한국   대만   중국   일본 
マルクス?ポルキウス?カト?ケンソリウス - Wikipedia コンテンツにスキップ

マルクス?ポルキウス?カト?ケンソリウス

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス?ポルキウス?カト
M. Porcius M. f. Cato [1]
ペルジ?ノ の描いた大カト。 1497年 頃。 ペル?ジャ のプリオリ宮?。
渾名 デモステネス
出生 紀元前234年
死? 紀元前149年
出身階級 プレプス
一族 カト?
氏族 ポルキウス氏族
官職 トリブヌス?ミリトゥム 紀元前214年
クァエストル 紀元前204年
平民 按察官 紀元前199年
法務官 紀元前198年
執政官 紀元前195年
プロコンスル 紀元前194年
レガトゥス 紀元前194年
トリブヌス?ミリトゥム 紀元前191年
レガトゥス 紀元前191年 、189年)
監察官 紀元前184年
ヒスパニア調査委員? 紀元前171年
レガトゥス 紀元前153年
アウグル (?- 紀元前149年
指揮した?? ロ?マ?ヒスパニア??
配偶者 リキニア( リキニウス氏族
サロニア(奴隷)
後?者 マルクス?ポルキウス?カト
サロニウス
テンプレ?トを表示

マルクス?ポルキウス?カト?ケンソリウス ラテン語 : M?rcus Porcius Cat? C?ns?rius 、マ?ルクス?ポルキウス?カト??ケ?ンソ?リウス、 紀元前234年 - 紀元前149年 )は 共和政ロ?マ 中期の 政務官 。?廉で弁舌に優れ、 執政官 (コンスル)、 監察官 (ケンソル)を務めた。曾孫の マルクス?ポルキウス?カト?ウティケンシス (小カト)と?別するため、「 大カト ラテン語 : Cato maior )」とも?される。 大スキピオ の政敵とされるが、最初から?立していたとは考えられていない。 第三次ポエニ?? の原因の一つとされる、「 カルタゴ滅ぶべし 」のセリフで知られる。

生涯 [ 編集 ]

彼は??に耐え?約に耐え、その?のような心と?は、全てを衰弱させる老年ですら寄せ付けなかった。86才にして裁判で自身を弁護し、90才にして セルウィウス?ガルバ を民衆の前に引きずり出したのだ。
リウィウス、『ロ?マ建?史』39.40

?年期 [ 編集 ]

プレプス (平民)の家系でトゥスクルム出身の、赤みがかった?と?みがかった瞳が特?の ノウス?ホモ (新人)であるが、カトは父を武勇で?家に功績のあった人としており、カトの コグノ?メン (第三名)は元?プリスクスで、後にその功績からカトと呼ばれたという [2] 。父親からは、150ユゲラ(約100 エ?カ? 、12万坪 [注? 1] )の土地を受け?いだものと推測されている [4]

近所に サムニウム?? の英雄 マニウス?クリウス?デンタトゥス ウィッラ があり、そこを幾度も訪れては彼の質素な暮らしぶりを鑑とし、 第二次ポエニ?? クィントゥス?ファビウス?マクシムス の下で?軍した後、 ピュタゴラス 派の先生に?んでからは更に質素?約?質?剛健を旨とするようになったという [5] 。ただ、本?にファビウスの下にいたのかは定かではない [6]

プルタルコス によれば、農地の接していた プブリウス?ウァレリウス?フラックス が彼の勤勉ぶりを聞き及び、 ロ?マ 市で日の目を見るように計らったといい、彼自身もその弁舌によって耳目を集め、出世したという [7] 。後に デモステネス と?された [8]

紀元前217年 トラシメヌス湖畔の?い の敗?後、ディクタトル( ?裁官 )に任命されたファビウス?マクシムスは、神?の怒りを?めるための??な儀式を提案し、そのうちの一つ、 春の生け贄 は、カトが執政官を務めた 紀元前195年 に?行されている [9]

クルスス?ホノルム [ 編集 ]

紀元前214年 トリブヌス?ミリトゥム (士官)として シキリア で?い [10] 、恐らく 紀元前211年 まで マルクス?クラウディウス?マルケッルス の下についていた [11]

紀元前207年 、親戚のルキウス?ポルキウス?リキヌスと共に、 ガイウス?クラウディウス?ネロ の下で メタウルスの?い に?加しており、この前年死去したマルケッルスに替わって、ネロは貴重な人脈となっただろう [12]

紀元前204年 には クァエストル (財務官)として大スキピオの下で アフリカ に?軍している [13] 。プルタルコスによれば、ファビウス?マクシムスの派閥に?し、大スキピオを敵視しており、彼がやたらと兵士に金をばらまくことを問題視してロ?マ市へ?り、彼の普段の行動も指揮官としてふさわしくないと、ファビウスと共に非難したという [7] 。しかし リウィウス によれば、アフリカに向かうスキピオ艦隊の左翼を ガイウス?ラエリウス と共に??しており、更に大スキピオを非難した中にカトの名はなく、?者の間では、彼らの?立を演出するための作り話と考えられている [14]

スキピオ艦隊を率いていたのは、大スキピオの弟 スキピオ?アシアティクス と親友のラエリウスで、その中にカトが含まれていることや、特別な?係がなければ通常引き受けないクァエストルを務めていたことからも、大スキピオとカトの友好?係が?われ、 大プリニウス の記述からは、カトが ザマの?い に?加していた可能性も考えられるという [15]

この二人が次に絡むのは、大スキピオが二度目の執政官を務める 紀元前194年 のことで、 キケロ が『 大カト??老年について 』で書いているように、カトが30才の頃に亡くなったファビウスの派閥にいたのか疑う?者もいる [11] 。むしろ、 第二次ポエニ?? によって ノビレス (貴族)が多大な?牲を?った隙に、軍事的功績によって成り上がったカトは、比較的?立した立場で、注意深く政界を生き?いていたと考えられる [12] 紀元前216年 カンナエの?い では、約80人の 元老院 議員が亡くなったとも言われ、後に177人が補充されている [16]

紀元前199年 には アエディリス ?プレビス(平民按察官)に選出され [17] 、祝祭を開催した [18] 。翌 紀元前198年 には サルディニア ?? プラエトル (法務官)に選出され [19] 、高利貸しを?しく取り締まり、住民が負?していたプラエトルのための金?も?止された [20] 。プルタルコスによれば、これまでのプラエトルが住民の負?で贅を極めていたのに?し、彼の統治は質素で、それでいて正義を?しく追及したものであったという [21]

執政官 [ 編集 ]

ヒスパ?ニア人の?穀場に穀物が集まる季節となった。そのため、穀物請負人への注文は禁止され、ロ?マ市へと追い返された。「??はな」(カトは)言った。「自分で自分に飯を食わせるであろうよ。」
リウィウス、『ロ?マ建?史』34.9

紀元前195年 ルキウス?ウァレリウス?フラックス と共にコンスル(執政官)に選出され、 ヒスパニア の??で勝利を?めた [1] 。?執政官の出?前に、21年前に計?された春の生け贄の儀式を行うと [22] 、カトはまず船で アンポリアエ まで進出し、そこから進?を始めた [23] 。途中現地の同盟部族から援軍要請を受けたが、兵力分散を嫌って一度は?ったものの結局一部を援軍に割き、?った兵士を夜間演習で鍛えてから?族の敵陣に夜襲をかけ、苦?したものの打ち破った [24]

隊列を?すものは?って軍規を正し、敵陣の弱点を見?いて攻勢をかけ、一?によれば4万人以上を殺したとされ、 タッラコ まで進出する間に、 エブロ川 流域を完全に平らげ、幾度も反?を起こした部族を??し、彼らを奴隷として?り?ったという [25] 。?ってきた船を?らせ、退路を?って兵士を鼓舞したとも?わり、丘から?況を見守っていた彼は、自軍が押し?まれているのを見ると、敵陣に突入して?況を一?させたという [26] 。ヒスパニアの部族は カルタゴ の支配を嫌っていたが、彼らを?わせるのは大?な苦?が伴い、カトは自らを?しく律して勤勉ぶりを?揮したと リウィウス は記している [27] 。他にも、3人しか奴隷を連れず、船?りと同じものを?み食いし、喜んで?約に?んでいたという話も?わる [28]

執政官として、キケロが『 ?家について 』で言及している [29] 、上訴に?するポルキウス法(Lex Porcia de provocatione)を通した可能性がある [30] 。?州??政務官の?限を制限する法(Lex Porcia de sumptu provinciali、?州の出費に?するポルキウス法)も成立させた可能性があるが、?容的にもっと後の時代のものかもしれない [31] 。またこの年、 紀元前215年 に成立した、女性の贅?を禁じるオッピウス法の?止を護民官が提案し、護民官の一部と共にカトも?止に反?したが、女性たちが反?派護民官を取り?む?動となり、?止が決まっている [32] (Lex Valeria Fundania de lege Oppia sumptuaria、オッピウス支出制限法に?するウァレリウス?フンダニウス法 [33] )。カトの反?は、ギリシア文化好きな大スキピオやその派手な妻アエミリアを攻?するためと解?する?者もいるが、リウィウスの引くカトの演?はおそらく彼の創作であり、他の資料からも明かな女性蔑視によるものと考える方が自然かもしれない [34]

翌年??すると、 プロコンスル (前執政官)として 凱旋式 を?行した [35] 。また、勝利を誓った ウィクト?リア 神殿のそばに、ウィクトリア?ウィルゴの祠を奉?した [36] 。その後、この年の執政官 ティベリウス?センプロニウス?ロングス の下でレガトゥス(副官)を務めた可能性がある [35] 。前年行った春の生け贄の儀式に不備があると神祇官?が訴えたため、この年改めて?行されている [37]

??と政?と [ 編集 ]

この紀元前194年の執政官は大スキピオで、彼は任地の ガリア で功績を立てることが出?ず、カトの凱旋式に反?したという [38] 。この話も、彼らの?立を?調する コルネリウス?ネポス やプルタルコスによって、大スキピオがカトの指揮?を取り上げようとしたという話に膨らんでいる [39] 。ただ、恐らく 紀元前192年 頃、40過ぎたカトは リキニウス氏族 の娘リキニアと結婚しており、この同じく第二次ポエニ??によって復活したプレプスの氏族と結びつき、政治的に安定した結果、大スキピオら貴族に敵?し始めた可能性はある [40]

紀元前191年 、その年の執政官 マニウス?アキリウス?グラブリオ の下でトリブヌス?ミリトゥムを務めた [41] 。コンスル??者でありながら人?に選出された彼は、 テルモピュライ の?いにおいて、カッリドロモ山を守っていた アエトリア同盟 を蹴散らし、 アンティオコス3世 の後ろに突然現れて敵を混?させ、??することに成功したという [42] 。また、レガトゥス(使者)として??な 古代ギリシア 諸?に派遣され、テルモピュライの勝利をロ?マ市に報告している [41] 。このとき、リウィウスは大スキピオの弟 スキピオ?アシアティクス も同時に派遣され、カトに先を越されたとしているが、彼はコンスル選?に立候補していたはずで、グラブリオの同僚 プブリウス?コルネリウス?スキピオ?ナシカ との混同が疑われ、信じがたい [43]

???あなたは人?を屠畜し、幾度も屠殺し、10の死をもたらし、10の自由人の頭を落とし、10の人間の人生を奪う。言い分も聞かれず、判決が下ったわけでもなく、非難すらされていない人?の。
大カト、『10人の人?に?するクィントゥス?ミヌキウス?テルムス?劾』

紀元前190年 リグリア ??プロコンスルの クィントゥス?ミヌキウス?テルムス が??し [44] 、凱旋式の?行を求めたが、カトは彼の?功報告を??であるとし、更に??地域の自由民の不?な?刑や、同盟市の十人官への鞭打ち刑など、職?濫用を指摘して反?した [45] アウルス?ゲッリウス は、このときのカトの演?を、この幾度も?しい表現を重ねる方法は、?時産まれつつあったラテン語での雄弁の曙の光のようであり、記憶に留めること(とギリシア語で)は喜ばしいと述べている [46]

監察官 [ 編集 ]

特筆すべきなのは、カト?はその生涯で44回以上も自分を弁護する必要に迫られ、これほど訴えられた人物は他にはいない上に、その全てで勝利したことである。

紀元前189年 のケンソル(監察官)選?に立候補したが、他に(1)元同僚フラックス [47] 、(2) ティトゥス?クィンクティウス?フラミニヌス 、(3)スキピオ?ナシカ [48] 、(4) マルクス?クラウディウス?マルケッルス 、そして(5)グラブリオ [49] が?立し、グラブリオはその中でも大盤振る舞いによって人?があったが、ノウス?ホモの台頭を良く思わないノビレスは、 護民官 に?利品?領の罪で告?させ、カトが彼に不利な?言をしたため、「同じノウス?ホモが??の?言をした」ことを理由にグラブリオは選?から降りた [50] 。結局この年はフラミニヌスとマルケッルスが?選している [51] 。グラブリオはスキピオ派と考えられ、この選?が、カトと大スキピオとの?係?化を招いた可能性もある [43] 。この年、 アエトリア同盟 と?う執政官 マルクス?フルウィウス?ノビリオル のもとへ、レガトゥスとして派遣されている [52]

紀元前187年 グナエウス?マンリウス?ウルソ の凱旋式を許可するかどうか、元老院で調査が行われ、派閥?いが起こり、ウルソと親密だった弟スキピオ?アシアティクスを庇うために、?時 プリンケプス ?セナトゥス(元老院第一人者)であった大スキピオも介入し、皆の前で帳簿を破り捨ててみせたが、 プレプス民? で追及されたスキピオ?アシアティクスは、投獄されるところを 大グラックス グラックス兄弟 の父)によって危うく救われたほどで、カトはこのことをきっかけに、大スキピオを追及することになる [53]

紀元前184年 、熾烈な選??を勝ち?き、フラックスと共にケンソルに選出された [54] 。他の候補は、(1)スキピオ?ナシカ [48] 、(2)スキピオ?アシアティクス [49] 、(3)マンリウス?ウルソ [55] 、(4) ルキウス?フリウス?プルプリオ [48] 、(5)マルクス?フルウィウス?ノビリオル [48] 、(6) ティベリウス?センプロニウス?ロングス (紀元前194年の執政官) [55] 、そして(7) マルクス?センプロニウス?トゥディタヌス (紀元前185年の執政官) [47] だったが、リウィウスによれば、カトの?勝だったという [56]

ケンソルとして、スキピオ?アシアティクスら貴族を?しく監査し、マケドニアを征服したフラミニヌスの兄弟 ルキウス?クィンクティウス?フラミニヌス を含む7名の元老院議員を譴責している [57] 。リウィウスは、ルキウスは自分の愛人であるカルタゴの少年ピリッポスのために、罪のない ガリア人 を?刑したとし、?代ケンソルの中でも長く最も?しいというカトの?劾演?を引用している [57] 。他に、罪人を?刑したとするバ?ジョンや、少年ではなく女性のためとするものもあり [58] 、プルタルコスは、ルキウス自身ではなく リクトル に?刑させたとしているが [59] 、いずれにせよカトが問題視したのは、執政官の懲罰?の?用であろう [60]

プルタルコスによれば、ルキウスとティトゥスのフラミニヌス兄弟は民衆に上訴し(プロウォカティオ)、カトはそれに?えてルキウスと問答したという [61] 。ケンソルの元老院議員再審査(レクティオ?セナトゥス)に?してプロウォカティオは出?ないが、過去に異議がなかった?ではなく、この年のカトらケンソルの公共事業契約の見直しなども行われていることから、カトが?明のために開いたか、もしくはフラミニヌスの息のかかった護民官の主宰する 市民集? (コンティオ)で批判されたのだろう [62] 。プリニウスによれば、カトは生涯で被告として負けたことがないと言うが、これは恐らくコルネリウス?ネポスが書いた「名?を失うことはなかった」の誇張で、護民官の告?によって罰金刑を科された可能性もあり、リウィウスによれば、この元老院議員への譴責が原因となって、晩年まで裁判に?まされることになったという [63]

ケンスス( ?勢調査 )が完了すると、 カンプス?マルティウス に集まった市民の前で、イノシシ、雄羊、雄牛を生け贄に捧げる?めの儀式(ルストルム)を行うが、恐らく以前カトが凱旋式に反?したクィントゥス?ミヌキウス?テルムスの息子ルキウスが、復讐のためにこの儀式にミスがあったと主張し、カトは豊作?きであることを?げてこれを退けた [64]

スキピオ?劾 [ 編集 ]

ア?フリカ?ヌスの死によって彼の敵は勇?百倍した。その筆頭はカト?で、生きている時から彼の偉大さにケチをつけるのが日課であり、彼を訴追した ペティッリウス たちの裏にいたのもカト?だと考えられている。
リウィウス、『ロ?マ建?史』38.54

この前184年、大スキピオは、アンティオコスとの和平に際し、賄賂を受け取ることで手心を加えたとして訴追され、 ヘレニズム で知られる彼は窮地にたった [65] 。大スキピオは以前、私人でありながら、護民官が反?する?庫からの緊急支出を、市民たちにカルタゴの征服者であることをアピ?ルし、法を曲げて通したこともあり [66] 、弟を庇った一件など、越?行?を憎む元老院議員もいたと考えられ、そこを利用したカトの攻?を切り?けることは容易でなく、?調を崩した大スキピオは、リテルヌムに引きこもり、しばらくして亡くなった [65] 。彼の死後、フラックスがプリンケプス?セナトゥスに選ばれている [67] 。この指名が、フラミニヌスを刺激した可能性もある [63]

よく、カトは保守的で排外的な農民の代表で、大スキピオは自由で洗練されたヘレニズムの代表とされるが [68] 、息子の嫁をもらった ルキウス?アエミリウス?パウッルス?マケドニクス や、その?子 スキピオ?アエミリアヌス (小スキピオ)はヘレニズム派であることを考えれば、反ヘレニズムとは言い切れず、大スキピオとの?係も、カト自身が大スキピオに勝利したことを?調する政治宣?を行った結果、その?立が長く深刻であったと信じられるようになったのかもしれない [69]

その後 [ 編集 ]

紀元前179年 のケンソルに就任した、マルクス?フルウィウス?ノビリオル [70] の行動を問題視し、 アンブラキア 攻?の際、攻略したわけでもないのに兵士に報償を?え、 エンニウス に詩を捧げさせたとして?劾した [45]

しかし?際、マ?ルクス?カト?は演?『兵に分配されるべき?利品について』において、激しく明瞭な言葉で罰せられることのない?領とやりたい放題について嘆いている。この言葉には非常に感銘を受けたので、ここに追記しておこう。「泥棒たちは、」こう言ったのだ。「私的な??なら生涯牢獄と枷に?がれるが、公的な泥棒は金と紫(に彩られる)。」
アウルス?ゲッリウス、『アッティカの夜』11.18.18

紀元前171年 、ヒスパニア??政務官による搾取を訴えた民衆によって、パウッルス?マケドニクス、スキピオ?ナシカ、 ガイウス?スルピキウス?ガッルス (紀元前166年の執政官) らと共に代理人に選ばれ、 マルクス?ティティニウス?クルウス 紀元前178年 プラエトル [71] 、無罪)、プブリウス?フリウス?ピルス( 紀元前174年 プラエトル、 プラエネステ へ亡命 [72] )、ガイウス?マティエヌス( 紀元前173年 プラエトル、 ティブル へ亡命 [72] )を?劾した [73]

そして、私が思うに、ロドス人は我?がペルセウスに勝利することを望んでいなかった。それは彼らだけでなく他の多くの人?、多くの??も同?だろう。???我?に怖れるものがなくなれば、好き勝手なことをし出すことを怖れたのだ。つまり、???我?に隷?しないため、自分たちの自由を守るためであったのだ。しかし、彼らは決してペルセウスに助力はしなかった。」
アウルス?ゲッリウス、『アッティカの夜』6.3.16

ゲッリウスによれば、 第三次マケドニア?? [74] ペルセウス (マケドニア王) と友好?係にあった ロドス島 は、同盟を結んでいたロ?マに停?を呼びかけたが聞き入れないため、??を仕掛けるかどうか幾度も?討し、ペルセウスが捕虜となると、慌ててロ?マへ弁解の使者を送った。元老院でロドス島への宣?布告が?討されたとき、カトがそれに反?し、『ロドス島のために』という演?を行い、『起源論』の5?に??されているという [75] 。また、マケドニアの?州化にも反?し、その演?の?片が?っている [76]

プトレマイオス朝 プトレマイオス6世 が?を追われた際には、カトは彼のために元老院で演?を行っている [77]

???ガルバは、?時?民の憎しみと反感に喘いでいたにもかかわらず、こうした悲劇ばりの大芝居によって咎めなしとされたのだという。このことは、カト?の本にも書かれているのをわたしは見て知っている。いわく、『子どもと?を使っていなければ、彼は罰せられていただろう』とね。
キケロ、『弁論家について』1.228(大西英文?) [78]

紀元前151年 ヒスパニア?ウルテリオル ??プラエトル、セルウィウス?スルピキウス?ガルバ [79] (冒頭の引用にある)を、 紀元前149年 、護民官スクリボニウス?リボが訴追した際、カトはリボを支持している [80] 。ウァレリウス?マクシムスによれば、この時の演?は『起源論』に??されていたようだが、このカトの演?によってガルバは一言も反論できなくなり、代わりに?を浮かべながら自分と親戚の幼い子供を連れてきたため、審判人たちは皆無罪に投票したという [81] 。このとき、カトは85才で [45] 、いつ就任したか不明だが、 アウグル として死去した [82]

?カルタゴ [ 編集 ]

「カルタ?ゴ?人たちは?に我?にとっての敵である。いつでも望むときに??を仕掛けられるよう、私に?して準備を万全にするのなら、それは?に私にとっての敵である。例えまだ武器を振るっていなかったとしても。」
ガイウス?ユリウス?ウィクトル、『修?の技法』議論について、2.3 議論の種類について

紀元前153年 、レガトゥスとしてカルタゴと ヌミディア マシニッサ の紛?の調停に赴いたが、カルタゴ側は抵抗し、失敗した [83] 。更に翌 紀元前152年 には、 プブリウス?コルネリウス?スキピオ?ナシカ?コルクルム らが調停に派遣されている [84]

カルタゴの?況を把握したカトは、恐らく第二次ポエニ??の頃の?大な敵を思い起こし、カルタゴの恐怖を主張する一派として、スキピオ?ナシカ?コルクルムの一派と?立したのだろう [85] ポリュビオス からは、大スキピオがカルタゴとマシニッサを?立させることで、相互を無力化しようと考えていたことが?えるという [86] 。ところがカルタゴ側が、 紀元前201年 の?約に違反したため、前152年以降、カルタゴとの??を主張する一派が優勢となった [87] 。それに?して反?派は、敵が存在することは?家の利益となると主張したとされるが、信憑性にも疑問があり、?にレトリックとして言っていただけの可能性もある [88]

プルタルコスによれば、カトはカルタゴの復興に脅威を感じ、 バックス 祭りにうつつを?かす民衆に危機感を?え、元老院で演?を行うときに常に「 カルタゴは滅ぼされるべき であると思う」と末尾に付け加え、カルタゴ産の見事な イチジク の?を見せて「これほど見事なイチジクを産する?が3日の距離にいる」と言ってカルタゴを滅ぼす必要性を?いたが、一方でスキピオ?ナシカ?コルクルムは、民衆が元老院の手に負えぬほど?長し、?家をあらぬ方向へ向かわせることがないよう、カルタゴという脅威を利用しよう考え、同じように演?の最後に「カルタゴは存?させるべきである」とやり返したという [89]

カトは以前ロドス島やマケドニアに?しては?大であったのに、カルタゴに?しては?しい態度をとったのは、元老院の主流派に同調しただけかもしれず、カルタゴに?する懲罰の必要性を感じていたか、あるいは彼個人のカルタゴへの憎しみから?ているのかもしれない [90]

第三次ポエニ?? が始まってすぐに亡くなったが、まだトリブヌス?ミリトゥムに過ぎなかった小スキピオが活躍する?を聞いて、「まともなのは彼だけだ、他の奴らは影法師か」と叱責したと?わる [91] [注? 2] 。カルタゴは 紀元前146年 、その小スキピオによって滅ぼされた。

人物 [ 編集 ]

著作には 農書 農業論 英語版 』と 古ラテン語 を使用している?史書『 起源論 英語版 』がある。

『起源論』は、最初の2?で イタリア半島 の各都市の成り立ちを描き(この2?だけが『起源論』だとする?もある)、?りで 第一次ポエニ?? からのロ?マ?張の?史を描いている [93] 。各?役で指揮官の名前を?げていないことなどから、?勝の要因はロ?マ軍自?であり、その一員であったイタリア同盟市の力が不可欠だったとカトが考えており、彼らとロ?マの?史を連結し、イタリア人全?の?史として示すことが目的であったとする?者もいる [94]

反ヘレニズムと言われるが、碑文や古代の記?を調べ上げた彼は、 ラティウム の原住民アボリギネスや サビニ人 をギリシア系としており、晩年になって ギリシア語 を?んだと言われるが、彼の演?にはギリシアの レトリック の影響が色濃く出ていることから、早いうちからギリシア語に通じていたと考えられる [95] 。ヘレニズム派の代表であるスキピオとフラミニヌスがヘレニズムと同一視されるように、その政敵の筆頭であるカトは?統的な美?の化身として祭り上げられたのだろう [96]

私の場合、雷鳴の後でないと妻と抱き合うことはないぞ。 ユッピテル ?のおかげで幸せになれるってことだな。
プルタルコス、『?比列?』大カト、17.7

最初の妻リキニアとの間に息子マルクスが生まれ、その子は ピュドナの?い (紀元前168年) レガトゥス として?加し [97] 、そのときの司令官 ルキウス?アエミリウス?パウルス?マケドニクス の娘テルティアと結婚した [98] 。妻と プラエトル (法務官)となった息子の死後、年老いてからサロニアという自分の奴隷と再婚し、サロニウスが生まれた [99] 。サロニウスはプラエトル、その子マルクスは執政官となり、その孫に マルクス?ポルキウス?カト?ウティケンシス が生まれた [100]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 紀元前2世紀 に行われた海岸警備のためのロ?マ植民市での土地分配は一人頭10ユゲラ以下、ラテン植民市では最大で70ユゲラである [3]
  2. ^ オデュッセイア 』10.495の引用 [92]

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b MRR1 , p. 339.
  2. ^ プルタルコス , 大カト、1.
  3. ^ 石川 , p. 79.
  4. ^ Reay , p. 333.
  5. ^ プルタルコス , 大カト、2.
  6. ^ Smith , p. 155.
  7. ^ a b プルタルコス , 大カト、3.
  8. ^ アッピアノス 『ロ?マ史』6.39
  9. ^ 長谷川 , p. 119.
  10. ^ MRR1 , p. 261.
  11. ^ a b Ruebel , p. 165.
  12. ^ a b Ruebel , p. 166.
  13. ^ MRR1 , p. 307.
  14. ^ Ruebel , pp. 162?163.
  15. ^ Ruebel , pp. 163?164.
  16. ^ 安井 , p. 40.
  17. ^ MRR1 , p. 327.
  18. ^ リウィウス , 32.7.14.
  19. ^ MRR1 , p. 330.
  20. ^ リウィウス , 32.27.2-4.
  21. ^ プルタルコス , 大カト、6.
  22. ^ 長谷川 , p. 123.
  23. ^ リウィウス , 34.8-9.
  24. ^ リウィウス , 34.11-15.
  25. ^ リウィウス , 34.15-16.
  26. ^ アッピアノス『ロ?マ史』6.40
  27. ^ リウィウス , 34.18.
  28. ^ ウァレリウス?マクシムス , 4.3.11.
  29. ^ キケロ『?家について』2.31.54
  30. ^ Rotondi , p. 268.
  31. ^ Rotondi , pp. 269?270.
  32. ^ Culham , p. 786.
  33. ^ Rotondi , p. 267.
  34. ^ Culham , p. 788.
  35. ^ a b MRR1 , p. 344.
  36. ^ リウィウス , 35.9.6.
  37. ^ 長谷川 , p. 124.
  38. ^ Ruebel , p. 167.
  39. ^ Ruebel , p. 168.
  40. ^ Ruebel , pp. 168?169.
  41. ^ a b MRR1 , p. 354.
  42. ^ フロンティヌス 『?術論』2.4.4
  43. ^ a b Ruebel , p. 170.
  44. ^ MRR1 , p. 357.
  45. ^ a b c Smith , p. 158.
  46. ^ ゲッリウス , 13.25.12.
  47. ^ a b Broughton , p. 34.
  48. ^ a b c d Broughton , p. 32.
  49. ^ a b Broughton , p. 31.
  50. ^ リウィウス , 37.57.
  51. ^ リウィウス , 37.58.
  52. ^ MRR1 , p. 363.
  53. ^ Ruebel , pp. 170?172.
  54. ^ MRR1 , p. 374.
  55. ^ a b Broughton , p. 33.
  56. ^ リウィウス , 39.40.
  57. ^ a b Carawan , p. 316.
  58. ^ Carawan , p. 318.
  59. ^ Carawan , p. 319.
  60. ^ Carawan , p. 322.
  61. ^ プルタルコス , フラミニヌス、19.
  62. ^ Carawan , pp. 323?324.
  63. ^ a b Carawan , p. 328.
  64. ^ Reay , p. 332.
  65. ^ a b Ruebel , p. 172.
  66. ^ ウァレリウス?マクシムス , 3.7.1.
  67. ^ MRR1 , p. 375.
  68. ^ Ruebel , p. 161.
  69. ^ Ruebel , p. 173.
  70. ^ MRR1 , p. 392.
  71. ^ MRR1 , p. 395.
  72. ^ a b MRR1 , p. 404.
  73. ^ MRR1 , p. 419.
  74. ^ 合坂?鷲田 , p. 105.
  75. ^ ゲッリウス , 6.3.2-7.
  76. ^ Smith , pp. 161?162.
  77. ^ E. R. Bevan (1927年). “ The House of Ptolemy ”. Methuen Publishing. 2022年12月22日 ??。
  78. ^ 大西 , p. 140.
  79. ^ MRR1 , p. 455.
  80. ^ MRR1 , p. 459.
  81. ^ ウァレリウス?マクシムス , 8.1.2.
  82. ^ MRR1 , p. 460.
  83. ^ MRR1 , p. 453.
  84. ^ MRR1 , p. 454.
  85. ^ 楠田 1989 , pp. 112?113.
  86. ^ 楠田 1995 , p. 84.
  87. ^ 楠田 1995 , pp. 87?88.
  88. ^ 楠田 1995 , pp. 93?95.
  89. ^ プルタルコス , 大カト、26-27.
  90. ^ 楠田 1995 , pp. 97?98.
  91. ^ プルタルコス , 大カト、27.4.
  92. ^ 村川 , p. 295.
  93. ^ Smith , pp. 163?164.
  94. ^ Smith , p. 164.
  95. ^ Smith , p. 157.
  96. ^ Smith , pp. 153?154.
  97. ^ MRR1 , p. 431.
  98. ^ プルタルコス , 大カト、20.
  99. ^ プルタルコス , 大カト、24.
  100. ^ プルタルコス , 大カト、27.

?考文? [ 編集 ]

  • キケロ 著、大西英文 ?『弁論家について』 上、 岩波文庫 、2005年。 ISBN   4003361148  
  • サッルスティウス 著、合坂學?鷲田睦朗 ?『カティリ?ナの陰謀』 大阪大?出版? 、2008年。 ISBN   978-4-87259-274-0  
  • リウィウス ロ?マ建?史 』。  
  • ウァレリウス?マクシムス『有名言行?』。  
  • プルタルコス ?比列? 』。  
  • アウルス?ゲッリウス 『アッティカの夜』。  
  • Giovanni Rotondi (1912). Leges publicae populi romani . Societa Editrice Libraria  
  • R. E. Smith (1940). “Cato Censorius”. Greece & Rome ( The Cambridge University Press ) 9 (27): 150-165. JSTOR   641153 .  
  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1 . American Philological Association  
  • T. R. S. Broughton (1991). “Candidates Defeated in Roman Elections: Some Ancient Roman "Also-Rans"”. Transactions of the American Philosophical Society (American Philosophical Society) 81 (4): i-vi+1-64. JSTOR   1006532 .  
  • James S. Ruebel (1977). “Cato and Scipio Africanus”. The Classical World ( The Johns Hopkins University Press ) 71 (3): 161-173. JSTOR   4348822 .  
  • Edwin M. Carawan (1990). “Cato's Speech against L. Flamininus: Liv. 39.42-3”. The Classical Journal (The Johns Hopkins University Press) 85 (4): 316-329. JSTOR   3297678 .  
  • Brendon Reay (2005). “Agriculture, Writing, and Cato's Aristocratic Self-Fashioning”. Classical Antiquity (University of California Press) 24 (2): 331-361. JSTOR   10.1525/ca.2005.24.2.331 .  
  • Phyllis Culham (1982). “The "Lex Oppia"”. Latomus (Societe d'Etudes Latines de Bruxelles) 41 (4): 786-793. JSTOR   41532685 .  
  • 石川勝二「共和政ロ?マの植民市について--?究史の試み」『愛媛大??育?部紀要. 第2部』第18?、愛媛大??育?部、1986年、77~97。  
  • 長谷川博隆 「移牧をめぐる二,三の問題」『名古屋大?文?部?究論集. 史?』第34?、 名古屋大?文?部 、1988年、99-138頁。  
  • 安井萌「共和政ロ?マの「ノビリタス支配」-その?態理解のための一試論-」『史??誌』第105?第6?、 山川出版社 、1996年、38-65頁。  
  • 楠田直樹「 カルタゴの滅亡とスキ?ピオ??アエミリア?ヌス 」『創?女子短期大?紀要』第7?、創?女子短期大?紀要委員?、1989年12月1日、109-136頁、 ISSN   09116834 NAID   110006608061  
  • 楠田直樹「 カルタゴの終焉とロ?マの政策的傾向性の?化 」『創?女子短期大?紀要』第17?、創?女子短期大?紀要委員?、1995年6月1日、81-101頁、 ISSN   09116834  

?連項目 [ 編集 ]

公職
先代
ルキウス?フリウス?プルプレオ
マルクス?クラウディウス?マルケッルス
執政官
同僚: ルキウス?ウァレリウス?フラックス
紀元前195年
次代
スキピオ?アフリカヌス II
ティベリウス?センプロニウス?ロングス
先代
ティトゥス?クィンクティウス?フラミニヌス
マルクス?クラウディウス?マルケッルス
紀元前189年 XLVIII
監察官
同僚: ルキウス?ウァレリウス?フラックス
紀元前184年 XLIX
次代
マルクス?アエミリウス?レピドゥス
マルクス?フルウィウス?ノビリオル
紀元前179年 L