ペロポネソス??

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ペロポネソス??

?:ペロポネソス同盟諸都市、赤:デロス同盟諸都市、?: アケメネス朝
?? :ペロポネソス??
年月日 紀元前431年 - 紀元前404年
場所 古代ギリシア
結果 スパルタ の勝利
交?勢力
スパルタ を中心とする ペロポネソス同盟
アケメネス朝
シュラクサイ
アテナイ を中心とする デロス同盟
指導者?指揮官
アギス2世
アルキダモス2世
パウサニアス
ブラシダス
プレイストアナクス
リュサンドロス
アルキビアデス
ヘルモクラテス
アルキビアデス
クレオン
デモステネス
ニキアス
ペリクレス
ペロポネソス??
ペロポネソス??の?陣?。赤が ペロポネソス同盟 軍の進路、?が デロス同盟 軍の進路

ペロポネソス?? (ペロポネソスせんそう、 古希 : Πελοποννησιακ?? Π?λεμο? : Peloponnesian War 紀元前431年 - 紀元前404年 [1] )は、 アテナイ を中心とする デロス同盟 スパルタ を中心とする ペロポネソス同盟 との間に?生した、 古代ギリシア 世界全域を?き?んだ ?? である。

背景 [ 編集 ]

紀元前435年 コリントス 人により建設された ギリシア 北西部の 植民市 ケルキュラ (?時は?にコリントスと離反)を母市とする植民市 エピダムノス は打ち?く?紛と周?民族との抗?のために疲弊し、?部の仲裁と兵隊の援助を母市ケルキュラに求めたがケルキュラ人は何の援助も?えなかった。困窮したエピダムノスはコリントスに救援を要請し、これに?じたコリントスが守備兵と施政官を派遣し植民者の公募を始めると、激?したケルキュラ人はエピダムノスへ侵攻、エピダムノスを攻?ののち?落させ、各地のコリントス植民市に?して略奪を繰り返した。

報復の機?を窺うコリントスの軍備??を恐れたケルキュラはアテナイに援助を求め、 紀元前432年 これを遠からず起こるだろう?ペロポネソス同盟?の?力??の好機と見たアテナイが?じて援軍を送り??となった( シュボタの海? )。翌年、ギリシア北部にあるコリントス人の植民市 ポテイダイア がアテナイの武?解除要求を拒否して デロス同盟 からの?退とペロポネソス同盟による保護と加盟を求めた事に?して、アテナイが軍を派遣して包?、一部のコリントス人が個人的に救援した( ポティダイアの?い )。これらの事件により、アテナイはコリントスと?立する事になる。

この頃、アテナイはデロス同盟の覇者として エ?ゲ海 に覇?を確立し、隷?市や軍事力を積極的に?大していた。これに?し、自治?立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好?的な?張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。

これらを背景として、勃興する覇?主義勢力と??の自治?立の イデオロギ? ?立が ポリス 間の?益や?結??と結びついた結果、「デロス同盟?ペロポネソス同盟」という 代理?? 的構?が作られ、 紀元前432年 にペロポネソス同盟?議は、アテナイ軍のペロポネソス同盟市に?する略奪や侵略を和約の破棄と見なし、アテナイとの開?を決議した。

?過 [ 編集 ]

十年?? [ 編集 ]

紀元前431年 5月、 スパルタ王 アルキダモス2世 率いるペロポネソス同盟軍による アッティカ 侵攻が開始された。?するアテナイはペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイと ペイラエウス港 及び?者を?ぐ二重城壁の?側へ退避させる?城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本?などを攻?する作?を取った。ところが、エジプト?リビア?ペルシャ領?エ?ゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも?生、市?の治安が?れ?賊が?行した、紀元前429年までに市民の約6分の1が病死した。

しかし、海上におけるアテナイ軍の優位は?わらず、 紀元前425年 スファクテリアの?い 英語版 において??決して降伏しないとされていたスパルタ市民兵120人を含む292人を捕虜とする勝利を?めるなど多くの?果を得ていた。ペロポネソス同盟軍側は停?を申し入れたが、ペリクレス死後、好?的な民衆を抑制出?る指導者を欠いたアテナイはこの申し出を拒否、???行の構えをとった。しかし、?局は次第にペロポネソス同盟側へ傾き始め、ペロポネソス同盟軍が ボイオティア トラキア において勝利を?める。ところが、紀元前422年にスファクテリアの勝者で、アテナイの好?的指導者 クレオン 、同じく主?派のスパルタの?軍 ブラシダス がトラキアの アンフィポリスの?い で共に?死した。

ニキアスの和約 [ 編集 ]

和平を望むアテナイの?軍 ニキアス 、同じく和平を望むスパルタ王 プレイストアナクス 主導の下で翌紀元前421年にアテナイ、ペロポネソス同盟間で和平が成立した( ニキアスの和約 )。しかし、??共に決定された領土の返還事項を守らず、ニキアスの和平が??を完全に終わらせるには至らなかった。

第二次?? [ 編集 ]

紀元前415年 にアテナイは主?論を唱える アルキビアデス の主導で シケリア遠征 を決定し、これによって??が再開されることとなった。しかし、シケリア遠征は彼我の距離を無視した無謀とも言える遠征であった。同年にシケリアの?局がアテナイ側不利に傾き始めたのを機にペロポネソス同盟はアテナイへの穀物の供給地として重要な デケレイア 英語版 を占領した。大兵力を投入したアテナイ軍の2次に及ぶシケリア遠征軍が?滅、失敗に終わったことにより、デロス同盟の被支配市から離反が相次ぎ、情勢はペロポネソス同盟優位に傾いていった。

アテナイは予想外の耐久力を?揮し、依然エ?ゲ海でペロポネソス同盟と渡り合った。アテナイはいくつかの海?で勝利を?めるものの、大勢は決しており逆?するには至らなかった。 紀元前405年 ケルソネソス半島 英語版 (今日の トルコ ゲリボル半島 )を流れる アイゴスポタモイ川 英語版 の河口付近で アイゴスポタモイの海? が勃?した。この海?では、食料調達のために上陸し、休息を取っていたアテナイ軍を リュサンドロス 率いるペロポネソス同盟軍が急襲し勝利を?めた。この勝利により ?海 方面の 制海? を完全にペロポネソス同盟が掌握、同時にアテナイ市への食料供給路を?った。翌 紀元前404年 にはアテナイ市が包?され、アテナイの降伏を以って??は終結した。

影響 [ 編集 ]

ソクラテスの弁明とアナバシス [ 編集 ]

??の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩?してスパルタ人指導の下に寡頭派政?( 三十人政? )が?足し、 恐怖政治 による??を行なった。だが、9ヶ月で トラシュブロス 率いる共和制派勢力が三十人政?を打倒し政?を奪取する。共和制政?のもとでは、ペロポネソス??敗?の原因となった アルキビアデス や、三十人政?の指導者の クリティアス らが弟子であったことから、 ソクラテス アニュトス らによって糾?され、公開裁判にかけられて刑死した [2] 紀元前401年 の同時期、 アケメネス朝 ペルシアでは アルタクセルクセス2世 小キュロス の間で後?者?いの クナクサの?い が起こった。この?いに?加した クセノポン は『アナバシス』を記した。

ペルシア帝?の資金支援 [ 編集 ]

アテナイはデロス同盟の支配者たる地位は失ったものの、有力ポリスとして存在し?けた。ペルシア帝?のギリシャ地方支配に?抗したスパルタに?して、ペルシャ帝?は敵?するアテナイやテ?バイ、後にはコリントスなどのスパルタと敵?するポリスに資金支援を行い、諸ポリスが 合?連衡 を繰り返してスパルタに?抗した(例えば コリントス?? 大王の和約 )。 紀元前379年 にようやくスパルタがギリシャとエ?ゲ海における覇?を握ったが、海上交易のもたらす富が市民の間に貧富の差を生み、主に自作農から構成された兵役を?う自由市民が700名程度にまで減少したため、質?剛健を旨とする リュクルゴス制度 ( 古代ギリシア語 : Λυκο?ργο? , 英語 : Lycurgus )は打?を受けた。

ボイオティア?? [ 編集 ]

紀元前378年 、アテナイがデロス同盟に代わる 第二次海上同盟 英語版 を再び結成した。ギリシア世界が ボイオティア?? 英語版 で慢性的な???態に?り、徐?に衰退する一方で、アテナイは 紀元前375年 ナクソス沖の海? 英語版 でペルシア軍を打ち破り、海上の覇?を取り?した。 紀元前371年 、スパルタ軍は レウクトラの?い エパメイノンダス に率いられた テ?バイ 軍に敗北し、ギリシアの 覇? を失った。一時的に覇?を握ったテ?バイも、 紀元前362年 マンティネイアの?い でエパメイノンダスが?死すると覇?を失った。

マケドニアの台頭 [ 編集 ]

紀元前357年 にテ?バイを中心とする同盟市と第二次海上同盟を擁するアテナイの間で 同盟市?? 英語版 が勃?し、 紀元前356年 にはテ?バイを中心とする アンフィクテュオニア評議? (隣保同盟)と フォキス を中心とするアテナイ?スパルタ連合軍の間で 第三次神聖?? 英語版 が起こった。 紀元前355年 に同盟市??は同盟市の勝利におわり、第二次海上同盟は崩?。 紀元前346年 に第三次神聖??も 隣保同盟 が勝利し、隣保同盟側に??したマケドニア王?のフィリッポス2世は影響力を?めた。 紀元前347年 プラトン が死去し、 アリストテレス が故?のマケドニアに??して アレクサンドロス3世 の家庭?師になったこともこの後の?史に大きな影響を?えた。 紀元前338年 カイロネイアの?い マケドニア王? にアテナイ?テ?バイ連合軍は敗北し、マケドニアの覇?が成立した。こうしてギリシア世界はマケドニアの支配下に置かれることになったのである(スパルタだけはマケドニア主導の ヘラス同盟 (コリント同盟)に加わらず、後に アギス3世 が反マケドニアの兵を起こすも、 紀元前331年 メガロポリスの?い で敗れた)。 紀元前336年 にフィリッポス2世が暗殺されると一時的にヘラス同盟は混?に?ったが、アレクサンドロスが?力を掌握。 紀元前334年 にアレクサンドロスは、 ペルシア?? 以?のギリシア世界の宿敵ペルシアを倒すためにマケドニア軍を率いて東征に?り出した( アレキサンダ?の東征 英語版 )。

年表 [ 編集 ]

トゥキュディデス アンフィポリス をめぐる?いに指揮官として?加したが敗れ、責任を問われて20年の追放刑に?せられた。このためスパルタの支配地にも逗留したことがあり、?方を客?的に?察することができた。

なお、 哲?者 ソクラテス も一兵卒としてこの??に?加し、デリオンの?いでは味方が?崩れになる中最後まで奮?した。彼の奮?の?子を弟子の プラトン は著作において述べている。だが、??への?加にもかかわらず、アルキビアデスや クリティアス を始めとする彼の弟子や?係者が??とその後の混?の原因となったことで民衆の反?を招き、後の刑死の一因となった。

紀元前362年 マンティネイアの?い 以降の?史は、 ディオドロス の『 ?史叢書 英語版 』や、 アッリアノス の『 アレクサンドロス東征記 』( 古希 : ?λεξ?νδρου ?ν?βασι? )等の記?から知ることが出?る。

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 明石和康『ヨ?ロッパがわかる 起源から統合への道のり』 岩波書店 、2013年、?連年表頁。 ISBN   978-4-00-500761-5  
  2. ^ この?緯は、 クリティアス の?兄弟でソクラテスの弟子 プラトン が四部作『 エウテュプロ?ン 』、『 ソクラテスの弁明 』、『 クリトン 』、『 パイドン 』に記?し、後世に?えられている。

出典??考文? [ 編集 ]

  • トゥキュディデス 『トゥキュディデス ?史(1.2)』  藤?謙三 ? 城江良和 ?、 京都大??術出版? 〈西洋古典叢書〉、2000年-2003年。
  • クセノポン 『ギリシア史(1?2)』  根本英世 ?、京都大??術出版?〈西洋古典叢書〉、1998年-1999年。

?連項目 [ 編集 ]