三代目 [1] 古今亭 志ん朝 (ここんてい しんちょう、 1938年 3月10日 - 2001年 10月1日 [1] )は、 東京都 文京? 本駒? 出身の 落語家 。本名:美濃部 ?次(みのべ きょうじ)。 出?子 は『 老松 』。 定紋 は『 鬼? 』。
五代目古今亭志ん生 の次男。 十代目金原亭馬生 の弟、 女優 の 池波志乃 は姪、 俳優 の 中尾彬 は義甥にあたる。
七代目立川談志 、 五代目三遊亭圓? 、 五代目春風亭柳朝 と共に、若手?打の頃から東京における『 落語若手四天王 』と呼ばれた [2] 。他に、同世代?家の中では『東の志ん朝、西の 枝雀 』と?される。
なお、 後述 の通り、「古今亭志ん朝」を名?った人物は他に2人いるが、いずれも名?った期間が極めて短い。そのため、?に「古今亭志ん朝」とした場合、三代目(?打昇進から?するまで40年以上にわたって「志ん朝」を名?り?けた)を指すことがほとんどである。
?次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠 初代柳家三語? が出生日の 陸軍記念日 に因んで命名したとされている [ 要出典 ] 。
獨協高等?校 で ドイツ語 を?んだ。?初は 外交官 になるという夢があり、後には?年弟子を連れて大好きな ドイツ へ旅行に行った。?初は 役者 を志しており、?家になる意志はなかったが、志ん生から「 歌舞伎役者 は親が役者でないと上に行けないが?家は 扇子 一本で偉くなれる。」と?得され入門した [3] 。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピ?ドで ?打 に昇進し、主に 八代目桂文? の演じ方を基調としながら、のちに 六代目笑福亭松鶴 に心?して豪?さを修?し、名?共に大看板として人?を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセ?ブして本業の落語家としての活動に注力した。?演?のチケットはすぐに完?するほどの人?であり、古典芸能の 住吉踊り を復興させたことでも有名である。
同業者からの評?も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して 八代目桂文? は「 圓朝 を襲名出?るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も?げない 止め名 であり、文?はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の?打昇進は文?の鶴の一?によるものだった。志ん朝の晩年に 七代目立川談志 は「金を?って聞く?値のあるのは志ん朝だけ」と語っていた。しかし談志は評?する一方、先輩の自分より先に?打ち昇進した事については快く思わず、志ん朝?打ち披露公演を休演していた。それが談志を奮起させた。 一部のファンや 水谷良重(水谷八重子(2代目)) 、 寺田農 などの親しい俳優仲間からは「朝(チョウ)?」の愛?で呼ばれた [4] 。また、長らく 新宿? 早?田鶴?町 に居を構えていたが、その後新宿? 矢?町 に?居し、以後一部では「矢?町」という呼び名でも親しまれた。
落語家としては初めて高級外車を?り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に?しては父?志ん生から猛反?され、後者では男性週刊誌記者 [ 誰? ] から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」「長屋住まいを?け金に執着しない 八代目林家正?(林家彦六) を見習え」と非難されたりと風?たりは?かった。しかし彦六の弟子の 初代林家木久?(現:林家木久扇) は「これからの若手が??面で手本とすべき存在」と高く評?している。
一方では、客入りの良くない名古屋の 大須演芸場 を守る足立席亭 [注 1] の心意?に感じて、 1991年 から?年?演?を行った。大阪では 道頓堀角座 に初めて出演した時、落語が受けなかったので漫談を高座に掛けて大いに受けた。ところが支配人から「漫談ではなく落語をしてもらうために呼んだのだ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。 大阪の客に東京の落語が受け入れられるまで5年かかったが、大阪の街を心から愛するようになった [ 要出典 ] という。大阪の定宿としていた千日前の??上方旅館の女?の葬儀で、?西のしきたりで一番重要な“止め?香”を遺族に懇願されて行ったりもした。旅館を建て替えて設立された トリイホ?ル は、上方?家のみならず、志ん朝一門など東京の?家も“大阪で定席を打てるホ?ル”として 2020年 3月の閉館まで活用された。 生前の志ん朝も「死ぬまでここでやる」と、大いに喜んだ [ 要出典 ] という。
落語以外にも、佃煮?ふりかけ「 錦松梅 」のCMキャラクタ?としても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色?なものに置き換えて「器はいいけど、中身は…」などと一種のセルフ パロディ に仕立ててよくネタにしていた。この他?茶や紙おむつのテレビCMに出演。
二ツ目時代に身の回りに不運が?いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺 [ どこ? ] に守り本尊としている?空?菩薩へのお?りに出向いたところ、その寺の住職に、?空?菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は 鰻 ?ちするよう?められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以?40年以上に渡り大好物であった鰻を?った。鰻については、 1994年 の テレビ朝日 『 徹子の部屋 』出演時、「初めは我慢するのが大?だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、最晩年、『 ニュ?スステ?ション 』の「最後の晩餐」コ?ナ?に出演の際には「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。 癌による死を前に、食べたいものを聞かれた時も「鰻が食べたい」と語った [ 要出典 ] という。
晩年、時間がない時などは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優 山田吾一 と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。
所???は 落語協? で、若手時代には??の落語協?の大幹部候補としても?望されたが、後述する 落語協?分裂?動 の際の自身の身の振り方の?緯や、?動以後は高座に?念し協??部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58?から亡くなるまでの5年間、副?長職を務めるに留まった。
父、兄同?に酒を愛したが長年に渡って 糖尿病 を患い、時折入院加療していた。
最後の高座は2001年8月11~20日までの ?草演芸ホ?ル での 大喜利 「 住吉踊り 」。公演途中の14日から緊急入院していたが、病院から寄席に出演し?けた。
2001年10月1日10時50分 [5] 、 肝?がん のため妻、姉、弟子たちに看取られ、自宅で死去した [6] 。63??。直前まで寄席に出演していた志ん朝の突然の訃報は落語?係者のみならずファンにも大きな衝?を?えた。 落語芸術協? の寄席の?屋も?まり返ったという [7] 。
通夜には俳優の 北大路欣也 や ?柳徹子 らが?列し、志ん朝の死化粧を 海老名美どり が自宅の化粧道具を持?し、執り行った [8] 。告別式は、10月6日13時より 護?寺 桂昌殿で落語協?葬として?まれ、?係者?ファンなど2500名以上が訪れ、その死を悼んだ。遺影は、 村松友視 と?談時に撮影された洋?で帽子をかぶり?に手を?て微笑むもので [9] [7] 、出棺の音?は?人がカラオケで良く歌ったという サザンオ?ルスタ?ズ の曲が使われ、棺には大切にしていたドイツ語の?書が納められた [10] 。
墓所は、安養山 還?寺 (東京都文京?小日向2-19-7)、 戒名 は「 光風院???月志 ( こうふういんらくよかんげつし ) ん 朝居士 ( ちょうこじ ) 」。古今亭志ん生(父)、美濃部りん(母)、妻と同じ墓所に眠る。
父である志ん生を尊敬していたが、芸の形を?似しても育った環境も人生??も全く異なる父の境地に近づく事は不可能と考えていた。8代目桂文?に注目して?を丹念に組み立てる方法で自らの芸を構築していった [11] 。
六代目三遊亭圓生 も敬愛する大先輩であった。 1978年 5月の 落語協?分裂?動 では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協??退を表明している。しかし?初見?みとは異なり、東京都?の落語定席 [注 2] の席亭 [注 1] たちは圓生の新??に寄席出演を許可しなかった。志ん朝一人だけならば 三代目三遊亭金馬 のように寄席に出ずに活動することは可能だが、自らの弟子を含む若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要と考え、周?の?得もあって?退を撤回した。この時「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と決意表明をしている。落語協?の?長であった 五代目柳家小さん は?初は復?組の?罰を?討していたが、 新宿末廣亭 席亭の 北村銀太? の?止もあり、 香盤 を下げずに志ん朝を含む協?復?組を受け入れた。なお、兄の馬生は?動に際して志ん朝の行く末を心配し、信?していた弟子の 古今亭志ん駒 をサポ?ト役として志ん朝の許に送った。?動終結後、形式的に志ん駒は馬生門下からは 破門 という形になり、志ん朝門下に移籍し?領弟子となった。
大阪の落語家との交流の深さは同世代の東京の落語家の中でも群を?いていた。 六代目笑福亭松鶴 に心?し、自身「大阪の 角座 に出るたびに追っかけまわした」と?言するほどであった。そんな志ん朝を松鶴も可愛がり、その?から志ん朝は大阪の寄席にも頻繁に出る機?を得て、大阪の客に受け入れられ芸も上達した。志ん朝にとっては松鶴は芸の恩人であり、遊びを?えてくれたよき先輩でもあった。志ん朝自身、上方落語界復興の苦?話を松鶴から夜を徹して聞かされたのが一番感動した事だと述べている。他には 三代目桂春團治 ? 三代目笑福亭仁鶴 とは二人?を開くなど親交を深めた。特に春團治とは共に親が落語家であったこともあり?方とも格別の思い入れがあった。二人?になると文字通りの??勝負で、二人とも?合いの入った高座となった [12] 。 立川談志 との若手時代からのライバル?係は有名であり、志ん朝に?打昇進を追い越されたことが、談志が奮起するきっかけになった。
また 落語協?分裂?動 では、圓生が三遊落語協?の自らの跡目を志ん朝としたことが、談志が土壇場で新???加を?念した大きな要因であったとされている。この件を巡り、談志とは激しい口論になった。談志の芸は「協?離?後、志ん朝とのライバル?係がなくなったから衰えた」という?を談志の弟子が唱えていたことがある [13] 。
1957年 2月に?父 五代目古今亭志ん生 に入門。前座名は 朝太 。 柳家小光 と共に2月1日から前座入り。
1959年 3月、二ツ目昇進。 1961年 NHK 『 若い季節 』レギュラ?出演。
1962年 5月、 五代目春風亭柳朝 と共に36人?きで?打昇進し、 三代目古今亭志ん朝 襲名。?いた先輩には兄弟子 金原亭馬太? 、 六代目むかし家今松 や 三遊亭全生 、 柳家小ゑん 、 橘家舛? がいた。この年映?『歌う明星??春がいっぱい』( 東映 )に初出演。また、 フジテレビ 『 サンデ?志ん朝 』に司?としてレギュラ?出演する。
1978年 5月 落語協?分裂?動で落語協?を??し 落語三遊協? に?加するが、僅か?日で落語協?に復?。 1990年 から 1999年 まで 大須演芸場 での?演?を始める。
1996年 8月1日 、 三代目三遊亭圓歌 の後任で落語協?副?長就任。兄馬生も 1972年 から 1982年 まで落語協?副?長を務めていた。
2001年 に 芸術選? 文部科?大臣賞受賞。志ん朝?後の副?長には 五代目鈴??馬風 が就任した。
ほか
など
落語協? 百周年記念商品。「志ん朝」と銘打ってはいないが、全127?中64?までは1958年以降のラジオ局5社( TBSラジオ 、 文化放送 、 ニッポン放送 、 ABCラジオ 、 STVラジオ )で放送された古今亭志ん朝の未?表音源が中心。監修?解?: 京須偕充 (創刊?~第3?)、解?:長井好弘(第4?~)、監修: 東京かわら版 編集部(第4?~)、??: ?井洋司 。
?行を記念して、2024年2月23日、文化放送では「古今亭志ん朝を語る夜」(出演: 林家正? 、 林家たい平 )、TBSラジオでは「ちょいといい?を?きたくなってきた今、ふたたびの古今亭志ん朝」(出演: 毒?三太夫 、 外山?理 、 大?悠里 )を放送。20日、文化放送で正??たい平?毒?? 長井好弘 ? 佐藤友美 による記者?見が行われた [21] [22] 。
※カセット版は 文藝春秋 より1988年?1989年に??された。
?後まもなく 五代目古今亭志ん生 に入門。古今亭志ん一から 1948年 3月に志ん朝と改名。 1949年 5月まで 落語協? の名簿に見えるが7月にはなくその頃?業したと思われる。通?「魚屋の志ん朝」。本名? 金田 睦男 。
一部資料ではこの志ん朝については?れず美濃部?次の志ん朝を二代目とすることもあり、?次自身の?打ち昇進披露口上時の音源においては、二代目古今亭志ん朝としている。
(前略)あたしは?門町(八代目桂文?)に傾倒していたから、やり方としては、その路線。?の?理の仕方とか扱い方はね。志ん生のコピ?やってたら、絶??目ですよ。(中略)親父みたいな??をしたから、食うや食わずの思いをしたから(中略)なんとかして上に上がらなければならないという、死にものぐるいの思いをしたから、ああいう?ができた。あたしが同じようにやったって、絶?そこに近づけるわけがない。(後略) ? 3代目古今亭志ん朝
(前略)あの人と?をやるのはすきやったね。?家がほれこむってのはあのひとのことやろうかなあ。…くそっ負けるもんかって?持ちになるしね。志ん朝君も春團治に負けるまいって?持ちで、キチっとやってくれるからね。だからこっちの?みにもなったし、勉?にもなった(中略)六十三?か。早死にやなあ。…(後略) ? 3代目桂春團治
1973 5代目柳家小さん / 1974 てんぷく集? ( 三波伸介 、 伊東四朗 ) / 1975 3代目 古今亭志ん朝 / 1976 10代目 柳家小三治 / 1977 二葉百合子 / 1978 春日三球?照代 / 1979 星セント?ルイス
1980 5代目三遊亭圓? / 1981 春風亭小朝 / 1982 2代目桂枝雀 / 1983 ビ?トたけし / 1984 タモリ / 1985 該?者なし / 1986 ビ?トたけし / 1987 明石家さんま