三公
(さんこう)は、
中?
およびその影響を受けた
東アジア
諸?の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職をいう。
太師
?
太傅
?
太保
の三公と、
司徒
?
司空
?
司馬
(
大司徒
?
大司空
?
大司馬
)の三公がある。もと、三公は、
西周
?
東周
時代に?際にあった官職をもとに、後世の儒?者が整理?敷衍し、あるいは?作に託して述べたものである。??をもとに
前漢
で
紀元前1年
に制定されてから、改?を受けつつ長く?いた。
??上の三公
[
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]
官職ではない三公
[
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]
『
書?
』の一篇である「湯誥」は、
堯
の時代に功績があった
禹
、
?陶
、
后稷
の三人を「三公」と呼んだ。この三公は後世にあまり?照されなかった。彼らは??上の人物なので、史?ではない。
太保?太傅?太師
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]
後世に影響を?した三公は二つあり、一つは今文?書に由?する
太師
?
太傅
?
太保
からなる三公である
[1]
。周の
成王
が幼いとき、
召公
が
太保
、
周公
が
太傅
、
太公
が
太師
となったとし、これを三公の職だという。それぞれ
少保
?
少傅
?
少師
が補佐についた。『
大戴?記
』の「保傅」がこのような三公を記す
[2]
。『
漢書
』百官公卿表も基本的にこの?を紹介する
[3]
。
『
書?
(?書))』「周官」では、少師?少傅?少保をまとめて
三孤
といい、さらに?務を分?する
?宰
?
司徒
?
宗伯
?
司馬
?
司寇
?
司空
という
六卿
があった、と詳しくなる
[4]
。三孤と六官は同格なので、まとめて
九卿
といい、三公とあわせて
三公九卿
と呼ぶ。
「周官」が書く三公の務めは、道を論じ、邦(?)を?し、陰陽を?理することである
[4]
。『漢書』百官公卿表によれば、天子のそばにあって政治の全?を統べる
[3]
。常設の官ではなく、ふさわしい人がいる時にだけ任命される
[4]
[3]
。
周では宮廷の庭に
槐
(
)
の木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、
三槐
とも雅?される。または、
三台星
にちなんで
三台
ともいう。
司徒?司馬?司空
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]
もう一つは古文?書に由?すると言われる
司徒
?
司馬
?
司空
からなる三公である
[1]
。これらは西周時代に?際にあった官職だが、?務を分?する官で、最高の官ではなかった。
『漢書』百官公卿表が太保?太傅?太師と?べてこの?も紹介する。『漢書』は
大司徒
?
大司馬
?
大司空
からなる前漢末の三公が成立した後の著作だが、前漢にはこのような三公?が形成されていたようである。
制度上の三公
[
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]
前漢
[
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]
漢の初めには、
丞相
または
相?
が官の全般を統率する最高の官職で、監察?政策立案を司る
御史大夫
、軍事を司る
太尉
がそれに次いだ。これを三公というのは、後の儒?者が??上の三公になぞらえたまでのことである。このうち兵?を握る太尉は、任命されなかったり、
大司馬
、
大?軍
など改??改編が多かった。
前漢の終わりごろになると、儒?の影響力が?まり、周の時代にならって制度を改めようとする機運が高まった。
綏和
元年(
紀元前8年
)4月に、
成帝
は御史大夫を
大司空
と改?し、丞相?大司空?大司馬の俸?を等しくした
[5]
。
御史大夫から大司空への改?は、
建平
2年 (
紀元前5年
)3月に
哀帝
が元に?した
[6]
。
しかし、
元?
2年(
紀元前1年
)5月に、哀帝は丞相を大司徒と改め、御史大夫をまた大司空として、ここに
大司徒
?
大司空
?
大司馬
の三公が正式に定められた
[7]
。
新
[
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]
王莽
は大司徒?大司空?大司馬の三公を引き?ぎ、他の官職の名を改めて
三公九卿
の形を整えた。作られた制度は、周ではなく、??上の
舜
帝の制度にならっている
[8]
。王莽が舜の後裔を自任したことと?係しているとみられる
[9]
。
後漢
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]
後漢
以降は司徒?太尉?司空と名を改められた。
和帝
は三公が承天安民の策を行っていないと叱咤している例
[10]
や
桓帝
の太尉である
楊秉
が三公は
故事
によれば「統べざる所無き官」であると帝に?明している例
[11]
から、?時の三公は?政に?する政策全般を統括する官であった。
後漢末に??を握った
曹操
が208年に丞相と御史大夫を復活させて自らが丞相に就任した際に三公を?止してしまった
[12]
。
それ以後
[
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]
魏
の成立後には三公が復活していたものの、??を
?書
などに奪われ長老の名?職と化していたらしく、『
魏志
』
高柔
?には「三公を月二回??させるほか天下の事件について意見を?取するよう改めるべき」という上書が引用されている。高柔本人ものちに三公になったが、そのとき73?であった。やがて
三省六部
の制が整えられるに及んで三公は完全に名?職となり、時代によっては再び太師?太傅?太保の3官職が三公とされることもあった。
日本
[
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]
日本では、
律令制
における
太政官
の長である
太政大臣
?
左大臣
?
右大臣
のことを指す。のちに右大臣の下に
?大臣
が置かれると、常任の官ではない太政大臣を外して、左大臣?右大臣??大臣のことを指す例もあらわれたが、
江?時代
に
禁中?公家諸法度
が制定されると?大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。
源?朝
の歌集が『
金槐和歌集
』と?されるのは、彼が三公(三槐)のひとつである右大臣であったことにちなむものである。
ほか、朝鮮半島では、
高麗
のときに「大衛」「大司徒」「大司空」が設置され、
李氏朝鮮
では
領議政
?
左議政
?
右議政
の
議政府
を構成した「三政丞」が三公に該?する。
脚注
[
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]
- ^
a
b
古文?書、今文?書については、
書?
の項目を?照されたい。
- ^
新?漢文大系『大戴?記』「保傅」、145 - 146頁。
- ^
a
b
c
『漢書』?19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表?注』2 - 3頁。
- ^
a
b
c
『書?』「周官」。新?漢文大系『書?』下、497 - 498頁。
- ^
『漢書』?10、成帝紀第10、綏和元年4月。ちくま?芸文庫『漢書』1の321頁。
- ^
『漢書』?11、哀帝紀第11、建平2年3月。ちくま?芸文庫『漢書』1の336頁。
- ^
『漢書』?11、哀帝紀第11、元?2年5月。ちくま?芸文庫『漢書』1の341頁。
- ^
吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」、47頁。
- ^
吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」。
- ^
『後漢書』?4和帝紀?永元12年?
- ^
『後漢紀』?22桓帝紀?延熹7年?
- ^
渡??智『後漢政治制度の?究』(早?田大?出版部、2014年)
ISBN 978-4-657-14701-1
第三章「〈三公形骸化?〉の再?討」
?考文?
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]
?連項目
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