和? ?麻呂
(わけ の きよまろ)は、
奈良時代
末期から
平安時代
初期にかけての
貴族
。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。
??
[
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]
備前?
藤野郡
(現在の
岡山?
和?町
)出身。
天平?字
8年(
764年
)に?生した
藤原仲麻呂の?
では
孝謙上皇
側に?加したらしく、
天平神護
元年(
765年
)正月に?での功?により
?六等
の
??
を受け、3月には藤野別?人から吉備藤野和??人に
改姓
している。
右兵衛少尉
を?て、天平神護2年(
766年
)
?五位下
に
?爵
し、
近衛?監
に任ぜられるとともに特別に
封?
50?を?えられた。
神護景雲
3年(
769年
)7月頃に
宇佐八幡宮
の
神官
を兼ねていた
大宰府
の主神(かんづかさ)?
中臣習宜阿曾麻呂
が宇佐八幡神の
神託
として、??天皇が寵愛していた
道鏡
を
皇位
に就かせれば天下太平になる、と
奏上
する。道鏡はこれを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して
託宣
させたともされる)、自らが
皇位
に就くことを望む
[2]
[3]
。
??天皇は神託を確認するため側近の
尼僧
?
和???
(法均尼)を召そうとしたが、?弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の?麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。?麻呂は出?にあたって、道鏡から吉報をもたらせば
官位
を上げる(
大臣
に任官するとも)旨をもちかけられたという。また、?麻呂に?する?柔策として、
- 吉備藤野別?人?麻呂???他1人(?麻呂の妻か)に
輔治能?人
- 藤野郡大領外?八位上?吉備藤野別宿?子麻呂?藤野郡人?八位下?吉備藤野別宿?牛養ら11人に
輔治能宿?
- 藤野郡人?吉備石成別宿??守ら9人に
石成宿?
- 元部民の藤野郡人?別部大原、邑久郡人?別部比古、藤野郡人?忍海部興志、御野郡人?物部麻呂、藤野郡人?財部?士ら64人に
石成別公
- 元奴婢頭の藤野郡人?母止理部奈波、赤坂郡人?家部大水、勝田郡人?家部?持ら6人、また備前??美作?で母止理部?家部を氏とする奴婢に
石野連
が賜姓されている
[1]
。一方で、道鏡の師である
路豊永
からは、道鏡が皇位に就くようなことがあれば、面目なくて臣下として天皇に仕えることなど到底できない、自分は
殷
の
伯夷
に倣って身を?そうと思う旨を?えられる。?麻呂はこの言葉を?然と思い、主君のために命令を果たす?持ちを固めて
宇佐八幡宮
に?宮する
[2]
[3]
。
?麻呂が?物を奉り
宣命
を?もうとした時、神が
?宜
の辛嶋勝??女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を聞くことを拒む。?麻呂は不審を抱き、改めて??女に宣命を聞くように願い出て、??女が再び神に?現を願うと、身の丈3丈(約9m)の?月のような形をした大神が出現する。大神は再度宣命を聞くことを拒むが、?麻呂は??女とともに
宇佐八幡宮
大宮司
に復した
大神田麻呂
による
託宣
[4]
[5]
、「天の日?は必ず帝の氏を?がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」
[6]
を
朝廷
に持ち?り、??天皇へ報告した。?麻呂の報告を聞いた道鏡は怒り、?麻呂を
因幡員外介
に
左遷
するが、さらに、
別部 穢麻呂
(わけべの きたなまろ)に改名させ、
大隅?
に
配流
した(
宇佐八幡宮神託事件
)
[注? 4]
。道鏡は配流途中の?麻呂を追って
暗殺
を試みたが、急に
雷雨
が?生して?りが暗くなり、
殺害
?行の前に急に
勅使
が派遣されて企みは失敗したともいう
[2]
[3]
。
神護景雲4年(
770年
)8月に??天皇が
崩御
して後ろ楯を無くした道鏡が
失脚
すると、9月に?麻呂は大隅?から呼び?されて入京を許され、翌
??
2年(
771年
)3月に?五位下に復位し、9月には
播磨員外介
に次いで
豊前守
に任ぜられて官界に復?した。また、?麻呂の
祖先
の
墓
が?里に?まれて大木が茂る林となっていたが、?麻呂の配流中に
伐採
されてしまっていた。?麻呂が?京してこの事情を
上表
したところ、祖先4名と?麻呂を
美作
備前
??の
?造
とする旨の
詔
が出された
[3]
。??の?造として以下の事績がある。
- 延?7年(
788年
)備前?
和?郡
のうち
吉井川
の西側の人民から、この人民の居住地と藤野?にある同郡の役所の間に大きな吉井川があるため、雨で?水が?生するたびに公務が果たせなくなるとの訴えがあった。そこで?麻呂は河の西側を
磐梨郡
として?立させて新たな役所を設置すること、水難を避けるとともに人民の負?に不公平がないよう和?郡藤野?にある
?家
を川の西側に移?させ(のちの珂磨?家か)ることを言上し、許されている
[7]
。
- 延?18年(
800年
)備前?にあった
私墾田
100町について、?麻呂の遺志を?いで子息の
?世
が
賑給田
として寄進した。
天?
元年(
781年
)
桓武天皇
が
?位
すると、一?に四階昇進して
?四位下
に?せられる。?麻呂は庶務に熟達して過去事例に通?していたことから
[3]
、桓武朝において?務官僚として重用されて高官に昇る。
延?
2年(
783年
)
?津大夫
に任ぜられ、延?3年(
784年
)?四位上に昇?されるが、?津大夫として以下の事績がある。
延?
4年(
785年
)には、
神崎川
と
淀川
を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、延?7年(
788年
)にのべ23万人を投じて
上町台地
を開削して
大和川
を直接
大阪?
に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(
堀越神社
前の谷町筋がくぼんでいるところと、
大阪市
天王寺?
の
茶臼山
にある河底池はその名?りとされ、「和?橋」という名の橋がある)。
山背?
葛野郡
宇太村を選んで
平安
遷都
の建設に進言し延?12年(
793年
)自ら造?大夫として?力した。
?麻呂は?津大夫を務める傍ら、
民部大輔
次いで
民部卿
を務め、民部大輔?
菅野?道
とともに民政の刷新を行うとともに、『民部省例』20?を編纂した。延?7年(
788年
)には
中宮大夫
に任ぜられて
皇太夫人
?
高野新笠
にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族
和氏
の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞?されている。さらには、延?3年(784年)の遷都後10年?過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、
山背?
葛野郡
宇太村
を選んで
平安京
への
遷都
を進言するとともに、延?12年(
793年
)には
造宮大夫
に任ぜられ、自身も建都事業に?力した。この間の延?9年(
790年
)
正四位下
、延?15年(
796年
)には
?三位
に?せられ、ついに
公卿
の地位に昇っている。
延?18年(
799年
)2月21日
薨去
。
享年
67。最終官位は?三位行民部卿兼造宮大夫美作備前?造。?日
正三位
の
位階
を贈られた。
後世
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]
江?時代
末の
嘉永
4年(
1851年
)3月15日に
孝明天皇
は和??麻呂の功績を?えて
神階
正一位
と
護王大明神
の
神?
を贈った。明治7年(
1874年
)
神護寺
の境?にあった?麻呂を祀った廟は
護王神社
と改?され
別格官幣社
に列し、明治19年(
1886年
)
明治天皇
の勅命により、神護寺境?から
京都御所
蛤御門
前に遷座した。また、明治31年(
1898年
)3月18日には、薨後1100年を記念して、贈
正三位
から位階を進め、贈
正一位
とした
[8]
[9]
。
また、出身地の岡山?和?町には、
和?氏
一族の氏神である
和?神社
があり、和??麻呂?和???が祀られている。ゆかりの寺として
?成寺
もある。配流先とされる
鹿?島?
霧島市
にも
和?神社
がある。
?麻呂は
楠木正成
などとならぶ勤皇の忠臣と見なされることもあり、?前には
十円紙幣
に肖像(想像?、
キヨソ?ネ
の描いた
木?孝允
の肖像?を修正したもの)が印刷された。
日本銀行券
の?代の十円紙幣のうち、兌換銀券の?券と?後のA?券を除く6券種に採用されている。
東京都
千代田?
大手町
の
大手濠?地
や、岡山?和?町の和?神社境?など、各地に
銅像
がある。
??
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]
ある時?麻呂は
脚
が不自由になって起立できなくなってしまったが、
八幡神
に??しようとして
輿
に?って出?した。
豊前?
宇佐郡
?田村(現在の
大分?
宇佐市
和?近?か)に至ると、300頭の
野猪
が現れて道を?んで列をなし10里ばかり前?して山中に走り去った。これを見て人?は不思議なことだと思った。
神社
に
??
すると?麻呂はすぐに立って?けるようになった。
宇佐八幡宮
の
神封
から
綿
8万余屯を?えるとの
神託
を受けて、?麻呂は
宮司
以下豊前?中の百姓にこれを分け?えた。往路は輿に?って出?したが、?路は
馬
を?って?還した。これを見て驚かない者はなかったという
[3]
。
この??の?から、護王神社?和?神社?
御祖神社
などでは
?犬
の代わりに「?猪」が置かれている。
官?
[
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]
『
?日本紀
』による。
系譜
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]
- 父:磐梨別乎麻呂(または平麻呂)
[3]
- 母:不詳
- 妻:和?嗣子
- 生母不明
脚注
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]
注?
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]
- ^
?みはいわなしわけのきみ
- ^
藤野郡大領外?八位上藤野別公子麻呂
- ^
藤野郡人?八位下藤野別公牛養
- ^
現代の?点からは子供じみた嫌がらせのようにも思える改名だが、名前には言?が宿ると考えられていたため、?時は十分意味のある?罰であった。
出典
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?考文?
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]
?連項目
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外部リンク
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