の足が出て閉口したが、ただ一つの例外は坂田さんの?局時で、いつも仕事代とは別にお金をくれた」と述?している。
- 文字が?めなかったので食堂のメニュ?を?むより、テ?ブルの周?をうろついて「これおいしいでっか。」と尋ねたり「ボ?イさん。ここで一番旨いンのは何や。牛肉入ってまっか。」と尋ねたりした。必ず料理を二人前注文し「ボ?イさん。これあんさんのだっせ。」と言って一皿渡しボ?イへの感謝を表した。
- 大局?
について、「あんた、そこから見て浪速?と北?の火事がいっぺんに見えまへんやろ。ワテは五重の塔の上に立っとるから大阪中の火事がみな見える。その違いや。」と言った。
- また、桂馬の動きを
八方桂
にする古?棋に習った珍しい??棋譜が?っている。坂田三吉?木見金治?の?氏で??された八方桂の??譜
[28]
がある。
- 村田英雄
のヒット曲「
王?
」は坂田がモデルである
[
要出典
]
。
著書
[
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]
- 坂田三吉?
關根金次郞
『新撰詰手 將?活法』 名倉昭文館、1910年。
- 坂田三吉 『將?新定跡講義』 名倉昭文館、1913年。
- 坂田三吉 『一手千金 將棋虎之卷』 前田文進堂、1913年。
- 坂田三吉 『高段棋士 將棋草?之卷』 前田文進堂、1913年。
- 坂田三吉 『名人天野 將棋手鑑講義(上?下)』 嵩山堂、1914年。
- 坂田三吉?小林東伯齋 『將棋秘手』 嵩山堂、1914年。
- 坂田三吉?將棋雜誌編輯部 『定跡詰物 將棋大全』 前田文進堂、1916年。
なお、坂田自身は文字が書けなかったため、すべて代筆である。
脚注
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]
注?
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]
- ^
若いころにアドバイスをされたことがあるため、小林門下とすることがある。
- ^
1915年に小野から八段の免?を?えられて以降、本人は小野門下を名?っていた。
- ^
?松人??史館 阪田三吉記念室
(2011年12月22日確認)では、「
」(つちよし)の表記を採用し、名前表記はすべて?像化したテキストを用いている。Unicodeでは U+20BB7、「
𠮷
」。
- ^
?際にこの台詞が使われたのは2年後の井上義雄との?局であるともされる(天狗太?「?棋101話」)
- ^
一日目指し掛けの時点で劣勢だった坂田は「わての
銀が泣いてる
よってに、この?棋はあかん」とつぶやいた。しかし、二日目、坂田は逆?で勝ちを?めた。?根の弟子である
金易二?
は、勝ち?棋だと油?している相手を見て、?持ちを取り直した坂田が??に取り組んだことが勝因だと述べている(中原誠「中原誠名人?棋?室 名勝負この一番」)。
- ^
井上義雄は1920年に死去しており、また?根の名人襲位に?力した竹?丑松も八段であったが、竹?は?業の棋士ではなかった。
- ^
岡本嗣?「9四?の謎 孤高の棋士?坂田三吉?」では、さらにそれに加え、坂田自身に魅力があったことと、京阪神の財界有力者達の東京に?する?抗意識がそうさせたのではないか、との推論を述べている
- ^
NHK BS2 2005年1月24日放映「THE?少女マンガ! 作者が語る名作の秘密 第一夜『ガラスの?面』」で作者の
美?すずえ
は子供の頃に?た
三國連太?
主演の『王?』(監督:
伊藤大輔
1962年 東映)の登場人物である「坂田三吉」に刺激を受け、一芸に秀でているが他のことは何も出?ない主人公を描こうと思ったと語っている。
- ^
神田は木見金治?の庇護下にあったこともあり、木見門下とされることも坂田門下とされることもある
- ^
1918年
以前の朝日新聞など。なお、朝日新聞は
1919年
以降「坂田」と改めている。
出典
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]
- ^
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b
“
阪田三??名人王? - 物故棋士 - ?西本部所?棋士
”.
?西?棋?館
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オリジナル
よりア?カイブ。
2019年5月12日
??。
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?棋新報
13
(3). (1921).
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“
阪田三吉記念室
”.
堺市立人?ふれあいセンタ?
.
堺市
. 2019年5月12日時点の
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よりア?カイブ。
2019年5月12日
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新潮新書
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棋譜は
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昭和25年8月?等を?照
?考文?
[
編集
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- 岡本嗣?
『9四?の謎 孤高の棋士?坂田三吉?』 集英社、1997年/集英社文庫、2000年。
- 加藤一二三
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日本?棋大系
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- 谷川浩司
『怒濤の?西?棋』
KADOKAWA
〈角川Oneテ?マ21〉、2014年。
- 中村浩
『棋神?阪田三吉』 講談社、1980年。
- ?藤國雄
「坂田三吉」『大阪?講座 なにわを築いた人?』 大阪市?大阪都市協?、1992年。
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『王將』 新月書房、1947年
- 新版『王??坂田三吉』 中公文庫、2021年10月。
織田作之助
?
藤?桓夫
?
村松梢風
の短篇集。
- 村松梢風「二人の王?」(1952年)、織田作之助「?雨」「勝負師」(ともに1943年)、藤?桓夫「阪田三吉?え書」(1965年)を??。あわせて、
菊池?
、
吉屋信子
、北條秀司、吉田美代(三吉の三女)、?藤國雄のエッセイも??。
?連項目
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外部リンク
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