スロベニアの?史

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スロベニアの地?

本項では スロベニア の?史 について述べる。

スロベニアの?史について [ 編集 ]

スロベニア は元?、ヨ?ロッパ西側諸?との?連が深い?である。スロベニア人自?は 南スラヴ に?することになるが、スロベニアの作家 ツァンカル が「(南スラブ人らとは)血の上では兄弟であり、言葉は?兄弟であり、文化は?世紀に渡って全く別の育ちの果?である。しかし、我がカルニオラ(スロベニア)の農民が チロル ( オ?ストリア )の人?と親密であるほどに我?は親密ではない」 [1] と記したようにスロベニアが西側諸?への?がりをもつ意識は?い。

先史時代 [ 編集 ]

スロベニアにおける人類の?史は ?石器時代 ムスティエ文化 の?い手であった ネアンデルタ?ル人 から始まる。 リュブリャナ 周?では 先史時代 の住居跡が?見されており、 紀元前1400年 頃、 イリュリア人  ( en が定住、彼らは ギリシャ と交流を持ちながら ケルト人 らと融合していく [2]

ロ?マ時代 [ 編集 ]

ロ?マ時代の遺跡、リュブリャナ

やがてスロベニアはロ?マの支配下となり、 イリュリクム ノリクム などの?州とされる。この地域には 植民都市 として現在のエモナ(現: リュブリャナ )やポエトヴィオ(現: プトゥイ )などが建設され、さらにシェンペ?テルにはロ?マ時代の大墓地跡が存在する。このロ?マ占領下の時代、 キリスト? が??、 5世紀 まで繁?を?けた。しかし 5世紀 中ごろ、 フン族 が侵入したことにより、都市は破?され、さらに 6世紀 スラヴ人 の侵入を迎える事となる [2]

スロベニア人の定住 [ 編集 ]

536年 スラヴ人 スプリト 周?へ現れた。 548年 には現在の アルバニア ドゥラス まで南下した記?が?されている。さらに ビザンツ帝? の?史家 プロコピオス テオファネス  ( en によれば、 539年 550年 559年 にイリュリア州へスロベニア人が侵入したことが記?されている。しかし、この後、567年に アヴァ?ル人 が襲?、その周?のゲルマン民族らはイタリアへ追いやられることとなった。アヴァ?ル人はそこに定住するが イリュリクム ノリクム 周?らはスラヴ人らが定住、彼らはアヴァ?ル人らが背後にいる事を?みに イストリア半島 やベネト地方まで侵攻、さらに オ?ストリア のドライヘ?レンシュピツェや ダッハシュタイン ハ?ルシュタット まで至る事となった。そのため、7世紀には サヴァ川 ドナウ川 周?、 ダルマチア はスラヴ人らが占領する事となった [3]

この時代、フランク人のサモがアヴァ?ル人へ抵抗するスラヴ人を支援してこれを勝利させ、さらにフランク王?、ゲルマン系の アレマン族  ( en ランゴバルド族 にも勝利した上で サモ帝?  ( en を開いたとされているが、この中にスロベニア人(カランタン=スロベニア人、アルプス?スロベニア人とも)が支配下にあったとされている。このサモ帝?はサモが死去したことにより崩?、スロベニア人は再びアヴァ?ル人の支配下となった [4]

626年 から 630年 の間にスラヴ人らはアヴァ?ルへの反?を起こして カランタニア公?  ( en を創設、サモ帝?の一翼を成したと考えられている。カランタニア公?はアヴァ?ル人との?いを繰り返すこととなるが、 745年 バイエルン公? へ支援を要請、この支援とともに キリスト? が??することとなり、 ザルツブルク司?座  ( en が設置される事となった。しかし、キリスト?が無?件で受け入れられたわけではなく [5] 772年 、バイエルンのキリスト?による?化活動への反抗から反?が?生、バイエルン公? タシロ3世  ( en 公はこれを??した [4]

しかし、徐?に フランク王? の手が伸びてくることにより、 クロアチア人 リュ?デヴィト?ポサヴスキ  ( en らと共にフランクとの?いを行ったが、リュ?デヴィトはカランタニア公?を?止した。これは 778年 カロリング朝 フランク王?がフランク王??境部をバイエルン公?を元として設立された ?境伯 領に組み?んだためであった。このため、 スロベニア人 スロベニア語 こそ使う事は許されたものの、 農奴 と化すこととなる [6] [7]

フライジング?本

さらに 896年 ハンガリ?王? が成立したことによりフランク王?は隣接地域の要塞化に着手、さらにフランク王?が分裂すると 東フランク王? オット?1世 952年 、スロベニア一?を含む地域をカランタニア公領と定めたが、このことからスロベニア人らは ドラヴァ川 まで進出することとなる [# 1] 。その後、カランタニア公領はエスト?境伯、 カリンティア?境伯  ( en 、ドラヴァ川流域地方、 サヴァ川 流域地方、イストリア地方に分割されたがいずれもスロベニア人らが定住しており、 神聖ロ?マ帝? 東?境を形成、クロアチアと分?されることとなった。その後、神聖ロ?マ帝?領として「 カリンティア(スロベニア語、コロシュカ) 」、「 スティリア(シュタイエルスカ)  ( en 」、「 カルニオラ(クランスカ)  ( en 」の三公?に再編成されることとなる [9] 。なお、この時代の 972年 から 1039年 の間に、キリスト??道のために書かれた「 ブリジンスキ?スポメニキ(フライジング?本)  ( en 」はスロベニア語で文章が記述されており、他にも?本が存在する [10]

しかし 13世紀 末、 ヴェネツィア共和? が勢力を伸ばす事により、 イストリア半島 アドリア海 沿岸部は 1727年 まで ヴェネツィア が支配することとなった。そして ロ?マ?皇 の計?により、 アクイレイア?司?座 ( it )が ザルツブルク 司?座 へ?力をかけたことによりカリンティア、スティリア、カルニオラら三公?は ボヘミア オットカル2世 が支配する事となった。こうしてスロベニアはオットカル2世の プシュミスル家 ハプスブルク家 が支配することとなるが、オットカル2世は 1278年 マルヒフェルトの?い  ( en においてハプスブルク家の ルドルフ1世 に敗北、三公?はハプスブルク家支配下となる [11]

アルプス?スラヴ人 [ 編集 ]

ゲルマン民族 のように 大移動 を見せたアルプス?スラヴ人らは ザドルガ を基本とした地?的共同?で成り立っており、長老(ズパン)が アヴァ?ル人 と交?を行い、ザドルガ?の裁判官役を果たすなどしていた。後に裁判官の役目を行う事はなくなったが、長老を中心として ?園 を成す事となる。後に農民と化したアルプス?スラヴ人らは ケルンテン シュタイア?マルク 、クラインで特?的農民層である「エ?ドリンガ?」を形成、自治や裁判?を持つ事ができた。この特異的な地域を得た事に?してはアヴァ?ル、クロアチア、ランゴバルド、ロ?マにその出自が求められたがこの分野に?しては未だに?究が?いているがその答えを見出すことは困難とされている [12]

ハプスブルクによる支配 [ 編集 ]

ウルリク2世

オットカル1世に勝利したルドルフ1世は三公?をハプスブルク家の相?領地として息子 ルドルフ アルベルト に治めさせた。さらに 1355年 には トリエステ から モンファルコ?ネ までの アドリア海 沿岸部を ヴェネツィア より奪い、スロベニア人居住地域は全てハプスブルク家支配下となった。しかし 15世紀 ツェリェ伯爵 家が力をつけてスロベニア地域においてハプスブルク家と?抗することとなり、 1432年 には ルクセンブルク家 と婚姻を結ぶことにより「 神聖ロ?マ帝? の貴族」となった。しかし 1456年 ベオグラ?ド において フニャディ?ヤ?ノシュ の息子でハンガリ?王 マ?チャ?シュ1世 の兄 フニャディ?ラ?スロ? によってツェリェ伯 ウルリク2世 が殺害されたことにより、スロベニア人?家が生き?る可能性が消滅、ハプスブルク家の領土となることとなったが、過去に ルドルフ4世 がドイツ人を コチェ?ヴィエ地方 へ入植させていたため、スロベニア人居住?はドイツ人居住?に?まれる事となった。この?況は 第二次世界大? まで?く事となる。また、行政面などでは ドイツ語 が使用されることとなったが、 スロベニア語 自?は禁止されず、農民たちが使用しつづけることとなる [13]

ジッチェ修道院

13世紀から15世紀にかけてのスロベニアは 封建制 が確立しており、 ?? ?係の領地が多く存在した。特に35もの 修道院 と付?農園が設立されたことにより、 シト?修道? のスティチナ修道院(Cistercian Abbey Sti?na)や カルトジオ修道?  ( en ジッチェ修道院  ( en などが立てられ、その中でも ザルツブルク ?司?座 は最も勢力が大きかった。また、多くの修道院が設立したことにより、文化面でも多大な影響を?える事となり、 ?本(マニュスクリプト) の製作され、建築物としては ロマネスク?式 がブトゥイ、 ブレスタニツァ  ( en ポドスレダ  ( en ゴシック?式 マリボル ツェリェ クラ?ニ リュトメル でそれぞれ建設されることとなる [13]

?刑されるグ?ベッツ [# 2]
大トルコ?? において現在のスロベニアの地でハプルブルク家と?うオスマン帝?軍

15世紀に入るとスロベニアの地域に オスマン帝? が襲?することとなった。このため、ハプスブルク帝?はスロベニア地域で 騎馬 軍?を組織、そしてさらにオスマン帝?との?境地?に 軍政?境地? を設置した。この軍政?境地?はクロアチアの地に設置されたため、スロベニア人はこれに含まれたわけではなかったが、ハプスブルク帝?貴族らが?境地?に要塞を建設する際の費用をスロベニア農民らが負?することとなり、農民反?が頻?することとなる。 1515年 に?生した農民反?は特に規模が大きくスロベニア人居住?全?に?がったがこれは??されることとなる。そして 1572年 から 1573年 にかけてスロベニア人、クロアチア人らが連合した上でハプスブルク帝?への忠誠を放棄して ザグレブ の首長への忠誠を行えるよう要求したがこれも成功せず、結局、 1713年 ト?ルミン 一揆 のように 18世紀 まで農民一揆は?くこととなる [15]

プリモシュ?トル?バル

1517年 10月13日 マルティン?ルタ? が「 95ヶ?の論題 」を?げたことにより プロテスタント 活動が始まるが、この波はスロベニアにまで及ぶこととなり、 1520年 代には トリエステ グラ?ツ リュブリャナ ルタ?派 の活動が始まっていた。その中、プロテスタントへ改宗したスロベニア人司祭、 プリモシュ?トル?バル  ( en は迫害を避けるために ヴュルテンベルク  ( en へ避難したが、「 カテキズム(?理問答集) 」をスロベニア語へ??、さらにスロベニア語の基本的文法に?する書籍を出版したが、これは 19世紀 のスロベニア人らの民族的アイデンティティの?り所となる。この後、スロベニアではプロテスタント信者が?加したことにより、トル?バルの「スロベニア人のためのキリスト?的秩序」、 ユ?リィ?ダルマティン の「聖書全?」などが出版されることとなるが、これはスロベニア語だけでなく キリル文字 グラゴル文字 でも出版されクロアチアでも使用された [16]

さらにトル?バルは30冊もの書物をスロベニア、クロアチアの一部へ紹介することとなり、 1555年 には「 マタイによる福音書 」を??、 1582年 には「 新約聖書 」の全部をスロベニア語へ??、これらがスロベニアで普及することとなったが、さらに彼の弟子ユ?リィ?ダルマティンは ?約聖書 の??を、 アダム?ボホリッチ  ( en はスロベニア語初の文法書「冬の余暇(Articae horulae succisivae)」を出版した [17]

このため、ハプスブルク帝?は「 ?抗宗?改革 」を呼びかけ、?皇?は トリエント公?議 を開催した上で イエズス? を設立、 ウィ?ン へ進出させ、さらには リュブリャナ などの主要都市に 神?校(コレギウム) の設立を行った。ハプスブルク帝?はプロテスタント派の牧師や職人らを何千人も追放し、さらにプロテスタントの文?全てを禁止、?き?ったが、そのためにスロベニア語の出版物が事?上、消滅することとなる。そのため、新たな バロック芸術 がスロベニアに?がることとなり、 16世紀 末には カトリック が勝利を?めることとなる。そして、 17世紀 に入るとリュブリャナ、 ゴリツァ などにバロック?式の??が建築され、その?飾にイタリアの彫刻家たちが?加することとなる [18] 。ただし、スロベニア語はイエズス?の設立した高等?校の演劇や、リュブリャナ、ゴリツァでの聖職者の?合ではスロベニア語が使用される事が多く存在した [19]

マルコ?ポフリン

18世紀半ばになるとハプスブルク帝?史上初の人口調査が行われたが、このとき、スロベニア人とされた人?は100万人に?たなかった。しかし、 マリア?テレジア の時代に交通網が?達、マリボル、ツェリェ、リュブリャナを?由してトリエステに至る重要な道が整備された。そのため、 ?麻 絹織物 などの 手工業 が?達、農業?係も力が入れられることとなり、カルニオラでは 1771年 に農業?校が設立され、 ジャガイモ の栽培など新たな農業が取り入れられた [20] 。さらに政府は義務?育令を?令、スロベニア地域の?校ではスロベニア語による授業が行われ、「?抗宗?改革」で事?上、消滅していたスロベニア語の印刷物が出版されることとなり [20] 1715年 にはボホリッチによる「文法書」が出版され、 1768年 には マルコ?ポフリン  ( en によって「クラインスカ?グラマティカ(Kraynska grammatica、カルニオラ語文法)」も出版されることとなる [19]

しかし、 マリア?テレジア が死去したことにより、 ヨ?ゼフ2世 が親政を開始、行政機?で使用する言語を ドイツ語 と規定したことにより?況が?化、?校においてもドイツ語?育が優先された [# 3] 。しかし 1781年 、「農奴解放令」が?令されたことにより、 農奴制 が?止され、個人の義務が緩和されたことにより、スロベニア人も 中産階級 へ上る事ができる?況となった [22]

さらにマリア?テレジア、ヨ?ゼフ2世の時代、 啓蒙的絶?主義 が導入された事によりスロベニアにも知識人層が生まれることとなり、1781年、「 アカデミア?オペロソルム?ラバセンシス  ( en 」がリュブリャナで設立され、これに類似したいくつかの組織が各地で形成され [23] 1779年 から 1782年 の間にバロック?スタイルの詩歌を集めた「ピサニツェ(Pisanice od lepih umetnosti、復活祭の卵)」がヤネズ?ダマスツェン神父(本名、フェリックス?デヴ)( sl )によって出版されたが、この中にはスロベニアの農民を歌った「幸福なカルニオラ人」も含まれている [24]

民族意識の高まり [ 編集 ]

ジ?ガ?ツォイス

ヨ?ゼフ2世は中央集?化を進めたが、それに伴い地方政府への限定的ながらも?限が委?されることとなった。そして、ロマン主義活動が開始されたことにより、ドイツ人の ヨハン?ゴットフリ?ト?ヘルダ? はスラヴ人らにも自らの言葉や古く?わる風習??承( フォ?クロア )を?究して?展させることを呼びかけた。そのため、スロベニア人らもこの活動に反?した。そのため、?山??者 ジ?ガ?ツォイス 男爵  ( en の支援の元、作家グル?プが形成され、その中には言語?者の イェルネイ?コピタル  ( en や聖職者の ヴァレンティン?ヴォドニック  ( en らが?加していた。コピタルはスロベニア方言の統一を行い、さらにドイツ語の要素を排除したスロベニア語文法書を出版、さらには セルビア?クロアチア語 改革者 ヴ?ク?カラジッチ と共同作業を進めてスロベニア語の 音?? 正書法 を確立させた。このため、スロベニア語が整備されることとなり、後にスロベニア最大の詩人といわれる フランツェ?プレシェ?レン らが生まれることとなる [25]

さらに「農業??務協?」が政府の支援の下、形成されたがこの組織では ラテン語 が使用され、さらにスロベニア系?識者が現れることとなる。 ヤネス?ジ?ガ?ヴァレンティン?ポポヴィッチ ( sl )は「海洋の?究」をドイツ語で著し、 ユ?リィ?ヴェガ  ( en は「 ???大全  ( en 」を ラテン語 で著した。さらにスロベニア以外でもその活動は?がる事となり、 ブルタ?ニュ ベルシャザ?ル?アケ  ( en は「カルニオラ地誌(Plantae alpinae carniolicae)」を出版、スロベニアにおける言葉の違い、方言、文化的、地域的特?が?究された [26]

聖ニコラウス大聖堂(リュブリャナ司?座)

そして??でも ヤンセン主義(?格主義) ユトレヒト から?わった事により、 リュブリャナ司?座  ( en はその影響を受け、K?J?ヘルベシュタイン司?はこれを熱心に支持、その影響を受けた人?らは聖書の??を行ったが、この??作業は他の分野へも波及した。そのため、 公?要理 福音書 講話、 祈?書 ?約聖書詩篇 などが??され、スロベニア語の文語成立に多大な貢?を?めることとなり、さらにスロベニア人知識層にも影響を?えることとなった [27]

イリリア諸州(Illyrian Provinces)

この文?面で生まれたこの活動はやがて政治にも影響を及ぼす事となり、同時期に?生した フランス革命 の思想的影響を受けた ヴァレンティン?ヴォドニック はスロベニア初の新聞社を 1797年 に設立、「 ルブランスケ?ノヴィツェ(リュブリャナ新聞) ( sl )」を?行した。さらにフランスは ナポレオン?ボナパルト の登場によりその領土を?大し?け、スロベニアもその領域と化したが、ナポレオンはスロベニアに?心を持っていたため、 1805年 1809年 とハプスブルク帝?との?いの際には ドイツ語 フランス語 などで各地の習慣を尊重するという宣言文を作成しているが、この中には スロベニア語 で作成されたものも含まれていた。 1809年 、ナポレオンは ウィ?ン?約 によりカルニオラ、カリンティア西部、 ゴリツィア イストリア半島 、クロアチアの一部、 ダルマチア ドゥブロヴニク をハプスブルク帝?より割?を受け、「 フランス領イリュリア諸州 」を形成、州都は リュブリャナ におかれる事となった [28]

フランス領イリュリア諸州となった事により農奴制こそ?止されなかったが、この地域ではフランス式の行政制度や ナポレオン憲法 が適用されることとなった。そのため、 スロベニア語 の使用が推?され、行政機?にもスロベニア人らが登用されることとなり、さらに フランス語 を習得している者が少ないという理由で役所でもスロベニア語が使用される事が認められた。そして知識人らもフランスの政策に共感を示し、 ヴォドニック は「イリリアの再生」という詩をナポレオンに捧げ、さらに 1810年 には グラ?ツ で「スロベニア人協?」が設立されることとなり、その2年後にはグラ?ツの高等?校において「スラヴ?究講座」が設置されることとなる [28]

スタンコ?ヴラ?ズ

この中、スロベニアでも イリュリア運動  ( en が活?化することとなり、 スロベニア語 クロアチア語 カイ方言  ( en と近い事からスロベニア語、クロアチア語、そして南スラヴ系諸言語の統一を提案したものも存在した。この中で最も代表的な人物として スタンコ?ヴラ?ス ( sl )が上げられるが、彼はプレ?シェンやクロアチアの リュデヴィト?ガイ  ( en らとを親交を持ち、スロベニア語、クロアチア語を混合した「イリュリア語」で詩を?表したが、結局、これは良い結果を?す事ができなかった [29]

フランス占領下でスロベニアでは民族意識が高まる事となったが、その一方で「 コンコルダ?ト 」が適用され、さらに軍事支出のための??、?兵制の負?などが?いられることとなっていた。しかし、1815年、ナポレオンが敗れたことにより、 ウィ?ン?約 が結ばれるとスロベニアは再びハプスブルク帝?領となった。ダルマチアと ラグ?ザ はオ?ストリアに?合され、 イストリア カリンティア カルニオラ  ( en などは新たに イリュリア王?  ( en を形成することとなり、オ?ストリアの一部と化すこととなった。また、 クロアチア スラヴォニア ハンガリ?領 と化している [28]

ヤネス?ブライワイス

ハプスブルク帝?において クレメンス?メッテルニヒ が政?を?う事となると行政面、?育面において再びドイツ要素が?まる事となり、スロベニア人作家らも政府に監視されることとなった。これはメッテルニヒが??の?際秩序を維持したいと考えていたためであったが、この政策により、ハプスブルク帝??の民族感情は抑?されることとなる。しかし、ウィ?ンで 1848年革命 が勃?するまでの フォアメルツ  ( en と呼ばれるこの期間、スロベニアでは作家たちがスロベニアにおける文?創作活動水準を高めるための努力を行っており、さらには ヤネス?ブライワイス  ( en が「 ノヴィツェ(ニュ?ス)  ( en 」という名の新聞を?行、この新聞は??、農業問題だけでなく政治問題まで記事にした。また、工業面においては最初の手工業が開始された時期でもあり、?維業や製糖業では 蒸?機? が導入されることとなった [30]

オ?ストリア=ハンガリ?帝?皇帝直轄領(キュステンラント)、1897年

1848年革命の時期、スロベニア人らは自らの?利?大のための活動を開始したが、農民たちは議?で封建制の?止が決定された時点で革命に興味を失っていた。しかし、結社「スロベニア」が結成された上で言語境界?部にスロベニア人の土地を集めて「州(ラント)」を形成して民族?利の保障、スロベニア語がドイツ語、 イタリア語 と?等であること、全ての言語が?校?育において使用されることを150万人のスロベニア人の名において1848年4月に宣言した。しかし、この宣言は一部の小さなグル?プの支持は得たものの、封建領主やドイツのリベラルな中産階級は反?、それに?してスロベニア人らは フランクフルト?民議? ではスロベニア人が?加する意味がないとして?加を拒否した。このとき、法律家ヨシブ?クラ?ニェは「世界の一人たりともスロベニア人に?して死ぬのが怖いのなら自殺すれば良いなどと言う事はできない」と?言している。 1849年 、ハプスブルク帝?はイリュリア王?を?止してカルニオラ、カリンティア、 キュステンラント  ( en を「 クロ?ンレンダ?(Kronland、皇帝直轄地)  ( en 」とした上で限定的な自治?を?えた身分制議?を置いたが、 アレキサンダ??フォン?バッハ  ( en の時代、自治?が著しく制限を受ける事となる。その最中の 1853年 、スロベニア語文?作品出版を行うために「 モホリェヴァ?ドル?ジュバ(聖エルマゴ?ル協?) 」( sl )が設立されている [31]

1860年 10月、勅書が下されることにより新たな憲法が制定されたが、スロベニア人らは地方議?から排除されることにより少?派ドイツ人らが?力を握った。そのため、スロベニア人が?倒的多?であったカルニオラ州においてもスロベニア語で記された議?報告書の??申請が行われても拒否されるような?態であった。さらに 1867年 ハンガリ?王? が?立したことにより オ?ストリア=ハンガリ?帝? が形成されて ハンガリ?人 らが ドイツ人 と?等な地位を得る事となったが、スロベニア人らにはなんら影響がなかった。しかし、選?法が何度も改正されたことにより、民主主義が徐?に取り入れられたことによりこれらの問題が政治的課題として表現され始めたため、1867年、選?法改正により スロベニア民族? の結成が許可された [32]

このスロベニア民族?はそれまで「リベラル派」と「保守派」に分かれていた派閥が「 統一スロベニア  ( en 」を形成する目的で集まったものであり、さらに1861年以降、トリエステでスロベニア語を守るため?生した活動により?者協?「チタルニツェ」が結成されることとなった。1867年の選?ではカルニオラの州議?(ラントタ?ク)で史上初となるスロベニア人らが多?を占める事態に至った。さらに、この直前、 普墺?? に敗れた オ?ストリア=ハンガリ?帝? はスロベニア人らの居住地域をイタリアへ割?するという問題が?生したことにより、 1868年 から 1871年 にかけて「タ?ボル」と呼ばれる集?がスロベニア人居住?全?で開催され、「統一スロベニア」への支持を行った。そのため、 1892年 にはキリスト?運動に?係した農民らが集まった カトリック民族?  ( en が、さらに 1894年 には 進?民族? が結成された [33]

カトリック民族?が 1899年 にロ?マ?皇 レオ13世 が出した「 レ?ルム?ノヴァルム(回勅)  ( en 」の?現を要求して政治にも大きな影響を持つ事となったが、その一方で少?派であるリベラル派は都市部の中産階級を中心に支持を集め、 リュブリャナ大? の設立を要求した。しかし、これらの活動が行われたにもかかわらず、「 ライヒスラ?ト(帝?議?)  ( en 」では議席配分によって不利益を受けていた [# 4] 。その?況の中、ドイツ人らはトリエステに至る「ドイツ人の橋」を維持するために?い?力をスロベニアにかけ?けた。そのため、カトリック民族?は クロアチア?利?  ( en との連携を模索、スロベニアの政治家らはクロアチアの政治家らにオ?ストリア=ハンガリ?帝?にさらにスロベニア人、クロアチア人らスラヴ人の?家を形成して「三重帝?とする構想(トリアリズム)」を持ちかけた [# 5] 。しかし、皇太子 フランツ?フェルディナント はこの構想について考慮してスロベニア人を除外したクロアチア人の?家形成を方針として採用しようとしたが、結局、この構想は「ユ?ゴスラビア構想」へつながる事となり [36] 、例えば クロアチア?民?  ( en の指導者 ヨシプ?シュトロスマイエル  ( en と?史家 フラニョ?ラチュキ  ( en らは セルビア公? を基礎とする南スラヴ人による統一?家を構想しており、さらにクロアチアとセルビアの政治家らの間で交わされた「リエカ合意」と「ザダル決議」によりクロアチア?セルビア人連合が形成されたが、この中にはスロベニアも含まれていた [37]

スロベニア語文化の萌芽 [ 編集 ]

ジ?ガ?ツォイス男爵の館

19世紀に入るとジ?ガ?ツォイス男爵が登場するが彼はスロベニア人を母に持ちリュブリャナ中心部近郊の邸宅でスロベニア語振興に活躍した。彼はオペラや演劇の愛好家であったが、外?作品をスロベニア語へ??し脚色したものを上演、 1789年 12月 には「粉引き小屋(Die Feldmuhle)」を「市長の娘( sl )」としてまた、1781年には「 フィガロの結婚 」を「吉日またはマティチェクの結婚( sl )」(ただし、??に引っかかったため 1884年 まで上演されなかった)が導入された。また、この脚色を行った アントン?リンハルト  ( en は未完に終わりはしたものの「カルニオラ及びオ?ストリアの南スラヴ人居住地域の?史的考察(Versuch einer Geschichte von Krain und den ubrigen Landern der sudlichen Slaven Oesterreiches)」を著している。また、詩人 ヴォドニック は「フランス領イリュリア州」の時代、フランスが初等?育レベルでの民族語?育を行い、あらゆる階層に?育を受けさせようとしていたことから、初等?育を管轄される視?官に任命され、何冊かのスロベニア語文法書を著した上で、さらには「クハルスケ?ブクヴェ(Kuharske bukve、スロベニア語初の料理本)」や「バビシュトヴォ(Babi?tvo、助産婦のための手引書)」を著している [38]

スロベニア語の使用については市民の日常?活レベルまで及んでおり、そのために 1800年 からスロベニア語文法書が出版され、 1808年 には「カルニオラ、カリンティア及びスティリア地方のスラヴ語の文法(Grammatik der slavischen Sprache in Krain, Karnten und Steyemark)」が近代的文法書として初めて出版された。この作者であるコピタルは ウィ?ン大? での スラヴ語 講座の開設に?力(?際、開設されたのは死後であった)、多くの弟子を育てた。やがてその弟子のJ?N?プリミツは 1812年 にグラ?ツ高等?校を開設することとなり、一方で ヴォドニック らの?力で 1817年 にはリュブリャナで高等?校が開設された。しかし、さらに高度なレベルでのスロベニア語による?育は リュブリャナ大? が開設された 1919年 に始まる事となる [39]

フランツェ?プレシェ?レン

さらに 1806年 ヴォドニック はスロベニア語初の詩集、「試みのための詩(Pesmi za poku?ino)」を出版したが、この後にスロベニア最大の詩人 フランツェ?プレシェ?レン が登場することとなる。プレシェ?レンは 1830年 、スロベニア初の文?評論「クランスカ?チュベリッツァ(カルニオラの蜂蜜、Kranjska ?belica)」の?行に加わり、1836年にはキリスト?布?時代を歌った「サヴィツァの?(Krst pri Savici)」を出版、さらに現在、 スロベニアの?歌 として使われる歌詞は 1884年 にプレシェ?レンが作詞したものであった。そして 1847年 、「ポエジエ(Poezije、詩集の意味)」を出版、これにプレシェ?レンの詩の大半が含まれており、スロベニア人統一の政治綱領が翌年に?表された。後にこれはスロベニア語とスロベニア文?の代表作と化し、スロベニア人にとっての民族的シンボルと化す [40]

ポエジエ(Poezije)

一方、シュタイヤ?マルク州では「 クメティイスケ?イン?ロコデルスケ?ノヴィツェ(農民?農業新聞)  ( en 1843年 に創刊されたが、この新聞は農民、商人、職人、農村部で?育活動を行う聖職者、?育者向けの記事を?載したが、この新聞はスロベニア全土で?まれることとなり、プレシェ?レンや愛?的な主張を行ったJ?V?コセスキ(Janez Vesel Koseski)の作品も?載された。そして 1861年 、オ?ストリア新憲法が公布されると民衆の?化に力を注ぎ、スロベニア人らの民族意識の形成の準備を行うこととなる [41]

1848年 [ 編集 ]

ヨ?ロッパ中を席?した「 諸?民の春 」はハプスブルク帝??をも?き?んだ。特にこの半世紀で文化面を中心に成長を遂げていたスロベニアではその影響は?著であり、言語、文化を中心にスロベニア民族が形成されることとなった。革命の?初、スロベニアの各都市では平?を保っていたが、一部では扇動的な行動が?生しており、農村部では自警?が組織化された。しかし、徐?にスロベニア人らの要求が ウィ?ン大? の?生らによって「統一スロベニア」の政治綱領として纏め上げられ、これは 1918年 まで影響力を持つ事となる [42]

この「統一スロベニア」政治綱領は首都をリュブリャナとして、全てのスロベニア人を?一の行政?位に統一することであったが、これまで チェコ人 クロアチア人 らの自治?要求よりもさらに革命的なものであり、第一に人民の自決?、第二にスロベニア語をドイツ語と?等とすること、第三に?外政策としてスロベニア人らがハプスブルク帝?の中心を成していたドイツ人に取り?まれることにより同化することを避けるためにオ?ストリアがドイツから?立を保つ事を要求していた。結局、この「統一スロベニア」政治綱領はスロベニア?家のデザインを形作る事となった [43]

第一次世界大? [ 編集 ]

コルフ宣言

1914年 の時点でスロベニアの人?は オ?ストリア=ハンガリ?帝? に忠誠を誓っており、?兵も?りなく進み、?線でも勇敢に?った。また、カトリック民族? もハプスブルク家への忠誠を誓った上で支持者である農民や中産階級のための改革を唱えていた。さらに 1915年 4月、 連合? イタリア に??を促すために結ばれた ロンドン協定 により、イストリアと ダルマチア がイタリアに?られることになっていたが、これはその地に住むスロベニア人の脅威と化した。そこでウィ?ンの帝?議?はスロベニア人、クロアチア人の議員たちに帝?という?組みは存在するものの、彼らを政治?位として認める憲法改正を行う事を決定、さらに 1917年 にはカトリック民族? ?首 アントン?コロシェツ  ( en 神父を中心として連合組織を結成、「 5月13日宣言 ( sl )」を行った。また、セルビア亡命政府とクロアチア人のロンドン亡命組織 ユ?ゴスラビア委員?  ( en の間でセルビアとクロアチアで統一?家の形成を目指す「 コルフ宣言  ( en 」が1917年 7月20日 に行われたが、この中にスロベニアも含まれていた。ただし、スロベニアはこれに積極的に?加していたわけではなく、この情報を聞いたスロベニア人指導者たちは動?を示し、コロシェツ神父も後にこのことを知らされている [44]

スロベニアを往くオ?ストリア=ハンガリ?帝?の補給部隊

1918年 10月、オ?ストリア=ハンガリ?帝?皇帝 カ?ル1世 は連邦?家宣言を行ったが、これによりスロベニア人、クロアチア人、セルビア人らは南スラヴ人らの統一?家樹立を要求、1918年 10月29日 スロベニア人?クロアチア人?セルビア人? が成立した上で 民族評議? (Narodni svet Slovencev, Hrvatov in Srbov)が ザグレブ で結成され、コロシェツ神父がこの議長に就任したが、この評議?は 11月3日 、オ?ストリアと連合?は休?協定を結ばれた際、イタリア、セルビア間の地域の唯一の政治的代表であった [45]

?後、民族評議?の?部でも意見の?立が生じ、さらにユ?ゴスラビア委員?とセルビア政府との間でも激しい交?が行われたが、セルビア王??政 アレクサンダル?カラジョルジェヴィッチ がこの機?を捉え、セルビア?王 ペ?タル1世 を?王として「セルビア王?、スロベニア、クロアチア、セルビアの地域を統合した上でセルビア人?クロアチア人?スロベニア人王?」の樹立を1918年 12月1日 に宣言した [45]

しかしスロベニアは積極的にこれに?加したわけではなく、スロベニアの地域をイタリアに脅かされるのを避ける唯一の方法がこれしかなかったためであった [45]

ユ?ゴスラビア王? [ 編集 ]

ユ?ゴスラビア王?が成立した時、スロベニア人100万人が?民となったが、王?はすぐさまイタリアの?力に?まされる事となった。イタリアは先のロンドン協定で約束された領土をあきらめておらず、 ヴェルサイユ での議論の最中、リュブリャナへ向けて侵攻を行ったが、これはスロベニア人?校の部隊によって阻止された [46] 。さらに 1919年 1月27日 にはマリボルにおいてドイツ系住民が自決?を求めてデモを行うとスロベニア軍がこれに?砲する事態に至った「マリボルの流血の日」事件が?生するにまで至っていた [47]

さらにオ?ストリア南部のケルンテン州?境地?はユ?ゴスラビア軍が占領していたが、オ?ストリアのケルンテン州政府はオ?ストリア政府の忠告を聞かずに?土防衛隊を組織、1918年 12月5日 よりユ?ゴスラビア軍の攻?を行った。この諍いの休?交?が 1919年 1月以降行われたがこの調査を??したアメリカ調査委員?はオ?ストリアよりの?況報告を行ったため、オ?ストリア側に有利に進んでいたが、これに苛立ったユ?ゴスラビア側は 4月29日 に攻?を開始した。初期においては劣勢であったユ?ゴスラビア側も正規軍を投入したことによりクラ?ゲンフルトを占領するにまで至ったが、協商?が介入、ユ?ゴスラビア軍は排除され、講和?約が結ばれた [48]

結局、連合?は クラ?ゲンフルト に設置された委員?に裁定をゆだね、住民投票が 1920年 10月10日 に行われたが、クラ?ゲンフルトを含むAゾ?ンではオ?ストリアへの??を求めるものが多かったため、オ?ストリアへの??が決定、Aゾ?ン北方のBゾ?ンではこの結果を受けた上で投票が行われなかった [49] 。しかし、この一連の出?事により民族的に傷つけられたスロベニア人らによる オ?ストリア人 襲?などを含む抵抗活動が?生した。このため、カラベンケ山地がオ?ストリアとセルビア人?クロアチア人?スロベニア人王?の?境と化した。一方でイタリア側?境では緊張が?いており、1920年 11月12日 ラパロ?約 が結ばれるまで落ち着く事はなかった。しかし、イタリアの ガブリエ?レ?ダンヌンツィオ が武力行使を行った事により、クロアチア人の抗議があったにもかかわらず フィウメ はイタリアに?する事となった [46]

1921年 6月28日 ヴィドダン憲法 が制定されることにより、セルビア人?クロアチア人?スロベニア人王?の基礎が形成された。しかし、スロベニア人議員26名が憲法制定議?で棄?したように、スロベニア人が主張していた連邦主義は採用されることなくセルビア人の主張した中央集?主義が採用された [# 6] 。スロベニア議員らは主にコロシェツ神父が率いるスロベニア人民?員であったが、コロシェツは中央政府との協力を行う事により、?務大臣を何度か勤める事となる [51] 。そしてユ?ゴスラビアで??危機が1931年に?生すると翌年にはさらに?況が?化、クロアチア農民らの暴動が?生する事態に至り、スロベニアでも兵士による反?が?生した [52] 。さらに、クロアチア人指導者である スチェパン?ラディチ が議??で銃?され後に死亡したことにより、?王 アレクサンダル1世 が王??の危機?拾のために首相に就任、事態?拾に奔走するが、それも身を結ばずに?任、その3日後にアレクサンダル1世は?裁制への移行を表明することとなる [51]

コロシェツはこの新たな局面において「1932年宣言」を行う事により、スロベニアへの自治?の委?、イタリア、オ?ストリア、ハンガリ?において少?民族と化しているスロベニア人居住地域を王?領とするために?境線修正を要求したが、イタリアがこれを挑?行?として非難、?王アレクサンダル1世はコロシェツを逮捕、 ツレス島 へ幽閉した。その後、アレクサンダル1世が暗殺された後、?政を?うこととなった パブレ公 の指示のもと、 ミラン?ストヤディノヴィッチ  ( en が首相に就任した際には、ストヤノディノヴィッチはスロベニア人民?からの協力を得るためにコロシェツを政界に復?させ、?務大臣に就任させた。しかし、ストヤディノヴィッチが ロ?マ?皇 との「 コンコルダ?ト(宗?協約) 」締結を行おうとしたが [# 7] セルビア正?? による大規模な反?キャンペ?ンが行われ、コロシェツがスロベニア人とクロアチア人の??を行ったとして非難された [54] [53]

しかし、これらの諸問題を解決するため 1939年 8月、ストヤディノヴィッチの後任首相 ドラギシャ?ツヴェトコヴィッチ  ( en クロアチア農民?  ( en 指導者 ヴラドコ?マチェク  ( en との間で「 スポラズム(協定)  ( en 」が結ばれ、ザグレブを州都とする クロアチア自治州  ( en が形成された。このため、クロアチアにおける問題については一定の成果が見られたが、スロベニアでは「スポラズム」が結ばれなかったため、スロベニアでも自治を求める?が高まっていた [55]

スロベニア地域の?展 [ 編集 ]

スロベニア?立博物館

1919年 、リュブリャナで大?が開設されたスロベニアにおいては ?立博物館  ( en ?立美術館  ( en ?立劇場  ( en がそれぞれ設立された。さらに 1928年 には ラジオ?リュブリャナ  ( en が開設され、 1938年 には 芸術科?アカデミ? が設立、ハプスブルク時代から?いた文化面での?展が?いていた。さらに小?校、中?校ではセルビア?クロアチア語で?育が行われ、1939年の時点でユ?ゴスラビア全?の 識字 率が60%と推測されるのに?してスロベニアでは92%にまで及んでいた [56]

??面でもスロベニアは?展を遂げていた。1919年より始められ土地改革により ドイツ人 ハンガリ?人 の地主が追放、それらの土地が元兵士らに?えられるなどして小規模地主らが生まれた [57] 。この小規模地主らは?力な協同組合を組織化した。さらにスロベニア人民?が中央政府と協力したことにより、スロベニア農民らは他の地域と比べるとかなり有利な農業借入金制度が適用された。このため、スロベニアにおける商品として牛乳や砂糖、ジャガイモ、木材がユ?ゴスラビア全土で販?される事となった。1930年代の 世界恐慌 時にはスロベニア人の一部がアメリカに移民するなどしたが、第一次世界大?直前でユ?ゴスラビア全?の農業人口75%に?してスロベニアは55%であった [58]

さらにスロベニアでは工業化がハプスブルク時代より進んでいたが、セルビア人?クロアチア人?スロベニア人王?成立以降、急速に?展することとなり、中心地リュブリャナは重要?点と化した。スロベニアでは元?、農産食品?係、?維?係での工業化が進んでいたが、さらに?、非?金?分野、科?製品分野、そしてスロベニア全土で生産されていた ホップ を利用したビ?ル工場も?達することとなった。 トルボヴリェ では 石炭 採掘、ツェリェでは化?製品、マリボルはスロベニア第二の工業地?として?展、?維、金?、化?製品、紙がユ?ゴスラビア全?に行き渡ることとなる [59]

スロベニア人問題 [ 編集 ]

1921年の時点でスロベニア人は105万4千人がユ?ゴスラビア王?に所?していたが、他にもイタリア、オ?ストリア、ハンガリ?にも約35万人が所?しており、少?民族と化していた [60]

イタリアにおける問題 [ 編集 ]

1920年、イタリアの ベニ?ト?ムッソリ?ニ が「外?人排斥キャンペ?ン」を?行したことにより、トリエステのスロベニア民族?館が?き討ちに遭うなど事態は?化していた。また、 1923年 にはスロベニアに隣接する ヴェネツィア?ジュリア の?校ではスロベニア語?育が禁止され、スロベニア語の抹殺が?られたため、多くのスロベニア人が他のヨ?ロッパ地域や ラテン?アメリカ へ移住する事態も?生していた。さらにムッソリ?ニはスラヴ語起源の名?を持つ町や村の名?を?更、スラヴ系の姓を持つ家族にも改名をするよう?力をかけ始めたが、それだけではなくスロベニア人の組織「エディノスト(統一)」も解散させ、スロベニア語の新聞も??させた。このため、イタリアのスロベニア系住民とイタリア政府の?係は?化、イタリアの ファシスト たちはスロベニア系文化、??組織へ襲?を行ったが、これに?してスロベニア人らは「ボルバ(??)」を組織して反?にファシストの建物、人物を襲?した [61]

これらの?況の中、イタリアのスロベニア系民族主義者らはユ?ゴスラビアへの?合を要求したが、イタリア政府はこれを反逆行?として??、1927年から1943年の間に544人のスロベニア人らが131回の裁判にかけられることとなり、10人が死刑を宣告され?刑された [61]

オ?ストリアにおける問題 [ 編集 ]

オ?ストリアのスロベニア人らはイタリアよりも?健であった。しかし、ウィ?ン政府はスロベニア人のドイツ同化政策を推進、ここに至ってスロベニア人らは?スロベニア民族政策としてこれを非難した。さらに1920年10月、スロベニア人居住?において住民投票が行われたが、このとき、セルビア人?クロアチア人?スロベニア人王?への??を希望した人?は要注意人物として監視され、1920年の?勢調査で8万2000人居たスロベニア人らは1923年には3万7000人にまで落ち?んでいた。1934年、オ?ストリア首相 エンゲルベルト?ドルフ?ス がスロベニア人の??的、政治的組織の解散を命じたが、ナチス?ドイツが進出するにつれてそれは過激化、迫害行?となりスロベニア人らの?制移送も?討される事態にまで至る [62]

第二次世界大? [ 編集 ]

ユ?ゴスラビア王?は周?の??が?軸側に?加したことから?軸側への?加を余儀なくされていた。しかしそれに反?する ドゥシャン?シモヴィッチ  ( en ?軍は 1941年 3月25日 から26日にかけて、ク?デタ?を決行した。このク?デタ?の結果、それまでユ?ゴスラビアの政治を?ってきたパヴレ公は失脚、若き?王 ペ?タル2世 の親政を中心にスロベニア人閣僚も3人入閣することとなった。しかし、このク?デタ?によりユ?ゴスラビアが?軸側からの?退をしようとしていると判?したドイツ?統 アドルフ?ヒトラ? はこれに激怒、ユ?ゴスラビアの占領を命じた [63]

1941年 4月6日 、ドイツ軍は ブルガリア ?境よりセルビアへ侵攻、8日にはオ?ストリア?境よりスロベニアへ侵攻した。ドイツ軍は素早く マリボル プトゥイ ツェリェ を占領、さらに11日にはイタリア軍が侵攻を開始、 リュブリャナ が占領された。ユ?ゴスラビア王?政府は亡命を余儀なくされ、 カイロ ?由で ロンドン へ亡命することとなったが、これにはスロベニア人閣僚も?った [64]

一方、現地に?されたスロベニア地域 ?督(バン) マルコ?ナトラチェン sl )は「民族?議」を結成して?軸?と交?を行おうとしたが、これはイタリア軍と?日協力をした後に解散させられた。この時、スロベニアにおいて民族??を?けていたリュブリャナ市長 イヴァン?フリ?バル  ( en は自殺している。結局、スロベニアはイタリア、ドイツ、ハンガリ? [# 8] によって分割されることとなり、ドイツは アルプス 地域を、イタリアはリュブリャナを含むザヴァ川以南を、ハンガリ?は ムルスカ?ソボタ 周?の プレクムリェ地方 をそれぞれ占領した [64]

ドイツ占領地域ではヒトラ?の ドイツ化 命令の元、2つの地域へ分割、 カルニオラ  ( en 北部は「オ?バ?クライン」(州都 クラ?ゲンフルト )、スティリアの一部は「 ウンタ?シュタイヤ?マルク 」(州都 グラ?ツ )が設定されたが、?校は閉鎖された上で公共の場での スロベニア語 の使用が禁止、16000人がドイツ、もしくはクロアチアへ?制移住された。ただし、この政策に?してイギリス外務省は ポ?ランド とは?況が違うと?明を?表している。一方でイタリア占領地域ではヴェネツィア?ジュリアに?連する地域をドイツが占領地域を含めた上でイタリア王?領リュブリャナ州として全てのスロベニア人を統合、制限つきの自治を?えるという政策の元、行動していた。その一方でユ?ゴスラビア王?において少?民族と化していたドイツ系、イタリア系、ハンガリ?系の人?はこの占領を熱狂的?迎ム?ドで受け入れ、母?の一部になったことを祝福した [66]

スロベニアは分割占領されることとなったがリュブリャナのロジュマン司?はイタリアとの協調路線を取るべく努力を?っていた。しかし、イタリア軍がリュブリャナを占領した1週間後の1941年 4月27日 、イタリアの占領に反?する キリスト?社?? 左派、愛?的自由主義者が集まった?年?育文化組織「 ソコル(鷹)  ( en 」、共産主義者らが結集、「反帝?主義?線(Protiimperialisti?na fronta)」が?足した。特に共産?は1941年 6月22日 にドイツがソ連に宣?布告すると ソビエト連邦 共産?書記長 ヨシフ?スタ?リン の呼びかけに?じて パルチザン 活動を開始、スロベニアにおける抵抗活動が本格化することとなった [67]

「反帝?主義?線」は「解放?線(OF)( sl )」に名??更された後、活動綱領を?表したが、パルチザンはスロベニア?ナショナリズムを基本として??な主義主張を持つ勢力らが連合していくものとされ、??の自由を保障するなど?健的な綱領であったが、1941年 9月16日 に「 スロベニア民族解放委員?  ( en 」が設立されるに至り、スロベニア人が居住するすべての地域へ影響を持つこととなった。この中で共産?員たちは革命を起こす事を考えており、解放?線の中で?軸?と?うだけでなく、スロベニアにおける?敵協力者の根絶を主張したが、ロジュマン司?を含む聖職者らを含む人?はこれがスロベニア人同士で??に至ることを恐れていたが、これはイタリア軍の指導の下、「白衛?」と「 ドモブランツィ(祖?防衛者)  ( en 」と呼ばれる武?集?が結成されパルチザンとの??に加わっていたためであった(後に白衛?はドモブランツィに吸?される)。さらにリュブリャナはイタリア軍によって何重もの軍事警戒線が設定されており、これに攻?を仕掛ける事は危?な行?であった上に アルベ島 をはじめとして各地に ?制?容所 を設置していた [68]

解放?線は?軸軍が占領するスロベニア人居住地全?で抵抗活動を開始した。しかし、北アフリカでドイツ軍が敗北したことにより、 バルカン半島 連合軍 が上陸を行うという雰??が形成されると ユ?ゴスラビア共産? 指導部及び指導者 ヨシップ?ブロズ?チト? は反共主義者が?化される可能性が?生したことにより懸念し始めた。特にスロベニアでは共産?スロベニア支部長 エドヴァルト?カルデリ  ( en らはキリスト?社??の態度に不安を抱いており、?軸?への?いが弱まる恐れを抱いていた。そのため、 1943年 3月1日 、解放?線は「ドロミテ宣言」を?表して共産主義者が解放?線における主導?を握った上でキリスト?社??や自由?に?自の政治活動を認めることを宣言した [69]

1943年9月、イタリアが 連合? に休?を申し入れる事となるが、 10月4日 、解放?線は コチェ?ヴィエ で「人民議?( sl )」を開催、 クロアチア?立? と化していた沿岸地方をスロベニアへ?合すること、スロベニアは他の諸民族とともに?家連合を形成することを宣言した。その後、チト?が 11月23日 に開催した「 ユ?ゴスラビア民族解放反ファシスト?議(AVNOJ) 」で報告された。「ユ?ゴスラビア民族解放反ファシスト?議」は臨時政府としての機能を果たす事となったが、これは事?上、チト?らが??を握っており、?議では?王の??の禁止、ユ?ゴスラビアを連邦?家に編成すること、チト?にユ?ゴスラビア軍元帥の??が?えられる事などが決定された。スロベニア代表には ヨシプ?ヴィドマ?ル  ( en が就任していたが、共産主義者に主導?を握られている上にヴィドマ?ルは新たに生まれるユ?ゴスラビア政府がスロベニア人に行政などの分野で自治を認められることを確信していると?言したに過ぎなかった [70]

イタリアが降伏したことにより、イタリア軍の武器や?備が放棄されることとなったが、これはパルチザン側が得ただけではなく、?軸軍への協力を行った反共民兵組織にも獲ることとなった。このため、ドイツ軍はイタリア軍が占領していた地域を占領するために「ドモブランツィ」を利用したがこれはパルチザンとの??を生む事となった。チト?はロンドンに亡命していたユ?ゴスラビア王?政府と交?を行い、 1944年 9月、「 チト?=ジュバシッチ協定  ( en 」に同意、連合?からの援助を得る事となった [# 9] 。このため、スロベニア?パルチザンらはチト?率いるユ?ゴスラビア軍と連合軍と協力した上でスロベニアを解放、リュブリャナは解放?線が占領した [# 10] [71]

ドモブランツィはドイツ軍が撤退したことにより、カリンティアに逃亡したが、その中の女性や子供らを含む?千人はユ?ゴスラビアへ?ったところを チト??パルチザン らによって拘束され、 ツェリェ 近郊の テハリエ  ( en コチェ?ヴィエ 近郊の コチェウスカ?レカ ( sl )などで?刑されたが、2年たった 1945年 の時点でもその地域の農民らが「大地が、ため息をついている」と死臭が漂う事を苦情として申し立てるほどのものであった [72]

一方、ドイツ敗?により再び少?民族となったドイツ系とイタリア系の住民は住んでいた土地を追放され、それぞれ オ?ストリア やイタリア本?へと避難していった。 イストリア半島 ではイタリア系の住民がパルチザンによって虐殺され、「フォイベ」と呼ばれる洞穴に殺害された住民の遺?が遺棄された。

1945年5月時点でスロベニア人150万人のうち、5万1000人が死亡、そのうち?死が41%の2万1000人、占領者に殺害されたのが3万人と推測されている [73]

ユ?ゴスラビア社?主義連邦共和?へ [ 編集 ]

1945年 5月5日 、イタリア領 ヴェネツィア?ジュリア 州の共産?指導者で解放?線の書記長である ボリス?キドリッチ  ( en を中心とするスロベニア政府がリュブリャナで樹立された。一方でチト?を首班とする第二次チト?政?が ベオグラ?ド 3月7日 に樹立されていたが、リュブリャナでは「合法性をあまり?にしない」をモット?とする政治警察「 人民保安部(OZNA)  ( en 」による??が行われていた。そのため、ドイツ系の人?が財産を??された上で追放を受け、聖職者らを中心とする人?は敵に?して協力を行った事?の有無に?わらず、裁判にかけられ多くの人?が有罪とされたが、その?は不明である [74]

解放?線は大?中に財を成した農民や?敵協力者などから??した資産を元に復興措置を追ったが、銀行にまでその手は及び、さらに 8月25日 には全ての報道機?の資産が解放?線に管理下におかれる「報道法」が制定、野?らは自らの主張を述べる機?を奪われていた。さらに中央政府に?加していた?王側の閣僚が夏に?任すると11月に?選?が?施されたが、これは西側連合?が異議を申し立てない程度に好ましくない人物の選?からの排除を行った。そのため、共産?は90%の支持を得る事となり [# 11] 、憲法制定議?が召集されると王政の?止と連邦制に基礎を置いた ユ?ゴスラビア連邦人民共和? の樹立が宣言され、スロベニアもその?の一?となった [# 12] [75]

しかし1918年、ユ?ゴスラビア王?が成立した際に問題となった?境線が今回も問題を生じる事となった。1945年5月1日、チト??パルチザンは イギリス軍 よりも先にトリエステに侵攻しており、イタリア領ヴェネツィア?ジュリア州全てと南カリンティア州の北部地域の割?を要求したが、イギリス首相 ウィンストン?チャ?チル とアメリカ大統領 ハリ??S?トル?マン らは地中海に共産主義者が?点を得る事を望んでおらず、イギリス軍とユ?ゴスラビア軍の間に緊張が走る事となった。しかし、 ソ連共産? 西側連合? イタリア共産? との衝突を望まなかったため、ユ?ゴスラビア軍へトリエストからの撤退するよう命令、1945年 6月12日 、ユ?ゴスラビア軍は撤退した。そのため、イギリス軍がトリエステを占領したため、ヴェネツィア?ジュリア州の一部だけがユ?ゴスラビア領となることとなった。一方でスロベニア人で構成された部隊は コペル (イタリア名カポディストリア)とその周? プリモ?リェ (プリモ?ルスカ)の占領を行っていた。この結果、 1946年 10月に結ばれたパリ協定によりトリエステを中心とした地域はイギリス軍、 アメリカ軍 が統治することとなり、コペル、ブ?イェを含む地域はユ?ゴスラビアが統治することとなり、この境界線では?戒態勢が敷かれる事となった [76]

一方、カリンティアでは 5月19日 、英米軍合同司令部がユ?ゴスラビア軍及びパルチザン部隊に?して撤退を行うよう最終通告を突きつけたため、速やかにユ?ゴスラビア側はこれに?じた。結局、カリンティアの行政?はイギリス軍が握る事となり、?境線は1919年?時と同一とされたが、スロベニア人らはこれを受け入れる他なかった [77]

スロベニアにおいてはエドワルド?カルデリやボリス?キドリッチらが重要な役割を果たしたが、「?部への敵」に?する??がユ?ゴスラビア?で?行された。しかし、そこにはレジスタンス活動に加わり ダッハウ?制?容所 へ送られた スロベニア共産? 員も含まれ、1948年3月、裁判にかけられて反共産主義者として死刑などの重罪に?されたが、これはオスマン帝?の?制やロシア的慣習よりもユ?ゴスラビアが西側に近いと考えていたスロベニア知識人らを失望させることとなった [78]

ユ?ゴスラビア民族解放反ファシスト?議の綱領を元に、ユ?ゴスラビアでは農業改革が進められ、農地所有の上限が個人は35 ヘクタ?ル 、??が10ヘクタ?ルに定められ多くの大土地所有者が追放された。スロベニアでは大規模に土地を所有していたドイツ人、リュブリャナ司?座、カトリック??がその?象となったが、これはユ?ゴスラビア人口の半分を占める農民たちの?心を引き寄せることと、貧しい農民と豊かな農民を?立させることに主眼が置かれており、結局、スロベニアにおける平均土地所有面積の?加は妨げられることとなった [78]

1946年以降、 五カ年計? が?施されることとなり、スロベニアでは重工業への?換を行いながら生産?を三倍にすることが期待されたため、全ての主な銀行、工場、運輸、流通、商業、貿易が?有化、地方の小規模商店は協同組合の一部として組み?まれるなど全ての面での?有化が進んだ。さらに?育方面でも改革が進み、マルクス主義?育や文化活動が導入化されることとなった [79]

ところが 1948年 6月28日 コミンフォルム がチト?とユ?ゴスラビアを非難し、ユ?ゴスラビアはソ連との?係を?絶することになるが、ユ?ゴスラビアでは「スタ?リン的要素」やその支持者などは??されアドリア海の ゴリ?オトク島 の?制?容所に送られた。そしてソ連よりも「マルクス主義的」である新制度が導入されたが、その理論家はスロベニア人のE?カルデリが存在しており、彼は生産手段は??者に優先?が存在しており、??者は「??者評議?」を組織するものとしていた。このコミンフォルム決議の際、スロベニア人は?力にチト?を支持したが、これは西側への接近を視野に入れたものであった [80]

だが、コミンフォルムからの除名によりユ?ゴスラビアの五カ年計?は深刻な影響を受ける事となり、中央政府は地方分?化を行ったが、これによりスロベニアもその恩?を受ける事となり、5ヵ年計?に沿った政策を?行、これはスロベニアの工業?展の端?となり、ユ?ゴスラビアでも重要な地位を占めることになった [# 13] [77]

この雰??の中、 1960年 代のユ?ゴスラビアは相?的に自由な?となり、制限はあるものの政治的議論が可能となっていた。しかし、 1959年 シュタイエルスカ地方 のトルボヴリェ?山で?生した ???議 の?拾策を巡り、?力行使で??を主張する中央政府と?話を重視するスロベニア政府の間で深刻な?立が生じていた。さらにユ?ゴスラビアを??危機が襲うとその??方法でも?者は?立することとなった。これは資本蓄積が貧弱なまま工業生産が急激に伸びたため、生産のバランスが崩?したことによるが中央政府は「 ザドルガ 」を解散、個人農家を創設するための資金融資を行わざるを得なくなっており、 協同組合 への加入も?止された。結局、 1966年 7月、 アレクサンダル?ランコヴィッチ  ( en ?相が失脚したことにより、トルボヴリェ?山の ストライキ 以降、中央政府と?立していたスロベニア政府における勝利とみなされた [81]


1954年 10月、イタリアとユ?ゴスラビアの間でロンドン議定書に合意、それまでユ?ゴスラビア軍が占領していたコペル、ブ?イェを含む地域はユ?ゴスラビアへ?合、イギリス軍、アメリカ軍が占領していたトリエステを中心とした地域はイタリアへの?合が決定された。このため、コペル港はスロベニアの主?が及ぶこととなり、ブ?イェから ミルナ川  ( en までの地域はクロアチアへ?合された。この?境線は 1975年 、イタリアとユ?ゴスラビアで結ばれた オ?ジモ?約 により最終的に決定する。一方、カリンティア地方は オ?ストリア?家?約  ( en により、1938年?時の?境線が保?されることとなったため、オ?ストリアのスロベニア系少?民族の?利が名目上は認められたが、スロベニアの愛?者たちには失望が走ることとなった [82]

1963年 、新憲法が制定されることにより自主管理行政組織が制度化、これにより各共和?に自由裁量が認められたため、スロベニア政府は中央政府が南部の共和?へ分配する補助金制度を批判した。他にも地方行政面でも自主管理制度を元とした改革が行われ、さらには??改革の中で西側諸?への出稼ぎが容認された。このため、人口?加により失業が?加していたスロベニアにおいて多くの人?がドイツ各地へ出?、さらに出稼ぎにでた人?が送金することにより、スロベニアの??を好?させることとなり、生活水準も向上することとなった。しかし、各共和?で??改革が推し進められたことにより、共和?同士の競?が生じることとなったが、それに伴いスロベニアのエリ?ト層も出現、スロベニア政府首相 スタネ?カウチッチ (Stane Kav?i?)はエレクトロニクスやサ?ビス業を中心とした近代産業構造へ?化させることにより西側との?係を深めることを構想したが、これは地中央政府によって妨害され、カウチッチは??者階級に敵?する人物でスロベニアの分離?立を行おうとしているとして失脚した [83]

こうした共産主義者同盟(ユ?ゴスラビア共産?)?での?立によりチト?は各共和?への大幅な?限委?を決?、 1974年憲法  ( en により「自由に連合した生産者による直接民主主義」と各共和?の自治が大きな柱とされた。しかし、 オイルショック が生じた事により、??危機がユ?ゴスラビアを襲うと北部の スロベニア クロアチア と南部の マケドニア モンテネグロ 及び コソボ自治州 の間の格差はさらに?大、 インフレ がユ?ゴスラビアを襲う事になり貿易赤字が15億ドルにまで到達、?外債務の返?の繰り伸ばし、失業の?加が見られるようになった [84]

1972年 、スロベニアではリベラル派が敗北したことにより保守?制が?いていたが、??面での近代化は進んでおり、スロベニアの ?民?生産 はユ?ゴスラビア平均の2倍に達していた [# 14] 。しかし、スロベニアの製品もユ?ゴスラビア?を席?してはいたが?際市場に進出するには困難が生じており、農業面においても古典的な自給自足を中心としていたため、農産物の?格が高騰するという問題を抱えていた [86] 。また、このことから 1965年 に創設され、南部の共和?が安い利子で借り入れができる「?展のための連邦基金」はスロベニア、クロアチアが南部の共和?を養っている?態であるとしていた [87]

1980年 5月4日 、チト?がリュブリャナの病院で死去しチト?の遺?はベオグラ?ドへ移送されることとなるが、ユ?ゴスラビアという??でのスロベニア共和?の活動が終わりを告げようとしていた [85]

?立への道 [ 編集 ]

1969年 、西側諸?から ダルマチア 海岸を?光に訪れる人?が多?に上り、その94%がスロベニア?由で訪れていた事からスロベニア首都リュブリャナからイタリア、オ?ストリア?境とを結ぶ高速道路が建設されることが決定、世界銀行から?額3400万ドルに及ぶ融資を受ける事となった。しかし、中央政府はこれをマケドニア、コソボ、モンテネグロなど南部地域への使用する事を決定した。このため、スロベニア政府はこれに大規模な集?を開いて抗議したが、チト?及びカルデリはスロベニアが中央政府へ?力をかけているとして批判した [# 15] 。しかし、スロベニア政府代表はこれに?して共産主義者同盟?の古?幹部らが?務的官僚主義勢力を形成したことにより、中央集?化を行おうとしていると反論した。この「自動車道事件(ハイウェイ事件とも)」によりスロベニア人がユ?ゴスラビアの現?に?足していないことが現れていた [89]

1979年 カルデリが死去した事によりスロベニアでは?力??が生じていたが、 1982年 、ユ?ゴスラビアでの?育プログラムを共通化させることをセルビアが提案したことによりユ?ゴスラビア?に緊張が走った [# 16] 。スロベニアはこの共通化が民族的アイデンティティを侵害するものとして、1971年に「 クロアチアの春  ( en 」と呼ばれる民族運動を??していたクロアチアと共にセルビアへ抗議を行った [88]

チト?死後、ユ?ゴスラビアの?家元首は連邦幹部?議長が輪番で勤めることになったが、これにより中央集?主義者と反中央集?主義者との間での抗?が勃?、民族主義者と見做された人?は裁判にかけられた [# 17] 。さらに 1981年 コソボ自治州 プリシュティナ大?  ( en でアルバニア系?生が蜂起、これは?山??者などにまで波及、深刻な問題と化した。このためユ?ゴスラビア連邦軍が投入されたが、この?ぎで1,000人以上が死亡したとされている。スロベニアではこのアルバニア人らを受け入れ、リュブリャナなどではコソボからの難民が商店やカフェなどを開店するなどして生活することとなった [90]

1986年 セルビア社?主義共和? スロボダン?ミロシェヴィッチ が掌握、「全てのセルビア人が同一の?に住むこと」を主張してクロアチア、ボスニア?ヘルツェゴビナのセルビア人らをセルビアへ統合する「 大セルビア 」の構想を練りだすとさらに問題が深刻化することとなった。このため、スロベニアでは作家や?生たちが立ち上がり、第12回社?主義?年同盟大?ではチト?への個人崇?ではなく、市民社?の?現を目標にすることをイデオロギ?として採用することを主張した。これには軍や?が警告したにもかかわらず世論の支持を得たがこれよりもユ?ゴスラビア南部の共和?へ?する不?の方がさらに高まっていた。さらにユ?ゴスラビア?では1979年に始まった 第二次オイル?ショック の影響が忍びよっており、 1982年 以降、 消費者物? が年率9%で上昇、物?水準は1989年の時点で1954年の13,85倍にまで達していた。この不?はスロベニア全?に?がりを見せ、中央集???への失望が高まっていた [91]

ミラン?ク?チャン

1987年 、スロベニアのリベラル派知識人とカトリック系知識人らが共同して「 ノヴァ?レヴィヤ(新評論)  ( en 」が創刊され、一??裁の?止、民主主義や市場??の導入、ユ?ゴスラビアを?家連合へ改?した上でその??でのスロベニアの?立などを軸とするスロベニア民族綱領を?表した。これに?してスロベニア共産主義者同盟議長 ミラン?ク?チャン  ( en は反?しないことを表明したため、スロベニアと中央政府の間で?立が生じ、輪番制の?家元首にスロベニア議長が就任することを拒否したが、これはさらにスロベニアと中央政府との?立を激化させただけにすぎなかった [92]

そのためユ?ゴスラビア連邦軍はスロベニアの?誌「 ムラディ?ナ(?春)  ( en 」の編集者らが?誌?で連邦軍の批判を行った際に機密文書を使用していたと主張、 1988年 に彼らを裁判にかけた [# 18] 。この裁判はリュブリャナで開かれたにもかかわらず、 スロベニア語 ではなく セルビア?クロアチア語 が使用されたため、スロベニアの人?は「ノヴァ?レヴィヤ」で?表された綱領への支持を行うようになった。そのため中央政府は1988年8月、連邦憲法の一部を改正、各共和?への制限を?める事となった [93]

しかしスロベニアの世論の高まりによりスロベニア共産主義者同盟、スロベニア社??年同盟らはその影響を受け、スロベニア共産主義者同盟議長、ミラン?ク?チャンは?力を見せた。ユ?ゴスラビア共産主義者同盟の指導者は中央集?を?めるためにスロベニア世論の操作を試みたが、スロベニアで進む自由化を止める事はできなかった。 1989年 1月、「 スロベニア民主同盟  ( en が成立した上で7月に スロベニア共産主義者同盟  ( en が指導勢力しての役割を放棄したことにより「民主同盟」は正式に存在が認められることとなった。それに付?してリュブリャナではセルビア指導者ミロシェヴィッチがコソボ自治州に三度、連邦軍を投入した上で自治州の自治?を?奪してセルビア共和?への統合を行うなどの超民族主義的政策に反感が募っていた。 1989年 2月、リュブリャナでコソボのアルバニア系住民とスロベニア人らの連?を表するための大集?が開催されたがこれをミロシェヴィッチが組織的手法で?抗、リュブリャナでセルビア人らによる大集?を開催しようとした [# 19] 。しかし、これはスロベニア政府によって禁止されたため、 セルビア共産主義者同盟  ( en はスロベニアへの??制裁を呼びかけた [95]

1989年5月、スロベニアの野?勢力が南スラヴ民族と共存しながらも「スロベニア民族が主?を持つ?家」の樹立を目的として「5月宣言」を?表した。これに?して中央政府は?力を?力にかけたが9月にスロベニア議?が共和?憲法を改正を?議、?際的主?がスロベニアに?する事を規定することが目的であったが、一??裁制時代に選ばれた議員らは全て?成、決議された。このため、スロベニアの?立が規定され時間と方法だけが問題となった。スロベニア政府はスロベニアが連邦?での特別な地位となることを望んでいたが、野?勢力らはユ?ゴスラビアを?家連合にすることを望んでいた。さらに政治的組織としてスロベニア政府は?存の組織「社?主義同盟」?で複?の派閥が活動することを望んでいたが、野?勢力は複?政?制による?の民主主義を求めた。このため、1989年11月末、スロベニア政府は世論の絶大なる支持を元に中央政府が求めていた デノミネ?ション ( 新ディナ?ル の導入)や給?凍結を軸とする??政策を拒否、これに??してセルビア及びモンテネグロはスロベニアへの??制裁を行ったが、スロベニアは同じく?立を目指すクロアチアと協力して?抗した。さらにスロベニアの野?であるスロベニア民主同盟、 社?民主同盟  ( en スロベニア農民同盟  ( en キリスト?民主?  ( en スロベニア?の?  ( en らが連合して野?連合「 デモス(DEMOS)  ( en を結成、共産?へ?抗した [96]

そして?立へ [ 編集 ]

1991年 にベオグラ?ドで開催された第14回共産主義者同盟大?でクロアチアとスロベニアの共産主義者たちはこれまでの??を捨て去る事を主張したが、これが受け容れられなかったため、クロアチア代表とスロベニア代表らは大??場から退場、スロベニア代表らはユ?ゴスラビア共産主義者同盟とは無?係であると宣言した [94] 。ミロシェヴィッチは大?をそのまま?けようとしたが、今度はクロアチア代表?の抗議が行われ 1月23日 、大?は中?されたまま無期延期となった。中央政府首相 アンテ?マルコヴィッチ  ( en はユ?ゴスラビアは??するが共産主義者同盟は政治の舞台より消え去ったと宣言したがすでにセルビアを代表とする中央集?派とスロベニア、クロアチアらを代表とする?立派に分かれていた [97]

ロイゼ?ペテルレ

これが明確に現れていたのが 1990年 4月に行われた初の自由選?であり、スロベニアでは野?連合「デモス」が55%の得票率を獲得、?りの得票率をそれまで存在していた共産?系である民主改革?など三政?で分け合う形となっていた [# 20] 。首相にはキリスト?民主??首 ロイゼ?ペテルレ  ( en が選出され、同時に共和?大統領が直接選?が行われた上でスロベニアに複?政?制を暴力行?無しに導入した改革派共産主義者ミラン?ク?チャンが59%の得票率で?選していた。これら初の自由選?ではハンガリ?系やイタリア系の少?民族らにも一議席ずつ割り?てがあり、スロベニアの人?がスロベニアの?立を目指す「デモス」を支持していたことが明らかになった [99] 。これらの結果を受けて大統領ク?チャンは共産主義者同盟へ?表を提出、デモスの代表者らに組閣を要請した [100]

スロベニア共和?首相ペテレルはスロベニアの民主的、平和的な?立を達成するためにスロベニアの政治的、民族的政策を纏め上げユ?ゴスラビア連邦政府との交?を行うことを考えており [101] 、1990年12月の議?においてスロベニアの?立とユ?ゴスラビアからの離?について?民投票を行う事を決定した [102] 。一方でスロベニア??では過去の「ドモブランツィ」と「パルチザン」らの和解が課題として?っていたがこれは盛大な記念式典が 1991年 6月開催されたことにより?算へ向かっていた。しかし、連邦政府はこの問題で話し合う?は全く持ち合わせておらず、すでに?立への意思を明確にしていたスロベニア、クロアチアから少しでも領土を獲得するための行動を開始した。このため、クロアチアのセルビア人らはユ?ゴスラビア連邦軍の協力を得た上でリ?カ地方から北ダルマチアにかけてクロアチア政府の政策を拒否、アドリア海へつながる交通路を遮?するなどを行っていた [101]

スロベニアでは 7月2日 から??においてソ連邦の バルト三? の例にならい共和?法が連邦法に優先するなどの「主?宣言」を行い、さらに 9月28日 には?防に?する分野など全ての分野を共和?が掌握するとした憲法修正が採?され、領土防衛隊がスロベニア政府の指揮下となり [103] 、10月8日には新通貨 トラ?ル が導入された [104] [# 21] 。これに?してユ?ゴスラビア連邦幹部?議長 ボリサヴ?ヨ?ヴィッチ  ( en は連邦政府の?限を侵すと激しく非難した。しかし、スロベニア大統領ク?チャンと首相ペテルレはこれに?して 12月23日 に行う?民投票においてユ?ゴスラビアとスロベニアが新たな?係を確立するべきがどうかについて信を問う事を決定、リュブリャナ??のシュシュタル大司?もこれを支持した。しかし連邦政府首相 アンテ?マルコヴィッチ はスロベニアが憲法違反を犯しており、必要?抗?置を取ると脅迫した [103]

結局、投票が行われ、有?者150万人の?、89%が?加、その?の88.5%がスロベニアが主?を持つ事、スロベニアが?立することへの支持しており、さらにはスロベニア以外に住むスロベニア人以外の人?もこれに?成していた。これに?してスロベニアの?立をあくまでも認める?のないセルビア共和?政府は連邦政府がセルビアの影響下にあることを?明するために16億ドル相?のディナ?ル紙幣を印刷したが、これはユ?ゴスラビアの??に致命的な打?を?えるという皮肉な結果に終わった [106]

スロベニアは?民投票時に?表した半年の猶予期間を過ぎた1991年 6月25日 、リュブリャナの議?にてスロベニア共和?の?立を宣言した。しかし、連邦政府はこれを認めず、さらには?際社?においても連邦政府の意向を支持する可能性が存在していた [# 22] 。さらには連邦政府首相マルコヴィッチは??でオ?ストリア、イタリアとのそれぞれの?境の確保を命令、スロベニアを孤立させようとした。しかしスロベニアはこれを事前に察知、8万人を動員してこれに備えていた [107]

十日間?? [ 編集 ]

6月26日 、リュブリャナの議事堂前?場で ユ?ゴスラビア?旗 スロベニア?旗 に置き換えられたが、27日、前日に展開していた連邦軍はリュブリャナ空港を封鎖、爆?を加える事により軍事作?が開始された。連邦軍は最初にオ?ストリア?境、次にイタリア?境でそれぞれ配置されていたスロベニア人警察官やスロベニア人??職員を攻?、マリボル北方のシェンティリの町では激?が交わされた [108]

これに?し ?州共同? は素早く反?したが フランス イギリス がユ?ゴスラビアの維持を支持、 イタリア ドイツ オ?ストリア ハンガリ? らはスロベニアの?立承認を行った上での?時停?を支持するなど混?を見せていた。 6月28日 ルクセンブルク イタリア オランダ の外相らは連邦軍がスロベニア?に存在する連邦軍基地へ撤?した後にスロベニアから撤退すること、スロベニアとクロアチアの?立を3ヶ月凍結した上で連邦政府と交?を行う事、輪番制の?家元首に着任を拒否されていたクロアチアの スティエパン?メシッチ を選出することの3つを軸に妥協案を提案した。これら妥協案を元に交?が重ねられ [109] 7月7日 、ついに連邦軍はこの妥協案を受け入れ、スロベニアからの撤退を開始、スロベニアの?立は事?上のものとなった [110]

この?いでスロベニアでは54名、連邦側はそれ以上の死者、物的損害を出す事となり、さらにはセルビア人以外の?兵らの?走も?生していた。結局、スロベニアの?立についてはECの立?いの下、クロアチア沿岸のブリオニ島で??することとなった。ユ?ゴスラビア連邦軍が撤退を完了した後、スロベニアは事?上、?立?態と化しており、?自通貨のトラルを?行、 12月28日 には新憲法が制定され複?政?制、大統領制が採?された [111]

ヤネス?ドルノウシェク

この新憲法に沿った?選?が 1992年 12月に?施され10以上の政?が議席を得る事となったが、第一?は自由民主?が獲得した上で連立??を形成、首相には自由民主??首 ヤネス?ドルノウシェク が選出、大統領にはミラン?ク?チャンが選ばれたが、スロベニアには大きな課題が存在していた [112]

この課題はスロベニア?立の承認を得る事であったが、ドイツ、オ?ストリア、ハンガリ?、チェコスロバキア(?時)、ポ?ランド、さらに ロ?マ?皇 ヨハネ?パウロ2世 らは積極的であったが他のヨ?ロッパ諸?は消極的であり、特にイタリアは1945年から46年に手放していたイタリア系住民の財産補償問題を?げ、さらにフランスは親セルビア的?念から連邦を支持、イギリスはこれに距離を置いていた。これらの?況の中、ドイツがECに?力をかけたことにより1992年 1月15日 、スロベニア、クロアチアの?立を承認、これを契機に他の諸?も??の承認を行うようになり、1992年 5月22日 、最終的に?連加盟?となった [112]

?立後のスロベニア [ 編集 ]

?? [ 編集 ]

1992年4月、新憲法の準備過程の中、民?化方針を巡って諍いが生じたため、DEMOSは崩?することとなった。さらに自?の評?を巡り、各派閥の?立構造が見られることとなった [# 23] 。1992年12年、正式にDEMOSが崩?した後の選?で共産主義同盟系の 自由民主? 社?民主連合リスト  ( en らと 社?民主?  ( en キリスト?民主?  ( en らが政?を?うこととなった [114]

1992年には企業の民?化に?する法案が通過、スロベニアにおいてユ?ゴスラビア時代から?く企業民?化に拍車がかかることとなり、1993年から1997年の間にスロベニアの?有企業のほぼ全てである1500企業が所有移?され1998年11月の時点で1369社が民?化された [115]

?外 [ 編集 ]

1989年よりECへの加盟を表明していたスロベニアは1991年に?立を達成したことにより、EC/ EU への加盟が最大の目標と化していた。そのため、EUの標準と基準をスロベニアに導入するために「EUへの待合室」である ?州自由貿易連合(EFTA) へ加盟、EC/EU加盟へ向けてその?制を整えた。さらにはユ?ゴスラビアからの?立のために失った市場をヨ?ロッパに求め [# 24] 1996年 には 中?自由貿易協定(CEFTA) に加盟した [117]

スロベニア憲法第68?では外?人によるスロベニアの土地購入を禁止していたが、イタリアの シルヴィオ?ベルルスコ?ニ 首相が第二次世界大?時に失われたイタリアの財産を保?するようスロベニアに求めていたことにより、問題が表面化した [# 25] 。後に スペイン の仲介を得たことにより解決へ向かったが、この?文はEU加盟への障害となっていた。そのため、?民投票を行った上でこの?文の修正が行われ、スロベニアのEU加盟への障害が取り除かれることとなった [117]

さらにスロベニアは 北大西洋?約機構(NATO) への加盟も表明しており、 1997年 3月の世論調査ではEU加盟支持の53%を上回る64%の支持があった。 1997年 ポ?ランド ハンガリ? チェコ ル?マニア らとともにNATO加盟寸前にまで至ったが、これは アメリカ が反?したことによりこの時は?現しなかった [117] 。しかし、 1998年 から 1999年 にかけて ?連安保理事? 非常任理事? を勤めることとなる。 [119]

その後、民主化と市場化を進めたスロベニアは 2004年 にEU、NATOへの加盟を果たした [# 26] 。さらに 2005年 には ?州安全保障協力機構(OSCE) 議長?を勤めた後、 2007年 ユ?ロ を導入、さらに 2008年 1月には東?諸?初のEU議長?に就任した [119]

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ただし、『オ?ストリア史』によれば970年に始めてカランタニア?境領の名前が史料に現れるとしており、中心地はヘンギストブルクにあったとしている [8]
  2. ^ 反?が??された後、グ?ベッツは捕らえられ?っ赤に燃える冠をかぶらされることにより?刑された [14]
  3. ^ これは首都ウィ?ンで使用されている事、政府中央機?で使用されていることから指定したもので、ヨ?ゼフ2世は文?的ではなく?際的な問題から指定したものであった [21]
  4. ^ スロベニア人らは6つの州に分?されており、多?を占めているのはカルニオラだけで人口の93%を占めていた。しかし、その他のカリンティアでは21%、ゲルツ?グラディシュチャでは62%、トリエステでは30%、イストリアでは14%でしかなかった [34]
  5. ^ クロアチア?利?の指導者スタルチェヴィチはクロアチア、スロベニア、ダルマチアの連合から「大クロアチア」の形成を行った上でオ?ストリア=ハンガリ?帝?の再編を行い、三重帝?化することを望んでおり、皇太子フランツ?フェルディナント はこの計?に好感を持っていた [35]
  6. ^ 結局、このヴィドダン憲法はあまりにも集?主義的であるとしてクロアチア、スロベニアの諸政?や共産?が議?で反?を唱え、連邦制を主張していたクロアチア共和農民?は出席を拒否している [50]
  7. ^ これはスロベニアやクロアチアで大多?を占めるカトリック?徒の?柔を行う事と、イタリアとの?係改善を狙ったものであった [53]
  8. ^ ハンガリ?は1940年1月20日にユ?ゴスラビアと「恒久友好?約」を結んでいた。しかし、ユ?ゴスラビアでク?デタ?が?生したことにより、反ドイツ的?民感情の?いハンガリ???とユ?ゴスラビア攻?の協力を求めるドイツとの間で首相 テレキ?パ?ル は板ばさみに合い、後に自殺している。この結果、ハンガリ?はユ?ゴスラビア攻?に?加することは拒否したが、ドイツ軍の??通過を?認することになる。さらにクロアチアが?立したことにより、?自?領であるヴォイヴォイディナ地域への攻?には?加した [65]
  9. ^ この同意のため、それまで「スロベニア人同盟」が王?政府の支援する?象であったが、「スロベニア民族委員?」がその?象となった [71]
  10. ^ このため、共産?は勢力を?げることとなる [71]
  11. ^ この選?では共産?が推薦する候補者名簿からその人を支持するかどうかを表明するものであって、事?上の信任投票であった。そのため、支持率は90%であったにもかかわらず、投票率は88%であった [75]
  12. ^ この時、スロベニア語が公用語として認められ、リュブリャナの司?座を中心として宗?の自由を得る事となる [75]
  13. ^ 豊富な石炭を使用して?山業、機械、金?、?維、化?、農業、食品の各分野で工業化が進み、ユ?ゴスラビア連邦平均を上回る生活水準を保つ事となり、ユ?ゴスラビア??の牽引力と化す [77]
  14. ^ スロベニアはユ?ゴスラビア人口の8,5%を占めるにすぎなかったが、?民?生産の18%、輸出?額の25%を生産していた [85]
  15. ^ この時点までカルデリはスロベニアにおけるリベラル派と考えられていたが、スロベニアだけではなくセルビア、クロアチアの人?の動きも制御しようとしており、??の地位保全にこだわりを見せていた [88]
  16. ^ この共通化は文?、?史の分野においてどの著者を選ぶか、どのようなテ?マを扱うかという点に問題が?生しており、ユ?ゴスラビア?の諸民族グル?プがそれぞれの民族の立場に立った評?を下したためにさらに問題が大きくなることとなった。そして作家グル?プらもセルビアが目指す新たな?制が中央集?的なものであり時代錯誤であるとして激しい論?を繰り?げることとなった [88]
  17. ^ 軍と?組織にセルビア人が多すぎると?言した?史?者フラ?ニョ?トゥジマンや「イスラム」について言及した弁護士アリヤ?イゼトベゴヴィッチらが起訴され有罪とされている [90]
  18. ^ これはユ?ゴスラビア連邦軍?でセルビア?クロアチア語がしようされ、スロベニア語が使用されていないという事を批判した記事であった [93]
  19. ^ これは ヴォイヴォディナ自治州 モンテネグロ共和? で使用された手法で、セルビア人による大集?を開催させた上で連邦軍を派遣して政?を掌握、コソボ自治州はセルビア共和?に再統合されていた [94]
  20. ^ ただし、これらの三政?も共産?系と言いながらも市場??の導入や複?政?制などを支持していた [98]
  21. ^ この新通貨導入にはユ?ゴスラビアの??、過去のハイパ?インフレから?け出す意?もあった [104] 。この狙いは成功しており、最大2000%にまで至っていたインフレ率は最終的に12%までは順調に低下した [105]
  22. ^ フランスは第一次世界大?以?ユ?ゴスラビアと友好?係を結んでおり、ユ?ゴスラビアの統一の維持を主張するセルビアを支持、アメリカ、ソ連もこの時点ではマルコヴィッチ首相が??の自由化に積極的改革の行える?話できる人物と見做していたため、ユ?ゴスラビアの維持を望んでいた [107]
  23. ^ ?後スロベニアについての見解、共産主義への立場を巡り、?後スロベニア肯定、共産主義肯定の立場を取るスロベニア共産同盟を原点とする 社?民主連合リスト  ( en 自由民主? ?民?  ( en 、?後スロベニア肯定、共産主義の否定の立場を取る 人民?  ( en 、?後スロベニアの否定、共産主義の否定の立場を取る キリスト?民主?  ( en の三派へ分かれた。このことから最初のグル?プを左派、第二のグル?プを中道、最後のグル?プを右派とする見解も存在する [113]
  24. ^ ?立時に失ったのは輸出?額の45.2%。そのためGDPが1991年に8.9%の低下、失業率が1991年には7.3%。1993年には9.1%にまで達していたが、1993年以降、EU諸?との貿易が盛んになったことにより、1996年には1990年のGDPを上回ることとなる [116]
  25. ^ スロベニア??においても急進派である社?民主?がこの撤?に?く反?を示していた [118]
  26. ^ EU加盟に先立って シェンゲン協定 に調印、2007年 12月21日 より?施された [120]

?照 [ 編集 ]

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?考文? [ 編集 ]

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  • 矢田俊隆『 世界現代史26 ハンガリ??チェコスロヴァキア現代史』山川出版社、1999年。  
  • 矢田俊隆編『 世界各?史13 東?史』山川出版社、1977年。 ISBN   4-634-41130-X  
  • エ?リヒ?ツェルナ?著 リンツビヒラ裕美?『オ?ストリア史』彩流社、2000年。 ISBN   4-88202-580-9  
  • ジョルジュ?カステラン著 萩原直?『 叢書東?8 バルカン世界 火?庫か平和地?か 』彩流社、2000年。 ISBN   4-88202-687-2  
  • スティ?ブン?ベラ?著 坂井榮八?監? 川?美保?『フランツ?ヨ?ゼフとハプスブルク帝?』刀水書房、2001年。 ISBN   4-88202-687-2  
  • 柴宜弘 ?? バルカンの?史』河出書房新社、2001年。 ISBN   4-309-76078-3  
  • 「外交フォ?ラム 2008年4月?」、 都市出版 、2008年4月
    • 柴宜弘「ユ?ゴスラビアからEUへ -スロベニアの?史」『外交フォ?ラム 2008年4月?』、都市出版、2008年4月、48 - 51頁、 ISSN   09151281  
    • アンドレイ?ベケシュ「スロベニアから見た日本、日本から見たスロベニア」『外交フォ?ラム 2008年4月?』、都市出版、2008年4月、52 - 53頁、 ISSN   09151281  
    • 飯山常成「世界中央舞台にデビュ?したスロベニア」『外交フォ?ラム 2008年4月?』、都市出版、2008年4月、56 - 58頁、 ISSN   09151281  
  • 小山洋司「 スロヴェニアの?際競?力と小?の?展?略 」『商?論叢』第42?第3?、神奈川大?、2006年12月、143-162頁、 ISSN   02868342 NAID   110006425321 2021年10月1日 ??  
  • 齋藤厚「 スロヴェニアにおける政?政治とポピュリズム : スロヴェニア社?民主?の右派政?化をめぐって 」『スラヴ?究』第52?、北海道大?スラブ?究センタ?、2005年、39-61頁、 ISSN   05626579 NAID   120001492963 2021年10月1日 ??