喜多流

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

喜多流 (きたりゅう)とは、日本の ?統芸能 である 能? のうち、 のシテ方の 流派 である。

?要 [ 編集 ]

江?時代 初期に興った流派で、祖は、 喜多七太夫

七太夫は、堺の?者の子で7?の時、 豊臣秀吉 の前で舞った「羽衣」で名を上げ「七つ太夫」と呼ばれた芸の天才であり、この名が後に、そのまま七太夫(しちだゆう)となり、喜多流の家元の呼?となった。その後、秀吉の近習となり、六平太(ロッペイタ)と呼ばれた。このロッペイタは、ポルトガル語に由?するとも謂われ、後にはこの六平太を、家元?承前の名として用いた。また秀吉の支援のもと、金春?曲の娘を娶い、金剛太夫(金剛流の家元)?一の養子となり金剛太夫を?承したが、?一の?子?右京勝吉の成人後に太夫の地位を?った。 大阪夏の陣には、豊臣方の一員として?い、落城後は身を?したが、 ?川家康 が「七太夫はどうしている、あの能がもう一度?たい。」と云ったのがきっかけとなり、?田藩主達が奔走して七太夫を探し出し、江?へ出仕させた。その間に、?川?軍は二代目の秀忠に替わっており、秀忠は七太夫に?川家に仕えるように?めたが、七太夫は「武士は二君に仕えず」と云って固?した。秀忠は、それでは今後は能役者として仕えるようにと?め、北姓を喜多と改め、家紋もその時の引き出物の嶋台を模って喜多霞の家紋(喜多流の紋所)とした。 その時代には、四座の他にも、?谷流や下間(しもつま)流と云った??な能役者の流れがあり、七太夫は卓越した芸術的感?でそれらを取り入れ、??の四座の別に一流の創設を特別に認められ、七太夫流或いは喜多流と呼ばれるようになった。その後、 ?川秀忠 ?川家光 の後援を受けて、 元和 年間に喜多流の創設が正式に認められた。五流派の?では最も規模の小さい流派でありながら、 幕末 石高 は200石で金剛流よりも100石多く、?自の地位を築き上げた。

武士 ?質で素朴かつ豪放な芸風 で、豊臣時代から初世と交流のある 福岡藩 ?田家 など、多くの 大名 家( 津?藩 仙台藩 水?藩 彦根藩 井伊家 )、 紀州藩 ?島藩 松山藩 熊本藩 細川家 )等)に採用された。?川幕府瓦解後、一時は?絶の危機に瀕したが、 ?野家 井伊家 藤堂家 山?家 等の?藩主の協力や、喜多流に?する地方の能?師たちの?力に加えて、 十四世喜多六平太 という名人の登場により、流派は生きながらえた。その功績を記念して設立されたのが、東京目?にある喜多能?堂(十四世喜多六平太記念能?堂)であり、現在も流派の?点となっている。 大正?昭和期の名人として、 喜多? 後藤得三 ついで 友枝喜久夫 ? 友枝昭世 親子、 粟谷菊生 ?津哲生 らが知られている。

十六世喜多六平太と?弟の喜多節世が相次いで逝去したことから、2021年(令和3年)現在、宗家は不在。職分が喜多流職分?として活動しており、そこから宗家預かり(2019年より友枝昭世)が選出され、職分?による合議制での運?が?いている。

最後の宗家は 十六世喜多六平太 (2016年2月?)。


?考文? [ 編集 ]

  • 松田存 『能?狂言入門』 文?出版、1976年

外部リンク [ 編集 ]

?連項目 [ 編集 ]