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南北朝?室町時代の「
毛利元春
」とは別人です。
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吉川 元春
(きっかわ もとはる)は、
??時代
から
安土桃山時代
にかけての
武?
。
毛利元就
の次男。母は
吉川??
の娘?
妙玖
。同母の兄弟に兄の
毛利隆元
、弟の
小早川隆景
、その他異母の兄弟が多くいる。
父?元就によって
藤原南家
の流れを汲む
安芸?
の名門?
吉川氏
に養子として送り?まれ、
家督
を?っ取る形で相?した。以後、
毛利?川
の一人として、弟の隆景と共に毛利家?展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢?した。
生涯
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幼少時
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]
享?
3年(
1530年
)、毛利元就の次男として安芸
吉田郡山城
で生まれる。
天文
9年(
1540年
)、
出雲?
の
尼子晴久
が侵攻した際に行なわれた
吉田郡山城の?い
において、
元服
前ながら父の反?を押し切って出陣し、見事に
初陣
を飾った。
天文12年(
1543年
)
8月30日
、兄?
毛利隆元
より「元」の
偏諱
を受けて
元春
と名?った(異?あり
[注? 1]
)。
天文13年(
1544年
)
12月20日
、?子がいない元就の弟?
北就勝
と養子契約を行い、北就勝の死後に所領を?り受ける契約を行った
[1]
[2]
。
天文16年(
1547年
)、自ら望んで
熊谷信直
の娘?
新庄局
と結婚する(後述)。
吉川家相?
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]
天文16年(
1547年
)7月、母方の?兄の
吉川興?
の養子となる。これは興?と仲の?かった叔父?
?世
を初めとする吉川家臣?の?めもあって、興?がやむなく承服したものであるとされている。?件は興?の生命を保?すること、興?の子?
千法師
を元春の養子として、成長後に家督を相?させることであった。
同年
閏
7月22日
、吉川?世、
市川?好
、
今田?高
が連署の
血判
起請文
によって、元就、隆元、元春への忠誠を誓い
[3]
、閏
7月25日
に元就、隆元、元春は返答の連署起請文を送っている
[4]
。
天文19年(
1550年
)、元就は興?を?制的に
?居
させると、元春に家督を?がせて吉川氏?主とした。そして熊谷信直らに命じて興?と千法師を殺害しており、これが毛利元就の調略であったといえる
[5]
。
以後、安芸?
大朝
の
小倉山城
に入った元春であったが、より要害の地である
日野山城
を築き、?点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の?川」と呼ばれ、山陰地方の政治?軍事を??した。
大??尼子との?い
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]
弘治
元年(
1555年
)、
?島の?い
においては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、
陶晴賢
率いる大?軍を?滅した。弘治2年(
1556年
)からは
石見?
に遠征し、尼子晴久と何度か?うも晴久に退けられる(
忍原崩れ
、
降露坂の?い
)。弘治3年(
1557年
)に父が?居すると、隆景と共に?川として毛利家を?質的に支えることとなった。
永?
5年(
1562年
)、元春は胸部や腹部の激痛を伴う
積聚
の病(いわゆる
?
)にかかり、毛利元就は
則阿
や
少林寺
、
楊井武盛
といった???ではない、領?の?師を動員して元春の治療にあたらせ、さらに京都の?師?
大和晴元
を新?火ノ山城へ往診に向かわせ元春の治療にあたらせた
。
永?8年(
1565年
)、
第二次月山富田城の?い
では主力として??して武功を?げ、永?9年(
1566年
)に
尼子義久
を降伏せしめている。
しかし、永?12年(
1569年
)からは尼子氏再興を願う尼子家?臣の
山中幸盛
ら率いる尼子再興軍と?うことになる。
布部山の?い
で尼子再興軍を?破するも、同年には毛利家と敵?する
大友宗麟
の下に寄食していた
大?氏
の一族?
大?輝弘
が
周防?
に侵攻してくる。これに?して軍?を?えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を攻めて自害に追い?んだ。(
大?輝弘の?
)
元?
2年(
1571年
)には謀略を用いて
尼子勝久
の籠る
末石城
を攻?。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて?走)。
織田信長との?い
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]
元?2年(
1571年
)、父?元就が死去すると、その跡を?いだ甥?
毛利輝元
(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を?った。
しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を?大していた
織田信長
を?り、その援助を背景にして抵抗を?けるようになる。また、
天正
4年(
1576年
)に最後の室町幕府?軍である
足利義昭
が毛利氏を?って備後?
?
に下向すると、織田氏との?立は決定的となる。天正5年(
1577年
)からは織田信長の命を受けた
織田氏
の重臣?
羽柴秀吉
率いる中?遠征軍が
播磨?
に侵攻する。元春はこれを迎?し、天正6年(
1578年
)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻?し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵?山中幸盛も?刑され、尼子再興軍の動きを止めた(
上月城の?い
)。
その後も元春は織田軍と各地で?い?けたが、天正8年(1580年)には
三木城
が落城し、城主の
別所長治
は自害。そして備前?の
宇喜多直家
や伯耆?の
南?元?
が織田家に?し、
豊後?
からは大友宗麟が織田信長と呼?して毛利領に侵攻。天正9年(
1581年
)には
因幡
鳥取城
で吉川一族の
吉川?家
が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。
天正10年(
1582年
)、
?水宗治
らが立て籠る
備中高松城
が羽柴秀吉に攻?されたため、元春は輝元?隆景らと共に救援に赴いた(
備中高松城の?い
)。しかし、秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと?うことで被害が?大することを恐れて迎?しなかったため、?線は膠着?態となる。
そのような中、6月2日に織田信長が
明智光秀
の謀反で死亡した(
本能寺の?
)。羽柴秀吉は本能寺の?を毛利側に?しつつ、「毛利家の武?のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧?
安?寺?瓊
に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に?り、和睦を受諾せざるを得なかった
。結果、備中高松城は開城し、?水宗治らは切腹。織田軍は
備中?
から撤退した。なお本能寺の?を?える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、
紀伊
の
?賀衆
からの情報であったことが、吉川?家の?書(案文)から確認できる
。
『
川角太閤記
』によれば、元春はこの際追?を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『
吉川家文書
』では、?名が追?は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。
最期
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天正10年(
1582年
)末、家督を嫡男の
元長
に?って?居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして、吉川氏一族の石氏の治めていた地を?り受け、?居館の建設を開始した。この館は後に「
吉川元春館
」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。
その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(
1585年
)に隆景は積極的に秀吉の
四?征伐
に?加したが、吉川軍は元長が?大?として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。
天正14年(
1586年
)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の?い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの?得により、?居の身でありながら
九州平定
に?加した。しかしこの頃、元春は
化膿性炎症
(
癌
とも)に身?を蝕まれていた。
そのため、同年11月15日、出征先の
豊前
小倉城
二の丸で死去した。
享年
57。
逸話
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元春の嫁取り
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元春は熊谷信直の娘(新庄局)を正室に娶り、生涯側室を置かず4男2女の子?に?まれた。
この正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。
宣阿
の『
陰?太平記
』?十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、
?玉就忠
が?談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望み、驚いた就忠が確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで?くすだろう」と話したとある。この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。しかし、そのようなこととは無?係と思えるほどに夫婦仲は円?で、元春とその娘との間には吉川元長と毛利元氏、吉川?家他が生まれている。その吉川?家を度??めた際は、夫婦連名で書?を送るなど、新庄局は吉川家中では良妻賢母であったようである。
ただ、
武田光和
に嫁いだ信直の妹は絶世の美人ということであり
[注? 2]
、叔母と姪で容色がそこまで違うのかという疑問もあり、本?に不器量であったかどうかは不明である。吉川?家が存命中に成立した可能性がある『
安西軍策
』には元春夫人(熊谷氏)の器量が?かったとの記述はない。しかし
香川正矩
の『
陰?記
』に「器量が?い」との記述が現われ、『陰?太平記』に?承されている。一?によると疱瘡を病んだせいで顔が醜くなり、信直はこれを理由に婚約を?退しようとしたが、元春の側がそのような理由で約束を違えるのを潔しとせず、結婚したとも言う。
なお、あえて不美人を娶った逸話としては「
諸葛孔明
の
嫁
選び」がある。史料に容貌の記載が無く後年の作品で不細工とされたのは、
龐統
の例がある。病による容貌?化を承知で娶った例としては、
明智光秀
や
高橋紹運
にも同?の逸話がある。以上のように?史上において類似の逸話が多く、?情については不明である。
吉川本太平記
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『太平記』は南北朝期の??を描いた
軍記物語
で、??時代の武人にも?く愛?された。
尼子氏討伐の陣中で元春は『
太平記
』40?を書?し、これは現在に『吉川本』として?わっている。吉川本太平記は元春自身が書?したもので、現在は
財?法人
吉川報效?
の所有となっており、
岩?市
の
吉川史料館
が保管している。太平記本文はカタカナ交じりで、古い形式を良く?えている。
?書の朱筆によれば、吉川元春が第1冊を永?6年(
1563年
)12月に筆を下し、その後各?の書?を行って、永?8年(
1565年
)7月に第39冊の書?を完成したとしている。別に自筆の太平記目?1冊もある。
太平記には多少の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14?の欠失があった。吉川本は神田本に近い?容を有し、しかもほぼ全?を完備していることから、古典文??究上きわめて貴重な資料とされる。
昭和
34年(
1959年
)12月18日、?の
重要文化財
(書蹟)に指定された。
居館跡の調査
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吉川元春館
跡は居城?日野山城西南の麓に所在し、
志路原川
の
河岸段丘上
の緩斜面に築造されていた。川が堀の役割を果たしており、西側の山に菩提寺の
海?寺
跡がある。
これまで、
石垣
、
土?
、
掘立柱建物
を中心とする屋敷、
庭園
を確認している。屋敷からは建物のほか
トイレ遺構
2基が?出されている。また、大溝からは
金?し
と「?打たんが?これを造る者也」と墨書された木の札、遺構外からは「こほりさたう」と墨書され氷砂糖の容器と考えられる円形の木の蓋、「かかいさまへ(おかあ?へ)」と書かれていることから元春の妻に宛てられたであろうと考えられる木製の荷札などが出土している。
昭和61年(
1986年
)8月28日に吉川氏居館跡として小倉山城、
駿河丸城
、日野山城とともに?の
史跡
に指定された。屋敷や庭園は一部復元がなされている。
官?
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※日付は??(明治5年(1872年)12月2日まで適用)
系譜
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偏諱を受けた人物
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?連作品
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- 小?
- 浜野卓也
『吉川元春 毛利を支えた勇?』(
PHP文庫
、1997年)
- 南?範夫
『?白に頭を下げなかった男-吉川治部少輔元春』(
文春文庫
?『おのれ筑前、我敗れたり』??、2002年)
- テレビドラマ
- 芸能
脚注
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注?
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出典
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]
- ^
『吉川家文書』第416?、天文13年12月20日付「北就勝契?」。
- ^
『吉川家文書』第417?、天文13年12月20日付「毛利元春自筆契?案」。
- ^
『吉川家文書』第426?、天文16年閏7月22日付「吉川?世?同?好?今田?高連署起請文」。
- ^
『吉川家文書』第427?、天文16年閏7月25日付「毛利元就?同隆元?吉川元春連署起請文案」。
- ^
田端泰子
「毛利元就の領?統治における女性の役割」『日本中世の社?と女性』吉川弘文館、1998年。
- ^
『吉川家文書』第410?、天文18年4月22日付「大?義隆官途吹??」。
- ^
『吉川家文書』第411?、永?3年比定2月20日付「足利義輝御?書」。
- ^
『吉川家文書』第66?、元?3年3月27日付「正親町天皇口宣案」。
- ^
?島?の文化財 - 南?おどり
ホットライン?育ひろしま
- ^
湯本南?踊
一般社?法人山口??光連盟
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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ウィキメディア?コモンズには、
吉川元春
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