座標
:
北緯35度57分
東?39度01分
/
北緯35.950度 東?39.017度
/
35.950; 39.017
ラッカ
(
アラビア語
:
?????
, ar-Raqqah,
アッ?ラッカ
、
英語
:
Raqqa
)は、
シリア?アラブ共和?
北部の都市。
ラッカ?
の?都。
アレッポ
の160km東にあり、
ユ?フラテス川
中流域の北岸に位置する。
シリア??
最中の
2013年
に
ISIL
(イスラム?)に占領され、2014年の?立宣言以降はラッカを「首都」を宣言し、以降はISILの?点となった。このため、シリア政府や
ロシア
、
アメリカ合衆?
、
フランス
、
ドイツ
、
ヨルダン
などの有志?による空爆作?が展開され、2017年10月にシリアの反?制派グル?プ
シリア民主軍
によってようやく?落した。
ジャズィ?ラ
地方(
メソポタミア
北部、現在の
イラク
北西部とシリア北東部にまたがる地域)西部の主要都市で、
モ?スル
、
デリゾ?ル
、
ハサカ
、
カ?ミシュリ?
などと?びジャズィ?ラを代表する都市のひとつである。人口は190,000人から200,000人と推計されており、シリア第6位の都市。
ラッカはアレッポとデリゾ?ルを結ぶ道路や?道が通り、ユ?フラテス中流の農産物を集散する農業都市である。ラッカ西方にはユ?フラテス川をせき止めた
ダム
湖?アサド湖が?がる。ラッカのすぐ東で北からユ?フラテスに合流する支流
バリフ川
があり二つの川沿いに農地が?がる。バリフ川を北へ遡るとトルコ領に入り、
ハッラ?ン
や
ウルファ
の平原に至る。
?史
[
編集
]
古代のキリスト?都市
[
編集
]
ラッカ周?は先史時代から人間の居住があったとみられ、大きな町も築かれてきた。ラッカ周?の
遺丘
には、紀元前5500年から紀元前4000年の町が崩れた跡である遺丘テル?ゼイダン(Tell Zeidan, 市街の5キロ東)と、
中期?銅器時代
(紀元前2000年から紀元前1600年)にさかのぼる町の跡であるテル?ビア(Tell Bi'a, 市街地の東に隣接)があるが、テル?ビアはバビロニアの古代都市
トゥトゥル
(
英語版
)
(トゥットゥル、Tuttul)であることが確認されている。
現代のラッカの町は、起源を
ヘレニズム
期にさかのぼる。
セレウコス朝
の王
セレウコス1世ニカト?ル
は
ニケポリオン
(Nikephorion,
古代ギリシア語
:
Νικηφ?ριον
)という街を現在のラッカに建設した。その後?者
セレウコス2世カリニコス
(在位
紀元前246年
-
紀元前225年
)はニケポリオンを?張し、自らの名にちなみ
カリニコス
(Kallinikos,
古代ギリシア語
:
Καλλ?νικο?
, ラテン語では
カリニクム
Callinicum とも)と改名した。
東ロ?マ帝?
時代、皇帝
レオ1世
にちなんで短期間レオントゥポリス (Leontupolis) と改名されたが定着せず、カリニコスの名が使われ?けた。
542年
、
サ?サ?ン朝
ペルシャの
ホスロ?1世
はメソポタミアに侵入してカリニコスを破?したが、東ロ?マ皇帝
ユスティニアヌス1世
が再建した。サ?サ?ン朝と東ロ?マの協定により、北メソポタミアのカリニクムと
ニシビス
、およびアルメニアの
アルタハタ
は?少ない?境を超える貿易の?点となった。
6世紀
、カリニコスはシリアの
修道院
制度の中心となり、市街の北の丘にある聖ザアカイ修道院 (Deir M?r Zakk? / Saint Zacchaeus Monastery) が高名だった。跡地には
509年
に遡る
モザイク
の碑文があり、これがおそらく修道院の創設の時期とみられる。この修道院は
10世紀
頃までの??な資料に名が見られる。もう一つ重要な修道院は「柱の修道院」(Dair? d-Es?un? / B?z?n? monastery) であり、
9世紀
ごろ、
アッバ?ス朝
の西半分の都がラッカであった時期には
シリア正??
の
アンティオキア
?主?
座は「柱の修道院」にあった。
イスラムの進出とアッバ?ス朝の宮殿
[
編集
]
639年
、キリスト?の都市だったカリニコスは
アラブ人
たちによる
イスラム帝?
により?落し、以後
アラビア語
の文書には現在の「アル?ラッカ?」の名が登場するようになったが、
シリア語
文書では??どおりカリニコスと表記された。
640年
、キリスト?徒が?倒的多?を占めるラッカの街にジャズィ?ラ最初の?衆
モスク
(大モスク)が建てられ、信者が多く移り住むようになった。ラッカの?略的重要性は
ウマイヤ朝
末期?
アッバ?ス朝
初期の??期に高まった。ラッカはシリア地方とイラク地方を結ぶ十字路であり、南はタドム?ル(
パルミラ
)を通って大都市
ダマスカス
へ、北は
ハッラ?ン
の街を通り
カリフ
の臨時の在所であるアル=ルサファ(ar-Rusafa、別名エデッサ、今日のトルコ領
シャンルウルファ
)へ、東はイラクやペルシャへ、西は東ロ?マ帝?との?境の?場へと道が走る場所だからである。
771年
、アッバ?ス朝の第2代カリフ
マンス?ル
は市街の200m西に、自身の持つホラ?サ?ン人部隊の分遣隊の兵?都市を築き、アル=ラフィカ (ar-R?fiqah) と名づけた。その印象的な城壁は今も?り、アッバ?ス朝の軍事力の?大さを物語る。
ラッカとラフィカは一つの大都市へと融合し、ウマイヤ朝の首都だった
ダマスカス
よりも大きくなった。
796年
に第5代カリフ
ハ?ル?ン?アッ=ラシ?ド
は、ラッカ/ラフィカに
宮殿
を構えた。行政機能は
バグダ?ド
に?したものの、治世のほとんどの期間である13年間に渡りカリフの居城が置かれ、
中央アジア
から
北アフリカ
に?がる帝?の帝都となり、東ロ?マ帝?の侵攻に?する守りの?点となった。ラッカは交通の便が良く、各地の軍隊への指令も容易で、後背地に豊かな農村を抱え大きな人口を支えることができたことが優れた点であった。
ラッカの宮殿は、?子都市ラッカ/ラフィカの北にある10平方kmの敷地を占めた。イスラム?法?の主要な?派?
ハナフィ??派
の創設者の一人
シャイバ?ニ?
はラッカの裁判官であり、??者?天文?者
バッタ?ニ?
はラッカで活躍した。ラッカの宮廷の輝きは、
アブル?ファラジュ?イスファハ?ニ?
が編纂した『キタ?ブ?アル?アガ?ニ?』(Kit?b al-Agh?ni、歌の書)のいくつかの詩に記?されている。現在では、宮殿跡地のはずれにある、東宮殿という名の修復された小さな建物が、アッバ?ス朝建築の印象を?えている。ラッカの西8kmには、未完成に終わったハ?ル?ン?アッ=ラシ?ドの時代の勝利記念碑、ヘラクラ (Heraqla) が?っている。これは、小アジアにある東ロ?マの都市ヘラクレイア征服を記念したものとされるが、これを天?に起こった出?事とを結びつける異論もある。記念碑は直?500mの円形の城壁の中央にある四角い建物に守られているが、建物の上部はハ?ル?ン?アッ=ラシ?ドが
ホラ?サ?ン
で急死したため未完成のままになった。アッバ?ス朝の宮廷は
809年
バグダ?ドに?ったが、ラッカ/ラフィカはエジプトも含む帝?西半分の副都となった。
??とラッカの衰退
[
編集
]
9世紀末、エジプトおよびシリアで分立した
トゥ?ル?ン朝
がジャズィ?ラに侵攻し、アッバ?ス朝と交?が?いた。?いて
シ?ア派
過激派勢力カルマト派がシリアで反?を起こしたため??が?きラッカの繁?は終わりを告げた。
940年代
、
ベドウィン
系の
ハムダ?ン朝
がアッバ?ス朝の政?を奪うとラッカは急速に衰えた。
10世紀
末から
12世紀
始めにかけ、ラッカは
ウカイル朝
ほかベドウィン系王朝が支配した。
第二の全盛期とモンゴルによる破?
[
編集
]
12世紀
半ばの
ザンギ?
支配下(
ザンギ?朝
)から
13世紀
前半の
アイユ?ブ朝
初期にかけての時代、ラッカは
農業
と
手工業
の生産力をもとに第二の繁?期を迎える。この時期、ラッカの名を世界に轟かせたのはラッカ?ウェア (Raqqa ware) と呼ばれる?い
釉?
をかけた
陶器
であり、
イスラム陶芸
の中心地のひとつであった。ラッカに現存するバ?ブ?バグダ?ド(バグダ?ド門)とカスル?アル?バナ?ト(Qasr al-Ban?t、淑女の城)は、?時の大都市ラッカの繁?振りを物語る。しかし
1260年代
、
モンゴル帝?
の侵入と徹底的な破?でラッカの?史は終わる。
1288年
の記?では、ラッカの街の?墟にいた最後の生き?りの住民が殺されたとの報告がある。以後長い間ラッカは再建されなかった。ラッカの周?では、この破?で
レサファ
(
英語版
)
(セルジオポリス)や
ハッラ?ン
(ハラン)といった古代に?えた街も滅ぼされ、今日まで再建されないまま遺跡となっている。
オスマン時代のラッカ再建
[
編集
]
16世紀
に入り、
オスマン帝?
がユ?フラテス川沿岸のラッカに??を置いたことで、ラッカの名が再び?史に登場する。ラッカを中心にした新たな州「ラッカ州」が創設されたが、?際の州都は200km北の現トルコ領
ウルファ
に置かれた。
17世紀
のオスマンの旅行者?作家 Evliya Celebi は、ラッカでは
アラブ人
と
トルクメン人
の
遊牧民
が?墟の近くで宿?をしているだけだと書いている。
1683年
、
城塞
が部分的に再建され
イェニチェリ
軍?の分遣隊が置かれた。?く10年でラッカは部族定住政策の中心となった。
ラッカが再び都市となったのは
1864年
であり、最初は軍の前哨として、次は
ロシア帝?
の
北カフカス
征服から逃れてきたムスリムの
チェチェン人
難民やベドウィンの元遊牧民の定住地として、住民が定着し始めた。
フランス委任統治と?立後のラッカ
[
編集
]
第一次世界大?
後、この一?が
フランス委任統治領シリア
となると行政府の建物が作られた(現在のラッカ博物館)。
1946年
のシリア?立後の
1950年代
には
朝鮮??
で世界的な
綿花
景?が?生するとラッカの農業は前例のない成長を見せ、ユ?フラテス川中流域の再耕地化が進んだ。以?、綿花はラッカ地方の主農産物である。都市の成長は一方で、?っていた古代や中世の?墟が掘り返されて失われてしまうことも意味した。アッバ?ス朝の宮殿だった場所は現在ほとんど住宅地化し、古代?中世のラッカ市街地(現在のミシュラブ地? Mishlab)やアッバ?ス朝時代の工房地?(現在のアル=ムフタルタ地? al-Mukhtal?a)も宅地化してしまい、?掘は部分的にしか行われていない。12世紀の城塞は1950年代に撤去され現在では時計塔のある?場 (Daww?r as-S?'a) になっている。
1980年代
に入り、宮殿地?の緊急?掘とアッバ?ス朝時代の市壁やモスク、バグダ?ド門、記念碑、カスル?アル?バナ?トなどの保存が始まっている。
シリア??とISIL
[
編集
]
シリアの?立後、ラッカはシリア??の他の主要都市から離れていることもあり、
中東??
や
イスラエル
等の隣?との小規模な?いの影響を受けることはほとんどなかったが、
2011年
に起きた
シリア??
で事態が一?した。
アサド
政?と反政府武?勢力が
ホムス
や
アレッポ
での??に集中する中、ラッカでは?力の空白に?じた
ISIL
が勢力を?大し、2014年1月にラッカを含む地域一?をイスラム?として建?を宣言。ラッカを首都とし、ISILの一大?点とした。同年8月末にはISILがアサド政?の
ラッカ?
最後の?点であったタブカ空軍基地を制?した事で完全にISILによる支配が確立された。このため
ロシア軍
と
フランス軍
を中心にしたISILに?する激しい空爆が行われた。
2017年5月、アメリカから?甲車?の供給などの支援を受けている
シリア民主軍
がラッカへ攻勢を行うことを表明
[1]
。6月29日、シリア民主軍は最後の退路を?ち、ラッカを完全包?したと?表した
[2]
。9月1日にはシリア民主軍の報道官がラッカの?市街を解放したと?表
[3]
[4]
。?市街はISILが要塞化し激しく抵抗していた地域であった
[5]
。9月20日、英?に?点を置くNGO「
シリア人?監視?
」がシリア民主軍がラッカの90%を制?したと?表し
[6]
、10月17日にシリア民主軍はラッカを完全制?したと宣言。軍事作?を終了した
[7]
。
?連項目
[
編集
]
ウィキメディア?コモンズには、
ラッカ
に?連するカテゴリがあります。
脚注
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]