トマス?ウルジ?
(
英
:
Thomas Wolsey
,
PC
,
1475年
-
1530年
11月28日
/
29日
)は、
イングランド
の聖職者、政治家。
ウルジ??機卿
( ?すうききょう、英:
Cardinal Wolsey
)の名で知られる。?王
ヘンリ?8世
の治世初期に
寵臣
として?擢、信任を得て?政?外交に辣腕を振るった。なお、
Wolsey
の原語での?音は
ウォルズィ?
に近い。
生涯
[
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]
王の側近に?擢
[
編集
]
イングランド東部
サフォ?ク
の
イプスウィッチ
に生まれた。父親は肉屋をしていた。地元の
グラマ?スク?ル
と
オックスフォ?ド大?
の
モ?ドリン?カレッジ
で?び、カレッジの
フェロ?
に選出、
1498年
に聖職者の資格を得る。それからは貴族たちの知己を得ながら
サマセット
の
リミントン
(
英語版
)
を始め各地の
聖職?
も獲得、
カンタベリ?大司?
ヘンリ??ディ?ン
(
英語版
)
付きの
司祭
(
チャプレン
)、
カレ?
?督代理
リチャ?ド?ナンファン
付きのチャプレンを?て、イングランド王
ヘンリ?7世
の治世の
1507年
に王室??堂付き司祭となり、ヘンリ?7世に能力を買われ外交使節を務めた。しかし?重なヘンリ?7世から警戒され出世しなかったという
[1]
[2]
[3]
。
1509年
に?位した
ヘンリ?8世
にも認められ、非公式の秘書官に?擢されて王と
リチャ?ド?フォックス
(
英語版
)
ら顧問官たちのパイプ役を務め、フォックスの引き立てもあり出世は?き
1511年
に?密顧問官となった。
1513年
のヘンリ?8世の
フランス
遠征(
カンブレ?同盟??
)に伴う兵站、王への豪華な調度品移送などの準備に奔走した功績で王の?えがめでたくなり、イングランド軍が占領した
トゥルネ?
の
司?
(
英語版
)
とイングランドの
リンカン司?
(
英語版
)
に任命され、翌
1514年
に
ヨ?ク大司?
にも任命され4000ポンドの莫大な不動産?入を手に入れたが、失脚するまで任地ヨ?クへ行かない??不在聖職者であった。翌
1515年
にヘンリ?8世から
ロ?マ?皇
レオ10世
への推薦で
?機卿
にも任命、同年に
ウィリアム?ウォラム
(
英語版
)
の後釜として
大法官
、
1518年
に?皇特使となる。これにより、聖俗共に司法?を握り?皇特使の?限で
カンタベリ?
と
ヨ?ク
?方の
??管?
にも支配を及ぼし、イングランド??の支配を一手に?めるようになった。?皇特使就任に?たって??改革を約束したり、親交がある
デジデリウス?エラスムス
のイングランド?在に?力する一面もあった
[1]
[2]
[4]
。
以後も1518年に
バ?ス?アンド?ウェルズ司?
(
英語版
)
、
1523年
に
ダラム司?
(
英語版
)
、
1529年
に
ウィンチェスタ?司?
(
英語版
)
と?入の多い聖職?を獲得、
1521年
には
セント?オ?ルバンズ修道院
(
英語版
)
からの?入も確保、1万ポンドにも上る?入を腹心たちへの金のばら撒き、
ハンプトン?コ?ト宮殿
などの建築に浪費した。また愛人
ジョアン?ラ?ク
(
英語版
)
との間に庶子
トマス?ウィンタ?
(
英語版
)
を儲け、この庶子に便宜を?り2500ポンドを使ったという
[5]
[6]
。
1515年にヘンリ?8世の妹
メアリ?
が夫のフランス王
ルイ12世
亡き後に許可無く
サフォ?ク公
チャ?ルズ?ブランドン
と再婚、王の怒りを買い窮地に?ったサフォ?ク公と王の間を取り成してもいる。反面、1521年に
バッキンガム公
エドワ?ド?スタッフォ?ド
に謀反の疑いありと王に通報、王妃
キャサリン?オブ?アラゴン
との間に男?が無く、王位?承問題で猜疑心を募らせていた王が王家と血?があるバッキンガム公を?刑するきっかけを作った(バッキンガム公本人はウルジ?ら卑?の出の廷臣を見下していたが、王位に興味が無かったという)
[7]
。
外交と?政改革
[
編集
]
?政の細部に無?心な王から?務を任され、外?使節の間で「もう1人の?王」と渾名されたが、?際の王は外交?軍事に?しては積極的に??、政事を自ら裁可することもあった。かたやウルジ?は王の支持だけが基盤のため、彼の意向を忠?に汲み取り?うしか無かった。また?皇の地位を狙い、1521年のレオ10世死去、1523年の
ハドリアヌス6世
死去で行われた
コンクラ?ヴェ
に出馬したとされるが、
ロ?マ?皇?
への連絡が疎かだと?皇と同輩の?機卿から苦情が上がっていたこと、出馬はヘンリ?8世の方が積極的でウルジ?本人は不出馬を明言したことなどから否定されている。2度のコンクラ?ヴェで?皇はそれぞれハドリアヌス6世(
1522年
)、
クレメンス7世
(レオ10世の?弟、1523年)が選出されたが、後にヘンリ?8世は離婚問題でクレメンス7世と決裂することになる
[8]
。
外交はヨ?ロッパ諸?の調停者となることでイングランドの?際的地位を高めることを?策、そうした意?で1518年の
ロンドン?約
(
英語版
)
を諸?との間で締結した。初めフランス王
フランソワ1世
とヘンリ?8世との和睦になるはずだった話を、
オスマン帝?
に?する十字軍結成を?皇レオ10世が呼びかけたことを利用、?皇特使の地位を活用して
キリスト?
諸?の?結を目的にした同盟に纏め、批准?が20か?にもおよぶ平和?約へと規模を?大させたのである。
セント?ポ?ル大聖堂
で各?大使が一堂に?したイングランドの首都
ロンドン
は一時的ながら脚光を浴び、ウルジ?は主君ヘンリ?8世の?際的地位を上げて得意の絶頂に浸る一方で、フランスに60万クラウンでトゥルネ?を返す?利も獲得している。
1519年
の
神聖ロ?マ皇帝
選?でヘンリ?8世に出馬を決意させたが?選はならず、
ハプスブルク家
の
スペイン
王カルロス1世が皇帝
カ?ル5世
に選出、イングランドは?光から一?してスペイン?
神聖ロ?マ帝?
を治めるハプスブルク家とフランスの間で?弄されることになる
[5]
[9]
。
1521年にフランスの侵攻で
第三次イタリア??
が勃?するとロンドン?約を主導した立場上フランス?スペインの調停に?たったが失敗、直接?見したカ?ル5世からフランスへの共同出兵を要求され、出兵を2年後の1523年に引き延ばすことを?件に受けるしか無かった。1523年にイングランド軍は北フランスを攻めたが?果は無く、
1525年
の
パヴィアの?い
でスペイン?神聖ロ?マ帝?連合軍がフランソワ1世を捕らえる大勝利を飾り、翌
1526年
の
マドリ?ド?約
でカ?ル5世の覇?が確立されつつある中、イングランドは??で何も得られず、ウルジ?はヘンリ?8世共?軍資金の窮乏に苦しみ、1524年にイングランドへ臨時?(?制借用金)をかけようとして??の猛反?で撤回する有?だった。マドリ?ド?約によるスペインの?大化に警戒、皇帝の勢力を弱めようと一?してフランスと和睦、?皇クレメンス7世や
ヴェネツィア
らイタリア諸??フランスとコニャック同盟を結んで
コニャック同盟??
が始まったが、
1527年
の
ロ?マ劫掠
でクレメンス7世はカ?ル5世の影響下に置かれ、1529年の
カンブレ?の和約
によるフランス?スペインの和睦でコニャック同盟??はカ?ル5世が勝利、和睦を無視されたイングランドは孤立しウルジ?の外交政策は暗礁に?り上げてしまった
[5]
[10]
。
?政では巨額の?費を賄うため新?の??を?り、1513年の遠征費用に
十分の一?
と?用した特別?を考案して??したが?費には足りず、1524年の?制借用金の??撤回など財政で苦慮した。一方で司法改革と社?問題も手掛け、?王の裁判??化と
大法官裁判所
(
英語版
)
の?達と
星室?
の?化、
1517年
から2年かけて
?い?み
の?態調査および取り締まりを行い、地主たちを法廷に召喚して?い?んだ土地について問い質した(その中には?い?みの批判者
トマス?モア
もおり、?い?んだ疑いがある土地を耕作地に?し家屋も再建したと?明したという)。??改革も?行して約30ほどの小修道院の解散も行い、そこから得られた資産で母校オックスフォ?ド大?と故?イプスウィッチにカレッジ設立を考え、オックスフォ?ド大?にカ?ディナル?カレッジ(後の
クライスト?チャ?チ
)を創設したが、??改革が中途半端に終わり、自身が多くの聖職?を抱え豪奢な生活を送り、聖職者の?弊の象?を?現していたため人?の反聖職者感情を刺激した。かたや後にヘンリ?8世統治下のイングランド政治を支えた
トマス?クロムウェル
を?擢し
1516年
から召し抱え、小修道院の調査委員に任じて解散の?務およびカ?ディナル?カレッジとイプスウィッチのグラマ?スク?ルの管理に?たらせた。クロムウェルはウルジ?失脚後は彼に代わる王の側近となり、ウルジ?の小修道院解散より規模を?大した
修道院解散
などに辣腕を振るうことになる
[5]
[11]
。
離婚問題の解決失敗
[
編集
]
王と王妃キャサリン?オブ?アラゴンの離婚問題に?するクレメンス7世の拒否返答により、王の激怒を受け、その絶大な信?にかげりが出てきたのを見て取ったウルジ?は、1525年、惜しげもなく巨大なハンプトン?コ?ト宮殿を王に?上。王は?に
アン?ブ?リン
と同棲を始めており、1527年の?皇への最終的な陳情も失敗した。?皇は同年のロ?マ劫掠でキャサリンの甥であるカ?ル5世から?力をかけられ、離婚に反?していたからである。
1528年
にはダラム司?とセント?オ?ルバンズ修道院を取り上げられ、徐?に王から?入を削られ、サフォ?ク公と
ノ?フォ?ク公
トマス?ハワ?ド
、ノ?フォ?ク公の義弟でアンの父であるロッチフォ?ド子爵
トマス?ブ?リン
らがウルジ?の追い落としを?策する中、ウルジ?の秘書
スティ?ブン?ガ?ディナ?
との交?で?皇が提案したイングランドでの離婚裁判主宰に?じたが、離婚問題で皇帝を刺激したくない?皇の意を受けて時間稼ぎをする?皇特使
ロレンツォ?カンペッジョ
(
英語版
)
?機卿の意向を?えられず、離婚を?固拒否するキャサリンと早く離婚を?現したい王の間に?まれ苦境に立たされた。1529年6月にカンペッジョを迎え、自らも判事として?加した離婚審問もキャサリンの?硬な反?とカンペッジョの休廷宣言で不首尾のまま終わった
[5]
[12]
。
王の離婚が??として進まないのに業を煮やしていたのはアンも同じで、彼女はウルジ?が?意で妨害していると思いこみ、彼を「私腹を肥やしている」と裁判所に告?した。10月に?皇特使として裁判を主宰したことを王を?皇の風下に置いたとして?罪され、?皇尊信罪で
王座裁判所
(
英語版
)
に告?されたウルジ?は11月3日に大法官を罷免され(後任はモア)、追い打ちをかけるように全ての官位?奪、全財産の??の命令が下った。中には彼個人の所有でないヨ?ク大司?ロンドン公邸も含まれており、その過酷さに批判の?が一部に上がったほどだった(後にこの公邸は
ホワイトホ?ル宮殿
となる)
[5]
[13]
。
ヘンリ?8世の重臣に?する?罪がほとんど死罪であった中にあって、ウルジ?は死罪を逃れ、大赦でヨ?ク大司?の地位だけは認められ、引退を許された。1530年1月に病?にかかったが、回復してからは初めロンドン郊外の
リッチモンド
、次いで4月にヨ?ク管?南端のサウスウェルへ移住した。8月にヨ?ク南部のケイウッドに入ったが、引退するどころか政治活動を再開、大司???議開催を布告したり?皇?に使者を派遣したりした。これが王の猜疑心を呼び起こし、?皇?私通の容疑で逮捕された。それから
シェフィ?ルド
南のスクル?ビ?城、
ノッティンガム
を?てロンドンへ護送される途中、
レスタ?修道院
(
英語版
)
で病死した
[5]
[14]
。
?勢欲?金?欲が?く、貴族から成り上がり者と蔑まれ、議?や
ジェントリ
からも不評を浴びた。後にウルジ?の?記を書いた
ジョ?ジ?キャヴェンディッシュ
(
英語版
)
によれば、王の意を迎えたことによる急速な出世と、膨大な仕事を自分に任せるようそそのかした寵臣としての言動が描?されていた。?時彼が執務したヨ?ク大司?ロンドン公邸には常時500人の使用人がいたといわれ、ロンドン西部ハンプトンに建てた彼個人の館は今もハンプトン?コ?ト宮殿として?る。財力と?力で名をとどろかす彼のもとには、多くの貴族?高官がご機嫌伺いに殺到したという一方で、慈善家としての一面も見られ、貧しい平民?象に無料の法律相談、あらゆる相談陳情に?じたといわれ、これら平民を相手とするロンドンの法律屋たちは商?にならなかったという逸話がある
[5]
[15]
[16]
。
脚注
[
編集
]
- ^
a
b
森、P308。
- ^
a
b
今井、P28。
- ^
橋口、P6 - P8、松村、P828、陶山、P94 - P95。
- ^
、橋口、P8 - P13、松村、P828 - P829、陶山、P88 - P89、P97 - P98。
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
松村、P829。
- ^
橋口、P13 - P16。
- ^
陶山、P87 - P88、P133 - P135。
- ^
橋口、P13、陶山、P98 - P100、P117 - P119。
- ^
今井、P29、陶山、P105 - P108、P114 - P117。
- ^
今井、P29 - P30、陶山、P119 - P126。
- ^
橋口、P15、P66 - P70、今井、P28 - P29、P31、P37、P42 - P43、塚田、P154 - P156、陶山、P127 - P131、P165 - P166。
- ^
森、P310 - P311、橋口、P16 - P18、今井、P34、陶山、P146 - P153。
- ^
森、P311、橋口、P18 - P19、今井、P34 - P35、陶山、P153 - P155。
- ^
森、P311 - P313、橋口、P19 - P23、陶山、P155 - P156。
- ^
森、P308 - P310。
- ^
橋口、P4 - P5、陶山、P93 - P94、P100。
?考文?
[
編集
]
登場作品
[
編集
]
?連項目
[
編集
]
|
---|
全般
| |
---|
?立?書館
| |
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?術デ?タベ?ス
| |
---|
芸術家
| |
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人物
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その他
| |
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