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ラファエロ
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ラファエッロ
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ラファエッロ (菓子)
」をご?ください。
|
ラファエロ?サンティの肖像と、
ガラテイアの勝利
がデザインされている500000リラ紙幣
ラファエロ?サンティ
(
伊
:
Raffaello Santi
[注? 1]
、
1483年
4月6日
-
1520年
4月6日
[2]
)は、
盛期ルネサンス
を代表する
イタリア
の
?家
、
建築家
。一般的には?に
ラファエロ
と呼ばれ、日本ではラファエッロ、ラファエルロ、ラファエルなどという表記のゆれが見られる。イギリスではラファエルと呼ばれるのが一般的である。
ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う
新プラトン主義
を美術作品に昇華したとして高く評?されており、
レオナルド?ダ?ヴィンチ
、
ミケランジェロ
とともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている
[3]
。
ラファエロは異例なほどに大規模な工房を??しており、短い生涯に多?の作品を制作した。多くの作品が
ヴァチカン市?
の
ヴァチカン宮殿
に?されており、とくに「
ラファエロの間
」と??される4部屋のフレスコ?は、ラファエロの最盛期作品における最大のコレクションとなっており、もっとも有名な作品の一つの『
アテナイの?堂
』も「ラファエロの間」のうち「署名の間」と呼ばれる部屋のフレスコ壁?である。ロ?マでの活動時代初期に描かれた作品の多くは、デザインこそラファエロのものだが、下?以外の大部分は工房の職人が手がけたもので、ラファエロが最後まで自身で手がけたものよりも品質の面で劣るといわれている。ラファエロは存命時から高い評?を受けた影響力の高い芸術家だったが、ロ?マ以外の地ではラファエロの??やドロ?イングをもとにした
版?
でよく知られていた。ラファエロの死後、年長だが長命を保ったミケランジェロの作品が18世紀から19世紀にいたるまで西洋??界により大きな影響を?え?けたが、ラファエロの?やかで調和に?ちた作品も非常に優れた模範的作風であると評?されていた。
マニエリスム期
の?家、?記作家
ヴァザ?リ
の著作『
?家?彫刻家?建築家列?
』の記述を嚆矢として、ラファエロのキャリアは3期に大別されることが多い。ウルビ?ノで活動していたキャリア初期、
フィレンツェ
の?統的??の影響が見られる
1504年
から
1508年
にかけての4年間、そして死去するまでの二人のロ?マ?皇とその側近に緊密な後援を受けていたロ?マでの輝ける12年間である
[4]
。
生い立ち
[
編集
]
『天使に支えられるキリスト』(1490年頃)、ラファエロの父ジョヴァンニ?サンティの作品
1483年
にラファエロは、小?だが美術史上重要な中央イタリアの都市?家
ウルビ?ノ公?
に
[5]
、ウルビ?ノ公
宮廷?家
ジョヴァンニ?サンティ (
en:Giovanni Santi
) の息子として生まれた。
傭兵隊長として活躍し、ロ?マ?皇
シクストゥス4世
からウルビ?ノ公爵位を?爵したウルビ?ノ公
フェデリ?コ3世
は文人を庇護した君主で、フェデリ?コ3世のもと?時のウルビ?ノ宮廷文化は高い評?を受けていた。フェデリ?コ3世はラファエロが誕生する一年前の1482年に死去しており、?時のウルビ?ノ宮廷では芸術よりも文?のほうがより重視されていた。
ラファエロの父ジョヴァンニは?家であると同時に、フェデリ?コ3世の生涯を物語る韻文詩を書き上げるほどの一種の詩的才能も持っており、宮廷の出し物として上演される
?面劇
の脚本と舞台?飾を手がけることもあった。フェデリ?コ3世に捧げたジョヴァンニの詩からは、?時美術の最先端だった北イタリアの?家たちと
初期フランドル派
の?家たちに?い興味を持っていたことが窺える。他?の宮廷と比べて小規模だったウルビ?ノ宮廷だったがゆえに、ジョヴァンニは他?の宮廷?家たちよりも君主一家とより親密な?係を築いていたと考えられている
[6]
。
フェデリ?コ3世の後を?いでウルビ?ノ公爵となったのは息子の
グイドバルド
である。グイドバルドは、小?とはいえ?時のイタリアでもっとも音?と芸術が盛んだった
マントヴァ
の君主
フランチェスコ2世
の妹エリザベッタ?ゴンザ?ガと結婚した。この君主夫妻のもとでウルビ?ノ宮廷は、フェデリ?コ3世統治時と同じく文?の中心地であり?けた。高い文化的水準を有するウルビ?ノ公?宮廷での生活を通じて、ラファエロは洗練されたマナ?と社交的性格を身につけていったとヴァザ?リは記している
[7]
。
1504年
から
バルダッサ?レ?カスティリオ?ネ
がウルビ?ノ宮廷に出仕しており、カスティリオ?ネは人文主義溢れるウルビ?ノ宮廷での生活をモデルとして、後の上流階級層の規範となる著作『宮廷人』を
1528年
に出版している。カスティリオ?ネがウルビ?ノ宮廷に仕えだした
1504年
には、すでにラファエロはウルビ?ノ宮廷を主たる活動の場とはしていなかったが、それでもウルビ?ノ宮廷にはよく顔を出しておりカスティリオ?ネともよき友人?係を築いた。
その他にもラファエロはウルビ?ノ宮廷を訪れる多くの知識人たちと親しく交わっていた。とくに著名な文?者だったベルナルド?ドヴィツィ (
en:Bernardo Dovizi
) と
ピエトロ?ベンボ
は、後年?者とも?機卿に任ぜられてロ?マに?在し、同じく後年ロ?マに移住したラファエロと親交を持ち?けた。生涯を通じてラファエロは上流階級との交際が巧みで、このことがラファエロの?家としてのキャリアが順風?帆だったと思わせる要因の一つとなっている。しかしながらラファエロは十分な
人文主義的?育
を受けておらず、ラファエロが上流階級の共通言語であるラテン語に不自由しなかった理由はよく分かっていない
[8]
。
若年期
[
編集
]
ラファエロが10?代で描いた自?像といわれている。
ラファエロの母マ?ジアは、ラファエロが8?の
1491年
に死去し、その後再婚していた父ジョヴァンニも
1494年
8月1日
に死去している。11?で孤?となったラファエロの後見人となったのは唯一の父方の伯父で、聖職者のバルトロメオだった。バルトロメオは後年になってからラファエロの義母に告訴されることになる人物である。
ヴァザ?リの『
?家?彫刻家?建築家列?
』によれば、ラファエロは幼少のころから芸術の才能を見せ、宮廷?家だった父の仕事の「大きな手助け」になるほどだった
[9]
。10代で描いたといわれる美しいドロ?イングの自?像からも、その芸術的才能の片鱗がうかがえる
[10]
。ジョヴァンニの死去後もその工房は?いており、おそらく義母と協力して幼少のラファエロも工房の??に何らかの役割を果たしていた。
?時のラファエロは、ウルビ?ノで宮廷?家を務めた
ウッチェロ
(
1397年
-
1475年
)や、
1498年
までウルビ?ノに近い
チッタ?ディ?カステッロ
で活動した
シニョレッリ
(
1445年
頃 -
1523年
)の??作品を目にする機?を得ることができた
[11]
。
ヴァザ?リの?記では、父ジョヴァンニが「母親の嘆きを振り切って」幼いラファエロを、ウンブリア派の?家
ペルジ?ノ
の工房に弟子入りさせたとなっている。ただし、この弟子入りの記?についてはヴァザ?リの『?家?彫刻家?建築家列?』が唯一のものである。母親が存命時であればラファエロは最年長だと?定しても8?となり、弟子入りするには8?という年?はあまりにも若すぎるのではないかとして、ヴァザ?リの記述を疑問視する?究者もいる
[12]
。他に、
1495年
からウルビ?ノ宮廷?家となったティモテオ?ヴィティ (
en:Timoteo Viti
) のもとで、ある程度?家としての修業を積んだのではないかとする?もある
[13]
。いずれにせよ、ラファエロが
1500年
ごろにペルジ?ノのもとで少なくとも助手の立場にあったということで、現代の美術史家の見解はほぼ一致している。?時のペルジ?ノは
ペル?ジャ
と
フィレンツェ
に工房を持っており、おそらく他にも2箇所で常設の小工房を??していたと考えられている
[14]
。
『
聖母の婚?
』(
1504年
)
ブレラ美術館
所?。
ラファエロがキャリア初期に描いた祭壇?の中でもっとも洗練された作品といわれる。
ラファエロの初期作品におけるペルジ?ノの影響は明らかで「おそらくはラファエロほどに師(ペルジ?ノ)の?えを吸?できる才能を持った弟子はいなかった」とされている
[15]
。十代のラファエロにペルジ?ノは助手として、ペル?ジアのコッレ?ジョ?デル?カンビオの「審問の間」のフレスコ?飾に助手として?加させるなど、ラファエロの?風の形成に大きな役割を果たした
[16]
。ヴァザ?リの?記ではこの時期のラファエロとペルジ?ノの作品を?別することは不可能だとしているが、現代の美術史家たちはペルジ?ノやその工房の作品からラファエロが手掛けた箇所を判別するのは容易だと考えている。作風はともかくとして、顔料の厚塗り手法、油性ワニス展色?の使用、衣服の陰影表現などの技法は酷似しているが、人物の肉?表現についてはペルジ?ノがはるかに?弱であるとしているのである。ペルジ?ノの作品もラファエロの作品も、ワニスに混ぜた過度の樹脂が作品表面のひび割れ(
クラクリュ?ル
)の原因となっていることが多い
[17]
。ラファエロが徒弟期間を終えて「マスタ?」として登?されたのは
1501年
のことである。
記?に?るラファエロの最初期の作品は、ペル?ジャとウルビ?ノの中間にある町チッタ?ディ?カステッロのサン?タゴスティ?ノ??の??堂用に描いた『バロンチの祭壇?』 (
en:Baronci altarpiece
) である。1500年に注文を受け1501年に完成したこの作品は、現在では?点の?片と下?が?るのみとなっている
[18]
。その後の?年間に各地の??からの依?で??を制作しており、
ナショナル?ギャラリ?
所?の『
モンドの?刑
』(
1502年
-
1503年
)、
ブレラ美術館
所?の『
聖母の婚?
』(
1504年
)、
ヴァチカン美術館
所?の『
聖母戴冠の祭壇?
』(
1502年
-
1504年
[19]
)などが現存している。
ラファエロはこの時期にフィレンツェをよく訪れており、ペルジ?ノの影響がいくらか見られるものの、?自作風で描いた大規模な作品がフィレンツェに?っている。また、美しい小作品 (
en:Cabinet painting
) も多?制作している。それらの小作品の多くはおそらくウルビ?ノ宮廷の美術愛好家からの注文によるもので、
コンデ美術館
所?の『
三美神
』(1504年 - 1505年)、
ル?ヴル美術館
所?の『
聖ミカエルと?
』(1504年 - 1505年ごろ)などが有名な作品となっているほか、聖母マリアや聖母子をモチ?フとした作品や肖像?もこの時期から描き始めている
[20]
。1502年にラファエロは、ペルジ?ノの弟子で「ラファエロの友人で、極めて優れたデッサンの技量を持つ芸術家」
ピントゥリッキオ
の招きで
シエ?ナ
を訪れている。このときのシエ?ナ訪問の理由は、ピントゥリッキオが手がける作品のデザインの手助けをラファエロに求めたためで、現在
シエ?ナ大聖堂
のピッコロミ?ニ?書館に?るピントゥリッキオのフレスコ壁?のデザインだった可能性が高い
[21]
。ラファエロは?家としてのキャリア初期から、??制作注文を多く受けていた。
フィレンツェ??からの影響
[
編集
]
『
ベルヴェデ?レの聖母
』(
1506年
頃)
美術史美術館
所?。
レオナルド?ダ?ヴィンチが創始した三角の構成で聖母子が描かれている
[22]
。
ロ?マに落ち着くまでのラファエロは「放浪の」人生を送った。北イタリアの??な主要都市で??を手がけ、
フィレンツェ
では
1504年
ごろからかなりの長期間にわたって?在している。しかしながら、1504年から
1508年
のフィレンツェの公式記?によれば、ラファエロは常時フィレンツェに居住していたわけではない
[23]
。また、ウルビ?ノ公子から
フィレンツ行政長官
へ宛てた、1504年10月の日付が入った書簡が?っており、「この書簡の持?者はウルビ?ノの?家ラファエロです。芸術的才能に溢れるこの?年は、フィレンツェでさらなる修行を行うことを決めました。彼の父親は極めて立派な人物であり、私も非常に尊敬しています。その息子は、とても?明で?儀正しいことに定評がある?年で、私も彼に大きな愛情を抱いています……」と記されている
[24]
。
ラファエロはペルジ?ノのもとで修行していたころから、最先端のフィレンツェ美術を取り入れつつ自身の作風を確立していった。
1505年
ごろに制作されたペル?ジャのフレスコ?には、ヴァザ?リがラファエロの友人と書いているフィレンツェの?家
フラ?バルトロメオ
の影響を受けたと思われる、新しい作風の人物像が描かれている。しかしながらこの時期にラファエロが描いた作品にもっとも直接的な影響を?えたのは、
1500年
から
1506年
にかけてフィレンツェに?っていた
レオナルド?ダ?ヴィンチ
だった。レオナルドの作品の影響のもとラファエロが描く人物像は、より生き生きとした複?な姿勢をとったものへと?化していった。ラファエロが描く??は未だ平?なものが多かったが、裸身で?う男性のデッサンなどはフィレンツェで修行を重ねたこの時期に熱中したものの一つである。
レオナルド?ダ?ヴィンチが描いた『レダと白鳥』をラファエロが模?したドロ?イング。
ロイヤル?コレクション
所?。
レオナルドのオリジナル作品は現存していないが、ほかの?家による複製が?点?っている。
ほかにもレオナルドの
モナリザ
を?似たと思われる、斜め前を向いた三角の構成で若い女性を描いたドロ?イングがあるが、作風は完全にラファエロ?自のものといえる。また、レオナルドが創始した「聖家族」「聖母子」を三角の構成で描く手法もラファエロは取り入れており、この構成で描かれた聖家族や聖母子はラファエロの??の中でも非常に有名な作品が多い。イギリス王室の
ロイヤル?コレクション
が所?する、ラファエロが模?したレオナルドの『
レダと白鳥
』(模?が?点?っているが、レオナルドのオリジナルは現存せず)のドロ?イングがあり、ラファエロの『
アレクサンドリアの聖カタリナ
』のカタリナのポ?ズ(
コントラポスト
)は、レオナルドの『レダと白鳥』に描かれているレダのポ?ズを?似ている
[25]
。また、レオナルドが完成したといわれる??技法の
スフマ?ト
もラファエロは自身の技法として昇華しており、微妙な人?表現や人物相互の感情表現として、レオナルドのスフマ?トよりも自然なかたちで作品に取り入れた。このような最先端の??技法を取り入れながらも、ラファエロの作品からペルジ?ノ由?の柔らかで?澄な光が消えることはなかった
[26]
。
レオナルドはラファエロよりも30?年長で、?時
ロ?マ
で活動していた
ミケランジェロ
はラファエロよりも7?年長だった。ミケランジェロはレオナルドを嫌っており、後年ロ?マで活動したラファエロのことも自分に?して陰謀をめぐらす若造として更に嫌っていた
[27]
。ラファエロはすでに多くの作品をフィレンツェで描いていたが、その後?年で全く異なる方向性の作風に移行しつつあった。古代ロ?マの
サルコファガス
の?飾彫刻にヒントを得たともいわれる
[28]
、
ボルゲ?ゼ美術館
が所?する祭壇?中央パネル『
キリストの埋葬
』(
1507年
)の?面最前部には、??なポ?ズをした人物が多?描かれている。美術史家ハインリヒ?ヴェルフリンは、ミケランジェロの『
聖家族
』(1507年頃、
ウフィツィ美術館
)に描かれている聖母マリアの影響が、『十字架降下』の?面右端でひざまずいている女性に見られるとしているが、その他の人物構成はミケランジェロ、あるいはレオナルドの作風とは全く別物である。完成?初から注目され、後年になってボルゲ?ゼ家 (
en:House of Borghese
) によってペル?ジャへと持ち去られた『キリストの埋葬』はラファエロ?自の作品として評?されている。そして、ラファエロはルネサンス美術の特?とも言える古典主義への興味を徐?に失っていったのである
[29]
。
ロ?マ時代
[
編集
]
ラファエロをロ?マへ招き、重要なパトロンとなったロ?マ?皇『ユリウス2世の肖像』(
1512年
頃)
ナショナル?ギャラリ?
所?。
ラファエロの肖像?の中でももっとも高く評?されている作品のひとつ。
1508年
の終わりごろにラファエロはロ?マへと居を移し、結果として?りの生涯をロ?マですごすこととなった。ラファエロがロ?マを訪れたのは、ロ?マ?皇
ユリウス2世
からの招きによるものであり、おそらくは?時
サン?ピエトロ大聖堂
の建築を任されていた建築家で、ウルビ?ノ近郊のラファエロの遠?ではないかと考えられている
ドナト?ブラマンテ
からの推?によるものだった
[31]
。ロ?マ?皇の招致を受けてからも?ヶ月間ロ?マで逡巡していたミケランジェロとは違って
[32]
、ラファエロはすぐさまヴァチカンへと向かい、ヴァチカン宮殿のロ?マ?皇となる?用?書室のフレスコ壁?制作依?を受けた
[注? 2]
。このロ?マ?皇からの??制作依?は、ラファエロにとってそれまでにない程の極めて重要なものだった。?用?書室には複?の部屋があり、すでにほかの?家が弟子たちとともに?部?飾を手がけている部屋もあった。これらの部屋には、?機卿時代のユリウス2世と激しく?立していた先?代のロ?マ?皇
アレクサンデル6世
の出資による壁?や紋章などがすでに描かれていた。ユリウス2世による?書室の?飾は、これらアレクサンデル6世の痕跡をヴァチカン宮殿からすべて消し去ることを目的としていた
[34]
。
ヴァチカン宮殿ラファエロの間
[
編集
]
『
アテナイの?堂
』(
1509年
-
1510年
)
ヴァチカン宮殿
ラファエロの間
の「署名の間」に描かれたフレスコ壁?。
4部屋で構成されるヴァチカン宮殿の通?
ラファエロの間
のうち、最初に手がけられたのは「署名の間」と呼ばれる部屋である。ラファエロが「署名の間」に描いたフレスコ壁?は『
アテナイの?堂
』、『パルナッスス山』、『
聖?の論議
』などで、?時のロ?マ?壇に衝?をもって迎えられ、現在においてもラファエロの最高傑作とみなされている。?りの3部屋にはすでにペルジ?ノやシニョレッリらによるフレスコ壁?が描かれていたが、ラファエロはこれらの壁?を上描きすることを命じられた。これら3部屋のすべての壁面、なかには天井にもフレスコ?が描かれているが、制作の進行とともにラファエロ自身がフレスコ?に携わる割合は徐?に減っており、ラファエロが率いていた工房の熟練?家たちが手がけた部分が多くなっている。
1520年
のラファエロの死去後に完成した最後の「ボルゴの火災の間」では、デザインにもラファエロはほとんど?係しておらず、大部分が工房の?家たちによって描かれた。ラファエロの間の依?主であるユリウス2世は
1513年
に死去したが、ラファエロは
メディチ家
出身の次代ロ?マ?皇
レオ10世
ともさらに良好な?係を築き上げ、ラファエロの間の壁?制作も引き?きレオ10世のもとで?けられた
[35]
。
「署名の間」の『
アテナイの?堂
』に描かれた哲?者
ヘラクレイトス
。?時『システィ?ナ??堂天井?』を手がけていたミケランジェロがモデルとなっている。
ラファエロがラファエロの間のフレスコ壁?製作過程において、?時ミケランジェロが手がけていた『
システィ?ナ??堂天井?
』に影響を受けていることは明らかである。ヴァザ?リの著述によると、
1511年
にブラマンテがこっそりとラファエロをシスティ?ナ??堂へと連れていき、ミケランジェロが用いていた足場を解?して天井?で最初に完成していた箇所をラファエロに見せたとなっている。ミケランジェロが描きあげた『システィ?ナ??堂天井?』は、その後?百年にわたってほかの?家たちを怖?づかせるに十分足る?倒的な作品だったが、ラファエロは誰よりも早くその影響を自身の??に取り入れただけではなく、おそらくは他の誰よりもミケランジェロの作風を昇華できた芸術家だった。『アテナイの?堂』にはミケランジェロの肖像が哲?者
ヘラクレイトス
として描かれており
[36]
、ラファエロの間に描かれているそのほかの人物像にも『システィ?ナ??堂天井?』に描かれた巫女(
シビュラ
)や裸?の?年(イニュ?ディ)からの影響が見られる。しかしながら?なるミケランジェロの模倣にはとどまらず、ラファエロ自身の作風とミケランジェロからの影響が渾然一?となった作品として仕上がっている
[37]
。ただし、ミケランジェロはラファエロが自分の??を?作したと非難しており、ラファエロが死去した後にも「彼(ラファエロ)の芸術に?する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」という不?に?ちた書簡を?しているが、?時の第三者からの評?はおしなべてラファエロに好意的なものとなっている
[38]
。
非常に大規模で、複?な構成を持つラファエロの間のフレスコ壁?は、古典?古代?式を?展させた盛期ルネサンスの??中でも屈指の作品群とされている。イギリス人美術史家マイケル?レヴィ? (
Michael Levey
) はその著書で「ラファエロは自身の作品の人物像に、ユ?クリッド幾何?のような超人的?明さと優雅さを?えた」としている
[39]
。ラファエロの間のうち、最初に手がけられた2部屋のフレスコ壁?の質はほぼ完璧といっていいほどに高いが、工房の?家が中心となって完成した?り2部屋のフレスコ壁?については、とくに?る者への訴求力において完全に成功しているとは言えない。
-
「署名の間」の北壁と西壁。向かって左の北壁には『
パルナッソス
』(1510年 - 1511年)、右の西壁には『アテナイの?堂』(1509年)が描かれている。
-
「ヘリオドロスの間」の南壁に描かれた『
ボルセ?ナのミサ
』(1514年)。
-
「ヘリオドロスの間」の北壁に描かれた『
聖ペテロの解放
』(1514年)。
-
「ボルゴの火災の間」の南壁に描かれた『
ボルゴの火災
』(1514年)。ラファエロがデザインし、工房の?家たちが仕上げた。
ロ?マ時代のそのほかの作品
[
編集
]
ロ?マ?皇『
レオ10世と二人の?機卿
』(
1518年
頃)
ウフィツィ美術館
所?。
背後に描かれている?機卿は、ジュリオ?デ?メディチ(後のロ?マ?皇
クレメンス7世
)とルイ?ジ?デ?ロッシである。
ロ?マ時代のラファエロはヴァチカン宮殿ラファエロの間のフレスコ壁?制作に多くの時間をとられていたが、ほかの作品も?している。肖像?では、ラファエロの主要なパトロンだった二人のロ?マ?皇、ユリウス2世とレオ10世の肖像?が重要で、とくにユリウス2世を描いた作品はラファエロの最高傑作のひとつとみなされている。また、友人であるバルダッサ?レ?カスティリオ?ネの肖像?や、ロ?マ?皇?の?係者を描いた肖像?もある。外交手段として他?の君主へと贈呈されたラファエロの作品もあり、フランス王
フランソワ1世
はナポリ王妃
ジョヴァンナ?ダラゴナ
の肖像?など、ロ?マ?皇から2点の??を贈られた。ただしこの肖像?は下?となるドロ?イングはナポリへと遣わされた弟子によるもので、?際の??制作もほとんどの部分がラファエロ自身ではなく工房の作品と考えられている
[40]
。そのほかラファエロは、富裕な銀行家でロ?マ?皇の財務??だった
アゴスティ?ノ?キ?ジ
(
英語版
)
のために、キ?ジの別宅(現
ヴィッラ?ファルネジ?ナ
)の??フレスコ?のデザインを手がけ『
ガラテアの勝利
』(
1513年
)などを描いている。また、サンタ?マリア?デッラ?パ?チェ?? (
en:Santa Maria della Pace
) とサンタ?マリア?デル?ポポロ?? (
en:Santa Maria del Popolo
) の2つの??の??堂にフレスコ壁?を描いた。
ロ?マ時代のラファエロがラファエロの間のフレスコ壁?のほかにロ?マ?皇の依?で手がけた、『
ラファエロのカルトン
』(
1515年
-
1516年
)と呼ばれる重要な油彩?がある。これは
システィ?ナ??堂
の?飾に使用する
タペストリ
のデザイン?として、
聖パウロ
と
聖ペテロ
の生涯をモチ?フにラファエロが描いた連作である。?時10点描かれた作品のうち現存する7点をイギリス王室の
ロイヤル?コレクション
が所?しており、現在はロイヤル?コレクションからの貸???としてロンドンの
ヴィクトリア&アルバ?ト博物館
に展示されている。完成した『ラファエロのカルトン』はオランダの芸術家ピ?テル?ファン?ア?ルストの工房でタペストリとして織り上げるためにブリュッセルに送られた。おそらくタペストリは
1520年
にラファエロが死去する直前に完成し、完成したタペストリをラファエロも目にした可能性がある
[41]
。
ラファエロはヴァチカン宮殿の中庭に通じる長い回廊(
ロッジア
)のデザインと壁?も手がけており、このロッジアはロ?マ風の
グロテスク?式
で?飾されている
[42]
。また、ボロ?ニャ美術館所?の『
聖チェチリアの法?
』 (
1516年
-
1517年
や
アルテ?マイスタ???館
所?の『
システィ?ナの聖母
』といった重要な祭壇?も?している。ロ?マで死去したラファエロの遺作であるとともに未完の??作品となったのは
ヴァチカン美術館
所?の『
キリストの?容
』で、
1514年
から
1516年
ごろに描かれた
プラド美術館
所?の『
シチリアの苦悶
』とともに、晩年のラファエロの作風が盛期ルネサンスの次の芸術?式である
マニエリスム?式
よりも、さらに後期の
バロック?式
に近いとされている作品である
[43]
。ただし、マニエリスム?式の定義自?が流動的ともいわれ、ラファエロの作風とマニエリスム?式の?連性については議論の的となっている
[44]
。
工房
[
編集
]
ヴァザ?リの著作によれば、ラファエロは50名に及ぶ弟子や助手を擁する工房を率いており、工房出身者の多くが後に著名な?家となったとされている。これは、バロック期以前のいわゆる
オ?ルド?マスタ?
が??で??する工房としては最大規模であり、さらにその技術水準も群を?いていた。ラファエロの工房にはロ?マ以外のイタリアの都市ですでに名?を得ていた?家もおり、このような?家たちは自身の弟子とともに、一種の下請け工房的な役割を果たしていたと考えられている。??作品それ自?を除いて、ラファエロの工房?でどのような役割分?がなされていたかに?する記?はごくわずかで、工房で描かれた作品がどの?家の手によるものなのかを判?することは難しい
[45]
。
ラファエロの弟子ジュリオ?ロマ?ノ。自?像を元に制作されたエングレ?ヴィングである。
ラファエロの工房出身者でもっとも重要な?家は、ラファエロ死去時に21?だったロ?マ出身の
ジュリオ?ロマ?ノ
と、フィレンツェですでに一人前の?家と認められていた
ジャンフランチェスコ?ペンニ
である。この二人はドロ?イングなど多くのラファエロの遺品を?られており、短かったとはいえラファエロ死去後の工房??に大きな役割を果たした?家だった。ただし、ロマ?ノと違ってペンニの?家としての評?は、その後のキャリアのほとんどでロマ?ノの同等以下の共同制作者しか務めていないこともあってそれほど高いものではない。すでに一定の評?を得ていた
ペリ?ノ?デル?ヴァ?ガ
や、ヴァザ?リの著作によるとヴァチカン宮殿回廊の建築資材運搬人から?家に?職したとされるポリド?ロ?ダ?カラヴァッジオ (
en:Polidoro da Caravaggio
) も後に著名な?家となった。ダ?カラヴァッジオが?家になるきっかけを?えたマツリ?ノ?ダ?フィレンツェ (
en:Maturino da Firenze
) は、その後ダ?カラヴァッジオと共同で??制作にあたったが、ペンニと同?に共同制作者の名?の陰に?れてしまった?家である。
ジョヴァンニ?ダ?ウディ?ネ
(Giovanni da Udine) はラファエロの工房時代にも?立した仕事を任されていた?家で、化粧漆??飾とフレスコ壁?の周りのグロテスク?飾の責任者でもあった
[46]
。ラファエロの死後、その工房に集っていた?家の多くは四散し、なかには
1527年
の
ロ?マ略奪
時に命を落とした?家もいる
[47]
。しかしながら、四散したラファエロ工房出身者たちによって、イタリア全土のみならず諸外?にまでラファエロの???式が?播したことは間違いない。
ヴァザ?リはその著作で、ラファエロが非常に協調的かつ?率的な工房を??していたことと、パトロンや助手たちの問題点、議論をまとめる驚くべき技量を有していたことをあげ、ミケランジェロが常にパトロンや助手と仲違いしていたこととは好?照だとしている
[48]
。ペンニやロマ?ノといった弟子たちは十分な??技術を持っており、??作品において優れた弟子が手がけた箇所とラファエロ自身が手がけた箇所とを見分けることは難しいこともある
[49]
。しかしながら、ラファエロのキャリア後期における多くのフレスコ壁?や油彩?は、そのデザイン構成に特筆する点があるのであって、誰が作品に仕上げたかは重要な要素ではない。ラファエロが描いた肖像?は、保管?態が適切であれば細部にわたるまでそのきらめくような色彩をラファエロの存命中に失うことはなかった
[50]
。
そのほか、ラファエロの工房出身者で名前が知られている芸術家として、?家ではラファエリ?ノ?デル?コッレ (
en:Raffaellino del Colle
)、アンドレア?サッバティ?ニ (
en:Andrea Sabbatini
)、バルトロメオ?ダ?バニャカヴァッロ (
en:Bartolommeo Ramenghi
)、ペレグリノ?アレトゥ?ジ (
en:Pellegrino Aretusi
)、ヴィンチェンツォ?タマ?ニ (
en:Vincenzo Tamagni
)、バッティスタ?ドッシ (
en:Battista Dossi
)、トンマ?ゾ?ヴィンチド?ル (
en:Tommaso Vincidor
)、ティモテオ?ヴィティ (
en:Timoteo Viti
)、彫刻家、建築家ではロマ?ノの義兄弟ロレンツェット (
en:Lorenzetto
) らが?げられる
[51]
。また、フランドル人?家
ベルナ?ルト?ファン?オルレイ
がラファエロの弟子だったとする?もあり、ジャンフランチェスコ?ペンニの弟ルカ?ペンニもラファエロ工房出身だったともいわれている
[52]
。
建築
[
編集
]
サン?ピエトロ大聖堂
の建築責任者だった
ドナト?ブラマンテ
が
1514年
に死去し、ラファエロがその後任を命じられた。しかしながらラファエロもサン?ピエトロ大聖堂が建設中の
1520年
に死去してしまい、ラファエロが携わった計?の多くはその死後に?更あるいは?棄され、最終的にはミケランジェロによる設計が採用されている。このような?緯もあって、サン?ピエトロ大聖堂に?するラファエロの業績は、?点のドロ?イング (
en:drawing
) が?っているのみに過ぎない。ラファエロが計?していたサン?ピエトロ大聖堂のデザインは、最終的に採用された大量の支柱で構成された?大なデザインよりもはるかに地味であり、ラファエロの死後にサン?ピエトロ大聖堂の建築責任者となった
アントニオ?ダ?サンガッロ?イル?ジョヴァネ
は「裏路地のような」と評している。このラファエロによるデザインは、ヴァチカン宮殿ラファエロの間「ヘリオドロスの間」のフレスコ壁?『
神殿から追放されるヘリオドロス
』の背景に描かれた神殿とおそらく共通点があると考えられている
[53]
。
ブランコニオ?デッラクイラ宮殿 (
en:Palazzo Branconio dell'Aquila
)、現存せず。
ラファエロは
サン?ピエトロ大聖堂
以外にも、ロ?マ?皇のごく限られた?係者のためにいくつかの建築物のデザインを手がけ、ロ?マでもっとも重要な建築家の一人とみなされるようになった。ロ?マ?皇ユリウス2世は、新しく?本の大通りを敷設したロ?マ市街の再構築を考えており、??の宮殿に彩られた華麗な都を夢見ていた
[54]
。
ロ?マ?皇レオ10世の主席書記官兼執事だったジョヴァンバッティスタ?ブランコニオ?デッラクイラ (
en:Giovanbattista_Branconio_dell'Aquila
) のブランコニオ?デッラクイラ宮殿 (
en:Palazzo Branconio dell'Aquila
) は、ラファエロが設計した建築物の中でも重要なものだったが、
16世紀
に
ジャン?ロレンツォ?ベルニ?ニ
が設計した
サン?ピエトロ?場
の建設時に取り?されてしまい、現在では
ファサ?ド
と
中庭
を描いたドロ?イングが?るのみである。ブランコニオ?デッラクイラ宮殿のファサ?ドは?時としては異例なほどに華美な?飾がなされていた。三階建ての建物?部も同?で、最上階には板?が、中層階には多くの彫刻がそれぞれ飾られていた
[55]
。
サンタ?マリア?デル?ポポロ??キ?ジ家??堂の?部。
ロ?マ?皇の財務??だったアゴスティ?ノ?キ?ジの別宅ヴィッラ?ファルネジ?ナの主設計はラファエロが手がけたものではないが、キ?ジが建てさせたサンタ?マリア?デル?ポポロ??のキ?ジ家??堂 (
en:Chigi Chapel
) の設計と??はラファエロによるものである。また、レオ10世の主治?の邸宅ヤ?コボ?ダ?ブレシア宮殿は、ブラマンテが設計した近隣の宮殿と調和するようにラファエロがデザインした建物で、ラファエロ自身もこの宮殿に住んでいたことがあった
[56]
。
ヴィッラ?マダ?マ (
en:Villa Madama
) は、後にロ?マ?皇
クレメンス7世
となるメディチ家出身の?機卿ジュリオ?デ?メディチの?養所としてラファエロが設計し、
1518年
から丘の中腹に建設が開始された豪奢な邸宅である。このとき
イタリア式庭園
のル?ツとなる三段テラス式の庭園を設計している。
しかしながら、建設途中でラファエロが死去したことと、ジュリオ?デ?メディチがより瞑想に適した場所を求めて建て直させたため、ラファエロの?初設計どおりには建てられていない。最終的な設計計?はアントニオ?ダ?サンガッロ?イル?ジョヴァネが完成させている。未完となったとはいえ、それまでのイタリアでは見られない洗練された建築物であり、その後の同種の建物に非常に大きな影響を?えた。?時のロ?マで唯一近代的な建物で、次世代の建築家
アンドレ?ア?パッラ?ディオ
も、ヴィッラ?マダ?マの詳細なドロ?イングを?している
[57]
。
ラファエロ自身が住む邸宅として、
ロ?マのリオ?ネ
であるレ?ゴラ (
en:Regola (rione of Rome)
) のジュリア通り (
en:via Giulia
) に建設を考えていた大規模な宮殿の設計書が?点?っている。ラファエロはこの邸宅の建設地として、死去する?年前に
テヴェレ川
近くの島を購入していた。古典主義?式のジャイアント?オ?ダ? (
en:giant order
) でデザインされた
付柱
がすべてのファサ?ドに配された二階建て以上の邸宅で、「個人の邸宅としては空前絶後の規模を持った宮殿」といわれるほどの計?だった
[58]
。
ラファエロは
1515年
に、ロ?マ近隣から出土するあらゆる古代美術品に?する?責任者の?限を?えられた。ラファエロはロ?マ?皇レオ10世に古代遺跡の破?を中止するよう求めた長文の書簡を送り、ロ?マに存在するあらゆる古代美術品を系統立てた手法で調査し、記?として?すことを提案している。しかしながらレオ10世の思惑はラファエロとは必ずしも一致しておらず、サン?ピエトロ大聖堂、?場の建築資材として古代ロ?マの建築物を再利用することを考えていたが、ラファエロの求めに?じて銘文の記?と彫刻作品の保全は請合った
[59]
。
ドロ?イング
[
編集
]
ヴィッラ?ファルネジ?ナ『三美神』の習作。
ラファエロは西洋美術史上でも最高のドロ?イングの技量を持つ芸術家の一人で、??作品や建築作品の構成案、習作として多くのドロ?イングを描いている。ラファエロとほぼ同時代の人物の記?によると、ラファエロが構成を考えるときにはそれまでに自身が描き貯めた膨大な量のドロ?イングを床にばらまき、それらのドロ?イングから人物像を借用して新たな構成案を「すばやく」描きあげていたとされている
[60]
。ヴァチカン宮殿ラファエロの間「署名の間」のフレスコ壁?『
聖?の論議
』の習作のドロ?イング40点以上など、ラファエロが描いたドロ?イングは400点以上が現存している
[61]
。ラファエロは人物像のポ?ズや構成を修正しようとする際に複?のドロ?イングを組み合わせており、現存するわずかに?容の異なるドロ?イングの?の多さからも、この手法を用いることが他の?家に比べて非常に多かったことがわかる。ラファエロの死後1557年にイタリアの美術理論家ルドヴィコ?ドルチェ (
en:Lodovico Dolce
) が書いた著作では「……これこそがラファエロが持つ優れた創作力の源である。??に物語性を?える手法をつねに4ないし6通り用意することができ、それぞれが全く異なる手法であると同時にどの手法であっても美しさに?ちた素晴らしい出??えだった」としている
[62]
。また、
20世紀
のイギリス人美術史家ジョン?シャ?マン (
en:John Shearman
) が、ラファエロの芸術について「?究や革新から生まれた作品ではなく、すでに存在する資産を組合せたものである」としている
[63]
。
最終的な構成案が固まると、下?を?際に制作する作品と同じ大きさに?大することもよく行われた。?大した下?に針で穴を開けて
支持?
に張り付け、その穴に煤の詰まった袋を押し付けることによって??制作時に目安となる点線を支持?へと?し取っていった。ラファエロは紙、あるいは漆?にドロ?イングを描く際には点字製作用の尖筆を他に例のないほど多用し、下?の輪郭を線ではなくぎざぎざの引っかき傷のような筆致で描いている。このような筆致で描かれた下?は多くのドロ?イングだけではなく、ラファエロの間「署名の間」の『アテナイの?堂』表面にも見ることができる
[64]
。
ラファエロの工房が最終的に??作品に仕上げたラファエロの後期作品も、??制作そのものよりもデザインたるドロ?イングのほうに手間がかかることが多かった
[65]
。ラファエロのドロ?イングの多くはかなり緻密なもので、??制作構想の最初期に描かれた下?であっても裸?の人物像は精密に描かれており、制作後半のドロ?イングになるとほとんど完成時の??の?態に等しく、陰影表現はもちろんのこと、ときには白の顔料でハイライト?理が施されることもあった。レオナルドやミケランジェロの描いた下?のドロ?イングに比べると、ラファエロのドロ?イングには躍動感や力?さが欠けているが、芸術的?点からすると非常に高水準なものである。ラファエロはドロ?イングに扱いの難しい
銀筆
を頻繁に使用した最後の?家の一人で、ドロ?イングに適した最高級の赤、?のパステルを自由に使用できる立場になっても銀筆を好んで使い?けた
[66]
。また、ラファエロはドロ?イング制作時に?際の裸?女性をモデルとして使った最初の芸術家の一人で、死去する?年前から女性モデルを使い始めている。裸?の男性モデルをつとめていたのはガルゾ?ニと呼ばれていた弟子で、男性と女性?方の下?のモデルの役目を果たしていた
[67]
。
版?
[
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]
ラファエロは自身で版?を制作することはなかったが、版?家
マルカントニオ?ライモンディ
(Marcantonio Raimondi) との共同作業で版?を生産している。ラファエロがデザインしたドロ?イングをもとにライモンディが
エングレ?ヴィング
版?を制作したもので、?時のイタリアでもっとも有名となった版?の多くがこの二人から生み出された。ラファエロのように地位も名?も確立した?家が版?に興味を示すのは稀なことで、同時代の?家としては同じく他の版?家と共同で版?を制作した
ティツィア?ノ
しか例がないが、ティツィア?ノによる版?はラファエロほどには成功しなかった
[68]
。ラファエロとライモンディが制作した版?は15点で、なかにはラファエロの??作品を版?に移植したものも存在するが、多くの場合ラファエロが版??用としてドロ?イングを描き起こしており、これらのドロ?イングは習作も含めて多くが現存している
[69]
。
ラファエロとライモンディの版?の中でも有名な作品は『ルクレツィア』、『パリスの審判』、そして二つのほとんど同じヴァ?ジョンが存在する『幼?虐殺』で、ラファエロの??作品を版?化した『パルナッスス山』と『ガラテアの勝利』もよく知られている
[70]
。
20世紀
まで、イタリア?外ではこのような版?作品を通じてしか、ラファエロの作品に?れる機?は無かった。ヴァザ?リが「イル?バヴィエラ」と呼んだバヴィエロ?カロッチは、ラファエロの財産管理補佐を任されていたと考えられており
[注? 3]
、ラファエロの死後にほとんどの版?原版の銅板を入手することによって版?出版業者として大きな成功を?めた人物である
[72]
。
私生活と最晩年
[
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]
『
ラ?フォルナリ?ナ
』(1518年 - 1519年)
?立古典??館
所?。
ラファエロの愛人マルガリ?タ?ルティと考えられている。
ラフェエロはボルゴ (
en:Borgo (rione of Rome)
) の、ブラマンテが設計した宮殿のように豪奢なカプリ?ニ邸 (
en:Palazzo Caprini
) を住居としていた。ラファエロは生涯結婚していないが、
1514年
に?機卿メディチ?ビッビエ?ナの姪にあたるマリア?ビッビエ?ナと婚約はしている。この婚約は個人的にも友人だったメディチ?ビッビエ?ナに押し切られた結果と考えられており、ラファエロ自身はあまり??りがしないものだった。その後マリア?ビッビエ?ナは
1520年
に死去し、婚?は行われないままとなっている
[74]
。一方でラファエロは多くの女性と?係を持っていたといわれており、中でもロ?マ時代のラファエロにつねに寄り添っていたのが、シエ?ナ出身のパン職人フランチェスコ?ルティの娘「パン屋の娘 (La Fornarina)」
マルガリ?タ?ルティ
である
[注? 4]
。
ラファエロはロ?マ?皇の近侍 (
en:Valet de chambre
) の地位についており、これは?皇??での高い地位と俸給を伴うものだった。さらにロ?マ?皇?金拍車?章 (
en:Order of the Golden Spur
) を授?されナイト爵位も所有していた。ヴァザ?リはラファエロが?機卿になるという野望を抱いていたのではないかと推測しており、おそらくロ?マ?皇レオ10世からそのような仄めかしがあったことも、ラファエロが結婚をためらっていた理由の一つではないかといわれている
[74]
。
ロ?マのパンテオンに安置された、ラファエロとマリア?ビッビエ?ナの墓。聖母子の彫刻はロレンツォ?ロッティ (
en:Lorenzetto
) の作品である。
ヴァザ?リの『?家?彫刻家?建築家列?』によれば、ラファエロが夭折したのは「
聖金曜日
」(1520年
4月6日
)のことで、この日はおそらくラファエロ37?の誕生日である。マルガリ?タ?ルティとの過度な情事が原因で熱病に罹患したが、?調を崩した理由を主治?に?明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとしているが異論も多い
[注? 5]
。直接的な死因はどうであれラファエロの病?は急速に?化し、15日間の?病の末に一時的に小康?態を取り?して臨終の秘跡を受け、最後の告解を行った。口述した遺言には、?される愛人のために基金を設置してバヴィエラ出身の忠?な下僕にその基金運用を委託することや、工房の所?物の多くをジュリオ?ロマ?ノとジャンフランチェスコ?ペンニに遺贈することなどが含まれていた。そして死去したラファエロの遺?は、遺言通りにロ?マの
パンテオン
に埋葬された
[77]
。
ラファエロの葬儀は多くの弔問客が押し寄せる非常に?大なものだった。ラファエロの遺?が納められた大理石の石棺には
ピエトロ?ベンボ
による哀悼詩が
二行連
で刻まれている。
著名なラファエロここに眠る。生前には万物が凌駕されることを畏れ、死ぬ間際には万物がその死を恐れた。
Ille hic est Raffael, timuit quo sospite vinci, rerum magna parens et moriente mori
評?
[
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]
『
システィ?ナの聖母
(1513年 - 1514年)
アルテ?マイスタ???館
所?。
作品自?の影響力こそミケランジェロに及ばなかったものの、ラファエロは同時代人から高く崇敬されていた。しかしながら、ラファエロの死後主流となった芸術?式の
マニエリスム?式
とその後の
バロック?式
は、ラファエロの芸術とは「正反?の方向へと向かって」いった
[78]
。ドイツ人美術史家ワルタ??フリ?トレンダ? (
en:Walter Friedlander
) は「ラファエロの死とともに古典主義たる盛期ルネサンスは衰退し始めた」としている
[79]
。そしてラファエロは、行き過ぎたマニエリスムを嫌う人?にとって理想の存在であるとみなされるようになっていった。
16世紀半ばにはラファエロが、理想的にバランスの取れた?家であるという意見が主流となった。万能ともいえるその才能はすべてが完璧で、芸術を統べるあらゆる規範に忠?だった。ラファエロに比べるとミケランジェロは偏った天才といえる。男性の裸身像など特有の分野においてミケランジェロは他者の追?を許さないが、バランスに欠けるところがあり、優雅さや抑制感といった優れた芸術の??ともいえる部分がわずかに欠如している。このような感?はルドヴィコ?ドルチェや
ピエトロ?アレティ?ノ
のような
ルネサンス人文主義
を遵守し?けたものにのみ備わっているものであり、マニエリスムへと移行したミケランジェロには理解できない資質だった
[80]
。
ヴァザ?リがもっとも尊敬する芸術家はミケランジェロだったが、有害な影響を?える点も見られるとして、?美一方だった初版とは違って『?家?彫刻家?建築家列?』の第二版では、ミケランジェロに否定的な記述を追加している
[81]
。
ラファエロの作品構成は高く評?、模倣され、後世の
芸術アカデミ?
における?育の礎となった。ラファエロの作品がもっとも大きく??界に影響を及ぼしたのは、17世紀後半から19世紀にかけてで、その完璧な?式美とバランス感?が極めて高く評?され、芸術作品分野の優劣を意味するジャンルのヒエラルキ? (
en:hierarchy of genres
) で最高位を占める?史?分野の第一人者と目された。
ロココ期
のイギリス人?家
ジョシュア?レイノルズ
は著書『講話』でラファエロの作品は「明快かつ??で、威?ある品格」で「最高の?家であり他者の追?を許さない」とし、とくに『ラファエロのカルトン』やフレスコ壁?を高く評?している。
この類まれなる才能を持った人物(ラファエロ)は、?節、美?、威?ある人格で、入念に計算された作品構成、正確極まりないドロ?イング、高い審美眼を備え、さらに他者の構想を理解し自身の芸術として昇華する優れた技量を有していた。これらの?点においてラファエロを凌ぐ芸術家は存在せず、自身が持つ万物に?する?察眼とミケランジェロが持つ力?さ、さらには古代芸術の美しさと簡素さとを融合させることが可能だった。最高の?家はラファエロかミケランジェロのどちらであるかという問いには、次のように答えられる。ラファエロは他の誰よりも芸術におけるあらゆる才能を極めて高い水準でまとめ上げた人物であり、疑問の余地無くラファエロが最高の?家といえる。ただし、ロンギヌス (
en:Longinus (literature)
) の著書『崇高について』によれば、人間が持ち得る最高級の才能は他の美点、才能の欠如という?牲のうえに成り立つものだとされている。この?点からすると、ミケランジェロのほうが優れていると考えることもできるだろう
[82]
。
レイノルズはラファエロのフレスコ?を高く評?し、
板?
には僅かな感傷的見解以外にあまり興味を示さなかったが、19世紀になってからこれらの板?が高く評?されるようになった。ラファエロが聖母マリアを描いた作品群について1864年生まれのスイス人美術史家
ハインリヒ?ヴェルフリン
が「世界中のどの芸術家よりもこのようなラファエロの作品は大量に再生産され、誰もが子供の頃からラファエロの??に慣れ親しむようになった」と述べている
[83]
。
19世紀イングランドの
ラファエロ前派
の芸術家たちは、ラファエロの作品とラファエロを賞?するレイノルズらを明確に否定し、ラファエロの「?影響」が及ばない時代の芸術作品を模範とした。この思想に大きな影響を?えていたのは19世紀の美術評論家
ジョン?ラスキン
である。
西洋芸術の破滅はその部屋(ヴァチカン宮殿ラファエロの間の「署名の間」を指す)から始っており、いわば非常に優れた才能の持ち主がこの衰退をもたらしたといえる。ラファエロと、その同時代の優れた芸術家たちの作品の完璧な出??えと美しさは、それ以上のあらゆる芸術活動を停?させてしまった。彼ら以降の芸術は思考ではなく模倣を、精緻さよりも美しさを追い求めることしかできなくなった。
芸術の衰退の原因としてさらに二つの理由があげられる。一つ目は精神的な問題である。このことを心に刻んでもらいたい。(ルネサンス以前の)中世ヨ?ロッパの芸術では作品制作前の思考思索がもっとも重要で、作品の出??えは二の次だった。それに?して現在の芸術は作品の出??えが最重要視されており、思考思索は低く貶められている。何度でも言う、中世芸術においては??性が最上であり、見た目の美しさはその下に位置していた。現代芸術とは正反?なのである。中世芸術の本質はラファエロの作品となって結?した。しかしながら現代芸術の本質はラファエロよりも劣っていると言わざるを得ない
[84]
。
20世紀の著名な美術批評家
バ?ナ?ド?ベレンソン
は、ラファエロを盛期ルネサンスで「もっとも有名でもっとも愛された」?家であるとしているが
[85]
、ミケランジェロあるいはレオナルド?ダ?ヴィンチが盛期ルネサンスでもっとも有名で愛された?家と見なす?究者もいる
[注? 6]
。
脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
「ラファエロ?ダ?ウルビ?ノ」(Raffaello da Urbino)、「ラファエロ?サンツィオ?ダ?ウルビ?ノ (Rafael Sanzio da Urbino)」などとも表記される。「サンティ」もラテン語表記の「サンティウス (Santius)」と表記されることがある。また、ラファエロ自身が書類などに署名する際にはラテン語の「ラファエル?ウルビナス (Raphael Urbinas)」を使用していた
[1]
。
- ^
ユリウス2世はとくに?書家というわけではなかった。その死後に?された書籍は220冊で、?時としてはそれなりの?書?だったが?用の?書室が必要なものではなかった。壁に書架もなかったこの?用?書館名は
1527年
のロ?マ略奪で破?されてしまった
[33]
。
- ^
「イル?バヴィエラ (Il Baviera)」は「バイエルン人 (the Bavarian)」を意味すると考えられる。?時のロ?マにはドイツ出身の?家も多く、もしカロッチもドイツ出身だったとすれば、1527年のロ?マ略奪時にマルカントニオから多くの版?原版の銅板を奪ったことの?明になりうる。
[71]
。
- ^
マルガリ?タ?ルティの肖像?と考えられている『ラ?フォルナリ?ナ』には左胸に右手を添えた女性が描かれている。美術史家や?究者のなかには、このポ?ズは愛情を表す古典的なポ?ズを?っているが、ルティが乳がんに罹患しており胸部に腫瘍があることを表現しているのだと考える者もいる
[75]
。
- ^
多くの美術史家や?究者がヴァザ?リが記?しているこの死因を否定している。
17世紀
から
18世紀
のイタリア人?師ベルナルディ?ノ?ラマツィ?ニは
1700年
の著書『?く人の病 (De morbis artificum)』で、?時の?家たちが「座り?ける暮らしを送っており、その結果うつ病になる」ことがよくあり「水銀や鉛が含まれた?具」を使用していたために短命だったとし、
1915年
にブファラ?レは「肺炎か腸チフス」、ポルティグリオッティは「肺疾患」、ヨアニデスは「?きすぎによる過?」だったとしている。またラファエロが死去した年?にも複?の?があり、ラファエロと同時代のイタリア人貴族マルカントニオ?ミヒル (
en:Marcantonio Michiel
) は34?、パンドルフォ?ピコやジロ?ラモ?リッポマ?ノは33??をそれぞれ唱えている
[76]
。
- ^
イギリス Amazon で「ルネサンス」?連のベストセラ?上位25冊のうち、タイトルに入っている名前としてはレオナルドが5冊、ミケランジェロが3冊、そしてラファエロが1冊となっている
[86]
。
出典
[
編集
]
- ^
Gould p.207
- ^
Jones and Penny, p. 1 and 246. ラファエロは37?の誕生日に死去した。複?の記?によれば、ラファエロは生誕日、死去日はどちらも
聖金曜日
となっているためだが、異?もある。
- ^
See, for example
Honour, Hugh; John Fleming (1982).
A World History of Art
. London: Macmillan. p. 357
- ^
Vasari, p. 208, 230 and passim.
- ^
Urbino: The Story of a Renaissance City
By June Osborne, p.39 on the population, as a "few thousand" at most; even today it is only 15,000 without the students of the University
- ^
Jones and Penny, pp. 1 - 2
- ^
Vasari:p. 207 & passim
- ^
Jones & Penny:204
- ^
Vasari, at the start of the
Life
. Jones & Penny:5
- ^
アシュモレアン博物館
“
Image
”. z.about.com. 2007年12月2日時点の
オリジナル
よりア?カイブ。
2012年8月15日
??。
- ^
Jones and Penny: pp. 4 - 5, p. 8 and 20
- ^
Simone Fornari in 1549-50, see Gould:207
- ^
Jones & Penny:8
- ^
Jones & Penny:2-5
- ^
contrasting him with Leonardo and Michelangelo in this respect. Wolfflin:73
- ^
ミシェル?フイエ『イタリア美術』文庫クセジュ、
白水社
、
2012年
、60頁。
- ^
Jones and Penny:17
- ^
1789年の地震で大きな損傷を受けた。
- ^
Dates are taken from the
Vatican Pinacotheca website
- ^
Jones and Penny:pp. 5 - 8
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One surviving preparatory drawing appears to be mostly by Raphael; quotation from Vasari by - Jones and Penny:p. 20
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“
Image
”. szepmuveszeti.hu.
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Jones and Penny:5
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Jones & Penny:49, differing somewhat from Gould:208 on the timing of his arrival
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Jones & Penny:205 The letter may date from 1519, or before his appointment
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quoted Pon:p. 114, from lecture on
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Jones and Penny:82, see also Vasari
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“
Lucretia
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, Bette Talvacchia, 2007, Phaidon Press
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ISBN 0-8147-0476-X
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(exhibition catalogue)
- Raphael Trail: The Secret History of One of the World's Most Precious Works of Art
; Joanna Pitman, 2006
- Raphael - A Critical Catalogue of his Pictures, Wall-Paintings and Tapestries
, catalogue raisonne by Luitpold Dussler published in the United States by Phaidon Publishers, Inc., 1971,
ISBN 0-7148-1469-5
(out of print, but there is an online version
here
)
- 『ラファエロ 作品と時代を?む』
河出書房新社
、2017年
- 越川倫明?松浦弘明?甲斐?行?深田麻里?
- 深田麻里?『ラファエロ ルネサンスの天才芸術家』 カラ?版
中公新書
、2020年
- ヴァザ?リ『
芸術家列?
2 ボッティチェルリ、ラファエルロ ほか』
- 平川祐弘
?小谷年司?、
白水Uブックス
、2011年。元版「ルネサンス?人?」
白水社
?連項目
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