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依網池
(よさみのいけ、よさみいけ)は、日本古代に
河??
丹北郡
池?村にあったと?わる
池
。現代の
大阪市
住吉?
にある
大依羅神社
周?にあった。
?要
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『
古事記
』
崇神天皇
段に「又是の御世に、依網池を作り」とあるのが初出。『古事記』には、
仁?天皇
段にも「又丸邇池(わにのいけ)?依網池を作り」とも記されている。???海の東岸に位置するこの地域は比較的雨が少ないため、段丘面に溜池が多く築造されているが、依網池は北あるいは北東に緩く傾斜する段丘面に作られ、築造?時の?さは50ヘクタ?ルから60ヘクタ?ルだったと推定される。
西除川
の水の一部と中位段丘面を流れ落ちる少量の水を一時的に貯えたのち、下流の段丘面に開かれた水田の灌漑に用いられたものと想定され、
住吉大社
の門前まで導かれたものと思われる。以下の記述でに紹介する歌にも歌われているように、
蓴菜
や蓮を浮かべられるような水深の?い池であったと思われる。
『
日本書紀
』?五によると、崇神天皇は、
「農
(なりはひ)
は天下
(あめのした)
の大きなる本
(もと)
なり。民の恃
(たの)
みて生くる所なり。今、河??
(かふちのくに)
の狹山
(さやま)
(現在の大阪府大阪?山市)の埴田
(はにた)
水
(みづ)
少
(すくな)
し。是
(ここ)
を以
(も)
て、其の?の百姓
(おほみたから)
、農の事に怠る。其れ多
(さは)
に池溝
(うなね)
を開
(ほ)
りて、民の業
(なりはひ)
を寬
(ひろ)
めよ」
という詔を出し
[1]
、その三ヶ月後に依網池が完成した、となっている
[2]
。
『書紀』?第十によると、
大??尊
は
?神天皇
より?長媛を下賜され、喜んで以下のような歌を歌ったという。
水
(みづ)
渟
(たま)
る 依網池に ?
(ぬなは)
繰り 延
(は)
へけく知らに 堰?
(ぬぐひ)
築
(つ)
く 川?江
(かはまたえ)
の 菱?
(ひしがら)
の さしけく知らに 吾
(あ)
が心し いや愚
(うこ)
にして
(依網池で
蓴菜
(じゅんさい)
を手繰って、ずっと先まで?を配っていたのを知らずに、また岸?に護岸の杭を打つ。川?の江の菱?が、遠くまで伸びているのを知らず、(天皇が?長媛を賜うように配慮されていたのを知らないで)私は全く愚かでした)?:宇治谷孟
[3]
『書紀』?第二十二の中に、
推古天皇
が大量に築いた池の中に
河??
の池として依網池の名があげられている
[4]
このほか、
万葉集
?第七の
?本人麻呂
の
旋頭歌
にも、
?みづら 依網の原に 人も遭はぬかも 石走る 近江?の 物語せむ
((?みづら)) 依網の原で 誰か?合わせぬものか (石走る) 近江?の 物語りをしように
[5]
として池周?のことが詠まれているようである。
以上が記?に表れる「依網池」であるが、池が?際に何年に築かれたのか、誰が築いたのかはっきりとは記されておらず、?連して現れる
依網屯倉
についても同?である。
5世紀
前半から
7世紀
初頭にかけて、
大王
の?力によって池が築造され、農地を開拓して
屯倉
を??したものと思われる。
?永
元年(
1704年
)に
大和川の付け替え工事
が行われると、池自?がほとんど
大和川
にされたことにより大半が消滅した。しかし、一部は
大依羅神社
の?に?されており味右衛門池と呼ばれるようになった。その後、庭井の池と呼ばれていたが、
1969年
(
昭和
44年)に神社の西に隣接する
阪南高等?校
のグラウンドにされるため埋め立てられて消滅した
[6]
。池の痕跡として大依羅神社の近くに碑が?されている。
脚注
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?考文?
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]
- 『古事記』完?日本の古典1、
小?館
、1983年
- 『日本書紀』(一)?(二)?(四)、
岩波文庫
、1994年 - 1995年
- 『日本書紀』全現代語?(上)?(下)、
講談社?術文庫
、
宇治谷孟
:?、1988年
- 『萬葉集』(三)完?日本の古典4、
小?館
、1984年
- 『日本の古代5 前方後円墳の世紀』、
森浩一
:編、
中公文庫
、1996年より「大地の?貌と古代人の??」文:日下雅義
?連項目
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