倉敷地?
(くらしきちく)は、
岡山?
倉敷市
倉敷地域
にある地?である。同市の中心市街地にあたり、ほとんどが近世に
窪屋郡
倉敷村
であった地域である。?義の倉敷、元?の倉敷の範?にあたる。
美?地?
は、かつて?地の中?地であった。江?時代には、
倉敷代官所
が置かれ
陣屋町
となり、また
阿智神社
他の寺社の
門前町
、
倉敷川
の水運を利用した
川港
町
、さらに
商家町
などの側面を持ち、繁?をした。
?要
[
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]
?地は、倉敷市が中心市街地活性化基本計?によって策定したエリアであり、大半がかつて江?時代に倉敷村であった地域である。つまり古くから「倉敷」と呼?されていた、元?の倉敷の範?のことである。市立倉敷西小?校?および同倉敷東小?校?から
新田
地?を除いたエリアを範?とする。一部隣接地?も含む(川西町??荷町など)。
エリア中央部に
鶴形山
という標高50メ?トルほどの?立丘を配し、北側には倉敷?、南には
加須山丘陵
の北部があり、また鶴形山西南を起点に
倉敷川
が南流する。
北東に位置する美和?幸町?昭和は?
万?村
、北端に位置する倉敷?北口周?は?
老松村
?万?村であるが、??整理や市街化により?地と一?化した。なお、倉敷市基本計?の中心市街地には中央一?二丁目は北部のみ範?に含まれているが、?明の都合上、中央一?二丁目南部も含めて?明する。また中央の西隣の船倉町?向山も全計?の市街地範?外であるが、?史的にも?がりが深く、また??も同じとなっていることから、?ペ?ジに含めて?明する。
江?時代の元和年間および慶?年間に干拓して新たに
新田
を開?するが、それ以前に倉敷村であった地?が?地の大半の部分である
[1]
。
倉敷村は古くは、「倉」は?、「敷」は鋪や子城などとも表記され、
備中?
窪屋郡
に?した。加須山丘陵から鶴形山に至る地は、中世後期までは島であり、鶴島?鶴形島??倉島??居島?丸?島??島?賀洲などの呼?がされた。倉敷は鶴形山麓から加須山丘陵北麓に至る平地に出?た港町であった。もとは漁村であったが、しだいに商港として繁?するようになる。特に江?時代に入ると倉敷はめざましい?展を遂げる。周?の天領を管轄する倉敷代官所が倉敷湊の町?に設置され(現在の本町、倉敷アイビ?スクエアの敷地)、備中南部から小豆島や?飽諸島に至る?範?の政治????文化の中?として賑わいを見せ、多くの豪商が生まれた
[1]
。
倉敷の地名は、領地の年貢米の集積地である
倉敷地
[2]
に由?するとされ、古くは周?の
万??
などの?園の米の集積地であったといわれる。前述のように近世になると、周?の天領の年貢米の集積地として、また備中松山の管轄時代は、松山への物資の中??点として繁?した
[1]
。
?史
[
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]
中世以前
[
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]
倉敷のある島の周?は、
吉備の穴海
の西部にあたる
阿知の海
と呼ばれる海域であり、?時の
高梁川
の河口部であった。古代には、備中?窪屋郡阿智?の一部であったと推定される
[1]
。
古くから???海運の需要?点であり、鶴形山に?座する古社?
阿智神社
は
宗像神
を祀り航海安全を御利益としていたことからもそれがうかがえる。早い時代から
加子浦
に指定され、
文??慶長の役
には加子役銀を上納した。なお近世初頭の
島原の?
では浦手御用をつとめた
[1]
。
中世後期頃には高梁川の沖積作用により、倉敷周?の海は干潮時に干潟が?がっていたといわれ、天正13年に
宇喜多秀家
の命により家臣の
岡利勝
が指揮をし一?に堤防を築堤、大規模な干拓事業により倉敷は陸?きとなると同時に、現在の倉敷市街地北部一?の平野部が生まれた。同時に高梁川と海域を?ぐ汐入の運河として
倉敷川
が掘削され、?陸港として新たに倉敷は機能することとなった
[1]
。
永?9年6月21日からの新見?庄使入足日記に、同29日のこととして「くらしき」から?飽まで船賃150文との文章が記され、この頃にはすでに???航路の基幹港としても機能していた。また天正8年と推定される4月12日の小早川隆景書?に「?敷在番之儀」とあり、毛利方の居城(
倉敷城
)が構えられていた
[1]
。
近世
[
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]
?ヶ原の?い
後、倉敷村は江?幕府直轄領(
天領
)となり、
備中松山城
に置かれた代官所の管轄するところとなる。慶長6年の小堀代官?地によれば、石高619石余り、本山畑8丁反余りで
合畝
65町4反余りであった。また松山代官所は、高梁川の水運を利用し、高梁川河口付近に位置した倉敷湊を年貢米をはじめとする物資の集散地として活用、倉敷村は重要?点として?える。慶長19年に倉敷に陣屋(出張所的なもの)を設け、大坂冬の陣の兵糧積出しが行われた
[1]
。
延?5年の倉敷全?によると、町割は、本町筋 長六町、中船元町 長二町、土手町 長一町半、井上町 長二町半、新町 長二町、船場町 長二町、向船場町 長四町、弓場町 長二町となっており、家?は364軒(うち本百姓194軒)であった
[1]
。
元和元年、松山城は幕府代官所から大名居城に移管され、鳥取より池田氏が入封する。それに伴い倉敷村は備中松山藩の領分となる。同5年の名寄帳では村?は5組に分かれており、?せて石高618石余り、田6町4反余り、畑31町1反余りとされている。また、同年には倉敷村南沖合を干拓し、倉敷新田(後に古新田へ改?。己未新田とも。現在の倉敷市新田の北部)を造成。同8年にはその新田の南沖合をさらに干拓、後新田(辰新田とも。現在の倉敷市新田南部)を開?した。?新田ともそれぞれ倉敷村の枝村となっている。?永19年の年貢割付では本田(枝村の新田に?し、倉敷村本村の田)619石余り、古新田144石余り、後新田621石余りとされている
[1]
。
なお同年には、松山藩主の池田氏が2代目で?絶したため除封となり、新たに成羽より
水谷氏
が入封する。これを機に倉敷村は再び江?幕府の直轄領になり、代官として米倉平太夫重種が支配した。幕府領に?った後、村?に代官出張所的な屋敷がつくられたといわれる
[3]
。
承?4年、後新田東側の
備前
岡山藩
領との入?草野を干拓、未新田(未辰新田とも。現在の倉敷市新田東部)を開?し、枝村とした。石高は407石余りであった
[1]
。
天和3年以降は、倉敷村および枝村の新田の領地はめまぐるしく?化する。同3年に
庭?藩
、元?10年には
丹波
?山藩
、同16年には再度幕府領(倉敷支配所)、?永7年には
駿河
田中藩
領、享保6年以降は再び幕府領(倉敷支配所)となり、以降は一貫して幕府領として幕末を迎える。なお?代藩主とも幕府中?に位置する立場であったことが共通し、各藩の領地となっている間も倉敷村(および周?地)を幕府預かり地というような形で事?上の幕府代官支配が存?していたといわれる
[1]
。
天和4年の五人組帳では町方と在方に分かれており、町?に本家117人?店借5,021人、向屋敷は本家5人、新田は本家10人?店借56人とある
[1]
。
延享3年になると、倉敷村?に
倉敷代官所
が設置(現在の本町、倉敷アイビ?スクエアの敷地)され、その規模を?大した
[3]
[1]
。延?9年の倉敷村御取ヶ付では、倉敷村は新田と?せて1,807石余りとある。のちに小開?も行われている
[1]
。
元?8年の倉敷町委細帳によると四方10箇所に木?が置かれ、町口7箇所に番家があった。?月3?8日の六?市が立ち、特に7月8?13日、12月23?28日は大規模で、近?5里10里より大勢が集まり、盆?正月用の商いが行われた。??912、家?598、うち本百姓108?借屋水呑など797?庄屋1、人?3,874、牛113?馬12、船41、?79、石橋40、板橋4、土橋3の記?がある
[1]
。
天保5年、?時の倉敷代官?古橋新左衛門が??
明倫館
を開設。慶?2年には、第二騎兵隊?走兵による倉敷代官所?き討ち事件(
倉敷?動
)が勃?。代官所の一部が消失したため、明倫館を一時代官所として使用した。また同4年1月に岡山藩士の屯所にもなっている
[1]
。
近代
[
編集
]
慶?4年、?藩置?により
倉敷?
が設置され、倉敷代官所が倉敷??となった。倉敷?が周?と統合されて
小田?
になる明治4年まで??として機能した
[1]
。
明治9年、枝村の新田村、さらには有城村飛び地??高村飛び地??山村飛び地を編入する。翌10年、村?に窪屋郡役所が設置される
[1]
。
同20年には、?倉敷代官所あとに
倉敷紡績
が開業する。明治24年には
山陽?道
(現在のJR西日本)および
倉敷?
が開業した。以降、紡績業と商業により
市街化
が進行する。岡山?南西部の中?都市として、また岡山?第2の都市として、さらには福山と岡山の近接する2大都市の中間地となる要衝としてめざましく?展する。なお同24年6月16日には町制が施行されて
倉敷町
に改?している
[1]
。
明治33年に窪屋郡と都宇郡が合?し
都窪郡
となり、役所が置かれた。
昭和2年に都窪郡倉敷町?
万?村
?
大高村
の3自治?が?等合?し、新?倉敷町を新設。翌3年に市制施行して倉敷市(?)になり、のち周?の町村を次第に編入合?していき、昭和42年に倉敷?玉島??島の3市が合?し、新しい
倉敷市
を新設し現在に至っている。
地域
[
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]
倉敷
[
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]
?エリアの大部分を占める、かつての倉敷村域にあたる地?。
阿知
[
編集
]
一丁目から三丁目からなり、JR倉敷?南側すぐ、
鶴形山
の北西に?がる。同市の中心市街地の中?であり、商店街を形成している。中央部を倉敷?から南に市道古城池線(通??中央通り、元町通り)が通る
[4]
。
昭和47年、?町?新?町?元町?浜田町?戎町?宮坂町?旭町?平和町?阿知町などの町?を統合して、
阿智神社
および阿知の海から命名された。都市計?街路整備に順?し町割りもされ、丁目も設定された
[4]
。
かつては倉敷で最も活況を呈した商店街を要し、周?は大?賑わったが、近年は郊外型の店?の隆盛により、空洞化が問題とされている。一方で、それを打破すべく朝市の
三?市
などが催され、好評を博している
[4]
。
鶴形
[
編集
]
一丁目と二丁目からなる。倉敷?南東で、上記阿知の東隣、鶴形山の北鹿にあたる
[4]
。
倉敷?前から
倉敷中央病院
方面へ至る幹線道路を南北に跨ぎ、一丁目と二丁目に?分されている。一丁目には
倉敷郵便局
などがある
[4]
。
?地は、阿知から?く市街地の一部として商店が多いほか、企業事業所や官公?、住宅などが入り交じる地?となっている
[4]
。
川西町
[
編集
]
倉敷中心市街地西部にあたり、老松エリアの東端に位置する。酒津から南流する倉敷用水の西側にある地域であることが地名の由?で、倉敷町施行時に命名された
[4]
。
北部を東西に
?道429?
(??道2?)が通る。??道沿線近くは市街化し、商店などが立地する。中南部は、??街を形成し、風俗店やスナックなどの?み屋が多い
[4]
。しかし、近年は??街としては店?が減少傾向にある。
現在は??は
老松
となる。
?荷町?南町
[
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]
倉敷中心市街地の南西端に位置し、倉敷用水の西側、前述の川西町の南側にあたる。?荷町の地名は?荷神社に由?する
[4]
。
商店の他に企業も多く、さらに宅地も混在している地域である
[4]
。
現在、??は
老松
となる。
本町?東町周?
[
編集
]
本町
[
編集
]
鶴形山
の南麓に位置する古くからの商業地?で、かつての倉敷の中?地。現在は古い町?みが多く?るため、ほぼ全域が
美?地?
として指定され、町?保存が行われて?光地化しており、?光客向けの商店が多い
[4]
。
鶴形山に?座する阿智神社の表?道口に位置し、元はその門前町であり、さらに?倉敷代官所の陣屋町であった。また
?社
方面や
鴨方往?
(庭?往?)を結ぶ
?社道
や
早島
方面を結ぶ
早島道
などの地方の小街道の起点でもり、街道沿いを中心に商家が?んだ。この通り沿いは
本町通り
と呼ばれ、昭和前期頃まで倉敷の中心市街として繁?した
[4]
。
近世初頭にはすでに大地主や豪商などの主力筋がこの地?に集まっていたいわれ、前述の街道沿いの他、?地西部にあたる倉敷川沿い(??向市場町)に屋敷を建てた。倉敷川の水運を利用し、米?綿?イグサ??など??な商人が繁?を築いた。また本町南部には倉敷代官所が設置され、幕府が年貢米の集散地として水運を利用した。倉敷川?岸(西岸)は、現在は中央一丁目の北部にあたり、?町?では前神町と呼ばれ、東岸の本町の向市場町と同じ?相を呈した。
この倉敷川周?は、特に本瓦葺きの海鼠壁の土?造りで2?3階建ての大型の町屋が特?的で、『白壁の町』といわれる倉敷の町?のイメ?ジを代表している
[4]
。
倉敷川畔に比べると、前述の本町通り周?は木造の格子窓のある
町屋
が多く、庶民的な古い家屋が多い
[4]
。
『
百家埼行?
』に金?風百?の持ち主として載った大島屋彦兵衛の屋敷跡も?存している
[4]
。
現在、地?南部に
倉敷市民?館
が建てられている。なお、南部(市民?館周?)は元は本町ではなかったが、本町の一部となった
[4]
。
東町
[
編集
]
鶴形山の南麓から東麓に位置する。上記本町の東隣にあたり、本町から?く本町筋(早島道)沿いに商家が?び、古くからの本瓦葺きの大きな家屋が今も多く?り、本町などと共に倉敷美?地?を形成している
[4]
。
?江地?
?
豊洲
の一大穀倉地?をひかえ、さらに
?江?山
の盛業により、江?時代から明治?大正?昭和?後まで活?のある繁?を?けた
[4]
。
昭和47年の町?改正により、?万?村の一部(新屋敷)が東町に加えられている
[4]
。
中央
[
編集
]
一丁目と二丁目からなる。倉敷中心市街地南部にあたり、昭和46年まで新川町?前神町?住吉町?御船町の4町?があった
[4]
。
倉敷川上流の西岸に位置し、南北に長い。北部は倉敷美?地?の一部となっている。?地南部は
倉敷市役所
に近い。他にも
岡山大?資源植物科??究所
?
大原美術館
(美?地??)?
倉敷民芸館
?倉敷芸文館?倉敷考古館?
倉敷市立美術館
?
倉敷市立中央?書館
などが立地しており、倉敷地域の政治?文化の中?となっている
[4]
。
また、中心市街地と郊外の中間にあたる地域で、北部は中心市街地から?く町?みを形成するが、南部は郊外型の店?が多い
[4]
。
昭和47年1月1日、前述の4町?を統合して「中央」とし、市道古城池線を境に東を一丁目、西を二丁目と定め、住居表示を行った。一丁目は?前神町全域および?御船町の東部にあたり、東は倉敷川に沿う。前神町は町制時からこの町名であり、倉敷川が水運に利用されていた頃は、?岸の向市場町(現?本町の一部)とともに問屋?仲買店などが立ち?び、川岸には荷船が多??着し、周?の商業中?地?物資の集散地として大?に賑わった。今も多くの?屋敷が多く?る。
その南に?く?御船町は、江?時代に代官所の船手屋敷があったところであり、町名もこれに由?する。倉敷川が水運に利用されていた昭和20年代までは、小型の機帆船が川岸の船溜に度?入港していた。しかし同32年に
?島?締切堤防
が完成したため、水運機能は?された。のち、?地にはガス?社や線維化向上などの中小事業所が立地した
[4]
。
二丁目は、?新川町および住吉町の各全域と?御船町の西部にあたる。西側を新田用水が流れる。北側になる?新川町は、
?島?
に通じた倉敷川の水運を良くするため、江?時代に同川の川上を新田用水まで開削して作って新用水の川筋にできた町?みである。しかし、新川は街路整備時に阿知町裏通りの部分が埋め立てられてしまい、町名にその名?を?していたが、その町名も住所としては表記されなくなってしまった。?住吉町は、新川町の南側に?き、大半は大正期以降に町?みを形成した。?御船町西部は、いまも一部に田園が?がるが、徐?に市街化が進行し、宅地や郊外型商店なども多い
[4]
。
船倉町
[
編集
]
倉敷市街地の南部、後述する向山の西麓にあたる地?で、すぐ西を倉敷川が流れ、?岸には中央の?御船町地?と相?している
[4]
。
江?時代、倉敷代官所の支配地から集められた?東?米を積み出すための船舶の船?があったことが地名の由?である
[4]
。他にも近世には?米の??する?屋敷や代官所付?施設が倉敷川周?に立ち?んでいた
[3]
。
文化財?史跡として向山八ツ柄古墳群1?7?、長蓮寺倉敷代官墓群などがある
[3]
。
中心市街地と藤?方面を結ぶ
岡山?道22?倉敷玉野線
が倉敷川沿いに走る。また、南部を向山山中を?けて羽島へのびる小町トンネルがある
[4]
。
向山
[
編集
]
倉敷市街地南方、鶴形山の南側にある海?100メ?トルほどの丘陵地一?にあたる。
加須山丘陵
の北面になり、?永3年12月には源平
藤?合?
において
源範?
の陣地となった高台である
[4]
。
森林に混じり果樹園となっている部分も多く、また一部は小規模な新興住宅地や中規模の市?住宅、墓地も造成されている。さらに山上は自然公園に仕立てられ
向山公園
とされている。倉敷ユ?スホステルや備前?の窯元も存在する
[4]
。
地名は、鶴形山のすぐ南にあるため、鶴形山側から見て向かいにある山地であることに由?する
[4]
。
町?の?遷
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編集
]
平成10年に倉敷市は、昭和10年に設置され、昭和40年代に現在のように?更された?町?の?明板を、阿知?鶴形?本町?中央地?において?時の町?の位置に設置する事業を行った
[5]
[6]
。?町?は江?時代末期における倉敷村の町割を元におおむね定められた。なお、?時の町?は、現在でも地域住民などの間で、通?や小字としても使用されているものも多い。
- 御船町(みふねちょう)
- 現在の中央一丁目南部と同二丁目南部にあたる。倉敷川の新前新橋から入船橋の下流までの西岸に沿った南北に長い町?である。
- 昭和9年には船溜(倉敷港)が設けられており、水運の?点になった。昭和46年12月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 住吉町(すみよしちょう)
- 現在の中央二丁目中部。自然史博物館?岡山大?資源生物化??究所以南にあたる。
- 大正期には大原農業?究所および倉敷天文台が建設された。また昭和35年、倉敷市??も置かれた。その場所は現在は倉敷市立美術館となっている。昭和46年12月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 前神町(まえがみちょう)
- 現在の中央一丁目中部。倉敷川西岸で、倉敷川に架かる今橋から新前神橋付近まで。
- 天保12年には村?所が置かれた。近代には昭和7年まで倉敷市??があり、政治の中心地であった。現在の倉敷美?地?の一部で、倉敷川畔重要?統的建造物群保存地?の一部であり、?光地として古い町?みが?び、?光客が多く訪れる。昭和46年12月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 新川町(しんかわちょう)
- 現在の中央一丁目北部?二丁目北部および阿知2丁目南西端の一部が該?する。
- 天保3年に新田用水と倉敷川を東西に結ぶ水路が新しく造られ、新川と呼んだ。新川水路のほぼ南岸一?にあたる。現在、新川は埋め立てられている。重要文化財の
大橋家住宅
が立地する。昭和46年12月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 向市場町(むかいいちばちょう)
- 現在の本町ほぼ全域にあたる。南部(市民?館周?)は元は本町ではなかったが、設置時に本町の一部となった
[4]
。
- 倉敷川の東岸で、現白壁通りの北側一?。名?の由?は、本町には?果市があったが、それに向き合って魚介市があったことに由?。現在の
倉敷アイビ?スクエア
が立地する場所に江?時代には倉敷代官の陣屋(倉敷代官所)が、明治中期には紡績工場(倉敷紡績)が存在した。昭和42年9月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 平和町(へいわまち)
- 現在の阿知三丁目西部。おおむね一番街以西、?道429?(??道2?)以南および新田用水以東で、三角形の形をした?域。昭和10年の設置時には町名を倉敷としたが、同13年に平和町と改めた。
- 一番街商店街は?時あった映?館にちなみ、千秋座通りとも呼ばれた。昭和42年9月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 浜田町(はまだまち)
- 現在の阿知一丁目東部?阿知二丁目北部の一部、日ノ出一丁目(
万?
)の一部。山陽本線?町踏切から?道429?を?み、
倉敷センタ?街
周?までの南北に長い?域にあたる。
- 本町から浜村(現浜町付近)に通じる道(?社道)があり、この地では浜の道や浜之通りとも呼ばれていた。?時の町名に由?。昭和42年9月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 戎町(えびすまち)
- 現在の阿知二丁目北部。えびす通り商店街を中心とした?域。鶴形山の西麓にあたる。江?中期に、すでに夷(戎)町の町名が見られ,また前述の?社道が通ることから浜之通りとも呼ばれた。
- 明治時代以降、商店街として?展。昭和42年9月に?止、現在の町?に?更された
[5]
。
- 旭町(あさひまち)
- 現在の鶴形一丁目全域、同2丁目北部の一部、阿知二丁目北西部の一部、幸町南部の一部。倉敷センタ?街の東から倉敷中央病院の手前までで、現在の鶴形一丁目全?域がほとんどを占める。
- かつて岡山?立高等女?校(現?陵高校の前身)や倉敷?務署が立地していた。さらに昭和7年には倉敷市??が現在の倉敷郵便局の位置にあったこともある。昭和42年9月に現在の町?に?更された
[5]
。
- 宮坂町(みやさかちょう)
- 現在の鶴形二丁目のおおむね全域と阿知二丁目西部の一部。鶴形山の北麓から北西麓の一?にあたる。
- かつては「山の後」と呼ばれた。昭和10年の町?設置時に、倉敷尋常高等小?校(現倉敷東小?校)があった?係で、上記旭町の一部と山の後が一?になり宮坂町となった
[5]
。
- 元町(もとまち)
- 現在の阿知2丁目西部?同3丁目東部。?道429?の南側で倉敷中央通りを中心にその?側に?がる。?ね一番街商店街以西、えびす通り商店街周?より西。
- 明治時代の呼?は新町。昭和前期頃は元町筋と呼?した。昭和10年に元町とした。昭和42年9月に現在の町?に?更された
[5]
。
- ?町(さかえまち)
- 現在の阿知一丁目の西部以外?同三丁目北部の一部?同二丁目北部の一部。倉敷?前(南口側)一?。大正9年にこの町名を設定。
- かつては?前には運送?社や倉庫?旅館が立ち?んでいた。その後、?食店や土産物屋が?加し、映?館も出?、大?賑わった時期もある。昭和42年9月に現在の町?に?更された
[5]
。
美和周?
[
編集
]
?エリア北東の一部で、?万?村域であった美和の周?。?地から、東隣の
万?地?
の大島の岡山?道22?線付近の一?は、官公?や公的機???療機?が多く立地するエリアとなっている。
美和
[
編集
]
一丁目と二丁目からなる。鶴形山の東北にあたる。元は万?村の?で、同村南西端で倉敷村と接する田園地?であった
[4]
。
明治期に隣接する倉敷村(倉敷町)の北部に倉敷?が開業、さらに大正12年に?地に倉敷中央病院が設立されると、?方面から?地まで次第に市街化が進展。万?村であるも倉敷町市街地域との?わりが?くなる
[4]
。
昭和2年4月1日に万?村は倉敷町へ編入、昭和3年4月1日には?倉敷市が市制施行すると、美和町の1?が設けられ、のち美和と改?し、北部を一丁目、南部を二丁目に?分した
[4]
。
?地にはかつては??公社も立地した
[4]
。
幸町
[
編集
]
?エリアの北東部、前述の美和の北部で、JR山陽本線の南側に位置する。東西に??道2?が通過している
[4]
。
元は?万?村の南西端にあたり、?道2?(現?道429?)が開通すると、その沿線を中心に隣接する倉敷町の倉敷?から?く街路網が整備され、市街化した。それに伴い、万?村の他地?より、倉敷町の市街地との?わりが深くなる
[4]
。
昭和2年4月1日の万?村の倉敷町への編入合?、昭和3年4月1日の?倉敷市の市制施行を?て、新たに幸町の町名が設定され、現在に至る
[4]
。
倉敷?務署、?福祉事務所、???館などが立地。また、かつては倉敷職業安定所もあった(現在は移?)
[4]
。
昭和
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]
倉敷?北口周?
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]
人口?世??
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]
平成24年9月末現在
[7]
。
倉敷
地?の人口?世??
町字
|
世??
|
男性人口
|
女性人口
|
?人口
|
備考
|
阿知一丁目
|
88
|
72
|
74
|
146
|
|
阿知二丁目
|
258
|
225
|
260
|
485
|
|
阿知三丁目
|
281
|
241
|
303
|
544
|
|
鶴形一丁目
|
401
|
337
|
438
|
775
|
|
鶴形二丁目
|
158
|
146
|
165
|
311
|
|
美和一丁目
|
233
|
196
|
239
|
435
|
|
美和二丁目
|
178
|
173
|
192
|
365
|
|
本町
|
191
|
179
|
202
|
381
|
|
東町
|
223
|
212
|
246
|
458
|
|
船倉町
|
198
|
192
|
218
|
410
|
|
向山
|
162
|
152
|
160
|
312
|
|
中央一丁目
|
236
|
196
|
252
|
448
|
|
中央二丁目
|
209
|
204
|
234
|
438
|
|
昭和三丁目
|
329
|
277
|
341
|
618
|
|
幸町
|
731
|
691
|
812
|
1503
|
|
?町
|
144
|
144
|
163
|
307
|
|
川西町
|
451
|
369
|
458
|
827
|
|
?荷町
|
456
|
497
|
559
|
1056
|
|
南町
|
358
|
335
|
379
|
714
|
|
石見町
|
303
|
254
|
293
|
547
|
|
合計
|
4828
|
4404
|
5206
|
9610
|
|
郵便番?
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]
- 阿知 - 710-0055
- 鶴形 - 710-0056
- 美和 - 710-0052
- 東町 - 710-0053
- 本町 - 710-0054
- 中央 - 710-0046
- 船倉町 - 710-0045
- 向山 - 710-0044
- 川西町 - 710-0821
- ?荷町 - 710-0822
- 南町 - 710-0823
- 石見町 - 710-0814
- 幸町 - 710-0051
??
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]
- 小?校
- 倉敷市立倉敷東小?校
- 阿知一丁目?二丁目(?新川町分??阿知町分を除く)?三丁目(?阿知町分を除く)、昭和二丁目、鶴形一 - 二丁目、本町(?向市場町分を除く)、幸町、美和一 - 二丁目、東町
- 倉敷市立倉敷西小?校
- 阿知二丁目(?新川町分??阿知町分)?三丁目(?阿知町分)、本町(?向市場町分)、中央一 - 二丁目、船倉町、向山
- 倉敷市立老松小?校
- 川西町、?荷町、南町、日吉町、石見町
- 中?校?
- 倉敷市立東中?校
- 阿知一丁目?二丁目(?新川町分??阿知町分を除く)?三丁目(?阿知町分を除く)、昭和二丁目、鶴形一 - 二丁目、本町、幸町、美和一 - 二丁目、東町、中央一 - 二丁目(それぞれ一部除く)、船倉町、向山
- 倉敷市立西中?校
- 阿知二丁目(?新川町分??阿知町分)?三丁目(?阿知町分)、中央一 - 二丁目(それぞれ一部)、川西町、?荷町、南町、日吉町、石見町
主要施設
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]
- ?育?保育施設
- 倉敷中央看護?門?校 - 美和
- 山?服飾?門?校 - 美和
- 倉敷ビジネス?門?院 - 美和
- 公的施設
- 倉敷?務署 - 幸町
- 法務合同?? - 幸町
- 裁判所合同?? - 幸町
- ?療施設
- 商業施設
脚注
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]
?考文?
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]
- ?津政右衛門『岡山地名事典』(1974年)日本文?出版社
- 岡山?大百科事典編集委員?『岡山地名事典』(1979年)山陽新聞社
- 渡?光?中野尊正?山口?一??式正英『日本地名大?典2 中??四?』(1968年)朝倉書店
- 下中直也『日本地名大系第三四? 岡山?の地名』(1988年)平凡社
- ?田茂夫『?別マップル33 岡山??域?詳細道路地?』(2010年)昭文社
?連項目
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外部リンク
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