五社 英雄
(ごしゃ ひでお、
1929年
(
昭和
4年)
2月26日
-
1992年
(
平成
4年)
8月30日
)は、
日本
の
映?監督
、
脚本家
、
演出家
。本名の?みは「ごしゃ えいゆう」
[1]
。
明治大?
商?部
卒業。
ニッポン放送
プロデュ?サ?、
フジテレビ
映?部長、
五社プロダクション
社長を務めた。
テレビ
業界出身の映?監督第1?である
[2]
[3]
。
時代劇
の
殺陣
において、
竹光
でなく
ジュラルミン
の刀身を採用して俳優の迫?の演技を引き出し、刀と刀がぶつかる際の金?音や、人が斬られる時の
?果音
を音響スタッフと共に?自に開?したことで知られる
[2]
。アウトロ?を主人公にした作品を一貫して手がけ、滅びに向かって走る人間の情念のきしみや
美?
を描くことを信?としていたその代表作には、『
三匹の侍
』、『
御用金
』、『
人斬り
』、『
雲霧仁左衛門
』、『
鬼龍院花子の生涯
』、『
極道の妻たち
』などがあり
[1]
、
丹波哲?
、
仲代達矢
、
平幹二朗
、
安藤昇
、
夏八木?
、
夏目雅子
、
岩下志麻
、
かたせ梨乃
、
名取裕子
らの新たな魅力を引き出した
[4]
。
??
[
編集
]
生い立ち
[
編集
]
1929年
(昭和4年)2月26日、
東京府
北豊島郡
?野川町
大字西ヶ原(現?
東京都
北?
西ヶ原
)で生まれる
[1]
[5]
。父親は
吉原
の近くで?食店を?んでいたが、英雄が誕生した頃は
古河財閥
の使用人(用心棒のような仕事)をしており、母親は英雄を産んだ時42?であった
[1]
[5]
。英雄は五男三女の下から2番目の子にあたる
[1]
[5]
。
貧しい家庭だったため、産まれたばかりの英雄は
?草
にいる
叔父
(父の弟)夫婦の家に預けられた
[1]
[5]
。叔父は一家を構える
博徒
で、英雄を
養子
にするつもりであったが、母親は高?出産した英雄への愛着が捨てきれずに取?し、結局は?の?親と共に暮らすようになった
[1]
。
小?中?校時代には同級生と喧?しても、「お前は
カタギ
の子じゃないから」という理由で、喧?の事情も聞かれず問答無用で英雄の方だけ
?罰
を受けた
[1]
。
1941年
(昭和16年)に
太平洋??
(
大東???
)が開?し、不器用な英雄は
軍事?練
で
三八式?兵銃
の手入れに手間取り、
?校
からよく怒鳴られ、つい不服そうな顔をすると、「これだから
ヤクザ
のセガレは!」と、右顎の?が折れるほど、さらに激しい?罰を受けたこともあった
[1]
。
英雄はこうした生まれ育ちの差別や蔑みで味わった?めさから、「弱味を見せたら、負けだ」、「
決して相手に?められてはならない
」という思いが?くなった
[1]
。そのため、大人になってからはハッタリやホラ話で周?を煙に?いて、?家が大層繁盛した
芸妓
置屋
だったなどと生い立ちを?ったりと、??に脚色したりした
[1]
[5]
。
しかし子供の?時の英雄には現?の?めな環境は耐え難く、死にたいという思いから
特攻隊
の入隊を希望するようになり、中?を中退し
1944年
(昭和19年)に第13期として
予科練
に入った
[1]
。英雄には、自分の名前通りに「英雄」(えいゆう)として死ぬことで、自分を蔑んだ者たちを見返したいという思いもあった
[1]
。
だが予科練入隊まもなく、
日本?炎
の初期症?を患った英雄は、正式入隊が4か月?れてしまったため???加できず、
本土決?
用の水上特攻隊の演習となった
[1]
。同期の者たちの多くは
1945年
(昭和20年)に
台?
や
沖?
の??で特攻隊として散っていったが、生き?った英雄は
福知山市
の飛行機工場で8月15日の
敗?
を迎えた
[1]
。
2?上の兄は?死し
[5]
、
空襲
により英雄の?家も?失した
[1]
。予科練から復員した英雄は一家を養うために食料調達に奔走し、その後は
米軍基地
の?店でアルバイトをした
[1]
。基地の軍用品を
銀座
の
闇市
に?流しをして金を稼いだ英雄は、
明治大?
商?部
へ入?した
[1]
。同期の友人の?言では、英雄は大?では
ボ?ト
部に所?していたという
[1]
。
就職
[
編集
]
明治大?
商?部
卒業後、五社英雄は
映?監督
を目指し、各映??社の就職試?を受けたが全て不合格となってしまった
[1]
。?時は映??社の社員でなければ監督にはなれなかったため、五社は直接に
大映
の
永田雅一
の自宅にも日?して懇願したが?わなかった
[1]
。
1年間の就職浪人を?た五社は、少しでも映?界に近いところとして
マスコミ
業界を目指し、民放ラジオ局の
ニッポン放送
に就職した
[1]
。
報道部
に配?された五社は、
??ジャイアンツ
の
宮崎
キャンプの取材記者などをした後、
1959年
(昭和34年)の
フジテレビ
開局に向けての人事異動により、
1958年
(昭和33年)初頭にラジオのクイズ番組や音?番組の
ディレクタ?
に異動になった
[1]
。
しかしながら、どうしても映像業界に行きたい五社は、同期入社でフジテレビの編成部に移った
村上七?
に、テレビドラマの演出をやりたい旨を話した
[1]
。報道部入りを?める村上の提案に一旦引き下がった五社だったが、信奉する
?澤明
の演出?究の資料書類を持って再び訪れ、ドラマ演出への希望を滔?と語り懇願すると、村上はその熱意に押され常務に掛け合い、1958年(昭和33年)6月2日に五社は念願かなってフジテレビ出向となり、1959年(昭和34年)1月に正式移籍して社員となった
[1]
[3]
。
ドラマ演出
[
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]
スポンサ?
企業の意向に合わせてバラエティ?などを企?した後、五社は
1959年
(昭和34年)6月に初めての演出テレビドラマシリ?ズ『刑事』を手がけた。『刑事』は
高松英?
主演で生放送ドラマであった(?時は??技術がなく全て生放送であった)
[1]
。タイトルは「刑事」だが、
?札
作りをする??がメインとなり、「破滅していくアウトロ?」がテ?マで、スピ?ディ?な演出が社?で高評?を得た
[1]
。
自身の目指す生?しい迫力のあるアクションを?現できる俳優を探していた五社は、?時まだ有名俳優ではなかった
丹波哲?
の野性味と堂?たる??に着目した
[1]
。五社は
日本テレビ
で『
丹下左膳
』のセットで撮影中の丹波を訪れるといきなり初?面の口火で、自作のギャングドラマ『ろくでなし』に出演してほしい、と?刀直入に言った
[1]
。
江?っ子
の丹波と、チンピラ流コミュニケ?ションを?使する五社は馬が合い、『ろくでなし』の成功後も、
1960年
(昭和35年)1月スタ?トのシリ?ズ物『トップ屋』でコンビを組むなど、付き合いが長く?くことになる
[1]
[6]
。
高視?率のドラマを連?し、フジテレビの看板ディレクタ?となった五社は、
?澤明
のような
時代劇
の演出を目指した
[6]
。1960年(昭和35年)10月の
?沼?次?暗殺事件
?生により警察から、
刃物
や
ピストル
などの凶器を使う場面の自?をテレビ局が求められたこともあり、時代劇なら非現?的なファンタジ?として暴力的描?も許容されうる、という思いも五社にはあった
[6]
。
五社は、?時フジテレビに?り?みに?た無名の殺陣師?
湯?謙太?
が率いる「湯??睦?」と組んだテレビ時代劇『宮本武?』の殺陣において、
竹光
ではなく??と同じ重さを持つ危?な
ジュラルミン
製の模造刀を採用し、役者の迫?の演技を引き出した
[6]
。五社の演出する立ち回りは、限りなくリアルに近い死?であったが、テレビスタジオのセット?だけの撮影では今一つの限界もあった
[6]
。
『三匹の侍』成功以降
[
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]
五社は、入社2年目の編成部員の
白川文造
と共に企?を?げていき、
1963年
(昭和38年)のテレビ時代劇『
三匹の侍
』で、
丹波哲?
のほか、
平幹二朗
と
長門勇
をキャスティングした
[6]
[3]
。?時、長門は
?草
のストリップ小屋でコントをしながら下積み生活をしていた無名の役者であった
[6]
。
『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金?音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた
[6]
[2]
。映?のようなカメラワ?クやロケが望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回りを演出するため工夫されたこうした「?果音」の演出は、五社が初めて時代劇で編み出したものであった
[6]
[2]
。
激しいアクションのテレビ時代劇『三匹の侍』の全26話は高視?率を保ち?け、大成功を?めた
[6]
。翌
1964年
(昭和39年)には映?版『三匹の侍』も製作された。この映?は、丹波哲?が創設した「さむらいプロダクション」が製作に?り出し、
松竹
の京都撮影所で撮影された
[6]
。?時、映?業界人は、テレビの人間を「紙芝居屋」と見下げていた
[7]
。
松竹のスタッフはテレビ局のディレクタ?の五社に反感を持ち、??な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社と次第に打ち解けていった
[6]
[3]
。この頃、五社は出かける前に「やるぞみておれ」という歌詞の『出世街道』のレコ?ドを?朝?いていたという
[3]
。映?『三匹の侍』はテレビ局出身初の映?監督作品となったが、?時の映?ジャ?ナリズムから?殺された
[6]
。
しかし衰退の映??社にとって五社の演出力は魅力だった
[6]
。?時
任?
路線に進んでいた
東映
は、その路線?更の?社の方針に反抗する
中村錦之助
のために、巨匠ではない五社を起用し『
丹下左膳 飛燕居合斬り
』など低予算の時代劇を製作した
[6]
。同じく東映製作の時代劇『
牙狼之介
』『
牙狼之介 地獄斬り
』では、五社は
俳優座
の
夏八木?
を?擢して
西部劇
風に演出した
[6]
。
フジテレビの屋上で
殺陣
の特訓稽古をつけられた夏八木は?時を振り返り、刃引きはしてあるものの重量は??と同じ?身(ジュラルミン刀)は「パシャ?ン」といい音がし、火花が散ることもあったと語っている
[8]
[9]
。夏八木と五社はお互い下町育ちで、「なっちゃん」「五社亭」と呼び合う仲になっていった
[8]
[6]
。
それまでの?式美的な殺陣とは?極的なリアル感を表現していく五社演出の殺陣の流儀を?んだ夏八木は、撮影時は
竹光
ではあったものの力加減が?身の要領でやったため、斬られ役の竹光を折ってしまい相手をケガさせてしまうこともあったという
[8]
[6]
。
その後、
1969年
(昭和44年)にフジテレビが映?製作に?り出すこととなり、多額の製作費を使った映?の監督を任されることとなった五社は、フジ製作第1作目『
御用金
』、第2作目『
人斬り
』のアクション時代劇を大成功させた
[6]
。2作とも興行成績ベスト10にランクインし、五社は映?界のヒットメ?カ?に位置づけられるようになった
[6]
。
?落
[
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]
映?『
御用金
』、『
人斬り
』の大ヒットにより、1969年(昭和44年)11月にフジテレビの編成局映?部長に昇進した五社は、思い通りのテレビドラマ作品を企?していった
[10]
。五社は、
深作欣二
監督?
丸山明宏
主演の『
雪之丞?化
』、
田中?三
監督?
天知茂
主演の『無宿侍』、
円谷プロダクション
と提携し不?理ホラ?『
恐怖劇場アンバランス
』などを製作するが、
丹波哲?
?案の『
ジキルとハイド
』の?容が過激すぎ、試?を見た上層部が難色を示して、映?部長を解任された
[10]
。
チ?フプロデュ?サ?として報道部へ異動となった五社は、『
ひらけ!ポンキッキ
』の企?に携わったり、ドキュメンタリ?などを製作したりする傍ら、
東?
で映?『出所祝い』、
東映
で『暴力街』などを監督するが、あまりヒットせずに終わったため、映??社からのオファ?がなくなった
[10]
。新たに
劇?
の原作などを書いていた五社だったが、元
日本???
の
森田政治
が結成した「蒼龍?」の理事長に五社が就任したことが、フジテレビの
鹿?信隆
の逆鱗に?れた
[10]
。
1977年
(昭和52年)11月に五社は現場から外され、調査役として
?務局
の??資料室に左遷となった
[10]
。五社は?社にほとんど出社せず、
俳優座
に入り浸っていたが、そんな五社に
佐藤正之
が助け舟を出し、アクション時代劇『
雲霞仁左衛門
』の監督を任された
[10]
。
次作『
闇の狩人
』もエロと暴力と血しぶきを際立たせた演出で、原作の設定を完全に?した大エンタ?テイメントに仕上げたために、原作者の
池波正太?
が不快感を表明したほどであった
[10]
。その一方、こうした五社の大?な演出に
角川春樹
が注目し、
山田風太?
原作の映?『
魔界?生
』の監督を依?してきた
[10]
。民放第3位という低視?率に?っていたフジテレビも、
1980年代
になって再び自社製作ドラマを復活させるべく、五社を現場復?させた
[10]
。
ところがそんな頃、五社はプライベ?トでゴタゴタを抱えていた
[10]
。1979年(昭和54年)末には妻が2億円の借金を?して家出し、1980年(昭和55年)5月30日には娘?巴がアルバイト先に向かう途中で交通事故に遭い、頭蓋骨??骨折で下血腫
?挫傷
となり危篤?態となった
[11]
[10]
。
五社は、もしも手術が失敗し娘が植物?態となるなら殺してくれと?者に?み、その時は自身も後を追って死ぬ?悟を決め、5年前に買っていた
埼玉?
川越市
南大塚の東陽寺という小さな寺の土地に墓を建てた
[10]
[11]
[3]
。墓石には「五社英雄の墓」、左面には座右の銘の
漢詩
?「
花の嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生さ
」を刻んだ
[3]
。
以前から自殺願望を持っていた五社のことを?にしていた丹波哲?は五社を?得した
[10]
。幸い娘の手術は成功し、
失語症
の後遺症は?ったものの最?の事態は避けられた
[10]
[11]
。しかしながら、同年の7月2日に五社は拳銃所持の
銃刀法違反
容疑で逮捕された
[10]
。罰金刑だけで?んだが、五社は7月30日にフジテレビを依願退職した
[10]
[11]
。鹿??長は、五社の退職金を?額するようにサインした
[10]
[11]
。しかし、この逮捕スキャンダルによって、オファ?されていた『魔界?生』の監督の仕事もなくなった
[10]
[12]
。
拳銃は他人から預かっていたものと見られ、その人物について五社は?秘していた
[10]
。事件の通報者は妻の借金により?却された家を訪れた3人組の
金融業者
集金人であった。3人は五社に執拗に利息を取り立て?け、業を煮やした五社がソファの背に?しておいた拳銃を取り出したという
[10]
。
再起
[
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]
五社は生活していくために、
新宿ゴ?ルデン街
の知り合いの?み屋に紹介された店で、「五社亭」(夏八木?が付けた五社の綽名)という店名を付け?み屋のマスタ?になる準備をしていたが、映?監督の仕事に?する未練はあった
[13]
[14]
。そんな不遇の中の五社を救いの手を差し伸べたのは、かつて五社と『牙狼之介』などで組み、東映の社長となっていた
岡田茂
と、
俳優座
の
佐藤正之
だった
[15]
[16]
[17]
[13]
。
五社を復活させたいと思った佐藤正之は、東映京都撮影所の
日下部五朗
が
仲代達矢
主役で企?していた『
鬼龍院花子の生涯
』に、五社とパッケ?ジなら仲代を貸すという?件をつけた
[13]
。もともと五社と仕事がしたいと思っていた日下部や、東映社長の岡田茂は快く承諾した
[13]
。
五社の渾身の活動再開第1作『鬼龍院花子の生涯』は、1982年(昭和57年)6月に公開されて大ヒットとなった
[13]
。
夏目雅子
演じる松?の?する「
なめたらいかんぜよ!
」という台詞は、台本にはなかったもので、現場で五社が自分自身の??な人生の思いも?めて?興で付け加えたものであった
[13]
[14]
[注? 1]
。
『鬼龍院花子の生涯』の成功により、日本映?界の第一線に返り?いた五社は、フジテレビからのオファ?で『
時代劇スペシャル
』の監督を引き受け、復?第2作目は『
丹下左膳 ?風!百万?の壺
』となった
[13]
。『丹下左膳 ?風!百万?の壺』は、かつて『
人斬り
』などで仕事をした?
大映京都撮影所
のスタッフらが設立したプロダクション
映像京都
のメンバ?であった
[13]
。
フジテレビは、かつてのヒット作『
三匹の侍
』を『時代劇スペシャル』?で3時間スペシャル版として企?していたが、五社は東映の日下部五朗からのオファ?の映?『
陽暉?
』の方を選んだ
[13]
。フジテレビの社運を賭けた企?を?わってしまった五社は、もう古?の
組織
の中で安定?入が得られる道には?れないと考え、『陽暉?』の撮影前に
京都
で、二代目?彫芳の手により全身に
羅生門
の
刺?
を入れた
[13]
[5]
[18]
。
?初、『陽暉?』の主役は、『鬼龍院花子の生涯』に引き?き仲代達矢で行く予定であったが、仲代が
?澤明
の『
?
』に起用されたためダメになり、
?形拳
に決まった
[13]
。五社は?形を?に入り、『
櫂
』でも?形が採用された
[13]
。『櫂』が公開された
1985年
(昭和60年)に
五社プロダクション
を設立。『鬼龍院花子』『陽暉?』『櫂』は、原作者の
宮尾登美子
とのコンビ作品で「
高知三部作
」と呼ばれた。?形が持ち?んだ企?で『薄化粧』も同年に製作された
[13]
。
なお、
1986年
(昭和61年)6月には、前年に再上映された『人斬り』の宣?で
勝新太?
と週刊誌?談中、
田中新兵衛
役を演じた故?
三島由紀夫
について語った件で
右翼
??の怒りを買ったためか、深夜に3人に待ち伏せされて顔を切られ大怪我をしたこともあった
[5]
。五社は彼らがむしろマスコミ沙汰になることを期待していると思い、あえて警察には?けなかった
[5]
。
ガン告知
[
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]
1986年(昭和61年)11月には『
極道の妻たち
』をヒットさせ、その後『
吉原炎上
』の撮影中に京都に?居した
[19]
[7]
。だが、
1988年
(昭和63年)公開の『
肉?の門
』も興行的に失敗し、マンネリを打破するために
二?二六事件
を題材にした『
226
』の監督を??するが、撮影終了後の
1989年
(平成元年)3月に
食道がん
を告知された
[19]
[20]
。
同年4月、五社は
京大病院
に入院したことを仕事仲間や娘に?すために
オ?ストラリア
にいる兄の所に行ったふりをした
[20]
。『226』のスタッフの
映像京都
の
西岡善信
や
森田富士?
らに、「オ?ストラリアに旅行してくる」と手紙を出して密かに手術を受け7月に退院するが、その間たまたま知人の見舞いに京大病院に?た
萩原健一
に目?され、西岡らの知るところとなっていた
[19]
。
退院後は11月に
ヨ?ロッパ
のツア?旅行に行くなど養生した後、
1990年
(平成2年)6月から『陽炎』の撮影に入った
[19]
。?調が思わしくない中、翌
1991年
(平成3年)11月からは『
女殺油地獄
』の撮影にかかるが、これは
井手雅人
が亡くなる前に「五社に」と書き?した共同脚本であった
[19]
[20]
。
『女殺油地獄』は古?のフジテレビの協力を得て製作されたが、現場で五社の?調が?化し入院したため撮影が一時中?し、病院から現場に通うことになった
[19]
。?白く?せ衰えてきた五社は撮影が終了するとすぐ病院の入院生活に完全に入り、完成披露試?や
1992年
(平成4年)5月の公開日には出席できなかった
[19]
。
しかし、病室でもかつてのヒット時代劇ドラマの『
三匹の侍
』のリメイクを企?していた
[19]
。キャスティングも
渡?謙
、
本木雅弘
、
竹中直人
に決まろうとしていたが、同年の8月30日の12時36分、五社は
京都桂病院
で死去した
[19]
[20]
。享年63。遺言により大掛かりな告別式や葬式は行われず、ごく少?の身?のみで川越市の東陽寺にて通夜と密葬が行われた
[20]
。
五社は根?いファンに支えられながらも映?賞には?が薄く、興行ベストテンに入った作品はいくつかあるが、
キネマ旬報
ベストテンには一度も入賞しなかった
[21]
。『陽暉?』では、
日本アカデミ?賞
において監督?脚本?主演男優?助演男優?助演女優の主要5部門で最優秀賞を?占しながら、作品部門では優秀賞(上位5作品)に漏れるという珍記?を作っている。
人物像
[
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]
- 1958年(昭和33年)に産まれた娘?巴が中?生になると、かつて
上野
で
喫茶店
兼
スナック
を??していた妻が外で?きたいと言ったが、
亭主?白
の五社は、金の苦?はさせてないから?く必要はないと叱り、妻がずっと
?業主婦
でいることを望んだ
[5]
。女遊びをすることも妻に?すことはなく、仕事仲間の殺陣師やアクション俳優と一?に
トルコ
などの
風俗店
に出かけたり、?み屋の女の部屋に外泊したりと自由に振る舞っていたという
[22]
。
- フジテレビ時代は、「
江?っ子
は、宵越しの金は持たない」と言い、酒場で
領?書
をもらったことはなく、給料が入ると一晩で使ってしまうこともあったという
[22]
。女好きで遊んだ女も多いが、女にのめり?むとか、女に人生を賭けるということは基本的にできず、もっと別のことの方を大事に感じるタイプの男だと自?していた
[22]
。
- 東京のデパ?トでは
伊勢丹
が一番だと言い、家族で買い物する時はいつも伊勢丹であった
[5]
。五社はなんでも好きなものを買ってやると娘を婦人服?り場に連れていき、娘が
カ?ディガン
選びに迷って決められないでいると、「どうしてお前はすぐに物事を決められないんだ。人生において決?することは、何より大切なこと」、「今日がだめなら明日見つければいい、そんなふうに迷っていたら、けっきょくは何も手に入らないのと同じことなんだぞ」と??が始まり、人生論に?展していった
[5]
。
- 五社自身が父親から、「男はな、素手で
喧?
するんじゃない。?迫で喧?するんだぞ。世の中は、?いなんだから、男は負けるんだったら死んだほうがましだと思え」と幼い頃から言われていたためか、自分の娘が年頃になると、「白馬の王子?が現れることなんてありえない。そう望むようになったらおしまいだ」とシビアな人生論を述べ、娘がフリ?になって?き始めた頃には、「人生は?いなんだから、?い?けない限り幸せが天から落ちてくることなんてありえない」と諭したという
[5]
。
- 元が俳優ではない出演者を安心させることが巧く、馴れない
三島由紀夫
の魅力を引き出し
[6]
、お笑いタレントの
竹中直人
が緊張しNGばかり出しても、「よござんすよ、アニキさんのまんまでよござんすよ」と信?し、面白いことをやってくれとも何も要求せずに素材そのものを容認してくれていたという
[23]
。
- 俳優の好き嫌いが激しく、特に女優の好みにはうるさかった
[14]
。ベテランでありながらも?純派と呼ばれる女優が嫌いで、くせのある演技をする女優も嫌いであった
[14]
。
- 濡れ場
のシ?ンでは、五社自らが裸になって助監督と一?に、スタッフらの前で男役になったり、女役になったりすべての動きを?演してみせることで、?ぐことを躊躇する大物女優は監督が率先して恥をかいている姿に信?を寄せるようになり、ハ?ドで大?な濡れ場を演じる?持ちになっていった
[13]
[14]
。
- 映?の撮影後の?み?に一度?加した娘?巴は、
カラオケ
大?で恥ずかしがり、唄うのを?わってしまったが、そのことを後で五社から叱られて、「皆が?しもうとしているときに、恥ずかしがってちゃ?目だ。自分から率先して馬鹿にならなければ、誰からも愛されやしないぞ」と言われたという
[7]
。
- 仕事に出かける前には必ず、
姿見
の前に立って襟を正し、身だしなみにこだわっていたという
[5]
。家出した妻の借金により家財道具が債?者に持っていかれても、姿見だけは決して手放さなかった
[5]
。
- 『陽暉?』の撮影前に全身に彫った
刺?
について「彫り物」と呼ぶことにこだわっていた
[5]
。刺?は
ヤクザ
が入れるものなのにどうして入れたのか疑問に思った娘が、「ひょっとして、パパは正?正銘の極道者っていうわけ?」と訊ねると、「馬鹿者! お前はなんにも判ってないんだな。パパはれっきとした
堅?
の人間だ。彫り物は別にやくざもんがするものとは限らないんだぞ。彫り物は一種の
芸術
でもあるんだ」と一喝して、「刺?」ではなく自分の背中にあるのは「彫り物」だと言ったという
[5]
。
作品
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]
出典は
[24]
テレビドラマ
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]
特記がないものは全て
フジテレビ
製作?放送。
映?
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]
- 監督
●印は脚本を兼務。
- 監修
- 世界最?のカラテ キョクシン(極?映?製作委員?、1985年)
- 原案?脚本監修
舞台
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]
- デスクトップ(1985年)
- スプレ?(1986年)
その他
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- 作詞
- 三匹の唄
(1970年)- 作曲?編曲:
佐藤勝
。歌:
銀座ミユキ
- テレビ時代劇『新三匹の侍』(フジテレビ?
松竹
制作、1970年7月)の主題歌。
脚注
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]
注?
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]
- ^
夏目雅子
は?時、撮影中に
バセドウ病
の手術という申し出で一か月撮影を休んでいたが(出演決定前から夏目本人は自身の病?を知っていたが?していた)、五社は彼女がこの映?出演に賭けている意??みを感じ、男が言うような啖呵もこなせるとふんだ
[13]
[14]
。
- ^
?時はフジテレビの映?部長と言う立場にあり、ライバル局の日本テレビでドラマの演出をする事はなかった。とは言え、放送局のディレクタ?が劇?作品に原作者として携わる事は、?時としてはまだ珍しかった。
出典
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「第一章 情念」(
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, pp. 11?34)
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春日太一
「演出家?五社英雄の?み」(
ムック 2014
, pp. 2?10)
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「第2章 フジテレビ型破りサラリ?マン時代」(
巴 1995
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ムック 2014
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「第4章 父の背中にあった羅生門の彫り物」(
巴 1995
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「第二章 突進」(
春日 2016
, pp. 35?128)
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「第5章 俺は、?客に向かって映?をつくる」(
巴 1995
, pp. 149?168)
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春日太一「
夏八木?さん 五社監督と「刀を?てる」殺陣の流儀を貫いた
」『週刊ポスト』2013年4月26日?、NEWSポストセブン、2013年5月13日、
2017年6月14日
??
。
- ^
"夏八木?(なつやぎ いさお)"
.
あの人に?いたい
. Episode 369. 12 October 2013.
NHK
. 2017年6月14日??
。
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「第三章 ?落」(
春日 2016
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「第1章 家庭崩?を招いた三つの災難」(
巴 1995
, pp. 9?54)
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「あなたは魔界を信じますか? 角川春樹 山田風太? 特別?談」『パンフレット「
魔界?生
」』、
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東映
、1981年6月6日、23頁。
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「第四章 復活」(
春日 2016
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「第3章 夏目雅子を擁して再起を賭けた第一作」(
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, pp. 77?100)
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キネマ旬報
』2011年7月上旬?、p.62-63
- ^
山口猛
編『映?美術とは何か――美術監督?西岡善信と巨匠たちとの仕事』(
平凡社
、2000年2月)p.221
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『映?界のドン 岡田茂の活動屋人生』(
文化通信社
、2012年)pp.172-181
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背中一面の刺?の??は
春日 2016
, p. 201、
ムック 2014
背表紙裏に?載。後ろ上腕部にも彫られている。
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「第五章 未練」(
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, pp. 235?306)
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「第7章 生涯現役の?絶な?病生活」(
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「監督別入選作品索引」(
80回史 2007
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「第6章 人生は、いいべべ、いい女、おいしいもので本望」(
巴 1995
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- ^
竹中直人
「『アニキさんのまんまでよござんすよ』は一生の言葉です」(
ムック 2014
, pp. 141?146)
- ^
ムック 2014
?末作品リスト
?考文?
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?連項目
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外部リンク
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