リウィウス?セウェルス
Libius Severus
|
---|
西ロ?マ皇帝
|
|
在位
|
461年11月19日 ? 465年8月15日
|
---|
|
---|
全名
|
Flavius Libius Severus Serpentius
|
---|
死去
|
465年8月15日
|
---|
テンプレ?トを表示
|
フラウィウス?リウィウス?セウェルス?セルペンティウス
(Flavius Libius Severus Serpentius
[1]
[2]
420年
頃 ?
465年
8月15日
)は
西ロ?マ皇帝
(在位:
461年
11月19日
- 465年8月15日)である。
ルカニア
出身の
元老院
議員
[3]
であり、リウィウス?セウェルスは西ロ?マ帝?末期の皇帝の一人となったが、??は
マギステル?ミリトゥム
(軍務長官)の
リキメル
に握られており、何らの?力もなく、帝?を脅かす諸問題の解決もできなかった。 史料は彼を敬虔な信心深い人物であったと述べている
[4]
。?史家
エドワ?ド?ギボン
は彼の4年の治世と
アンテミウス
が?位するまでの死後2年程の期間を?別する必要のない「空位の6年間」と呼んだ
[5]
。
セウェ?ルス3世
とも呼ばれる
[6]
。
生涯
[
編集
]
?位
[
編集
]
456年に
リキメル
?軍と
マヨリアヌス
?軍が
アウィトゥス
帝を?位し、457年にマヨリアヌスが西ロ?マ皇帝に?位した。マヨリアヌス帝は意欲的に?政改革に取り組んで西ロ?マ帝?の立て直しを?り、さらに
ガリア
の
ブルグント族
そして
ヒスパニア
の
西ゴ?ト族
を打ち破り、彼らを再び服?させることに成功した。マヨリアヌス帝は北アフリカを占?する
ヴァンダル族
を討つべく、ヒスパニアで遠征艦隊の編成に着手するが、ヴァンダル族の奇襲を受けて艦隊は出?する前に?き?われてしまった。ヴァンダル族と不利な?容の和議を結んだマヨリアヌス帝はイタリアへの?還途中で
マギステル?ミリトゥム
(軍務長官)のリキメルに捕えられ、461年8月7日にリキメルはマヨリアヌスを殺害した。これにより西ロ?マ皇帝が不在となり、
東ロ?マ皇帝
レオ1世
、
ヴァンダル王
ガイセリック
そしてリキメルとの間で西ロ?マ皇帝の座を巡る?いが起こった。
ロ?マ帝?は名目上はなお統一?であり、?統的に東西のロ?マ皇帝には、同僚となる他方のロ?マ皇帝を承認する?利があった
[7]
。?族出身のリキメルは自身が皇帝になることはできなかったため、傀儡にしうる弱?な皇帝を必要としていた。ヴァンダル王ガイセリックは455年の
ロ?マ略奪
の際に
ウァレンティニアヌス3世
の皇后
リキニア?エウドクシア
と皇女
エウドキア
(
英語版
)
、
プラキディア
(
英語版
)
の姉妹を連れ去っており、姉皇女のエウドキアはヴァンダル王子
フネリック
と結婚させられ、これによりヴァンダル王家は皇族の?戚となり、ガイセリックは妹皇女プラキディアと結婚した
オリブリオス
を皇帝候補として推した
[8]
。
オリブリオスを選出させるためにガイセリックはマヨリアヌス帝と結んだ?約は彼の死によって無?になったと?してイタリアやシチリアを襲?し、帝?に?力をかけた
[8]
。リキメルは使節を送ってガイセリックに?約を順守するよう求め、この一方、レオ1世も使節を派遣して襲?の中止と元皇后と皇女姉妹の解放を要求した
[8]
。
ヴァンダル族の?力にもかかわらず、リキメルはオリブリオスを一顧だにせず元老院議員リウィウス?セウェルスを西ロ?マ皇帝に据えることにした。リウィウス?セウェルスは出自や??、人柄を?える記?がほとんどない無名の人物だった
[5]
。461年11月19日、
ラヴェンナ
においてリウィウス?セウェルスは皇帝に選出された
[9]
。
治世
[
編集
]
リウィウス?セウェルス帝はその治世中、リキメル?軍の存在そして幾つかの?州が彼の?位を認めなかったことによる??な問題に直面していた。
リウィウス?セウェルス帝を擁立したのはリキメル?軍であり、??は彼の手中にあった。リウィウス?セウェルス帝の名で?行された硬貨が存在しており、これにはリキメルのものと見なされる
モノグラム
が刻印されている。これらの硬貨がリウィウス?セウェルス帝または次代の
アンテミウス帝
の時代のものであるならば、皇帝とともにその名が銘刻されるという?族としては先例のない名?なことであった
[10]
[8]
。リキメルによる支配が明白であったことは、同時代の?史家マルシェリノス?コメスの年代記からもうかがえ、464年2月6日に
アラン族
の王ベルグルがリキメルに敗れて死んだ際の記?は、「アラン王ベルグルはリキメル王によって殺された」
[11]
とリキメルを王と呼んでいる。
460年初めの西ロ?マ帝?は幾つかの?州をもはや名目的にでも支配していなかった。
ブリタンニア
は放棄されており、
アフリカ?州
はヴァンダル族に征服され、
ヒスパニア
は同盟部族(
フォエデラティ
)の名の下ではあるが
西ゴ?ト族
に占領されていた。これに加えて。幾つかの?州の統治者たちがリウィウス?セウェルス帝を認めず、彼の領域はさらに?まられていた。
ガリア
を支配する
アエギディウス
?軍と
イリュリクム
に割?する
マルケリヌス
(
英語版
)
?軍は亡きマヨリアヌス帝の支持者であり、リウィウス?セウェルス帝の選出を認めようとしなかった。
東ロ?マ皇帝レオ1世はリウィウス?セウェルス帝を承認せず、東ロ?マ帝?に?する
マルケリヌス?コムス
や
ヨルダネス
による史料は彼を僭?者と見なしている
[12]
。もっとも東西?帝?は完全に?絶していたわけでもなく、?大な軍隊を擁するマルケリヌスがイタリアへ侵攻することを恐れたリウィウス?セウェルス帝は、レオ1世に援助を求め、東ロ?マ皇帝はフィラルコスをマルケリヌスの元へ派遣し、攻?を思いとどまらせている。このエピソ?ドはイリュリクムが西帝?から東帝?の勢力?に移ったという点で重要である。また、?統的に1名の執政官は自らの宮廷から選出するが、もう一人はもう一方の宮廷が指名した者を受け入れることになっていた。東帝?の承認なく?位したリウィウス?セウェルス帝は治世の初年には皇帝が執政官に就任する慣例に?い462年に??執政官に選任され、その翌年には有力な元老院議員で
イタリア民政?督
(
英語版
)
(任期:463年 - 465年)を務めた
カエシ?ナ?デキウス?バシリウス
(
英語版
)
を執政官に選任したが、464年から465年の任期は東帝?が指名した2名の執政官を受け入れており、一人は皇帝候補だったオリブリオスであった
[8]
。
北ガリアの
ソワソン
を本?に割?するアエギデゥスの存在に?抗すべく、リウィウス?セウェルス帝は
アグリピヌス
をガリア軍?司令官職(
magister militum per Gallias
)に任命して、アエギデゥスに代わるガリアの公的な統治者とさせている。先帝マヨリアヌスの時代、アグリッピ?ヌスは反逆の罪でアエギデゥスから告?されており、有罪とされ死刑を宣告されたが、おそらくはリキメルの指金により恩赦を受け、以降、アグリッピ?ヌスはリキメルに?してアエギデゥスと反目した。アグリッピ?ヌスは西ゴ?ト族の援助を?み、アエギデゥスそして彼を支持する
フランク王
キルデリク1世
と抗?を行った。
支援の見返りに西ゴ?ト族はリウィウス?セウェルス帝から
ナルボンヌ
を割?されており、西ゴ?ト族が海への出口を手に入れるとともにアエギデゥスの勢力?と帝?のその他の領域とを分?する形となった
[8]
。リウィウス?セウェルス帝の?少ない公的活動の一つとして464年の
アルウァンドゥス
(
英語版
)
の
ガリア民政?督
(
英語版
)
任命がある。リウィウス?セウェルス帝の?後の468年に彼は西ゴ?ト王に?してアンテミウス帝に背くよう唆す書簡が露見したことで告?され、反逆罪で死刑を宣告されている(後に追放刑に減刑)
[13]
。
リウィウス?セウェルス帝は事?上イタリアしか統治しておらず、465年にアエギデゥスが死去した後でさえ、ガリアの支配?はごく短期間?っただけであった。少??行されたアレラ?テ(現在の
アルル
)?造の硬貨はこの一時的な支配回復の時期のものであろう。
ソワソン管?
と呼ばれる北ガリアはアエギデゥスの後?者の
シアグリウス
が帝?から事?上?立した形で西ロ?マ帝?の滅亡後の486年まで存?している。
リウィウス?セウェルス帝の治世においてもヴァンダル族は襲?を?けていた。ガイセリックは息子の妻となったエウドキアに?られるべきウァレンティニアヌス3世の遺産を受け取っていない不?をもってこれを正?化しており
[14]
、その一方で、彼はなおオリブリオスを西ロ?マ皇帝に就けることを望んでいた
[8]
。ヴァンダル族の襲?は元老院議員をはじめとするイタリアの地主階層に打?を?えていた。イタリア貴族の一部はガイセリックとの和解を皇帝に約束させた。
パトリキ
(貴族)のタティアンをヴァンダル王ガイセリックの元へ送ったが、ガイセリックは和平提案を拒否した。
死去
[
編集
]
リウィウス?セウェルス帝は465年に死去した。死因は明確ではなく、リキメルに殺害されたとする史料もあるが疑問視されている
[15]
。
死亡年に?しても異?があり、6世紀の?史家ヨルダネスは著作
Getica
においてリウィウス?セウェルス帝の治世は僅か3年であったとしている
[16]
。死亡日については
Fasti vindobonenses priores
が8月15日と記?しているが、リウィウス?セウェルス帝の名で出された9月25日付の法令が現存しており、彼はこの日以降に死去したのか、この法律が死後に彼の名義で?布されたものなのかは明らかでない。
死因については6世紀の
カッシオドルス
の年代記はリウィウス?セウェルス帝は宮廷においてリキメルによって毒殺されたとしているが
[17]
、同時代の詩人
シドニウス?アポリナリス
のリウィウス?セウェルス帝の死の3年後の書簡では皇帝は自然死したと述べている
[18]
。現代の?史家によれば、リウィウス?セウェルス帝の存在が東ロ?マ皇帝レオ1世との和解の障害にならない限り、リキメルには?順な傀儡であった彼を殺害する理由はなかったとしている
[19]
。
リウィウス?セウェルス帝の死後、リキメルはおよそ2年間、皇帝を置かずに西ロ?マ帝?を支配し、467年に東ロ?マ皇帝レオ1世が指名した
アンテミウス
を西ロ?マ皇帝に迎えた。
脚注
[
編集
]
- ^
第二名(族名)の"Flavius"はエジプトに現存しているパピルス古文書による。
hypomnema an den Defensor civitatis, enthaltend die Cessio bonorum seitens eines verhafteten Schuldners,461
- ^
第三名(家名)の"Serpentius" は
Chronica Paschale
および
Theophanes Confessor
による。 (AM 5955)
- ^
Cassiodorus
,
Chronicle
;
Chronica Gallica of 511
,
636
.
- ^
Laterculus
imperatorum
.
- ^
a
b
ギボン 1996
,p.318.
- ^
松原國師『西洋古典?事典』
京都大??術出版?
、2010年、
ISBN 978-4876989256
、[セウェ?ルス(3世)、リ?ビウス]。
- ^
『ブリタニカ?際大百科事典』第2版、TBSブリタニカ、1993年、ロ?マ史。
- ^
a
b
c
d
e
f
g
Mathisen, Ralph (1997年). “
Libius Severus (461?465 A.D.)
”.
De Imperatoribus Romanis
.
2012年10月5日
??。
- ^
Theophanes,
Chronografia
,
AM 5955
;
Chronica Gallica of 511
,
636
.
- ^
「主(キリスト)と主人(皇帝)と貴族リキメルの祝福とともに」と刻印されている。原文:≪salvis dd. nn. et patricio Ricimere≫,
CIL
X, 8072
).
- ^
原文:"
Beorgor rex Alanorum a Ricimere rege occiditur
", Marcellinus Comes,
Chronicle
,
s.a.
464
- ^
Marcellinus,
Chronicle
,
s.a.
465. Jordanes,
Romana
, 336.
- ^
“
アルウァンドゥス- コトバンク
”. 世界大百科事典 第2版(日立ソリュ?ションズ).
2012年10月10日
??。
- ^
ギボン 1996
,p.322.
- ^
“
リビウス?セウェルス- コトバンク
”. 世界大百科事典 第2版(日立ソリュ?ションズ).
2012年10月10日
??。
- ^
Jordanes,
Getica
, 236.
- ^
Cassiodorus,
Chronicles
,
s.a.
465.
- ^
Sidonius Apollinaris,
Carmina
, ii.317?318.
- ^
O'Flynn, John Michael,
Generalissimos of the Western Roman Empire
, University of Alberta, 1983,
ISBN 0-88864-031-5
, pp. 111?114.
?考文?
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]