ホラズム?シャ?朝

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホラズム?シャ?朝
ホラズム朝
????????????
セルジューク朝
カラハン朝
ゴール朝
イルデニズ朝
1077年 - 1231年 モンゴル帝国
ホラズム朝の位置
ホラズム?シャ?朝の最大領土
公用語 ペルシア語
アラビア語 (宗?)
テュルク語
宗? イスラム? スンナ派
首都 クフナ?ウルゲンチ
1077年 - 1212年
サマルカンド
(1212年 - 1220年
ガズニ?
(1220年 - 1221年
タブリ?ズ
1225年 - 1231年
スルタ?ン
ホラズム?シャ?
1077年 - 1097年 アヌ?シュ?テギ?ン
1127年 - 1156年 アトスズ
1172年 - 1200年 テキシュ
1200年 - 1220年 アラ?ウッディ?ン
1220年 - 1231年 メングベルディ?
面積
1210年 2,300,000 km²
1218年 3,600,000km²
人口
1220年 5,000,000人
?遷
成立 1077年
大セルジュ?ク朝 の滅亡 1157年 5月8日
モンゴル帝?により事?上崩? 1219年
滅亡 1231年 8月15日
通貨 ディルハム
現在 トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
カザフスタンの旗 カザフスタン
キルギスの旗 キルギス
タジキスタンの旗 タジキスタン
アフガニスタンの旗 アフガニスタン
パキスタンの旗 パキスタン
イランの旗 イラン
イラクの旗 イラク
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン

ホラズム?シャ?朝 (ホラズム?シャ?ちょう、 ペルシア語 : ???????????? ‎ Khw?razmsh?hiy?n フワ?ラズムシャ?ヒヤ?ン)は、 アム川 下流域 ホラズム の地方政?として起こり、 モンゴル帝? によって滅ぼされるまでに 中央アジア から イラン高原 に至る?大な領域支配を達成した イスラム王朝 1077年 - 1231年 )。 ホラズム朝 フワ?ラズム朝 コラズム朝 とも呼ぶ。

ペルシア語でホラズム?シャ?という王?をもつ君主を頂いた自立?半自立のホラズム王?は アラブ人 の進入以前から イスラム 化の?動を?つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが [1] 、通例ホラズム?シャ?朝と呼ばれるのは 11世紀 セルジュ?ク朝 から自立した政?を指す。

?史 [ 編集 ]

建?から?大の時代 [ 編集 ]

ホラズム?シャ?朝は、 セルジュ?ク朝 に仕えた テュルク 系の マムル?ク アヌ?シュ?テギ?ン が、1077年にその30年ほど前までは ガズナ朝 の領土であったホラズム地方の?督に任命されたのを起源とする [2] 。アヌ?シュ?テギ?ンの死後、その子クトゥブッディ?ン?ムハンマドが 1097年 頃にセルジュ?ク朝によりホラズムの?督に任命され、ホラズム?シャ?を自?した [3]

ムハンマドの死後、ホラズム?シャ?の位を世襲した アトスズ は、 1135年 頃にセルジュ?ク朝から自立の構えを見せた。 1138年 ホラズムの南の ホラ?サ?ン を本?地とするセルジュ?ク朝のスルタ?ン? サンジャル によって打ち破られ、再びセルジュ?ク朝に屈服した。この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ?キタイ( 西遼 )を中央アジアに呼び寄せたという?もある [4] 1141年 カトワ?ンの?い でサンジャルがカラ?キタイに敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ?キタイの?軍エルブズによってホラズム地方が破?され、カラ?キタイに貢納を誓約した [5]

1157年 、サンジャルの死をもってホラ?サ?ンのセルジュ?ク朝政?が解?すると、ホラズム?シャ?は再び自立を果たすが、今度はセルジュ?ク朝にかわって中央アジアに勢力を?げたカラ?キタイへと時に服?せねばならなかった。

イランの歴史
イランの?史
イランの?史
イランの先史時代 英語版
原エラム
エラム
ジ?ロフト文化 英語版
マンナエ
メディア王?
ペルシア帝?
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サ?サ?ン朝
イスラ?ムの征服
ウマイヤ朝
アッバ?ス朝
タ?ヒル朝
サッファ?ル朝
サ?マ?ン朝
ズィヤ?ル朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジュ?ク朝 ゴ?ル朝
ホラズム?シャ?朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティム?ル朝
?羊朝 白羊朝
サファヴィ?朝
アフシャ?ル朝
ザンド朝
ガ?ジャ?ル朝
パフラヴィ?朝
イスラ?ム共和?

1172年 よりホラズム?シャ?の スルタ?ン?シャ? と、その異母兄 アラ?ウッディ?ン?テキシュ の間で王位?いが起こり、弟に?抗して西部に自立したテキシュは初めて スルタ?ン を?した。?いは長期化するが、 1189年 にテキシュがスルタ?ン?シャ?と講和して王位を認められ、 1193年 のスルタ?ン?シャ?の死によってホラズム?シャ?朝の最終的な再統合を果たす。

テキシュの治世にホラズム?シャ?朝はイランへの?大を開始する。 1194年 には アゼルバイジャン のアタベク政? イルデニズ朝 の要請に?じて [6] 、中央イランの レイ イラク?セルジュ?ク朝 トゥグリル2世 を破ってセルジュ?ク朝を滅ぼし、西イランまでその版?に?めた [7] 1197年 、テキシュは アッバ?ス朝 カリフ から正式に イラク とホラ?サ?ンを支配するスルタ?ンとして承認され、大セルジュ?ク朝の後?者として自他ともに認められることとなった。

もともとホラズム?シャ?はマムル?クの出身で部族的?がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周?のテュルク系 遊牧民 に大きく依存しており、テキシュの覇?には アラル海 北方のテュルク系遊牧民 カンクリ キプチャク の力が大きな役割を果たした。テキシュの妻の一人であるテルケン?ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子 ムハンマド(アラ?ウッディ?ン) 1200年 にテキシュの後を?いで第7代スルタ?ンに?位する。

大帝?の建設と崩? [ 編集 ]

テキシュの子 アラ?ウッディ?ン?ムハンマド の治世に、ホラズム?シャ?朝は最盛期を迎えた [8] 。アラ?ウッディ?ンはホラ?サ?ンに侵入した ゴ?ル朝 を?退したうえ、逆にゴ?ル朝のホラ?サ?ンにおける?点都市 ヘラ?ト を奪った。カラ?キタイの宗主?下で辛うじて存?していた 西カラハン朝 は臣?と引き換えにアラ?ウッディ?ンにカラ?キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ?キタイを攻?した [9] 。アラ?ウッディ?ンはカラ?キタイに敗れてホラズム?に彼が?死した?まで流れるが、 1210年 には西カラハン朝に加えて ナイマン 部と同盟して スィル川 を渡り、 キタイ人 を破った [10] 。同1210年(もしくは 1212年 )にホラズムへの臣?を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼして アム川 とスィル川の間に?がる マ??ワラ??アンナフル を勢力下に置き、首都を サマルカンド に移した [11]

さらには シハ?ブッディ?ン の死後急速に分裂し始めたゴ?ル朝を打ち破って現在の アフガニスタン 中央部までほとんどを征服、 1215年 にゴ?ル朝を滅ぼした。アラ?ウッディ?ンはゴ?ル朝のホラズム侵入をアッバ?ス朝の扇動によるものと考え、 バグダ?ド の領有とカリフの地位を望んだ [12] 。アッバ?ス朝が招集した ファ?ルス やイルデニズ朝を破り [13] 1217年 にはイラクに遠征してアッバ?ス朝に?迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム?シャ?朝の勢力は中央アジアから西アジアまで?がる大帝?へと?展した。

しかし、ホラズム?シャ?朝の?落もまた、アラ?ウッディ?ンの時代に劇的に進むこととなった。ホラズム?シャ?朝が最大版?を達成したのと同じ頃、モンゴル帝?がカラ?キタイの政?を奪ったナイマン部の クチュルク を滅ぼし、ホラズム?シャ?朝と中央アジアで境を接するようになっていた [14] 。アラ?ウッディ?ンはモンゴル帝?の チンギス?ハ?ン と誼を通じていたが [15] [16] 1216年 にスィル川河畔の オトラル で、ホラズム?シャ?朝のオトラル?督 イナルチュク が、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い [17] [18] 、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった [19] 。モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラ?ウッディ?ンはテルケン?ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した [20]

モンゴル襲?と滅亡 [ 編集 ]

おそらくかねてから中央アジア侵攻の機?をうかがっていたモンゴル帝?のチンギス?ハ?ンは、この事件を機にホラズム?シャ?への復讐を決し、 1219年 にハ?ン自ら率いるモンゴル軍の大規模な侵攻を開始した [14] 。アラ?ウッディ?ンはカンクリ族を含む、遊牧民諸部族の寄り合いだったため、モンゴルの侵攻に?しては?紛と反抗の危?性に脅かされていた [21] 。これにより、モンゴルの侵攻に?して?返りの危?がある野?で迎?する作?を取ることができず、兵力を分散して サマルカンド ブハラ など中央アジアの各都市での籠城?を行なった [22] 。その結果、各都市は綿密に侵攻計?を準備してきたモンゴル側の各個?破にあって次?に落城、破?され、ホラズム?シャ?朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事?上崩?した [22] 。アラ?ウッディ?ン?ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先の カスピ海 上の小島で死亡した [22]

モンゴル軍の侵攻に際し辛うじて抵抗を?けることができたのは、アラ?ウッディ?ンの子 ジャラ?ルッディ?ン であった [23] 。ジャラ?ルッディ?ンはアフガニスタン方面でモンゴルと?い [24] ながら次第に南へと後退し、一時は インダス川 を渡って インド に入った。ジャラ?ルッディ?ンはインドの 奴隷王朝 に支援を求めるが拒絶され、奴隷王朝とインドの領主たちはジャラ?ルッディ?ンを放逐するために同盟した [25] 。ジャラ?ルッディ?ンはイランに?って各地を??、 エスファハ?ン で?立した弟ギヤ?スッディ?ンを破る。イラクを?てアゼルバイジャンに入り、 1225年 に?地のアタベク政? イルデニズ朝 を滅ぼして タブリ?ズ に入城した [26]

ジャラ?ルッディ?ンはアゼルバイジャンを?点に グルジア王? を攻?して南 カフカス から東 アナトリア に勢力を?げるが、 1227年 にギヤ?スッディ?ンの裏切りによってモンゴル軍との??に敗れる [27] 。ジャラ?ルッディ?ンはギヤ?スッディ?ンを再び破り、イラクに進出した。アナトリア中央部を支配する ル?ム?セルジュ?ク朝 と婚姻?係を結ぼうと試みたが、東部アナトリアの領土を巡って交?は決裂した [28] 1230年 、ジャラ?ルッディ?ンは東部アナトリアの エルズィンジャン 近郊でル?ム?セルジュ?ク朝と ダマスカス を支配する アイユ?ブ朝 の地方政?の連合軍に敗れ、その兵力の半?を失った [29]

1231年 、チンギスの死後に後を?いだ オゴデイ?ハ?ン はイラン方面に?軍 チョルマグン を指揮官とする討伐隊を派遣する。宰相シャラフ?アル=ムルクをはじめとする配下と、モンゴル軍の到?を知ったアゼルバイジャンの住民はジャラ?ルッディ?ンに反旗を?した [30] 。モンゴル軍の攻?を受けたジャラ?ルッディ?ンは東部アナトリアのア?ミド(現在の ディヤルバクル )近郊の山中に逃亡するが、怨恨を抱く現地の クルド人 によって殺害される [31] 。ジャラ?ルッディ?ンの死により、ホラズム?シャ?朝は滅びた。

文化 [ 編集 ]

ホラズム?シャ?朝の統治下で、ホラズム地方は中央アジアにおける ペルシア文? アラビア語 による?術?究の中心地となった [8] アフマド?ヤサヴィ? 、スライマ?ン?バキルガニ?らは、イスラ?ムの布?のため、ホラズム?シャ?朝の民衆に向けた文?作品を?した [32] 。ジャラ?ルッディ?ンの時代には、彼にトルコ語の文典が捧げられた [32]

クトゥブッディ?ン?ムハンマドの治世に、ペルシア語による??書『ホラズム?シャ?の貯?庫』が宮廷に?呈された [4]

?代スルタ?ン [ 編集 ]

  1. アヌ?シュ?テギ?ン 1077年 - 1097年
  2. クトゥブッディ?ン?ムハンマド 1097年 - 1127年
  3. アトスズ 1127年 - 1156年
  4. イル?アルスラン 1156年 - 1172年
  5. ジャラ?ルッディ?ン?スルタ?ン?シャ? 1172年 - 1193年
  6. アラ?ウッディ?ン?テキシュ 1172年 - 1200年
  7. アラ?ウッディ?ン?ムハンマド 1200年 - 1220年
  8. ジャラ?ルッディ?ン?メングベルディ? 1220年 - 1231年

系? [ 編集 ]

 
アヌ?シュ?テギ?ン 1
 
 
 
 
 
 
 
 
クトゥブッディ?ン?ムハンマド 2
 
 
 
 
 
 
 
 
アトスズ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
イル?アルスラン 4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アラ?ウッディ?ン?テキシュ 6
 
ジャラ?ルッディ?ン?スルタ?ン?シャ? 5
 
 
 
 
 
 
 
 
アラ?ウッディ?ン?ムハンマド 7
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャラ?ルッディ?ン?メングベルディ? 8
 

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

出典 [ 編集 ]

  1. ^ ド?ソン (1968)、p.154
  2. ^ 鳥井 (1993)、pp.190-191
  3. ^ 岩村 (2007)、p.169
  4. ^ a b 井谷 (1968)、p.126
  5. ^ ド?ソン (1968)、p.154,p.332
  6. ^ 井谷 (1968)、pp.127-128
  7. ^ ヒッティ (1983)、p.266
  8. ^ a b ?水 (2002)
  9. ^ ド?ソン (1968)、pp.156-157
  10. ^ ド?ソン (1968)、pp.145-146,p.157
  11. ^ ド?ソン (1968)、pp.158-159
  12. ^ ド?ソン (1968)、pp.163-164
  13. ^ ド?ソン (1968)、p.165
  14. ^ a b 杉山 (1997)、p.407
  15. ^ 岩村 (2007)、pp.179-180
  16. ^ ド?ソン (1968)、pp.174-176
  17. ^ ド?ソン (1968)、pp.178-179
  18. ^ 杉山 (1996)、p.50
  19. ^ 岩村 (2007)、p.180
  20. ^ ド?ソン (1968)、pp.180-181
  21. ^ 杉山 (1997)、pp.407-408
  22. ^ a b c 杉山 (1997)、p.408
  23. ^ 岩村 (2007)、pp.186-187
  24. ^ 岩村 (2007)、p.187
  25. ^ ド?ソン (1973)、pp.5-6
  26. ^ ド?ソン (1973)、pp.14-16
  27. ^ ド?ソン (1973)、pp.28-30
  28. ^ ド?ソン (1973)、pp.42-44
  29. ^ ド?ソン (1973)、p.48
  30. ^ ド?ソン (1973)、pp.54-57
  31. ^ ド?ソン (1973)、pp.64-65
  32. ^ a b バルトリド (2011)、p.205

?考文? [ 編集 ]

  • 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン?トルコ』永田雄三編、 山川出版社 、<新版世界各?史>、2002年。 ISBN 4634413906
  • 岩村忍 『文明の十字路=中央アジアの?史』 講談社 講談社?術文庫 〉、2007年。 ISBN   978-4-06-159803-4  
  • ?水宏祐「ホラズム?シャ?朝」『新イスラム事典』、平凡社、2002年、p.446。 ISBN 4582126332
  • 杉山正明 『モンゴル帝?の興亡 上 軍事?大の時代』講談社〈 講談社現代新書 〉、1996年。 ISBN   4-06-149306-X  
  • 杉山正明 「第4章 元 2モンゴル帝?の成立」『中?史 3:五代 - 元』 松丸道雄、池田?、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、山川出版社、〈世界?史大系〉、1997年、pp.397-428 ISBN 4-634-46170-6
  • C.M.ド?ソン 著、佐口透 ?『モンゴル帝?史』 1?(初版)、 平凡社 東洋文庫 〉、1968年。  
  • C.M.ド?ソン 著、佐口透 ?『モンゴル帝?史』 4?(初版)、平凡社〈東洋文庫〉、1973年。  
  • 鳥井順『中東軍事紛?史 I :古代 - 1945』(初版) 第三書館 〈パレスチナ選書〉、1993年。 ISBN   4-8074-9362-0  
  • V.V.バルトリド 著、小松久男 ?『トルキスタン文化史』 1?(初版)、平凡社〈東洋文庫〉、2011年。  
  • ヒッティ, フィリップ?K 著、岩永博 ?『アラブの?史』 下(初版)、講談社〈 講談社?術文庫 〉、1983年。 ISBN   4-06-158592-4  

外部リンク [ 編集 ]