『
サラエボ旅行案?
』(サラエボりょこうあんない、
英語
:
Sarajevo Survival Guide
)は、
1993年
11月10日
に
FAMA
(
英語版
)
(ファマ)が制作した書籍。1993年に英語で出版され、1994年に日本語版が出版された。FAMAはユ?ゴスラビアの?立系プロダクションで、
ユ?ゴスラビア紛?
が起きた際に本プロジェクトを行なった。
ボスニア?ヘルツェゴヴィナ
の首都
サラエヴォ
で包?攻?を受けながら、どのように生活するか、どのように恐怖を克服するかをユ?モアを交えて描いている。?容は旅行案?書のパロディとなっており、「普通に暮らすことが??に?する抵抗だった
」「普通でない?況を普通に生きることがル?ルだった
」とも表現される?時のサラエヴォの?況の記?でもある
。
背景
[
編集
]
ユ?ゴスラビア紛?
[
編集
]
ユ?ゴスラビア社?主義連邦共和?
(?ユ?ゴスラビア)は、
多?性を?包した?家
として?制を維持していた。しかし1980年代からの??危機によって連邦政府への不?が高まり、共和?間の??格差も明らかとなった
[注? 1]
。1990年の各共和?の選?では、連邦からの?立を進める政?が相次いだ。各共和?は、
連邦共和?憲法
(
英語版
)
に?わずに選?を行なったため、連邦の法秩序は弱?化し、連邦政府や連邦軍の統合システムも崩?した。連邦政府は各共和?の政策を抑止できなくなり、民族主義や排外主義による力の行使を?大させる結果となった
[注? 2]
。同年6月に
スロベニア
と
クロアチア
が?立を宣言すると、
セルビア
との間で武力衝突が起きて
ユ?ゴスラビア紛?
が開始された
[注? 3]
。
ユ?ゴスラビア連邦に?する
ボスニア?ヘルツェゴヴィナ
も?立を進めたが、1990年11月の選?で
ボシュニャク人
(
ムスリム人
)、
クロアチア人
、
セルビア人
の民族別政?が?立した
[注? 4]
。他の共和?と異なり、民族主義者が3つの勢力に分かれていたために??の混?が激しかった
[注? 5]
。1992年に?立をめぐる?民投票が行われる頃には、3つの民族勢力は武?化を進めており、3月から
ボスニア?ヘルツェゴヴィナ紛?
が開始された
[注? 6]
。ボスニア?ヘルツェゴヴィナは3民族の他にも
ロマ
、
アルバニア人
、
ユダヤ人
などさまざまなアイデンティティを持つ人?の多民族?家であり、また民族間結婚が多いため
ユ?ゴスラビア人
というアイデンティティが都市部に多かった
[注? 7]
。民族別の政?による?立は分?をもたらし、紛?後にも問題を?す原因となった
[注? 8]
。
サラエヴォ包?
[
編集
]
サラエヴォは、1453年からボスニアを統治した
オスマン帝?
によって商業都市として?えた。職人や商人が住む
バシュチャルシヤ
地?や、モスク、?書館、
ハンマ?ム
、
マドラサ
などがオスマン帝?時代に建設された
[注? 9]
。1878年に統治?がオスマン帝?から
ハプスブルク帝?
に移ると、ウィ?ンにもとづいて都市計?が進められた。セルビア正??やカトリック??の聖堂、ユダヤ?のシナゴ?グも建設され、サラエヴォは
イスラ?ム建築
と西ヨ?ロッパ風の建築が混じり合った景?の都市として成長した
。
ボスニア?ヘルツェゴヴィナ紛?によって、ボスニア?ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォは
スルプスカ共和?軍
や
ユ?ゴスラビア人民軍
(JNA)を中心とするセルビア人勢力に包?され、260台の?車、120台の迫?砲、そのほか多?の火器による攻?を受けた。
サラエヴォ包?
と呼ばれ、あらゆる施設が標的となり、路上の市民も狙?兵に狙われた
。包?は1992年4月5日から1996年2月29日までの1425日間に及び、近代以降の??においては最長とされる。攻?で殺された市民は11000人以上で、そのうち子供は約1600人となった
。包?中のサラエヴォは外界から遮?され、外交、報道、?連組織や人道支援の??だけが出入りできた
。
FAMA(ファマ)
[
編集
]
本書を制作したプロダクションであるFAMAは、1990年にサラエヴォでスアダ?カピッチ(Suada Kapic)が設立した。ユ?ゴスラビア初の?立系マルチメディア企業として紛?前から活動し、??テレビ番組も制作した
。それまでユ?ゴスラビアにはなかった、政治を題材にしたポリティカル?エンタ?テイメントを??番組として表現し、政治は?摯なものであると考えていた市民の反響を呼んだ。紛?の1ヶ月前には『ゲ?ム?ウィズ?フロンティア』というゲ?ム番組を制作し、プレイヤ?が分割された領土を奪い合うというル?ルで、その後のユ?ゴスラビアを予見するような?容だった
。
紛?の開始後は、芸術家らの協力を得てサバイバルのための複?のプロジェクトを進め、本書もその1つとなった。本書はガイドブックの?裁を取りつつも、紛?進行中の1993年時点の記?であり、恐怖を機知によって克服する試みでもあった
。
?容
[
編集
]
本書の造本や構成は
ミシュランガイド
を?考としている。ミシュラン社の旅行ガイドのように、サラエヴォを訪れる旅行者向けのガイドブックという設定で書かれている。都市の簡?な紹介から始まり、衣食住、インフラストラクチャ?、情報が不足している?態でどんな風に生きてゆくかを?える?容になっている
。
英題には「サバイバル?ガイド」とあり、サバイバルという語には生物?的な意味と精神的な意味が?められている。サラエヴォでは水や食料などの生物?的な生存のほかに、文化的な活動などの精神的な生存も重要となった。包?攻?によって「ハ?ドウェアが破?され、ソフトウェアが生き延びた」という表現も用いている。ここでのソフトウェアとは、人間の知?を指す
。FAMAは
オ?ラル?ヒストリ?
の手法も用いて情報を集め、本書の?容に反映した
。
FAMAはどうすれば外部の人間にサラエヴォの?況を?んでもらえるかを?討し、本文はユ?モア仕立てとなった。人間は悲?な出?事を耳目にすることを嫌うため、?みやすい形でサラエヴォに起きたことを知らせようと考えた結果、この形式となった
[注? 10]
。
サラエボはやせた人ばかりだ。彼らなら最新のダイエット法について本が書ける。唯一必要なのは街を包?させること??シェイプアップの秘訣はそれだ。誰もがほっそりとしていた若い頃の服を着ている。サラエボ市民はおよそ4, 000トンの?重を減らした
。
各ペ?ジには、サラエヴォ包?中の??が?載されている。日常の風景を撮影したものだが、市?の炎上や攻?を受けた市民、流血の場面もあり、FAMA代表のカピッチによれば「平和なところに住んでいる人間にはとてもショッキングな??」が含まれている
。
目次
[
編集
]
目次は以下の通り
。
- ダ?トゲ?ム p5
- ?候 p7
- 現代サラエボ市民 p8
- インテリア p10
- 住まい p11
- 水 p13
- 光 p14
- 夜のサラエヴォ p14
- 睡眠 p17
- 暖房 p17
- ?み物 p18
- 食事 p19
- ??料理ブック1992/1993 p20
- 新聞とニュ?ス p29
- ? p29
- タバコ p32
- ?校 p34
- ショッピング p36
- 通貨と物? p42
- 公園 p46
- 動物園 p47
- レクリエ?ション p51
- 交通事情 p57
- ?用情報 p61
- ピクニック p74
- 共同墓地 p77
- 街を出ること p79
- ホテルとレストラン p82
- カルチャ?ガイド p86
- 旅行者へのアドバイス p93
- ?史 p94
- 日本語版によせて:スアダ?カピッチ p97
- 絶望とユ?モア:
池澤夏樹
p99
- したたかに生きる「サラエヴォっ子」たち:柴宜弘 p100
。
?食
[
編集
]
マカロニや米が?え、料理の食材でもそれまで使われていたチ?ズや小?粉の代用として米が使われるようになった。?際機?や援助??からの配給のほか、空き地や建物の空きスペ?スを活用した野菜の栽培をすすめている
。窓の敷居やバルコニ?も使われ、タマネギ、パセリ、レタス、ニンジン、サトウダイコン、トマトなどが植えられた
。人道支援で配給されるランチパックは、ほかのものを加えてかさを?して分けて食べることをすすめている
[注? 11]
。
料理については、肉と野菜の保存方法に始まり、ボスニア?ヘルツェゴヴィナの名物でもある
ピタ
や、粉ミルクから作る自家製チ?ズ、街中で見つけたカタツムリや野草の調理法が?載されている。デザ?トとして中世ボスニアに由?する
ハルヴァ
という菓子や、酒類としてエチルアルコ?ルや砂糖を使ったサラエボ?コニャックなどもある。食材には油や缶詰など支援物資も含まれ、特に肉は支援物資の缶詰の他にはほとんど存在しないとされる
[注? 12]
。
住居
[
編集
]
居間や廊下は薪を置くスペ?スとして使い、攻?の音が聞こえた際の避難先として階段や地下室が多いと書かれている。攻?によって自宅を失った場合は、市?から?出した人?の住居で一時的に住むための賃貸や?買の契約がある。窓ガラスの多くが攻?で失われたため、ビニ?ルシ?ト、段ボ?ル、米袋、ドアなどの代用物でふさぐことをすすめている
。
電??水道?燃料
[
編集
]
ひんぱんに起きる?水と、水を得るためのポイントについての情報が?載されている。官邸前の給水所、狙?の危?がある?谷の近く、そして近所の配水管などから水を取ることがすすめられている。水を?めるようにする?水?は1.5リットル用と5リットル用があり、軍隊、警察、?連防護軍、役所が配布している
。
暖房の燃料にするために木製製品、街路樹、公園の樹木などを薪にすることが書かれている
。電池は紛?開始後に?底したため、?水の中で加熱したり自動車のバッテリ?につないで充電する方法が書かれている
。自動車のバッテリ?を室?の電源に使うコツとして、小さい電球を付けることをすすめている
。
交通?通信
[
編集
]
サラエヴォのメインストリ?トは狙?兵に狙われており、「
スナイパ?通り
(
英語版
)
」とも呼ばれた。攻?や燃料事情により?道やバスなどの交通機?はほぼ停止し、信?も消えている?況で、自?車やショッピング?カ?ト、自動車、徒?での移動が?明されている
。
電力事情の?化により電話がつながらないため、
アマチュア無線
の技士に?んで連絡を取り合う方法が書かれている
[注? 13]
。市?の郵便は、サラエボ市?が分?されているために別地?宛のものは?外郵便と同じほどの期間がかかる。クロアチアへ出?するためにはクロアチアからの保?人の手紙が必要となる?況も書かれている
。
1993年には市?から
サラエヴォ?際空港
へつながるトンネルが開通していた。FAMA代表のカピッチが日本に?る際も、このトンネルを使っている
。トンネルを使って物資が市?に運ばれていたが、?時は機密事項とされており、本書には書かれていない。包?の終了後には、記念としてトンネル博物館が設立された
。
通貨?物?
[
編集
]
ユ?ゴスラビア?ディナ?ル
に代わって、?立宣言後は自?通貨としてボスニア?ヘルツェゴヴィナ?ディナ?ルが採用されたが、金融機?が麻痺し、流通も不安定だった。そうした?況下での??や買い物についても書かれている。中でも外貨の優越性が特筆されている
[注? 14]
。外貨も種類によって人?が異なり、最も有利なのが
ドイツ?マルク
で、1マルク=550ボスニア?ヘルツェゴヴィナ?ディナ?ルに相?し、ブラックマ?ケットでは1200から1300ディナ?ルになる。
USドル
は人?がなく、?替もほとんどされない
。買い物のほかにサ?ビスでも外貨が求められ、理?、メガネや時計の修理にもマルクが求められると書かれている
。
通貨での買い物よりも役に立つ手段として物?交換があり、いくつかのレ?トが紹介されている。コ?ヒ?豆2キロ=プロパンガス12キロ、料理用油1リットル=タバコ1カ?トンと安いリキュ?ル1リットル、中古の男性用ウィンタ?ジャケット=タマネギ3キロなど
。
冠婚葬祭
[
編集
]
葬儀は攻?を避けるために早朝か夕暮れに行われる。共同墓地は一杯になり、閉鎖されていた古い共同墓地が再開されたが、それも一杯となったため運動場が使われた
。?脚を失ったカップルが、包?下の病院で結婚した式の??も?載されている
。
文化活動???
[
編集
]
市?でできるレクリエ?ションとして、1日に6キロのウォ?キング、危?を避けるためのランニング、バルコニ?から出入りするためのクライミング、燃料を手に入れるためのツリ?カッティングなどを紹介している。室?では階段で遊ぶトランプが多く、ランチパックや油、缶詰を賭ける
。公園の樹木は燃料として切り倒され、動物園の動物たちは包?攻?の狙?や餓えによって死亡し、2頭のポニ?と?羽のクジャクだけが?った
。
包?下でも市?では創造行?が?けられた
[注? 15]
。芸術家だけでなく、サラエヴォの市民がさまざまなイベントを見に行くことが??に?する文化的な抵抗の意味も持っていた
[注? 16]
。包?中に「ミス包?都市コンテスト」も開催された
。
ラジオは公?放送の「スタジオ?サラエヴォ」が24時間放送を流し、人?のある放送局は「ズィ?ド(壁)」と「スタジオ99」だった。新聞は日刊紙「
オスロボジェニェ
(
英語版
)
」がビルを破?されたのちも?行された
[注? 17]
。?は、もっとも重要で早い情報源になった
。
本書には、文化活動を??するための情報も?載されている。展??は赤十字ビルを?場として週1回開催され、地元の??、彫刻、コンセプチュアル?ア?トが展示される。劇場はメインストリ?トのカメルニ?テアタル55という市?で最も安全な場所がある。映?は週1度、スツェ?ナ?オバラで上映があった。演劇や映?は、夜を避けて午後1時から行われた
[注? 18]
。
支援??
[
編集
]
?連防護軍
(UNPROFOR)は、本書では負傷者の輸送、人道支援物資の運搬、空港への送迎、公共施設の修復や?掃を行う組織として紹介されている。?連防護軍が?た?初は市民に救?の希望として?迎されたが、紛?は止められなかった
[注? 19]
。?連のほかに
赤十字社
、メルハメット(イスラ?ム?徒主?)、カリタス(カトリック主?)、ドブロトボル(セルビア正?徒主?)、イェブレイスカ?オプシュティナ(ユダヤ人主?)、アドラなどの支援??が市?で活動している。そうした??に荷物を預けて送ったり、手紙を託す方法が書かれている
。
支援??の協力で、市民が非公式にサラエヴォから出る方法も書かれている。出?支援は護送隊とも呼ばれ、??によって?件が異なっていた。裏のル?トを使う場合は100マルクから200マルク、封鎖地?(グルバビツァ)から
ベオグラ?ド
に行くには1000マルクかかるとされている
。
旅行者へのアドバイス
[
編集
]
持ち物として、走れる靴、ポケットの多いスラックス、?水?、ドイツマルク、電池、マッチ、ビタミン?、缶詰、?み物、タバコをすすめている。行動面では、感情をあらわにしないこと、トラブルをジョ?クに?えること、今までの習慣を捨てること、憎まずにからかうことなどをすすめている
。
制作スタッフ
[
編集
]
『Sarajevo Survival Guide』は、以下のスタッフによって制作された
。
- テキスト:ミロスラブ?プルストエビッチ(Miroslav Prstojevic)
- ??:ジェリコ?プリッチ(Zeljko Puljic)(FAMA)
- デザイン:ネナド?ドガン(Nenad Dogan)
- 編集:マヤ?ラゾビッチ(Maja Razovic)、アレクサンドラ?ワグナ?(Aleksandra Wagner)
- ??:アレクサンドラ?ワグナ?、
エレン?エリアス=ブルサッチ
(
英語版
)
日本語版『サラエボ旅行ガイド』は、??制作?展示機?である
P3 art and environment
(
英語版
)
によって制作された
。
- ??:P3 art and environment
- 協力:
インゴ?ギュンタ?
(
英語版
)
、倉森京子、
APF通信社
、八木和美
- ブックデザイン:INK SPOTS ?野僚一
- 地?制作:若月好和
日本では、FAMAとP3が協同で1994年4月に??展「サラエボ?サバイバルガイド」を開催した。カピッチはトンネルを使って包?を?けて空港へ移動し、?日を果たした
。
出版後の?況?本書の影響
[
編集
]
本書の?表後も包?は?いた。?況はサラエヴォにとって?しくなり、1995年の夏には演劇などのイベントは行われなくなっていた。
NATO
は同年8月に
大規模な空爆
をセルビア人勢力に?して行い、1995年11月の
デイトン合意
によって和平が成立してボスニア?ヘルツェゴヴィナ紛?は集結した
[注? 20]
。
紛?の終結によって、サラエヴォ包?も終了した。ボスニア?ヘルツェゴヴィナは、
ボスニア?ヘルツェゴヴィナ連邦
、
スルプスカ共和?
、
ブルチコ行政?
の連合?となった
[注? 21]
。サラエヴォは分?され、東部がセルビア人、西部がボシュニャク人やクロアチア人の住む地?となり、行政やインフラストラクチャ?も別個のものとなった
。??後のボスニア?ヘルツェゴヴィナ??は、トルコ資本やアラブ資本が?加し、特に
ガ?ズィ??ヒュスレヴ?ベイのモスク
(
英語版
)
などイスラ?ム建築の修復に使われた
。包?中に行われた演劇、コンサ?ト、スポ?ツなどのイベントのフライヤ?は、
ボスニア?ヘルツェゴヴィナ?史博物館
(
英語版
)
に展示された
。
デイトン合意にもとづいた憲法ではボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3民族が重視されており、この3民族以外は大統領評議?や議?民族院への非選??がない
[注? 22]
。民族主義に反?するデモが起きるが選?では民族主義政?の?選者が多く、FAMA代表のカピッチは民族主義の政治家を批判的に見ている
。
FAMAは本プロジェクトを進めた際、サラエヴォで起きた人災に限らず、世界のどこでも深刻な災害が起こりうると考えていた
[注? 23]
。カピッチは1994年のインタビュ?で次のように語っている
。
日本でも、フランスでも、アメリカでもそれぞれの?の?況で、どういう形で文明が崩?して、どういうものが?るかというのは違ってくるわけですから。それぞれの?況に?じた準備を、ある種のカタストロフィを想定しつつ、生き?っていくためには一?何が必要なのかというのを今から?究しリサ?チし、テクノロジ?をもっと開?していくことをお?めします
。
その後のFAMAの活動として、サラエヴォの各所で起きた?いを記?した『サラエヴォ?サバイバル?マップ』、包?を??した人?への22の質問を集めた『LIFE』という?誌、FAMAの活動を集めた大部の書籍『The Siege of Sarajevo』、紛?の責任問題を問うテレビシリ?ズなどがある
。FAMAのプロジェクトは1994年にニュ?ヨ?クでも?表されたが、?時マスメディアでは紹介されなかった。その後、2001年9月11日に
アメリカ同時多?テロ事件
が起き、2005年にニュ?ヨ?ク市は「サバイバルガイド」を?表した
。2017年にFAMAはサラエヴォ市が授?する最高の賞である
サラエヴォ4月6日賞
(
英語版
)
を受賞した
[80]
。
作家の
角田光代
は、本書をきっかけとして2012年にサラエヴォを訪れ、カピッチと?面した。サラエヴォの人?と話し、普通に暮らすことや?しみを見つけること、ひどい?況下でもジョ?クを言うことで??に抵抗していたと知る
。子供時代を包?の中ですごし、サラエヴォについての著作があるヤスミンコ?ハリロビッチ(Jasminko Halilovic)にも角田は?面した。ハリロビッチは、包?時期に子供だった人?に「あなたにとって??とは何だった?」という問いかけをEメ?ルで募集して書籍化しており、角田はその日本語版『ぼくたちは?場で育った』の??者となった
。
出典?脚注
[
編集
]
注?
[
編集
]
- ^
自主管理社?主義
と呼ばれる??政策が行われていた。自主管理企業による??は、利潤の最大化ではなく??者の所得の最大化を目的としたが、不採算企業への安易な融資で負債が?大した。1978年の
第2次オイルショック
で輸出が減少すると自主管理システムは崩?し、ユ?ゴスラビアは
?際通貨基金
(IMF)の融資を受けた。IMFが融資?件として求めた??安定化プログラムは?民の生活を?迫し、連邦政府への不?の高まりと分離主義を招いた
。
- ^
連邦憲法裁判所は、1990年のスロヴェニア、クロアチア、セルビアの主?宣言や新立法は無?だと判?した。しかし各共和?の政?は判?に?わず、クロアチアとスロヴェニアは連邦法規定の無?を宣言した
。
- ^
スロヴェニアとクロアチアは地理的に西ヨ?ロッパに近く、??的にも連邦?で?展している地域だった。?立を選んだ理由には、??的な主?を得るという目的もあった
。
- ^
ボスニア?ヘルツェゴヴィナにおける民族主義政?は、オスマン帝?時代の
ミッレト制
が影響していた。ミッレト制は民族=宗?を基本とする共同?に自治?を?えたため、近代以降に民族政?が成立した
。
- ^
EU
(?時はEC)による仲介の失敗も?立を?化させた。ボスニア?ヘルツェゴヴィナのセルビア人議員はセルビアへの合?を望んでおり、?立宣言はセルビア人議員が欠席する中で採?された。ECは?立承認を?行したため、セルビア人勢力は?ユ?ゴ連邦軍の支援を受けてボシュニャク人やクロアチア人への攻?を開始した
。
- ^
紛?によってサラエヴォに?れなくなった者が世界各地におり、日本で活動した音?家の
ヤドランカ
もサラエヴォ出身だった
。
- ^
ユ?ゴスラビア人は、社?主義?制下での統合?念として導入された。ソビエト連邦におけるソ連人と同?の?念として始まったが、民族間の混在が進むにつれて、ユ?ゴスラビア人を選ぶ市民が?えていった。また、マイノリティが他民族への同化に抵抗する手段としても選?された
。
- ^
紛?前の1991年に行われた?勢調査の自己申告では、3民族以外ではユ?ゴスラビア人(24万人)、不明(35000人)、モンテネグロ人(約10000人)、ロマ(約8900人)、アルバニア人(約4000人)、ウクライナ人(約4000人)、スロヴェニア人(約2200人)という回答だった
。
- ^
サラエヴォという名?は、トルコ語のサライ(宮殿)とオヴァシ(野原)をスラブ語風に合成した語を由?とする。ボスニアを統治していたオスマン帝?の施設がもとになったとされ、1455年には「サラエヴォ」という名?が文?にある
。
- ^
ボスニア?ヘルツェゴヴィナには「イナト」という言葉があり、日本の「意地」に近い。悲?さを笑うユ?モアの精神は、イナトの表れでもある
。
- ^
ランチパックは主にアメリカ軍の
レ?ション
で、
?岸??
(1990年-1991年)などで使われた?り物だった
。ランチパックは種類によって番?があり、12番が人?だった
。
- ^
配給された缶詰の中で、イカ?ル缶詰は味の評判が?かった。終?後もそのまずさを忘れないように、イカ?ル缶詰の記念碑が建てられた
。
- ^
2006年にサッカ?日本代表の監督をつとめた
イビチャ?オシム
はサラエヴォ出身で、サラエヴォ包??時に家族がサラエヴォにいた。オシム自身はギリシャやオ?ストリアにいたため、アマチュア無線で家族と連絡をとった
。
- ^
1992年の4月28日時点で、銀行には預金引き出しの行列ができ、外貨は引き出せず、小切手は受け取る者がいなくなっていたという記?がある
。
- ^
包?中の1992年、現代美術館である
アルス?アエヴィ現代美術館
(
英語版
)
は作品の寄贈を?外に呼びかけ、世界の芸術家の作品を所?して開館した
。
- ^
包?中にもロック?コンサ?トが開催された
。1994年には、
アイアン?メイデン
のメンバ?でもある
ブル?ス?ディッキンソン
がサラエヴォでライブを行なった
[57]
。
- ^
オスロボジェニェは「解放」を意味する。1992年にBBCなどが選定する世界最優秀新聞賞、1993年に
サハロフ賞
を受賞した
[61]
。
- ^
1993年には小?家?思想家の
ス?ザン?ソンタグ
によって
サミュエル?ベケット
の『
ゴド?を待ちながら
』が上演された。俳優の中には空腹で倒れる者もおり、ソンタグはスイカを入手して俳優に配った。カピッチは、「ゴド?を待つことは、同時に救いでもあった」と語っている
。
- ^
?ユ?ゴスラビアで展開した?連防護軍は44000人以上で、うちボスニア?ヘルツェゴヴィナには20000人以上が駐留した。しかし停?協定を守らせることができず、各勢力からの攻?を受けて死傷者を出した。?連安保理決議836の?容的にも、安全地域の防衛そのものは?連防護軍に認められていなかった
。
- ^
NATOによる空爆は1994年から小規模に行われていたが、1995年8月にサラエヴォ中央市場で多?の死者が出た砲?をきっかけに大規模な空爆が行われた
。
- ^
中央政府の弱?化によって、民族主義政?による行政の妨害や政治の膠着も起きている
。
- ^
マイノリティであるロマとユダヤ人が原告となり、憲法規定が
?州人??約
に違反しているとして
?州人?裁判所
に提訴し、原告の訴えは認められた。この裁判は原告のロマとユダヤ人の名をとって「セイディチ?フィンツィ裁判」と呼ばれる
。
- ^
サラエボ包?と同時期には、
ルワンダ虐殺
(1994年)や
第一次チェチェン紛?
(1994年-1996年)が起きた。その後、1995年の
地下?サリン事件
、2001年のアメリカ同時多?テロ事件、2002年の
モスクワ劇場占?事件
などが起きた
。
出典
[
編集
]
?考文?
[
編集
]
- 岡田望
「
恐怖からの自由 ?場都市で暮らすということ--スアダ?カピッチへのインタビュ?
」『母の友』、福音館書店、2003年3月、72-81頁、
2020年8月3日
??
。
- イビツァ?オシム
著、角田光代 ?「困難な時代にどう生き?るか」、ヤスミンコ?ハリロビッチ 編『ぼくたちは?場で育った サラエヴォ1992-1995』集英社インタ?ナショナル、2015年。
(原書
Jasminko Halilovic, ed.,
War Childhood: Sarajevo 1992-1995.
)
- アマエル?カタルザ; ピエ?ル?サンテ 著、
太田佐?子
?『地?で見るバルカン半島ハンドブック』原書房、2017年。
(原書
Amael Cattaruzza; Pierre Sintes (2016),
Atlas geopolitique des Balkans
, Editions Autrement
)
- 角田光代
著「命がけで笑い、笑いがたましいを救う」、柴宜弘; 山崎信一 編『ボスニア?ヘルツェゴヴィナを知るための60章』明石書店、2019年。
- 『?子』編集部 編「スアダ?カピッチ 今のサラエボは世界の終末だが、それは同時に文明の始まりでもある」『DICE TALK―?子カッティング?エッジ?インタヴュ?集』アップリンク、1998年。
- 佐原徹哉
『ボスニア??』有志?、2008年。
- 柴宜弘
『ユ?ゴスラヴィア現代史』岩波書店〈岩波新書〉、1996年。
- 柴宜弘;
山崎信一
編『ボスニア?ヘルツェゴヴィナを知るための60章』明石書店、2019年。
- 砂山充子
「
ユ?ゴ紛?の跡を追って
」『?修大?人文科??究所月報』第252?、?修大?人文科??究所、2011年7月、19-43頁、
ISSN
03878694
、
NCID
AN00132596
、
2020年8月3日
??
。
- 千田善
『ユ?ゴ紛?はなぜ長期化したか―悲劇を大きくさせた?米諸?の責任』勁草書房、1999年。
- 中島由美
著「ヤドランカ」、柴宜弘; 山崎信一 編『ボスニア?ヘルツェゴヴィナを知るための60章』明石書店、2019年。
- ヤスミンコ?ハリロビッチ
編 著、角田光代 ?『ぼくたちは?場で育った サラエヴォ1992-1995』集英社インタ?ナショナル、2015年。
(原書
Jasminko Halilovic, ed.,
War Childhood: Sarajevo 1992-1995.
)
- FAMA編 著、
P3 art and environment
(
英語版
)
?『サラエボ旅行案? 史上初の?場都市ガイド』三修社、1994年。
(原書
Sarajevo Survival Guide
, (1993)
)
- FAMA (1996年). “
Sarajevo Survival Guide
” (PDF).
famacollection.org
. FAMA.
2020年8月8日
??。
- ズラ?タ?フィリポヴィッチ
(
英語版
)
著、
相原?理子
?『
ズラ?タの日記 サラエボからのメッセ?ジ
(
英語版
)
』二見書房、1994年。
(原書
Zlata Filipovi? (1993),
Zlata's Diary
)
- 山崎佳夏子
著「近代美術」、柴宜弘; 山崎信一 編『ボスニア?ヘルツェゴヴィナを知るための60章』明石書店、2019年。
- 山崎信一 著「ポピュラ?音?」、柴宜弘; 山崎信一 編『ボスニア?ヘルツェゴヴィナを知るための60章』明石書店、2019年。
- ライモンド?レヒニツァ? 著、
林瑞枝
?『サラエボ日記―〈?場〉からの?出』平凡社、1994年。
(原書
Raymond Rehnicer (1992),
L´Herbe et les elephants
)
?連文?
[
編集
]
?連項目
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]