ヴォルフガング?サヴァリッシュ
(Wolfgang Sawallisch,
1923年
8月26日
-
2013年
2月22日
)は、
ドイツ
、
バイエルン州
ミュンヘン
生まれの
指揮者
?
ピアニスト
。
人物???
[
編集
]
幼少期から
ピアノ
、
音?理論
、
作曲
を?ぶ。10?の頃、初めて見たオペラ、
フンパ?ディンク
の『
ヘンゼルとグレ?テル
』に感動して指揮者を志し、
現代音?
の指揮で名高い
ハンス?ロスバウト
に師事する。
第二次世界大?
で通信兵として?兵され、イタリアにて捕虜として終?を迎える。??後、
ミュンヘン音?大?
に入?し3か月で卒業。卒業後は
1947年
に
アウクスブルク
市立歌劇場の
コレペティト?ア
となり『ヘンゼルとグレ?テル』でデビュ?する。この指揮が高く評?され、第一指揮者、カペルマイスタ?に?擢される。次いで
1949年
にはピアノ奏者として
ヴァイオリニスト
のゲルハルト?ザイツと共演し、
ジュネ?ヴ?際音?コンク?ル
の二重奏部門で1位なしの2位となる。以後、指揮者とピアニスト(主に
リ?ト
の伴奏者)としての活動を?立させる。またこの時期ザルツブルクにて
イ?ゴリ?マルケヴィッチ
の指揮法のマスタ?クラスの助手を務める。
1953年
には
ア?ヘン
、
1958年
に
ヴィ?スバ?デン
、
1960年
に
ケルン
のそれぞれの市立歌劇場の音??監督に就任する。その間の1953年に
ベルリン?フィルハ?モニ?管弦??
を初指揮。また1954年、
ヴィルヘルム?フルトヴェングラ?
の葬儀でベルリン?フィルの追悼演奏を指揮。
1957年
には
ロンドン
?デビュ?(
エリ?ザベト?シュヴァルツコップ
の伴奏者
[注? 1]
、
フィルハ?モニア管弦??
の指揮)そして、
バイロイト音?祭
に開幕演目の『
トリスタンとイゾルデ
』で初出演を果たす。33?でのバイロイトへの出演は?時の最年少記?だった(
1960年
に
ロリン?マゼ?ル
が30?で初出演し、現在はこれが最年少記?)。バイロイトには1962年まで連?出演した(『トリスタンとイゾルデ』(1957~1959)『さまよえるオランダ人』(1959~1961)『タンホイザ?』(1961~1962)『ロ?エングリン』(1962))。またケルンの音?監督時代に
ケルン音?大?
の指揮科の?授を務めた。
これらの成功で、
カラヤン
はサヴァリッシュを
ウィ?ン?立歌劇場
に、一方で
ルドルフ?ビング
も?時支配人であった
メトロポリタン歌劇場
に引っ張りこもうとした。しかしサヴァリッシュは、自分はまだ??不足だということを理由にいずれも?っている。結果的にこれが、プライドの高い2人の逆鱗に?れてしまい、カラヤンからは一度も
ベルリン?フィルハ?モニ?管弦??
に招かれることがなく、また生涯一度もメトロポリタン歌劇場で指揮することなく終わった
[1]
。
歌劇場での活躍の一方で、オ?ケストラの音?監督としても活躍し、
ウィ?ン交響??
や
ハンブルク?フィルハ?モニ?管弦??
、
スイス?ロマンド管弦??
の首席指揮者を?任した。スイス?ロマンド管弦??では創設者
エルネスト?アンセルメ
亡き後のオ?ケストラの再構築に?力した。
1971年
からは
バイエルン?立歌劇場
の音?監督(
1982年
から
1992年
は音??監督)に就任した。若手の逸材歌手を積極的に登用し、出演者の相?的な若返りに成功した。
1988年
には、
ミュンヘン?オペラ?フェスティバル
において、
リヒャルト?シュトラウス
のすべてのオペラを上演して話題を呼んだ。
バイエルンのポストを退任後、
リッカルド?ム?ティ
の後任として
フィラデルフィア管弦??
の音?監督に就任した。フィラデルフィアのポストを退任した後は特定のポストには就かず、フリ?の指揮者となりベルリン?フィル、
ウィ?ン?フィルハ?モニ?管弦??
、
ロイヤル?コンセルトヘボウ管弦??
、
ロンドン?フィルハ?モニ?管弦??
、
チェコ?フィルハ?モニ?管弦??
、ウィ?ン響、フィラデルフィア管、N響などのオ?ケストラを定期的に指揮していたが
2006年
3月に、5月以降に予定していたフィラデルフィアやロ?マなどでのコンサ?トを
心?病
の?化を理由にキャンセルし、現役からの引退を事?上表明した。2013年2月22日、バイエルン州
グラッサウ
(
ドイツ語版
)
にある自宅で死去した
[2]
。
ミラノ
?
スカラ座
からトスカニ?ニ?バトン、ベルリン?フィルからニキシュ?メダル、ウイ?ン交響??からブルックナ??メダルを贈られている。
日本との?係
[
編集
]
1964年
11月、
NHK交響??
の招聘で初?日以?、ほぼ?年のように?日した。以降、N響への客演のほか、バイエルン?立歌劇場(
1974年
、
1988年
、
1992年
。1974年は
カルロス?クライバ?
らが同行)やフィラデルフィア管弦??(
1993年
、
1999年
)との?日公演を行い、日本でもなじみ深い巨匠の一人である(2003年11月にウィ?ン?フィルハ?モニ?管弦??と?日する計?もあったが、?調不良によりキャンセルとなった。代役は
クリスティアン?ティ?レマン
)。
NHK交響??において、
1967年
に名?指揮者、
1994年
に桂冠名?指揮者となった。N響とは定期公演のほか、海外公演や
二期?
と組んだオペラ上演などでも大いに活躍した。また、N響の節目節目の演奏?には必ず登場し、
1970年
の
ベ?ト?ヴェン
生誕200年チクルスや、
1973年
の
NHKホ?ル
こけら落し
公演、
1986年
10月1日
の第1000回定期公演と
2001年
の創立75周年記念公演(ともに
メンデルスゾ?ン
の
オラトリオ
『
エリヤ
』)などに出演している。
2004年
の出演では、老?のため椅子に?く座って指揮をした。
2005年
に予定されていた公演は?調が思わしくなく出演をキャンセルしており、結果的に2004年度の出演が最後の共演となった(ベ?ト?ヴェンの
交響曲第7番
、他)。
サヴァリッシュは、「日本の他のオ?ケストラとは共演したくない」と言うほどN響に惚れ?み、N響もまたサヴァリッシュに惚れ?んだゆえに長い蜜月の?係となったが、N響の?員がサヴァリッシュに惚れ?んだ理由としては、「リハ?サルが非常に短く合理的」というものがあった。これは、
ヨ?ゼフ?ロ?ゼンシュトック
や
ヴィルヘルム?シュヒタ?
ら、先達のN響常任指揮者が、締め上げるようなリハ?サルをしていた反動ではないかと言われている(とはいえ、サヴァリッシュのリハ?サルも結構?しいとも言われている)。
引退後の
2006年
7月に
NHK
のインタビュ?を受けており、一部が
2007年
2月12日
放送のN響創立80周年記念番組に使われた。
コンサ?トマスタ?
の
?永二男
は「本?、
室??
は奏者が?話を?しむようなやりとりが面白いが、彼との室??とはそれとは違って完全に彼の指示通りに演奏した。その意味では、普通の室??とは違っていた」と話している。N響のレパ?トリ?が正確なドイツ音?に偏向しており、色彩感のあるフランス音?などを不得意としている原因の一つが、サヴァリッシュの指揮感?にあるという意見がある。
?三等
旭日中綬章
を受章している。また、日本リヒャルト?シュトラウス協?名??裁を務めた。
演奏スタイル?レパ?トリ?
[
編集
]
| この記事は
??可能
な
?考文?や出典
が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加
して記事の信?性向上にご協力ください。
(
このテンプレ?トの使い方
)
出典?索
?
:
"ヴォルフガング?サヴァリッシュ"
?
ニュ?ス
·
書籍
·
スカラ?
·
CiNii
·
J-STAGE
·
NDL
·
dlib.jp
·
ジャパンサ?チ
·
TWL
(
2019年6月
)
|
すべてのパ?トに?して目が?く指揮者で、共演した
合唱指揮者
に「指揮台から
投網
をかけられているようだ」と驚かれた。演奏スタイルは奇をてらったところがなく評論家の
宇野功芳
は「外科?のよう」「??は
ベ?ム
をより近代化したような名匠になるだろう」と評?した。
レパ?トリ?としては、
古典派
?
ロマン派
から近代までのドイツ?オ?ストリ音?の正統派の曲目が?ぶ。
モ?ツァルト
やベ?ト?ヴェン、
ワ?グナ?
でも素晴らしい演奏を繰り?げているが、それ以上に
シュ?ベルト
やメンデルスゾ?ン、
シュ?マン
、R?シュトラウスなどの演奏が知られている。R?シュトラウスのオペラに?しては、ベ?ム亡き後の?道師的存在であった(?年期の『
カプリッチョ
』をはじめ、
EMI
に主要作品を?音した)。また、メンデルスゾ?ンは管弦?作品全曲を校訂するほど熱心に取り上げている。シュ?マンの演奏においては、
マ?ラ?
以?行われていた交響曲の改訂に異を唱え、原典を尊重する演奏をする。また
スラヴ
系の曲がお?に入りで、『
白鳥の湖
』は3回の?音???を行ったほか、
ドヴォルザ?ク
や
スメタナ
を頻繁に取り上げた。
愛?心の?い
チェコ?フィルハ?モニ?管弦??
を何度も振ったドイツ人指揮者(オ?ストリア帝?やナチス?ドイツ支配の?史もありチェコではドイツ人指揮者を敬遠する傾向があり、後年の音?監督ゲルト?アルブレヒトも短期で終わった)であり、
チャ?ルズ?マッケラス
をして「私とサヴァリッシュはチェコの音?とオ?ケストラが大好きです」と言わしめるほどである。近現代の作品に?しても少なからず取り組みがあり、?音を行っている。
エピソ?ド
[
編集
]
- 伴奏ピアニストとしても?績を?しており、
ルチア?ポップ
や
ディ?トリヒ?フィッシャ?=ディ?スカウ
の伴奏をしたCDが??されている。
- 現在
NHK
では、
ヴ
ォルフガングではなく
ウ
ォルフガングと表記している。通常
標準ドイツ語
では“
ヴ
ォルフガング?
ザ
ヴァリッシュ”((
ドイツ語:
[?v?lf?aŋ za?val??]
)と?音するが、サヴァリッシュの出身地の
ミュンヘン方言
では
ヴ
ォルフガング?
サ
ヴァリッシュとなる。
- 初?日した時、東京の暴走タクシ?に?然とした。また、食文化の違いに驚き、しばらく絶食の?態が?いた。この危機を救ったのが
園田高弘
である。園田との親交は長く?き、2001年には、N響定期において園田との初共演だった
シュ?マンのピアノ協奏曲
をプログラムに組み入れた。?日して地方公演をこなした??が多いためか、いまだ訪れていない
都道府?
をすべて把握していた。
- キャンセル魔として知られる
カルロス?クライバ?
の面倒をよく見た。出演する多くの公演に立ち?い、クライバ?が不安でキャンセルしないよう?力した。ある時は舞台袖まで同伴し、背中を押したこともある。結果として、生涯特定??の常任ポストに就かず客演指揮者として生涯をまっとうしたクライバ?だが、バイエルン?立歌劇場のみとは長期間のレギュラ??係を築くことになった。
- 1986年に
バイエルン?立管弦??
がクライバ?と?日を果たした背景に、サヴァリッシュの?力がある。
バイエルン?立歌劇場
としてツア?を組まず、オ?ケストラだけのツア?ということで(前例がなかったため)反?意見が多?を占めた中、サヴァリッシュは政府高官を「絶?に成功する」と?得し、訪日ツア?を?現させた。
- フィラデルフィア管弦??の音?監督就任を受諾した理由は「1000人近くのスタッフを統率したバイエルン?立歌劇場と違い、演奏だけに集中できるからです。あとは年1回のスポンサ?とのパ?ティで「ハロ?、サンキュ?」というだけです」と語った。(?日時のインタビュ?より)
- 1966年、?時フィラデルフィア管弦??音?監督の
オ?マンディ
に、???の次期音?監督として引き?いでほしい、と要請されたが、現行の契約の縛りを理由に固?した。その後(197?年)、オ?マンディから2度目の要請が入り、これも固?した。1993年、今度は???全員一致の、次期音?監督にサヴァリッシュを指名する、との投票結果による要請を受けて心が動き、70?の高?にもかかわらず受諾することを決心した。「フィラデルフィアから、まさか3度目の要請が?るとは思っていなく、本?に驚いた」と語っている。
- 1994年2月11日、フィラデルフィアが大雪で交通麻痺に見舞われ、オ?ケストラの??員が?場に?られなかった時、オ?ケストラの部分を(指揮者用の
フルスコア
を見ながら)?興でピアノで?き、ゲストらと共演した。そして、徒?で?られる全ての市民に無料で門を開くことを??陣に提案し、大成功を?めた。フィラデルフィア管弦??の??的なコンサ?トの一つとして、今日でも語り?がれている。
- 1998年、長年連れ添った妻が亡くなったにもかかわらず、コンサ?トを一切キャンセルしなかった。しかし、妻死後の最初のコンサ?ト、フィラデルフィアでの
ブルックナ?第6番
のリハ?サル中、第2?章「葬送行進曲」にさしかかった時、あまりの悲しみで?が崩れて立ち上がれなかった。このため、リハ?サルは一時中止したが、すぐに?を取り?してオ?ケストラメンバ?に謝罪をし、リハ?サルを?けた。副首席フル?ト奏者は、この瞬間、奏者とサヴァリッシュの?係はさらに深いつながりを持つものになった、と語っている。
- 2001年9月11日の
米?同時テロ
が?生した時、ミュンヘンの自宅で休養中だったが、すぐにフィラデルフィアに飛び、フィラデルフィア管弦??と一?に追悼コンサ?トを開いた。「大?悲しくて苦しい時に、オ?ケストラみんなと一?にいてあげたかった」と語っている。(2008年米?TV局PBS「マエストロ」インタビュ?より)
- 指揮したことがなく、死ぬ前に指揮したかった作品は、
ヨハン?ゼバスティアン?バッハ
の『
ミサ曲ロ短調
』だと語っている。
- バイエルン?立歌劇場を退任してから、オペラを一度も振っていない。このことについて2000年9月のインタビュ?で「あんな面倒臭いものを誰がやるんですか。絶?、絶?、二度とやらない。」と?言している。
- しかし上記?言とは裏腹に、オペラ上演にかける意??みには??ならぬものがあった。特に、
リヒャルト?シュトラウス
のオペラ受容に、多大な貢?をした。
- バイエルン?立歌劇場1992年?日公演(
愛知?芸術劇場
の?落とし公演)の『
影のない女
』は、サヴァリッシュの?い希望でプログラムに入れられた。演出は「日本人の優れた演出家を」ということで、市川猿之助(
2代目市川猿翁
)がオリエンタルな舞台を作り上げた。
著作
[
編集
]
- ?:眞鍋圭子『音?と我が人生─サヴァリッシュ自?』
Im Interesse der Deutlichkeit. Mein Leben mit der Musik,1988
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
出典
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
- NHK交響??『NHK交響??40年史』日本放送出版協?、1967年。
- NHK交響??『NHK交響??50年史』日本放送出版協?、1977年。
- 岩野裕一「NHK交響??全演奏?記?2??け跡の日比谷公?堂から新NHKホ?ルまで」『Philharmony 2000/2001SPECIAL ISSULE』NHK交響??、2001年。
- 岩野裕一「NHK交響??全演奏?記?3?繁?の中の混沌を?て新時代へ-"世界のN響"への飛躍をめざして」『Philharmony 2001/2002SPECIAL ISSULE』NHK交響??、2002年。
- ヴォルフガング?サヴァリッシュ著、眞鍋圭子?『音?と我が人生─サヴァリッシュ自?』第三文明社、1989年。
- ハンスペ?タ??クレルマン著、
前田昭雄
?『サヴァリッシュの肖像?指揮者?ピアニストとして』日本放送出版協?、1984年。
外部リンク
[
編集
]
- 先代
- フェリックス?ラ?ベ
|
- ア?ヘン歌劇場
音??監督
- 1953年 - 1960年
|
- 次代
- ハンス?ヴァルタ??ケンプフェル
|
|
---|
全般
| |
---|
?立?書館
| |
---|
?術デ?タベ?ス
| |
---|
芸術家
| |
---|
人物
| |
---|
その他
| |
---|