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"伊東義祐"
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2016年2月
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伊東 義祐
(いとう よしすけ)は、
??時代
から
安土桃山時代
にかけての
武?
、
日向?
の
??大名
。
日向伊東氏
11代(
伊東氏
16代)?主。
伊東祐充
?
祐吉
は同母兄弟。
生涯
[
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]
家督相?
[
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]
永正
9年(
1512年
)、日向?の??大名?
伊東尹祐
の子として誕生。
天文
2年(
1533年
)、日向伊東氏9代?主で兄?祐充が若死にすると、叔父?
伊東祐武
が反?を起こし、祐充や祐?(義祐)の外祖父で家中を牛耳っていた
福永祐炳
を自害に追い?み、
都於郡城
を占?してしまう。?された祐??祐吉兄弟は後ろ盾を失い、日向を退去し上洛しようとしたが、祐武を支持しない者達の制止を受けて思い留まり、
財部
に引き返して祐武方と?峙した。こうして家中を二つに分けた御家?動となったが、
荒武三省
の活躍により祐武は自害し、祐??祐吉方は都於郡城を奪回した。
?の?束後、伊東氏の家督は
長倉祐省
の後援で弟の祐吉が?ぎ、祐?は出家を余儀なくされる。ところが3年で祐吉が病死したため、天文5年(
1536年
)
7月10日
に還俗し
佐土原城
へ入ると11代を相?した。
翌天文6年(
1537年
)、
?四位下
に?せられ
?軍
?
足利義晴
の偏諱を受け、以後「義祐」と名?る。天文10年(
1541年
)に大膳大夫の官途を?受するとともに、永?4年(
1561年
)には
?三位
に?せられ、以後「三位入道」を?した
[1]
。(?三位への?位年については『日向記』では天文15年(
1546年
)とされている。)また、永?7年(
1564年
)には室町幕府相伴衆に任じられている
[1]
。
?肥役
[
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]
義祐は、?肥を領する
島津豊州家
と日向南部の?益をめぐって?い、長い一進一退の攻防を繰り返した。
永?
3年(
1560年
)、豊州家は島津宗家を介して
幕府
に?肥役の調停を依?、6月に
足利義輝
より和睦命令が出されるが、義祐はこれに?わなかった。そのため、
9月4日
に幕府
政所
執事
である
伊勢貞孝
が日向?へ下向した。その際、義祐は貞孝へ?肥侵攻の正?性を示すべく、6代?主?
伊東祐堯
が
足利義政
より賜ったという「日薩隅三ヶ?の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、
?谷
はこれを除く」という?容の
御?書
を提示する。これを見た貞孝は、?時の幕府が用いない言葉遣いが散見され
?書
の疑いが?いと?じたものの、確?までは得られなかった?に、止むを得ず?肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とした。しかし、義祐はこれを?牙にも掛けず、翌永?4年(
1561年
)4月には七度目の?肥侵攻を開始した。
同年12月、豊州家を?迫し、交?により?肥の一部を割?させると、永?5年(
1562年
)5月には完全なる領有に成功する。しかし、同年9月に豊州家に攻められると、ほんの4か月で撤退することとなった。
そして永?11年(
1568年
)1月9日、義祐自ら?勢2万と?する大軍を率いて?肥城を攻?。
島津忠親
が守る
?肥城
を約五ヶ月間にわたり包?し、また援軍として出陣した
北?時久
の軍を小越の?いにおいて?破(
第九?肥役
)。この大敗を受けて同年5月、
島津貴久
は義祐との和睦を決定した。その結果、
大隅?
の
肝付氏
と豊州家の領土を分け合う形で永?12年(
1569年
)に?肥を知行。こうして
島津氏
を政治的に?倒し、日向??に48の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げたのである(
伊東四十八城
)。
勢い盛んな義祐は次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本?である佐土原(現
宮崎?
宮崎市
佐土原町
)は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど?展していくが、義祐の武?としての覇?は失われていった。
?幸院攻略?木崎原の?い
[
編集
]
永?元年(
1558年
)、長きに渡り姻戚?係を?けていた
北原氏
の家督?承問題に介入、
北原兼守
に嫁ぎ未亡人となった娘の麻生を、北原庶流の
馬?田右衛門佐
に娶せるとして、事?上の?っ取りを?策した。翌永?2年(
1559年
)
3月17日
、義祐はその反?派を都於郡城へ呼び寄せて詰問し、その?り道である六野原で取り?んで??すると、右衛門佐と麻生の婚姻を敢行して北原氏の領地の全てを奪い取った。しかし永?5年(
1562年
)、島津貴久と
相良義陽
、北?時久が北原氏の?領回復に協力したため奪い返される。これに義祐は、密かに
相良氏
と同盟、永?6年(
1563年
)に共に
大明神城
を攻め落とし、永?7年(
1564年
)には北原氏に??する
大河平氏
の
今城
を攻め取った。その後、北原氏は離反者が相次いだために、
?幸院
の飯野地?以外は再び
伊東氏
の領地となる。
?幸院が肥沃な穀倉地?であること、また日向の完全なる支配にはどうあっても飯野地?攻略が不可欠であったため、永?9年(
1566年
)に飯野地?攻略の前線基地として小林村に三ツ山城(後の
小林城
)を築城させる。だが、これを知った
島津義久
らが城の完成する前に攻?を仕掛けてくる。
須木城
からの援軍もあり、城主の
米良重方
は苦?しながらもこれを?退する。
永?11年(
1568年
)、飯野地?への攻略に?り出し、
菱刈氏
攻略中で留守の
島津義弘
の
飯野城
を
伊東祐安
に攻めさせたが、義弘がこれに?付いたため?み合いとなり、飯野?田原陣に
桶平城
を築城し
佐土原遠江守
を入れ駐屯させる。しかし、
遠矢良賢
らの
釣り野伏せ
に掛かるなど成果は上がらず、また家督を?っていた次男?
義益
の急死もあり、やむなく桶平城に火を放ち軍勢を撤退させる。だが、桶平城は菱刈?相良?氏支援のための城でもあったにもかかわらず、相良氏に一切通告しないまま撤兵したことから相良氏の遺恨を買うことにもなった
[2]
。
そして
元?
3年(
1572年
)5月、島津貴久の死去と肝付氏の侵攻により動?している島津氏の
加久藤城
を相良義陽と連携して攻めた際に、伊東側は3,000の軍勢がありながら、島津義弘率いる300の軍勢に敗れる(
木崎原の?い
)。伊東祐安、
伊東祐信
ら五人の大?をはじめ、
落合兼置
、米良重方など伊東家の名だたる武?が討死してしまった。これ以降、?幸院攻略の?いは頓挫することとなる。
伊東崩れ
[
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]
木崎原での大敗を契機として、義祐の勢力は次第に衰退してゆく。まず、木崎原の?いから4年後の天正4年(
1576年
)には、伊東四十八城の一つである
長倉祐政
が治める
高原城
が島津義久の3万の兵に攻められる。義祐は援軍を出すも?倒的な兵?差のため一?も交えず、高原城は水の手を?たれやむなく降伏する。その翌日には小林城と
須木城
を治める
米良矩重
が義祐への遺恨から島津に?返り、後難を恐れた近隣の
三ツ山城
、
野首城
、更に三ツ山と
野尻
の堺にある
岩牟?城
までも島津に?する。これによって島津氏領との境界線である野尻と?井岳が逼迫の事態に?った。
野尻城
主?
福永祐友
は何度も義祐に事態打開を訴え出たものの、直?家臣によって訴えは握り潰されてしまった。義祐の家臣?は、境界の?情を知っていながらも、義祐の?華驕慢の日?を諫止することが出?なかった。これは義祐が諫言をする家臣を遠ざけ、自分に都合のいい家臣だけを側近にしていたためであったとされる。
翌天正5年(
1577年
)に入り情勢はますます?化する。6月には、南の守りの要である
櫛間城
が
島津忠長
によって攻め落とされた。義祐は?肥城主である三男?
祐兵
に櫛間への出兵を命じたものの、逆に忠長に反?され、?肥本城に敗走。敵に?肥城を包?されてしまった。また同じ頃、日向北部の?人?
土持氏
が突如
門川
領への攻?を開始したため、伊東家は北は土持、南と北西からは島津氏の侵攻を受けることになったのである。義祐は窮する事態に人心一新を?ったものか、次男?義益の嫡男で嫡孫の
義賢
に家督を?る。
同年12月、野尻城主?福永祐友が、島津方である高原城主?
上原?近
の?得を受け入れ、島津方に?返ってしまった。福永氏は伊東氏とは姻戚?係にあった?、この謀反は義祐は勿論、他氏族への大きな衝?になった。これを知った
?山城
主の
野村刑部少輔文綱
(
野村松綱
の子)、
紙屋城
主?
米良主?助
も島津方に?返った?、佐土原の西の守りは完全に島津氏の手中に?められてしまったのである。さすがの義祐も事態の深刻さを受け止め、12月8日、領?諸?を動員してまず紙屋城奪回の兵を出した。ところが、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知。?座に反?して佐土原に?城した。
翌12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。南の島津方は?肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至な?況で、籠城して島津軍を迎?する?はなかった。同日、城を包?されて逃亡してきた祐兵も佐土原城に?着。もはや義祐には?された選?肢はなかった。同日正午過ぎ、義祐は日向を捨て、次男?義益正室の阿喜多の叔父?
豊後?
の
大友宗麟
を?る決?を下したのであった。
本?である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上に、
新納院
財部城
主?
落合兼朝
も島津氏に迎合して?兵した報せが入った。
落合氏
は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であったが、義祐の寵臣?
伊東?雲?
の??が元で子息の
落合丹後守
を殺されており、それを深く恨んでいた。落合兼朝の裏切りにより、義祐は己の今までの愚行に?付き切腹しようとするが家臣らに止められる。一行は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を?て、
高千?
を通って豊後に?けるル?トを通ることにした。女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、また?峻な山を猛吹雪の中 進まねばならず、?初120~150名程度だった一行は、途中
崖
から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、また島津からの追?や山賊にも?まされ、豊後?に着いた時はわずか80名足らずになっていたという(
豊後落ち
)。その中には後に
天正遣?少年使節
の一人となる
伊東マンショ
の幼い姿もあった。
豊後に到着した義祐は大友宗麟と?見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、また自身も日向を
キリスト?
?にする野望を抱き、天正6年(
1578年
)に門川の土持氏を攻め滅ぼし、耳川以南で島津氏と激突(
耳川の?い
)。しかし大友氏は島津氏に大敗を喫してしまう。大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風?たりに?がり、また宗麟の息子?
義統
が祐兵夫人?阿虎の方を奪おうとしているとの?があったため、義祐は子の祐兵ら20余人を連れ(義賢は大友に?される)
伊予?
に渡って
河野氏
を?り、
河野通直
の一族?
大??運
の知行地に匿われた。
その後、天正10年(
1582年
)に義祐らは伊予から
播磨?
に渡る。ここで祐兵は
織田信長
の家臣?
羽柴秀吉
に仕えていた同族の
伊東長?
の?を得て、その斡旋で秀吉の扶持を受けるようになった。
最期
[
編集
]
祐兵の仕官を見?けた義祐は暫く播磨に留まっていたが、天正12年(
1584年
)祐兵の付けた供の
?木宗右衛門尉
と共に
中?地方
を??に流浪し、やがて
周防?
山口に至って?臣宅に?在した。
その後は?木を撒いて?りで旅をしていたが、病に侵され祐兵の屋敷のある
堺
へ向かった。しかし便船の中で病衰し、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれた。偶然にもそれを知った祐兵の?者(祐兵夫人らとの?も)に?見され、堺の屋敷で7日余り看病を受けたものの、甲斐無く死去した。享年73。
人物
[
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]
- 奢侈に溺れ、?を追われた事で知られるが、中でも?事への傾倒が最も深刻な問題であった。天文20年(1551年)には
大和?
から?師を招聘して
大?
を造立し、また
金閣寺
を模して金柏寺(きんぱくじ)なる寺を建て、日夜念?や法談に?んだという。
小?
[
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]
脚注
[
編集
]
- ^
a
b
宮地輝和「中世日向伊東氏?係文書の基礎的?究」『九州史?』164?、2012年。
- ^
『?岐加賀守年代?書』の記述 (『忘却の日本史 vol.24』 p.15)