マプチェ族
(マプチェぞく、Mapuche、
マプ?チェ族
とも表記される)は、
チリ
中南部から
アルゼンチン
南部に住む
アメリカ先住民
。民族名は、彼らが話す
マプチェ語
で「大地」(
Mapu
)に生きる「人?」(
Che
)を意味する
。マプチェ族は、
南アメリカ
南部を支配し、
インカ帝?
や
スペイン
の侵略に?し長く抵抗を?けた民族として知られており、
コンキスタド?ル
が
南アメリカ大陸
に足を踏み入れてから500年余り、各?で
先住民
の
同化
が進む中、マプチェ族は支配にあらがい、同化を拒み?け、「抵抗する民」として名をはせてきた
[1]
。
彼らは生計を
牧畜
と
農業
に依存し
[1]
、ロンコ(
Lonko
)と呼ばれる首長のもとで血??係を?位とした社?を構成していた。??のときには「トキ」(
toqui
「斧を持つ者」の意)というリ?ダ?を選出し、その下に連合してより大きな集?を形成することもあった。
?要
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]
16世紀
以降南アメリカに進出したスペイン人の報告では、彼らはアラウカノ族 (Araucanos) またはアラウコ(アラウカ?ノ)語族 (Araukanians) と呼ばれていたが、現在では?蔑的な言葉としてこれは忌避され、チリやアルゼンチンではもっぱら「マプチェ族」の表現が用いられており、彼ら自身もこれを?迎している。
araucano
の語源は、一般に信じられている
ケチュア
語で「反逆者」を意味する
arauco
ではなく、マプチェ語で「泥の水」の意である地名
Arauco
から?ていると言われる
[3]
[4]
。
マプチェ族は共通の社?構成、宗?、??構造、言語的遺産を引き?いだ?多いグル?プからなる?い地域に住む民族である。その影響は
アコンカグア川
とアルゼンチンの
ラ?パンパ州
に?まれた地?全域に及んだ。チリ中部の山?地域に住み、スペイン人からはインカ帝?の一部とみなされた
ピクンチェ族
(
スペイン語版
)
や、
ウイジチェ族
(
スペイン語版
)
、クンコ族も同じ一派と考えられている
[5]
。マプチェ族は、ウイジチェ族?ラフケンチェ族およびペウンチェ族と同?にイタタ川とトルテン川の間にある谷に住んでいた。これは、「マプチェ族」を
ラ?アラウカニア州
に居留した部族に限定した?義でも、ピクンチェ?ウイジチェなど諸族を含みアラウカ?ノ語族とした?義でも?てはまる。
フェルディナンド?マゼラン
によって
パタゴン族
と呼ばれた北部の
Aonikenk族
(
英語版
)
は、マプチェ族と交流を持ち言語や文化への影響を受けたラ?パンパ地域の
テウェルチェ族
に?する少?部族とされている。このようなマプチェ族の言語や文化が南アメリカ西部の諸族へ影響を及ぼす過程はスペインの進出後も??し、この一連の?播を
アラウカナイゼ?ション
と呼ぶ。
チリの統計によると、チリのマプチェ族はほとんどが土着の家系ではなくなっている一方で、60%を越える一般の
チリ人
は、彼ら自身は認めない傾向にあるが、??な比率ながらアメリカ先住民族との混血である。
2002年のチリの?勢調査では、マプチェ族の人口は604,349人である。
[
要出典
]
チリの人口に占めるマプチェ族の割合は約9%であり、アルゼンチンに至っては
先住民
全?でも約3%にすぎない
[1]
。アルゼンチン側では約300,000人が
アンデス山脈
に居住している。マプチェ族の多くは先祖??の土地を失い、
サンティアゴ?デ?チレ
などの大都市で、?まれない環境の中で生活している(
チリの人口統計
を?照)。
?史
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]
?史への登場とアラウコ??
[
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]
マプチェ族の名が?史に記されるのは、新大陸?見以降のスペイン進出に始まる。それ以前のマプチェ族は、大規模な連合こそ形成されなかったが、長年の
インカ帝?
の侵略に耐え、これを跳ね除けて?た(
マウレの?い
(
英語版
)
)。
コンキスタド?ル
(征服者)の
ディエゴ?デ?アルマグロ
との
レイノウェレンの?い
(
スペイン語版
、
英語版
)
)、さらに
ラウタロ
や
カウポリカン
(
スペイン語版
、
英語版
)
や
コロコロ
といった優秀な指導者の登場により、
16世紀
に現れた新たな侵略者?スペインに?しても300年以上?い?けた。侵略初期に奪われた土地を取り?し、
19世紀
後半まで自治を維持した例もある。
ビオビオ川
はマプチェ抵抗の地として知られ、彼らは自然の地形を利用してスペインへの反抗を?けた。この間、しばしば
交易
や外交的な交?が取り交わされるなど、マプチェとスペインの?係は必ずしも膠着的な???態にあったわけではない。それでも、
アラウコ??
(en)
と呼ばれる長期にわたる?立は
アロンソ?デ?エルシ?ジャ
(en)
の?事詩『
ラ?アラウカ?ナ
(en)
』に?され、その記憶は消えることは無い。
チリがスペイン王?から分離?立した際、一部に協力的な者もいたが、ほとんどのマプチェ族は無?心か、もしくはその出?事そのものを知らなかった。この認識不足は、入植者たちがもたらすマプチェに?える脅威についてあまり深刻に考えておらず、過去からこの土地で受け?いできた暮らしが?わる可能性を想像だにしていなかったことを?明している。事?、チリ?立後もマプチェ族はビオビオ川北岸に住む用心深い植民者たちと、時に衝突を起こすこともあったが、おおむね問題なく共存し交易を行っていた。だが、チリ政府は膨張する??を支える資本を獲得するためにも、アラウカニアを支配下に置く準備を進めていた。
アラウカニア制?作?
[
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]
フランス
人
弁護士
兼
冒?家
の
オルリ?アントワ?ヌ?ド?トゥナン
が「アラウカニアの王」と?し、マプチェ族の土地を中心に?立?家
アラウカニア?パタゴニア王?
(
1860年
-
1862年
)の建?を宣言したが、他?からの承認を得られるはずもなく、かえってチリ側に非合法?家の打倒という口?を?えてしまった。
アラウカニア?パタゴニア王?
はリ?ダ?不在で瓦解し
[1]
、チリ政府はマプチェ族の土地を?迫し、1880年代半ばから後半にかけてこれを占?した。これは「
アラウカニア制?作?
」と呼ばれる。この征服の背景には、元?チリにとってマプチェの土地は自?のものだという1800年代後半の思想が根底にあり、さらにチリ人の人口?加がもたらす??活動がマプチェとの境界線を?迫し始めた点がある。さらに、?時
ボリビア
?
ペル?
連合に?する
南米の太平洋??
の渦中にあったチリは、?勝のために大規模な常設
陸軍
の整備や
ライフル銃
を始めとした近代兵器の自??製造を?現していた。太平洋??終結とともにこれらの兵力はマプチェとの??に投入された。さらに通信網の整備などもあり、マプチェ族は地理的に南北?方から、さらなる軍事力によって押さえつけられた。
激しい??と外交交?とを織り交ぜながら、チリ政府はマプチェ族の首長たちから彼らの土地をチリに?呑する同意を取り付け、?約を締結した。これには、マプチェ側にとって拒みがたい事情があった。長引く??の影響から
飢餓
と
病?
が蔓延し、ある報告によればかつては50万の人口を誇ったマプチェ族は25,000人まで著しい減少を見せていた
[6]
。この?字の推移には意?的な誇張が紛れ?んでいるとの主張もある。しかしながら、占領下に置かれたマプチェ族のかなりの比率が抑留され、農業や交易で成り立っていた彼らの??活動はほとんどの地域で破?され、彼らが所有していた大量の
銀
や
?石
類を含む動産や
不動産
などの財産がチリ政府の?庫に納められるために??され、さらに、
アメリカ合衆?
の「?制移住法」と同じような「reducciones」と呼ばれる一連の制度で縛られるに至り、人口減少?の信憑性云?に?係なくその末路は同じようなものだったと言えた。彼らは、追いやられ略奪され、極度の貧困に?される結果となった。
現代
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]
現在、マプチェ族の子孫はチリとアルゼンチンに跨る地域に多く居住し、
ラ?アラウカニア州
の住民のうち80%を占め、
ロス?ラゴス州
、
ビオビオ州
および
マウレ州
でも人口比率が高い。?統を?承し農業を中心とした生活を?けている者もいるが、大多?がより良い?入を求めて都市部へ移り棲みつつある。しかしながら、彼らはさまざまな差別の?象にあり、??面や公的な面で不遇な?態にある
[7]
。
マプチェ族が特に多い
ラ?アラウカニア州
では、
?軍
の駐留に抵抗したため、
ピノチェト
政?時代には多くの先住民が非業の死を遂げ、1990年の民主化で政府との?話が始まったが頓挫し、土地や水の?利を求めるデモや占?が各地で?いている
[1]
。近年では彼らの先住する土地を開?する
林業
系大企業
[8]
にも向けられ、地??いなどに端を?した暴力の?報が?き、特にラ?アラウカニア州北部のTraiguen?やルマコ?に?まれた?史的に激しい紛?が?いた地?で頻?している。そのため、彼ら反抗組織のリ?ダ?やマプチェ族の政治活動には、近年になっても
ピノチェト
政?時の?
テロリズム
法が取り締まりや起訴に適用されている。その法律では?察は6ヶ月間??の提出を拒むことができ、また裁判において喚問した?人をスクリ?ンの向こうから?言させて匿名のままにすることが可能になる。
ピノチェト
政?時の?
テロリズム
法をマプチェ族に適用して?罰化したが、服役囚は
ハンガ??ストライキ
を起こし、
?連
に仲介を求めて
サンティアゴ
の?連施設に立てこもったグル?プもいる
[1]
。
チリ人
が「Araucania」、マプチェ族が「Ngulu Mapu」と呼ぶ
チリ人
の林業?社が所有するふたつの地域の森林資源に?して
日本
と
スイス
が利?確保に動いた際、マプチェ族はこれら
ラジア?タパイン
(モントレ?マツ)や
ユ?カリ
などの森林は本?彼らが植樹し大量の水と肥料を?えて育てたもので、資源の?利は彼らに?すと主張した。また、チリから年間約6億
ドル
にのぼる木材を
輸入
するアメリカでは、そのほとんどが南部地域で伐採されていることから、熱?保護キャンペ?ン??Forest Ethicsが先導し、
ホ?ムデポ
など主要な輸入業者から「チリの原生林を保護する」木材の購買方針へ?更する同意を取り付けるなどの動きもある。しかし、マプチェ族首長の中にはこれでも不充分との?があり、一部の??は
UNPO
に?加して?際的な?心や所有地の?利や文化の保護を訴える活動を行っている。これらを受け、チリ政府もマプチェ族を受益者とし資源開?と彼らの生活水準向上を?立させることを目的とした「先住民コミュニティ管理プロジェクト」を
2003年
から?施している
[9]
。
近年、チリ政府はマプチェ族の待遇を改善するいくつかの施策を試しつつある。例えば、
テムコ
市では小?校にマプチェ語や文化の授業を加える試みが行なわれている。また、政府の特務機?である委員?(the Commission for Historical Truth and New Treatment)は2003年にレポ?トを提出し、80%以上がマプチェ族によって占められる先住民族について彼らへの政策を大?に改善すべきとの見解を纏めた。その中では、文化的アイデンティティの促進以外にも、政治そして「領土」に?する?利についても公的にこれを認めるべきとの?容を含んでいる。
文化
[
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]
技術?工芸
[
編集
]
ヨ?ロッパ人が南アメリカに進出した頃には、マプチェ族は塹壕と複?な防御
砦
のネットワ?クを建築するに充分な技術を備えていた。また、
金?
加工
や
?馬
技術を素早く自分たちのものとし、
小?
栽培や
羊
の飼育も取り入れた。スペインからの植民地と、相?的に良く自治管理されたマプチェの居住地は300年にわたって共存し、?者の間には?い交易?係が生まれた。マプチェ族が?統的に持っていた銀細工の技術は?く流通したチリやスペインの硬貨の質を支え、また?石類やヘッドバンドなどもその精巧さが高く評?されていた。近年では、彼らの文化を?える機織や手工芸品が?光みやげなどになり、現金?入の一手段ともなっている
[10]
。
言語
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]
マプチェ族の言語は、アラウコ語族の代表的言語であるマプチェ語(マプチェ?ドゥングン=「マプチェ人の舌」の意味)を用いている。これは、北アメリカ先住民族言語にも見られる複?な
動詞
語幹を特?とする。一方で文字を持たず、神話などはもっぱら口頭で?承されて?た
[11]
。大別すると二つの系統があり、ウイジチェ語系とマプチェ語系に分けられる。言語?的には直接?連していないが、いくつかの語彙に
ケチュア語
からの影響が識別されている。
マプチェ語は現在、チリとアルゼンチンの一部地域で用いられているが、流暢に?ることができる人口はチリ??に約200,000人にとどまる。?育現場でのマプチェ語?習はビオビオ州、ラ?アラウカニア州、ロス?ラゴス州で?施されている。
マプチェ族のうち、マプチェ語を話せる者は20%しかいない
[1]
。
神話と信仰
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]
マプチェ族の
信仰
はマチ
(en)
と呼ばれる
祈?師
が執り行う儀式を中心とした
自然崇?
に分類される。彼らの信仰では、?承『
Trentren Vilu y Caicai Vilu
』が重要な位置を占める。さらに
Ngen
や
Pillan
などをはじめとする自然崇?に基づいた?的存在が信奉されている。マチは
シャ?マニズム
的な特?を持ち、通常は
女性
が?いつつ、年長の者が後進を指導する。マチは多?な
?草
などや科?的な知識を?く持ち、病?治療(マチトゥン)や
???い
、または雨乞い(ギジャトゥン)や豊作についての儀式や社?的な交流などを執り行う。
また、
1540年代
から?いたスペインやチリに?する?立や抵抗と、
1870年
代にチリによって征服された?史もマプチェ族の信仰において重要な位置を占めている。これらの記憶や物語?信念などは時に局地的なものだったりかなり特殊なものに?化している場合もある。しかし、チリに生きる多くのマプチェ族が自分をチリ人だと、アルゼンチンに生きる彼らが自分を
アルゼンチン人
だと受け取っている現在においても、その反抗の?史は消えること無く未だに息づき、チリの文化に多大な影響を?えている。
音?
[
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]
マプチェ族では、音?は儀式の一環として演奏される。木製の笛ピフィルカ(Pifilca)、角のホルン?トゥルトゥルカ(Trutruka)、片面太鼓クルトゥルン(Kultrun)、口琴トロンペ(Trompe)など固有の?器を用い、列になって演奏しながら祭壇を廻る。この他にも、語り調の歌も?わっている
[12]
[13]
[14]
。
現代にマプチェ音?を?えるミュ?ジシャンとしては、アルゼンチンのベアトリス?ピチ?マレンなどが活躍している
[15]
。
脚注
[
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]
?考文?
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編集
]
- 『When a flower is reborn : the life and times of a Mapuche feminist』 2002年、
ISBN 0822329344
- 『Courage tastes of blood : the Mapuche community of Nicolas Ailio and the Chilean state, 1906-2001』 2005年、
ISBN 0822335859
- 『Neoliberal economics, democratic transition, and Mapuche demands for rights in Chile』 2006年、
ISBN 0813029384
- 『Shamans of the foye tree : gender, power, and healing among Chilean Mapuche』 2007年、
ISBN 9780292716582
- 『A grammar of Mapuche』 2007年、
ISBN 9783110195583
- 野村哲也『パタゴニアを行く 世界でもっとも美しい大地』
中央公論新社
、2011年。
ISBN
978-4-12-102092-5
。
外部リンク
[
編集
]
ウィキメディア?コモンズには、
マプチェ族
に?連するカテゴリがあります。