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エロシェンコ(ハルビンにて、1921年)
ヴァスィリ??ヤコヴレヴィチ?エロシェンコ
(
ロシア語
:
Василий Яковлевич Ерошенко
;ラテン?字例
Vasiliy Yakovlevich Eroshenko
、
1890年
1月12日
-
1952年
12月23日
)は、
エスペランティスト
、
作家
、
多言語話者
、
言語?者
、
?育者
。
?要
[
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]
1890年に、現在の
ロシア連邦
クルスク州
オブホ?フカで生まれた。エロシェンコは4?の時に
麻疹
により視力が低下したが、宗?に盲信的な祖母のために??へだけ連れていかれ、?療?置を受けられなかったことで同年に
失明
してしまった。麻疹以前は健康で陽?な少年から性格が?わってしまったことを心配した父親から9?の時に
モスクワ
の
盲?校
に入れさせられた。ただし、?時の盲?校では視?障害者への扱いは監禁生活であった
[1]
。15?のころから
エスペラント
を?び、1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。盲?校卒業後、自宅に?った後は、盲人オ?ケストラで?いた
[1]
。
1912年
には
イギリス
の盲?校(王立盲人師範?校)へ入?した。訪英が最初の?外への旅となった。しかし、
無?(ならず者行?)
を繰り返したことから追放?分となった
[1]
。
初訪日時代
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]
在英時代に
日本
では
視?障害
者が
マッサ?ジ
職(
あんま
)を得ていることにより、
自立
出?ているとの?を聞いて、憧れて
日本語
も勉?していた
[1]
。そのため、
1914年
に初?日した。エロシェンコは、同年
5月11日
に東京盲?校(現在の
筑波大?附?視?特別支援?校
)を訪ね、
按摩術
とマッサ?ジ?究のための入?を許可され、?んだ
[1]
。
東京盲?校の生徒は、年?がばらばらではあったが、?時24?であったエロシェンコは他よりも
年輩
で、?格も堂?たる
偉丈夫
であった。日本語が上手で、生徒と按摩の練習をしたり、話しあったり、
相撲
で遊ぶこともあった。盲?校の生徒を?象に、エスペラントの講習?を何回も開いた。熱心に?んだ人たちに、
鳥居篤治?
、
平方龍男
、
新津吉久
、
?藤武?
?
百合
夫妻、
三谷復二?
、
熊谷?太?
、
今?秀雄
らがいる。また、これらの人?に、
バハイ?
の?義をも?えていた。のちに外?の盲人組織とも連携して
日本盲人?連合
?長として活躍する
鳥居篤治?
の仕事も、このエスペラント?習に負うところが大きい。通常授業の前に
小川源助
に按摩術を習い、他の生徒とともに練習した。校?で他の生徒と同格での講演?
ギタ?
演奏?
バイオリン
演奏をすることもあった。
1916年
5月6日
に築地盲人技術?校で開かれた中央盲?年?で講演をしたのは、小森(技術?校?師)?平方龍男?エロシェンコ?
高木正年
?立花盲人?長??藤武?であった。?時の盲人?の重?と?んで講演していることからも、エロシェンコの?時の立場が察せられる
[2]
。?前期の日本ではしばしば「盲詩人エロシェンコ」と?された。エロシェンコの日本での著作はほとんどが童話であり、詩は少ないが、これについて
藤井省三
は、金?、白い肌、ヨ?ロッパ人流のアクセントを?す日本語などが詩人らしさを?時の人に想起させたとしている
[3]
。
上述のように、「日本では視?障害者がマッサ?ジ(あんま)をやって立派に自立しているそうだ」と聞いて、日本への旅を決心した。?親は、「この子には好きなことをさせておくよりほかない」と思ったらしく、あっさり承諾したという。エロシェンコは、モスクワのエスペラント協?に、日本のエスペランティストを紹介してくれるように?んだ。日本では、
1906年
に第1回のエスペラント大?も開かれ、協?も結成されていたが、思うように?展せず、このころは?長はなしで副?長に
中央?象台
長の
中村精男
博士がなっていた。エロシェンコは、
シベリア?道
を使い、1か月近くかかってやっと中村博士を訪ねた。?象台には、ヨ?ロッパ留?中にエスペラントを習い??したばかりという人など、2~3人のエスペランティストがいて、エロシェンコの面倒をみることになった。1916(大正5)年には、日本から東南?南アジアに渡った
[1]
。
日本語
もよくできたので、日本語の
?童文?
の作品を著した。
中村屋
で
秋田雨雀
?
江口渙
?
神近市子
ら多くの文化人と交流し、その一人だった
洋?家
の
中村?
は「エロシェンコ氏の像」を描いている。初訪日期間に、中村屋のおかみで創業者
相馬?光
と知り合って以降は、?に入られたことで
衣食住
の面倒を見てもらうようになった。彼は恩義のある中村屋に母?仕?みの
ボルシチ
のレシピを?えていた。そのため、後述の?外追放後である
1927年
に中村屋が喫茶部開店した際にはボルシチをメニュ?に盛り?まれ、店員の制服には彼の着用した
ルバシカ
が採用されている。1933年には
ピロシキ
を??した
[1]
。
東南?南アジア時代
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]
シャム
(現在の
タイ王?
)に渡り、その地に盲?校を設立した。しかし、シャムでは盲?校が必要とされていないと感じる。
ビルマ
(現在の
ミャンマ?
)へ行き、モルメイン(現?
モ?ラミャイン
)という町でしばらく盲?校の?師をする。さらに
英領インド
に渡ったが、
ロシア革命
の影響でロシア人は?しく扱われ、ロシアの
ボルシェヴィキ
として?外追放された。
再?日以降
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]
1919年の夏に英領インドから
上海
を?由して再び日本へと逃がれ、中村屋を再度訪ねた
[1]
。
社?主義思想への傾倒
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]
再?日後にはエスペラント講習?で知り合った
高津正道
(日本共産?結?メンバ?の一人)や彼の仲間の影響を受け、社?主義思想に傾倒していった。そしてボルシェビキ(ロシア共産主義者)の嫌疑をかけられて、危?人物として1921年に?外追放?分となった
[4]
[1]
。
訪中以降
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]
訪日中にエスペラント語?由で知り合った社?主義者の日本人らの影響で社?主義へ傾倒していき
[1]
、
1921年
5月1日
に日本の社?主義者らと
メ?デ?
と?合への?加したことで逮捕され、?外追放となり、
敦賀
から
ウラジオストク
に送られ、
敦賀
から
ウラジオストク
に送られてから
ハルビン
、
上海
、
北京
と移動し、
魯迅
などの知己を得て、1922年には
北京大?
で
ロシア文?
について講演したり女子師範?校で講演したりした。
その後、モスクワに行き、8年ぶりに家族と再?する。そして、
トルクメン共和?
盲?童
寄宿?校
、モスクワ盲?校などで盲人?育?係の仕事をする。晩年は生まれ故?に?り、
1952年
に62?で亡くなった。エスペランティストであるとともに??者という?局からは危?視される存在だったにもかかわらず、盲者であったためか
大??
などの??を受けることはなかった。
- 1922年、
魯迅
と魯迅の弟の
周作人
に招かれ、
北京大?
のエスペラント?門?校?授に就任した。
- 1923年には中?を出てヨ?ロッパへ渡った。1924年に
ソ連
の
モスクワ
へ?って、
東方勤?者共産大?
の日本語通?を務めたが、待遇は酷かったという
[1]
。
- 1929年-1930年には
シベリア
の
チュクチ半島
を旅行。
- 1935年には
ニジニ?ノヴゴロド
とモスクワで仕事をした。同年、
トルクメニスタン
のマリの近くに盲?校を開設し、1945年までそこに?在した。
- 1945年-1946年にはモスクワの盲?校で?師をつとめた。
- 1949年-1951年には
タシュケント
に暮らした。
- 1952年には生まれ故?の
オブホ?フカ
にもどり、著述にあたった。
癌
で?する3日前まで原稿を書き、友人に送るよう人に託したが、?染病と誤解されて燃やされてしまった。
著作
[
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]
全文
エスペラント
による
峰芳隆
編集の
エロシェンコ選集
(Elektitaj verkoj de Vasilij Ero?enko) により、主な著作を示す。
- Lumo kaj ombro (=「光と影」、中??在時に著わされたエスペラント原作集)
- La tundro ?emas (=「ツンドラはうめく」、チュクチ半島?在??をもとにしたエスペラント原作集)
- Malvasta ka?o (=「?いかご」、日本語原作集)
- Stranga kato (=「?わり猫」、日本語原作集)
- La kru?o de sa?eco (=「賢さのつぼ」、エスペラント原作集)
- Cikatro de amo (=「愛の傷跡」、中?語原作集)
遺産
[
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]
2023年5月キ?ウ市議?は、
太平洋??
前に東京で活動したスパイの名を冠したキ?ウの「
リヒャルト?ゾルゲ
通り」を、「ヴァスィリ??エロシェンコ通り」と改名した
[5]
。
脚注
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編集
]
?連文?
[
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]