儒理尼師今

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儒理尼師今
新羅
第3代?王
王朝 新羅
在位期間 24年 - 57年
都城 金城
生年 不詳
?年 57年 10月
南解次次雄
雲帝夫人(または阿婁夫人)
陵墓 ?陵
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儒理尼師今
各種表記
ハングル 琉璃 尼斯今
漢字 儒理尼師今
?音: ユリ?イサグム
日本語 ?み: じゅり?にしきん
ロ?マ字 Yuri Isageum
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儒理尼師今 (じゅり にしきん、生年不詳 - 57年 10月)は、 新羅 の第3代の王(在位: 24年 - 57年)であり、姓は朴。先代の 南解次次雄 の長男。王妃は日知 葛文王 の娘(『 三?史記 』新羅本紀?儒理尼師今紀の 分注 には王妃の姓を朴、許婁葛文王の娘とする)。『 三?遺事 』では王名を 弩禮尼叱今 (どれい にしきん、 노례 尼斯今 )とする。

?位まで [ 編集 ]

紀元24年9月以降に南解次次雄が死去したとき儒理は太子の位にあったが、妹?であり大輔の位にあった昔?解(後の ?解尼師今 )が?望を備えていたので?解に王位を?ろうとした。?解は「聖人は?が多いと聞きます。あなたと私とで?を?んでみて、?の?を調べてみましょう。」と答え、儒理のほうが?が多かったので?人は儒理を王に立て、尼師今と?した。

治世 [ 編集 ]

28年 11月、役人に命じて??の寡婦?寡夫??り身の者?老人などに食料を?えて養ったため、隣?から新羅に移入するものが多かった。

32年 、元の六村( 六部 )の名を改めて、それぞれに姓を?えるとともに、 17等の官位 を整備したとされる。

36年 ?浪 の兵が北?に攻め入り、朶山城( 京畿道 安城市 二竹面)が奪われた。翌 37年 高句麗 大武神王 が?浪を攻め滅ぼすと、?浪の民5千人が新羅に流入した。これらの民は六部に分けられて住まわされた。

40年 9月、先に?浪から?立していた の治める華麗??不耐?が新羅の北?に攻めてきたが、 ?が出兵してこれら二?の兵を打ち負かした。儒理尼師今はこのことを喜んで、貊?と好を通じることとした。 42年 8月には貊?の首長が禽?を?上してきた。『三?遺事』によれば、この年に伊西?を討滅し、高句麗から侵攻されたとする。

57年9月に在位34年にして病に倒れ、?解を王位につけるように訓示を?して10月に死去した。父南解次次雄と同じように、始祖赫居世の陵である?陵(現在地未詳)の域?に葬られた。

王?について [ 編集 ]

三?史記 』新羅本紀?儒理尼師今紀及び『 三?遺事 』紀異?第二南解王?では 金大問 (8世紀の新羅の?者)の解?として、「尼師今(尼叱今)」とは?の筋が整っているさまを言う。(尼師今方言也。謂?理。)また、南解次次雄が亡くなるときに息子の儒理と娘?の?解とを呼び寄せ、「私の死後は朴氏と昔氏とで年長者が王となりなさい」と言ったこと、後に金氏が加わって朴?昔?金の三姓の間で年長者(「?長者」と表記される)が王位を?ぐようになったので、「?」を表す「尼師今」が王の??に用いられたとする。

歌?として?えるもの [ 編集 ]

??に慰撫の施しをしたとき、このことに?んだ?民が 兜率歌 (とそつか)を作ったといい、これが新羅での初の歌?とされる。また、六部の改組を行った後に、六部を二つに分けてそれぞれに王女を配して二組に別け、 7月16日 から 8月15日 までの間、二組が互いに麻を紡ぎ、どちらがたくさん作れるかの競?をさせたという。負けたほうが勝ったほうに食べ物を捧げ、皆で歌ったり舞ったりする「 嘉俳 」という祭りとなった。負けたほうが感嘆して?する「?蘇」という?色が哀れながらも趣のあるものだったので、この?色に因んだ ?蘇曲 (かいそきょく)という歌が作られた。

?考文? [ 編集 ]