- ハイダラ?バ?ド藩王?
- Hyderabad State
-
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(?旗)
| (?章)
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1909年
の領土
(??の
ベラ?ル地方
は
1853年
から
イギリス
領)
-
ニザ?ム藩王?
(ニザ?ムはんおうこく、
英語
:Nizam of Hyderabad/Nizam Dominion)あるいは
ハイダラ?バ?ド藩王?
(ハイダラバ?ドはんおうこく、
ヒンディ?語
:
???????? ?????
、
ペルシア語
:
????????
、
ウルドゥ?語
:
????????
、
テルグ語
:
????????? ????????
、
Haiderabad State
[1]
)は、
インド
、
デカン地方
に存在した
イスラ?ム王朝
(
1724年
-
1948年
)。
首都
は
アウランガ?バ?ド
、
ハイダラ?バ?ド
。
1724年、ニザ?ム王?は
ムガル帝?
の宰相
カマルッディ?ン?ハ?ン
により創始され、?代の君主は帝?から?えられた「
ニザ?ム
」の??を名?った。
1798年
より前は
ハイダラ?バ?ド王?
あるいは
ニザ?ム王?
、1798年以降は
藩王?
化したことで
ニザ?ム藩王?
あるいは
ハイダラ?バ?ド藩王?
となった。
イギリス
植民地下においては
マイソ?ル藩王?
や
ジャンム??カシュミ?ル藩王?
同?に?大な領土を持つ藩王?であり、ニザ?ム藩王?の領土面積はインド最大であった。また、イギリスが定めた藩王?の序列の筆頭に位置づけられ、藩王を迎える際の
?砲
の??は、?立?家の
元首
に準じた「21?」と規定されていた。
名?
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]
名?は?究者によってさまざまで、上記のほかに
ニザ?ム?
、
ニザ?ム政?
、
ハイダラ?バ?ドのニザ?ム
など多?ある。また、創始者およびその子孫の??をとって、
ア?サフ?ジャ?ヒ?朝
(Asaf Jahi dynasty)などといった呼び方もされる。
?史
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]
前史
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]
デカン?スルタ?ン朝
のひとつである
ゴ?ルコンダ王?
(クトゥブ?シャ?ヒ?朝)の王
ムハンマド?クリ??クトゥブ?シャ?
が新都建設の際、寵?
バ?グマティ?
(
英語版
)
の名にちなみ、
1589年
に「バ?グナガル(バ?グマティ?の都市)と命名した。
しかし、
1605年
にバ?グマティ?がムスリムに改宗し、ハイダル?マハル(
Hyder Mahal
)に改名するとその名にちなみ、「ハイダラ?バ?ド(ハイダルの都市)」(
ペルシア語
:
???? ????
-
Haiderabad
)と改名した。
その後、
ムガル帝?
の皇帝
アウラングゼ?ブ
の
デカン地方
遠征(
デカン??
)により、
1687年
にゴ?ルコンダ王?は滅ぼされ、ハイダラ?バ?ドも占領された。ゴ?ルコンダ王?の?領はハイダラ?バ?ド州として帝?の一州となった。
成立
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]
1722年
2月
、ムガル帝?の貴族
カマルッディ?ン?ハ?ン
はその功績により、皇帝
ムハンマド?シャ?
から宰相の地位を?えられた
[2]
[3]
。彼はデカン地方に所領をもつ貴族であり、
1713年
に先帝
ファッルフシヤル
からは「
ニザ?ムル?ムルク
」(皇帝の代理人、あるいは王?を取り仕切る者)の??を?えられ、ムハンマド?シャ?からは全幅の信?を置かれた
[2]
[3]
。
だが、カマルッディ?ン?ハ?ンはムハンマド?シャ?の?落や側近のいさかいに次第に愛想を?かすようになっていき、彼が行おうとした?政の改革もくだらない?立のために頓挫した
[4]
。そして、
1723年
10月
にカマルッディ?ン?ハ?ンは宰相職を?し、帝?に見切りをつけて
デリ?
を出て、自らの所領があるデカン高原に?家を樹立しようと南へと旅立った
[4]
。
1724年
10月11日
、カマルッディ?ン?ハ?ンは所領を目指して南下するさなか、
デカン?督
ムバ?リズ?ハ?ン
率いるムガル帝?軍の攻?を受けた(
シャカル?ケ?ダ?の?い
)
[5]
。だが、彼は巧妙な?術でムガル帝?軍を完膚なきまでに打ち破り、ムバ?リズ?ハ?ンを殺害し、これにより彼を始祖とする
ニザ?ム王?
が創始された。
その後、カマルッディ?ン?ハ?ンはハイダラ?バ?ドへと入城し、
6月25日
にカマルッディ?ン?ハ?ンは皇帝ムハンマド?シャ?により名目的にデカン6州の全?を統括するデカン?督の地位に任命され
[6]
[7]
[8]
、「
ア?サフ?ジャ?
」の??を贈られた
[8]
。この??がニザ?ム王?の王朝名となり、ア?サフ?ジャ?ヒ?朝とも呼ばれるようになった。
マラ?タ?との?い
[
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]
カマルッディ?ン?ハ?ンはハイダラ?バ?ドを一時的な首都したが、のちに同地から
アウランガ?バ?ド
へと移動し、自己の所領と支配を固めようとした。
だが、領土としてあてがわれたデカン6州は
マラ?タ?王?
にも?利を認められていたために?いが生じた。すでに、
1718年
7月
にマラ?タ?はムガル帝?領のデカン6州に?して、
チャウタ
(諸?の4分の1を??する?利)および
サルデ?シュムキ?
(諸?の10分の1を別に??する?利)が協定が取り決められ、
1719年
3月
に皇帝に認められていたのである
[9]
。
マラ?タ?王?宰相
バ?ジ??ラ?オ
との2度にわたる激?の結果、
1728年
3月
にはマラ?タ?のデカンにおけるチャウタとルデ?シュムキ?を認め、
1738年
1月
に
ボ?パ?ルの?い
の結果として結ばれた?約では
マ?ルワ?
を割?しなければならなかった
[10]
。
とはいえ、カマルッディ?ン?ハ?ンはマラ?タ?を自?から締め出し、デカンに秩序ある行政を敷いた
[2]
、その一環として、帝?の
ジャ?ギ?ルダ?リ?制
を王?に導入して、反抗的な有力
ザミ?ンダ?ル
はその?威に服すように?要し、王?の??機構からは汚職による腐敗を排除しようとした。
第二次カ?ナティック??における王?
[
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]
1748年
6月
、カマルッディ?ン?ハ?ンが死ぬと、息子の
ナ?シル?ジャング
が後を?いだが、孫の
ムザッファル?ジャング
も王位の?承を主張した。ニザ?ム王?がよく介入していたカルナ?タカ太守の??も相まって、一???の危機にあった
[2]
。
王位を主張するムザッファル?ジャングは
フランス
の
チャンダ??サ?ヒブ
や
フランス
のデュプレクスと結び、カルナ?タカ太守
アンワ?ルッディ?ン?ハ?ン
を殺害し、
第二次カ?ナティック??
が勃?した。
その後、ナ?シル?ジャングとムザッファル?ジャングはこの??で殺害され、フランスによって
ア?サフ?ジャ?
の三男であるサラ?バト?ジャングを新ニザ?ムとされた
[11]
[12]
。
1753年
11月23日
、サラ?バト?ジャングはフランスと
アウランガ?バ?ド?約
を結び、フランス軍の駐留費として、
北サルカ?ル
と呼ばれる地域を割?した
[12]
[13]
。
イギリスとの友好?約の締結?マイソ?ル??への?加
[
編集
]
1762年
7月8日
、サラ?バト?ジャングは弟
ニザ?ム?アリ??ハ?ン
に幽閉され、この弟が新ニザ?ムとなった。
一方、
1766年
3月
以降、イギリスはニザ?ム王?がフランスに割?した北サルカ?ル地方を占?し始めた。この地方は、
1765年
8月
ムガル帝?
の皇帝
シャ??ア?ラム2世
により
アラ?ハ?バ?ド?約
でイギリスに割?されていた。
同年
11月12日
にはインドに進出してきた
イギリス
といち早く友好?約を結び、その同盟?となった
[14]
。この年をニザ?ム王?が藩王?となった年とする場合がある。ただし、この友好?約に
外交?
を返上する旨が直接書かれていたわけではなく、外交?の喪失は?次にわたる改定の結果によるものである。
その後、イギリスと
南インド
の
マイソ?ル王?
との間に
マイソ?ル??
が勃?し、
第一次マイソ?ル??
ではマイソ?ル側に味方したがイギリスに?迫され、
1767年
2月23日
にニザ?ム王?は新たな友好?約を結ばされ、イギリスからの??差額支?いの減額を決められた
[15]
[16]
。
第二次マイソ?ル??
では、ニザ?ム王?はマラ?タ?王?とともに味方したが、途中でイギリスと和睦し、?線から離?した
[17]
。その後はマラ?タ?王?とともにマイソ?ル王?の警戒に?たり?けた
[14]
。
第三次マイソ?ル??
では、ニザ?ム王?はマラ?タ?王?とともにイギリスに協力し、マイソ?ル王?の?深くまで攻め入り、
1792年
2月
にその首都
シュリ?ランガパトナ
を包?した
[18]
。
?後、
シュリ?ランガパトナ?約
により、ニザ?ム王?はマイソ?ル王?領北部を割?された
[18]
。
王?の藩王?化
[
編集
]
第三次マイソ?ル??では共?したニザ?ム王?とマラ?タ?王?であったが、??後は不和となり、
1795年
3月11日
に
カルダ?
で大敗を喫した(
カルダ?の?い
)
[19]
[20]
。その後に結ばれた講和?約により、
ダウラタ?バ?ド
、
アウランガ?バ?ド
、
アフマドナガル
、
ショ?ラ?プル
などの地を割?し、3000万ルピ?という多額の賠償金を支?わなければならなかった
[11]
[19]
[21]
。
これは明らかにニザ?ム王?のマラ?タ?に?する劣勢さをあらわしていた。この事態に直面したニザ?ム?アリ??ハ?ンがマラ?タ?の脅威を除くために選んだのが、イギリスの???、つまり藩王?としての存?を?る道であった
[19]
[22]
。
1798年
9月1日
、ニザ?ム王?とイギリスとの間に軍事保護?約が結ばれた
[20]
[22]
。この?約では、王?に駐留するイギリス軍の大幅?員およびそれに支?う駐留費の負??額、フランス人主?の精?部隊を解散し、すべてのフランス人?兵の解雇を約した
[19]
[22]
。
こうして、ニザ?ム王?はイギリスに??する、いわゆる藩王?の立場に落とされた(ニザ?ム藩王?)。
藩王?化後の統治
[
編集
]
1799年
2月
、
第四次マイソ?ル??
が勃?すると、ニザ?ム藩王?もこれに?加し、5月にイギリスとともにシュリ?ランガパトナを落とした。その後、マイソ?ル王?が降伏して結ばれた?約では、マイソ?ル王?はイギリスとニザ?ム藩王?、マラ?タ?王?にさらに領土の約半分を割?し、そのうちの北部がニザ?ム藩王?に割?された
[19]
[22]
[23]
。
1800年
10月12日
、ニザ?ム王?はイギリス軍への駐留費免除を引き替えに、1792年及び1799年にマイソ?ル??で獲得した
カダパ
、
カルヌ?ル
、
ベッラ?リ
、
アナンタプル
といった割?地をイギリスに再割?させられた(この領土は「割?諸?」と呼ばれている)
[24]
[25]
。
1853年
5月21日
、ニザ?ム藩王?はイギリスから駐留費?納分の代?として、綿花の生産地であった
ベラ?ル地方
の割?を求められ、??これに?じた
[26]
。
1857年
5月
に
インド大反?
が勃?すると、ニザ?ム藩王?はイギリス側につき、反?の??を支援した。
ニザ?ム藩王?は
19世紀
になっても、役人や軍人への給?地制度である
ジャ?ギ?ル
制による封建的土地所有制など中世さながらの政治が行われ、その後進性が問題視されていたが
[27]
、一?
近代化
事業には熱心だった。首都ハイダラ?バ?ド近郊をはじめ領?には有望な
石炭
の?脈があり、綿花栽培も盛んだったため、産業開?の可能性は大いにあったと言える。
しかし、一方でこのような事業は常にイギリス(インド政?)の干?を受けた。?政?はイギリスから保?されていたが、?際には藩王?に置かれたイギリス人の駐在官による?政干?が日常化しており、自?の資本でニザ?ム?道を建設する際にも?い干?を受けた。この結果、建設費の高?な
?軌
を採用することを余儀なくされ、また完成後の?道運?をインド政?に握られることになり、莫大な負債を負うことになった。
インドによる?合
[
編集
]
1947年
8月15日
、
インド
と
パキスタン
は分離?立し(
インド?パキスタン分離?立
)、この日までに
ジャンム??カシュミ?ル藩王?
、
ジュナ?ガド藩王?
、そしてニザ?ム藩王?の3つの藩王?以外は??先をそれぞれ決めていた
[28]
。
ニザ?ム藩王?は
西パキスタン
からも
東パキスタン
からも遠い位置にあったこともあり、??で?立を宣言した
[28]
。インド政府はパキスタンと?境を接するジャンム??カシュミ?ル藩王?の確保を優先していたため、同年
11月29日
にニザ?ム藩王?はインドとひとまず「現?維持」の暫定協定を結んだ
[28]
。
だが、その後のニザ?ム藩王?とインド政府の?係は?化した。同じムスリムであった藩王?とパキスタンのつながり、およびインド?大陸の中心部に?立した政?が出?るのをインド政府が嫌ったことから、
1948年
9月13日
にインド軍が?地に侵攻し、
17日
に藩王は降伏した(
ポロ作?
)
[28]
。これにより、ニザ?ム藩王?はインドに?合された。
インド最大にして最後のイスラ?ム王朝は幕を閉じた。
?代君主
[
編集
]
- カマルッディ?ン?ハ?ン
(在位:1724年 - 1748年)
- ナ?シル?ジャング
(在位:1748年 - 1750年)
- ムザッファル?ジャング
(在位:1750年 - 1751年)
- サラ?バト?ジャング
(在位:1751年 - 1762年)
- ニザ?ム?アリ??ハ?ン
(在位:1762年 - 1803年)
- シカンダル?ジャ?
(在位:1803年 - 1829年)
- ナ?シル?ウッダウラ
(在位:1829年 - 1857年)
- アフザル?ウッダウラ
(在位:1857年 - 1869年)
- マフブ?ブ?アリ??ハ?ン
(在位:1869年 - 1911年)
- ウスマ?ン?アリ??ハ?ン
(在位:1911年 - 1948年)
脚注
[
編集
]
- ^
"haider" は
英語
:
lion
、
英語
:
Hyderabad state
または
英語
:
brave
の意。"abad" は
英語
:
city
の意。
- ^
a
b
c
d
チャンドラ『近代インドの?史』、p.14
- ^
a
b
Hyderabad 3
- ^
a
b
チャンドラ『近代インドの?史』、p.9
- ^
Mir Qamaruddin Chin Qilij Khan - Nizam I ASAF JAHI DYNASTY
- ^
Short Essay on British Supremacy in South India
- ^
Hyderabad Events and dates, Important history dates for hyderabad
- ^
a
b
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』、p.172
- ^
小谷『世界?史大系 南アジア史2―中世?近世―』、p.213
- ^
小谷『世界?史大系 南アジア史2―中世?近世―』、p.215
- ^
a
b
Hyderabad 4
- ^
a
b
チャンドラ『近代インドの?史』、p.60
- ^
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』、p.220
- ^
a
b
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.42
- ^
小谷『世界?史大系 南アジア史2―中世?近世―』、p.219
- ^
Full text of "A History Of Administrative Reforms In Hyderabad State"
- ^
チャンドラ『近代インドの?史』、p.71
- ^
a
b
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206
- ^
a
b
c
d
e
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』、p.207
- ^
a
b
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.44
- ^
Anglo-Maratha Relations, 1785-96 - Sailendra Nath Sen - Google ブックス
- ^
a
b
c
d
小谷『世界?史大系 南アジア史2―中世?近世―』、p.277
- ^
チャンドラ『近代インドの?史』、p.76
- ^
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』、p.208
- ^
The Ceded Districts, the Circars, and the Nizam
- ^
辛島『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.46
- ^
ガ?ドナ?『イギリス東インド?社』、p.325
- ^
a
b
c
d
ハイデラバ?ド藩王?
?考文?
[
編集
]
- 小谷汪之
『世界?史大系 南アジア史2―中世?近世―』山川出版社、2007年。
- 辛島昇
『世界?史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。
- ビパン?チャンドラ
著、栗原利江 ?『近代インドの?史』山川出版社、2001年。
- ブライアン?ガ?ドナ?
著、浜本正夫 ?『イギリス東インド?社』リブロポ?ト、1989年。
?連項目
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]