濊
(わい、
?音
:
Hui
)は、中?の史書である『
三?志
』や『
後漢書
』などに記されている古代
民族
。『
漢書
』
武帝
紀では
?
、『漢書』食貨志では
穢
と表記される。
中?
の
正史
および古文?によると、
紀元前2世紀以?
、約10世紀にわたり、
朝鮮半島
の
咸鏡道
から
江原道
にかけての沿海地?および
中?
の
松花江付近
に?在し、
漁撈
?
狩?
を主たる生業としながら、
海産物
を中??陸へもたらすなど遠隔交易にも?事していた
[1]
。また、麻を植えて麻布を織る他、桑を植えて?を育て、?綿の布を織っていた
[2]
。
?史
[
編集
]
地域によっていくつかの集?に分けられ、臨屯濊と沃沮濊が主であり、臨屯濊は、衛氏朝鮮に服?していたが
[3]
、
前漢
の
元朔
元年(
前128年
)、?君の
南閭
らが、
衛氏朝鮮
の
衛右渠
に反逆し、
遼東郡
に服?した。
武帝
はこの地を
蒼海郡
としたが、?年で?止した
[4]
。
元鳳
6年(
前75年
)、貊族(夷貊)の攻?を受けて玄?郡治が北西の高句麗?へ移り、沃沮?濊貊は?く?浪の管轄へ移った。また、管轄範?が?く遠いことから、濊貊?沃沮の住む??大嶺の東側の部分に?浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七?(東???不耐???台??華麗??耶頭味??前莫??夫租?)に分けて治めさせた。
後漢
の
建武
6年(
30年
)、?境の郡が整理され、東部都尉も罷免された。その後、それぞれの?の渠帥(首長)が?侯となり、不耐?華麗?沃沮(夫租)の諸?はみな侯?となった。
魏
の
正始
6年(
245年
)、?浪
太守
の
劉茂
と
?方
太守の
弓遵
は、領?の東濊が高句麗に??したため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を?げて降伏した。8年(
247年
)、魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐濊王の位が授けられた。濊王は一般の住民と?居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。?浪と?方の二郡に軍征や特別の??があるときには、濊人にも?や夫役が割り?てられるなど、濊人は二郡の住民と同?に待遇される。
習俗
[
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]
文化
[
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]
3世紀
、濊の首長は「候?邑君?三老」などの官爵を保持し、
漢代
に?系化された
星座占い
を熟知し、
同姓不婚
の禁忌がおよんでいるなど濊の文化的は
東夷
のなかでも格段に
中?文化
の影響を受けている
[1]
。濊の文化は、生業に?わる固有の習俗と、ダイレクトに受容された中?文化とが共存するという
アンビバレンス
な文化?況にあり、それらは、穢が中??陸への遠隔交易をおこなうために、上位の
?力
?
?威
に依存して交易?などの特?の承認をえる必要から、積極的に中?文化に接近したことによってもたらされたと推定される
[1]
。
住居
[
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]
濊の風俗として山や川が重視され、山や川にはそれぞれに所?するところがあって、みだりに他人の山や川に入りこむことは許されない。また、生活?生産の場として、他集?の侵犯を許さない占有領域を形成し、死者が出ると?宅を?棄するなどの禁忌が多く、
アイヌ
をはじめとする東北アジアの採集狩?民との共通性が認められる
[1]
。
官制
[
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]
大君長はなく、漢代以?、侯邑君,三老といった官があって、下?(平民)たちを統治している。
軍事
[
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]
濊人は長さ三丈の矛を作り、これを時に?人で持ち、巧みに?兵??を行う
[5]
。
性格
[
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]
三?志魏書濊?によれば、濊の人?の性格は?み深く、素直で欲深いところが少ない。恥を知る心がある
[6]
。また、後漢書濊?によれば濊人の性質は馬鹿正直で、淡泊で、求めることが少ない
[7]
。濊人は??をしないため、人?は夜でも門?を閉めず、また婦人は貞節である
[8]
。
服?
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]
言葉や風俗はだいたい夫余と同じであるが、衣服に違いがある。男女の上衣はともに曲領(まるくび)のものをつけ、男子は幅?寸の銀製の花文?を結びつけて飾りとする。
結婚
[
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]
同姓の者は結婚しない。
行事
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]
10月を天の祭りの月とし、?夜にわたって酒を?み歌い舞いを舞う。この行事を「舞天」と呼んでいる。また虎を神として祭る。
刑罰
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]
邑落の間で侵犯があったときには、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を「責過」と呼ぶ。人を殺した者は死をもって罪を償わされる。略奪や泥棒は少ない。
星座占い
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]
『
魏志
』東夷??濊に「曉候星宿,豫知年??約。(
星宿
を?察することにすぐれ、その年の豊凶をあらかじめ知ることができる)」とある。
李成市
によれば、『
淮南子
』?三?天文訓には、?星(
木星
)の運行に基づく
?星紀年
(
中?語版
)
と
太陰元始
による豊凶のタイムテ?ブルがあり、濊族はそれを知っていたのではないかとする
[9]
。『
淮南子
』には、明け方の木星が、
二十八宿
(星宿)のどれととともあらわれるかで、
攝提格
から
赤奮若
に至る12の名?があり、それらの年にはそれぞれ豊凶のタイムテ?ブルがあったことを記しており、濊の「明け方に星宿を?察し、その年の豊凶をあらかじめ知ることができる」という
技術
は、そうした
知識
があったことを示すのではないかとする
[9]
。
産業
[
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]
『
三?史記
』高句麗本紀?
閔中王
四年(
47年
)九月條に「東海人高失利、鯨魚目を獻ず。夜に光有り」とあり、『
三?史記
』高句麗本紀?
西川王
一九年(
288年
)夏四月條にも「海谷太守、鯨魚目を獻ず。夜に光有り」とあり、「東海」は、東海岸を指すとみられるから、東海人は濊人を指すとみられる
[9]
。「海谷」は「東海谷」とみられ、やはり濊の地からの?上かと考えられる。『
?開土王碑文
』には、
?開土王
が新たに獲得した「新來の韓穢」に?して、舊民もあらわれ、その中には、「東海賈」がみえ、これについて、
武田幸男
は「東海の
商賈
、つまり
日本海沿岸
に居住し、活動していた商賈」とする
[9]
。穢族には、
狩?
漁撈
で獲得したものを、?く
販?
する商賈もいたことを示す
[9]
。
麻布を産し、
?
を飼って?(まわた)を作る。「?浪の檀弓(まゆみの木の弓)」と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚の皮を産し、陸地には文豹が多く、また果下馬を産出し、漢の
桓帝
のときこれが?上された
[10]
。
言語
[
編集
]
中?の史書によると、
濊の言語
は夫余と同じ
[11]
と記される。夫余語が現在のどの系統に?すのかについては古くから論?があり、手掛かりがほとんど無く現在に至ってもよく解っていない。『三?史記』に記された古代の朝鮮半島の地名の記?から古代の朝鮮半島には日本語と同系統の言語が、倭人が定住していた朝鮮半島南端に限らず半島の?範?に分布していたとの見方があり、高句麗語による地名ではないかとも考えられているが、その倭語系の地名は高句麗ではなく濊の言語によるものであり、濊語と倭語は共通祖語を持つ同系統の言語であるとの?も存在する
[12]
。
脚注
[
編集
]
- ^
a
b
c
d
李成市
『古代東北アジア諸民族の?日本通交--穢?高句麗?渤海を中心に』
大和書房
〈東アジアの古代文化 (96)〉、1998年8月、92-93頁。
- ^
『東アジア民族史 1-正史東夷?』平凡社、1974、94,98頁。
- ^
田中俊明
『朝鮮地域史の形成』
岩波書店
〈世界?史〉、1999年、135頁。
ISBN
978-4000108294
。
- ^
蒼海郡の?止は前126年のことで、蒼海郡への道路建設で漢の??や蒼海郡の人?が反?運動をおこしたので、この郡を?止した。『
史記
』平準書?同公孫弘列?、『
漢書
』武帝紀?同食貨志第四下
- ^
『東アジア民族史 1-正史東夷?』平凡社、1974年、98頁。
- ^
『東アジア民族史 1-正史東夷?』平凡社、1974年、97頁。
- ^
『東アジア民族史 1-正史東夷?』平凡社、1974年、93頁。
- ^
『東アジア民族史 1-正史東夷?』平凡社、1974年、91頁。
- ^
a
b
c
d
e
田中俊明
『『魏志』東夷??註初稿(1)』
?立?史民俗博物館
〈?立?史民俗博物館?究報告 151〉、2009年3月31日、437頁。
- ^
裴松之
の注?「果下馬はその背丈が三尺。これに?ったまま果樹の下を通ることができる。それで果下と名付けられたのである。この馬のことは『
博物志
』や『
魏都の賦
』に見える。」
- ^
『後漢書東夷?』『三?志東夷?』
- ^
伊藤英人 (2021). “濊倭同系論”.
KOTONOHA
224
.
?考資料
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?連項目
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魏
志
(魏書)
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蜀
志
(蜀書)
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?
志
(?書)
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