クシャ?ナ朝

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クシャ?ナ朝
大夏
大月氏
xxxx年 - 375年 キダーラ朝
西クシャトラパ
クシャーノ・サーサーン朝
クシャーナ朝の位置
公用語 バクトリア語
首都 タキシラ マトゥラ? バグラ?ム
ラ?ジャティラ?ジャ
xxxx年 - 80年 クジュラ?カドフィセス
144年 - 173年 カニシカ1世
xxxx年 - xxxx年 ヴァ?スデ?ヴァ
276年 - 293年 ヴァ?スデ?ヴァ2世
?遷
不明 xxxx年xx月xx日
滅亡 375年

クシャ?ナ朝 (クシャ?ナちょう、 : Kushan : 貴霜 )は、 中央アジア から 北インド にかけて、 1世紀 から 3世紀 頃まで?えた イラン系 王朝 である。 日本語 表記は一定せず、クシャナ朝、クシャ?ン朝、クシャン朝とも呼ばれる。

?史 [ 編集 ]

大月氏 [ 編集 ]

紀元前2世紀 匈奴 に?迫されて移動を開始した 遊牧民 月氏 は、中央アジアの バクトリア に定着した。これを大月氏と呼ぶ。『 漢書 』西域?によれば、大月氏は休密翕侯?貴霜翕侯?雙靡翕侯??頓翕侯?高附翕侯 [注? 1] の五翕侯 [注? 2] を置いて分割統治したという。それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が?盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と?すようになった。

大月氏の諸侯はそれぞれコインを?行していたが、貴霜翕侯が?行したコインは他の諸侯の?行したコインに比べ?も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか?造されなかった。

クシャ?ナ朝の成立 [ 編集 ]

ヘライオスのコイン。表には彼の?顔が描かれ、裏には ギリシャ文字 で“ΤΥΡΑΝΝΟΥΟΤΟΣ ΗΛΟΥ - ΣΑΝΑΒ ΚΟ??ΑΝΟΥ”「僭主ヘライオス、コシャンのサナブ」とある。

貴霜翕侯の存在を示す最も古い??は ヘライオス (英語:Heraios)と言う名の支配者が?行したコインである。これには「クシャ?ナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解?などについては諸?紛?たる?態であり、このクシャ?ナ「最初」の支配者についての具?像は全くわかっていない。 1世紀 初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯は クジュラ?カドフィセス (中:丘就?)の下で他の四翕侯を全て征服して王を?したと『後漢書』西域?には記されており、一般にこれをもってクシャ?ナ朝の成立と見なされる。また、クシャ?ナ朝は大月氏の一派であるとも [注? 3] 、土着のイラン系有力者であるともいわれる [注? 4]

クジュラ?カドフィセスは カ?ブル (高附)を支配していた ギリシア人 の王 ヘルマエウス (またはヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブ?ルの支配?を??で握った [注? 5] 。さらに?達(ぼくたつ)と ?賓 (けいひん: ガンダ?ラ )を征服し パルティア 領( インド?パルティア王? )の一部をも征服した。?時この地域で勢力を持っていたのはインド?パルティア王?の王 ゴンドファルネス であったが、クジュラ?カドフィセスは彼と?ったか、もしくは彼の死( 50年 頃?)による同王?の弱?化に?じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ?カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド?パルティア王が?行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ?カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後?者 アブダガセス1世 などがほぼ同時代を生きていたのは確?である。

クジュラ?カドフィセスの子の ヴィマ?タクト と、ヴィマ?タクトの子の ヴィマ?カドフィセス は、北西インドの征服に成功した(北西インド征服時にはまだクジュラ?カドフィセスが生きていたという?もある)。最近の?究では、ヴィマ?タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そして バクトリア 北部がクシャ?ナ朝の支配下に入ったといわれている。ヴィマ?タクトとヴィマ?カドフィセスは北側からバクトリアに通じる交通の要衝に?門と要塞を多?構築し、大?としてのクシャ?ナ朝の基盤を構築した。そしてバクトリア地方の防御のためにカラルラングと呼ばれる特殊な地位を持った?督が配置された。『 後漢書 』によれば、クシャ?ナ朝は北西インドの統治のために?軍が置かれたとあるが、この?軍とは後に 西クシャトラパ をはじめとした?立勢力を構築することになるクシャトラパであると考えられる。

ヴィマ?タクトはその支配領域に統一したコインを?行した。彼のコインには ギリシア語 で「ソテル?メガス(偉大なる救?者)」と言う??が刻まれている。クジュラ?カドフィセスのコインが各地の古い支配者が?行したコインをまねたものであったのに?し、ヴィマ?タクトによる新式のコイン導入は一?性を持った帝?としてのクシャ?ナ朝が確立していったことを暗示する。

カニシカ王と後?者 [ 編集 ]

200年頃のクシャ?ナ朝

ヴィマ?カドフィセスの息子(異?あり、 王朝交代? を?照) カニシカ1世 の時( 2世紀 半ば)、クシャ?ナ朝は全盛期を迎えた。都が プルシャプラ (現在の ペシャ?ワル )におかれ、?自の?(カニシカ紀元)が制定された。

カニシカはインドの更に東へと進み、 パ?タリプトラ ネパ?ル カトマンズ の近?にまで勢力を?大した。また、カニシカの?行したコインは ベンガル地方 からも?見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力?大にあわせ、 ガンジス川 上流の都市 マトゥラ? が副都と言える政治的位置づけを得た。

カニシカはその治世の間に ?? に?依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャ?ナ朝の支配した領域、特にガンダ?ラなどを中心に??美術の?金時代が形成された( ガンダ?ラ美術 )。この時代に史上初めて ?像 も登場している。

軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を?いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われている ヴァ?シシカ 王である。しかし、ヴァ?シシカ王以後、クシャ?ナ朝に?する記?は極めて乏しい。ヴァ?シシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記?からわかるが、その治世がいつ頃まで?いたのか全くわかっていない。

ヴァ?シシカに?いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられている フヴィシカ が王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに?する碑文などがかなり?範?から見つかっており、カニシカ王の死後は記?が乏しいとはいえ、クシャ?ナ朝自?は?勢を維持していたと考えられる。

3世紀 頃、フヴィシカの跡を?いで ヴァ?スデ?ヴァ (バゾデオス、ΒΑΖΟΔΗΟΣ、波調)が王位についた。彼の治世に、 三?時代 に使者を派遣した記?が?されている。ヴァ?スデ?ヴァというインド風の王名は、この時期のクシャ?ナ朝が極めて?くインド化していたことを示す。貨幣などの?案にも、インド土着の?式が?く現れるようになっている。

ヴァ?スデ?ヴァは サ?サ?ン朝 の王 シャ?プ?ル1世 と?って完全な敗北を喫した。以後クシャ?ナ朝はインドにおける支配?を失い、?された領土はサ?サ?ン朝に次?と制?された。クシャ?ナ朝はなおもカブ?ル王として存?していたが、 ヴァ?スデ?ヴァ2世 276年 - 293年 )の時代にはサ?サ?ン朝の支配下に置かれるようになった。

クシャ?ナ朝の?領土はサ?サ?ン朝の支配下においては「クシャ?ン?シャ?」(クシャ?ナ王)と?するサ?サ?ン朝の王族によって統治された。これは通例 クシャ?ノ?サ?サ?ン朝 (クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャ?ノ?サ?サ?ン朝が?行したコインなどはサ?サ?ン朝?式よりもクシャ?ナ朝の?式に近く、おそらくは多くの面においてクシャ?ナ朝の要素を?承したと考えられる。このようにクシャ?ナ朝の?威は滅亡した後も長く現地に?ったのであった。

文化 [ 編集 ]

王? [ 編集 ]

クシャ?ナ朝は ユ?ラシア大陸 の中央部の?い領域を支配したため、各地の文化の大きな影響を受けた。その文化は包容的、融合的性格を持ったといわれており、特にその特?は王の??に現れている。

例えばカニシカ王の?した碑文の中には「シャ?ヒ、ムロ?ダ、マハ?ラ?ジャ、ラ?ジャティラ?ジャ、デ?ヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」と記す物がある。これはカニシカが使用した??を羅列したものであるが、

  • シャ?ヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の??である。
  • ムロ?ダ(Muroda)は サカ人 たちの首長を表す語である。
  • マハ?ラ?ジャ (Maharaja)はインドで?く使われた??であり大王を意味する。
  • ラ?ジャティラ?ジャ(Rajatiraja)は「 諸王の王 」( シャ?ハンシャ? )という イラン 地方の?統的な帝王の??を サンスクリット語 に?したものである。
  • デ?ヴァプトラ(Devaputra)はデ?ヴァ(神、漢?では天と?される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた??「天子」をサンスクリット語に?したものである。
  • カイサラ(Kaisara)は ラテン語 カエサル (Caesar)から?たもので、 ロ?マ 皇帝の??の一つである。

カニシカ王に限らず、クシャ?ナ朝の王たちは世界各地の王の??を合わせて名?ることを好んだ。

近年、アフガニスタンで?見されたダシュテ?ナ?ウル碑文や ラバ?タク碑文 などの バクトリア語 資料において、ヴィマ?タクトやカニシカは ÞΑΟΝΑΝΟ ÞΑΟ (シャ?ウナ?ヌ?シャ?ウ)と?しており、 アケメネス朝 アルサケス朝 ? サ?サ?ン朝 など他のイラン系の王朝と同じく、「諸王( ÞΑΟΝΑΝΟ シャ?ウナ?ヌ)」の「王( ÞΑΟ シャ?ウ)」( シャ?ハ?ン?シャ? )を名?っていたことも判明している。

美術 [ 編集 ]

カニシカ 王のとき、あつく??を保護したため、??芸術が?達した(ただし、王家の間ではゾロアスタ??などイランの宗?も崇?されていた)。プルシャプラを中心とする ガンダ?ラ で興ったため、 ガンダ?ラ美術 と呼ばれる。

この隆盛を極めたガンダ?ラ美術の成果の中でも最も重要なものは ?像 の登場である。??の??美術において ?陀 の姿を表現することは意識的に回避されてきた。???話を表現する際、?陀は 法輪 ?塔 ? ?足跡 などで象?的に表されるだけであったが、クシャ?ナ朝支配下のガンダ?ラとマトゥラ?においてついに、?陀を人間の姿で表す?像が誕生したのである。マトゥラ?ではガンダ?ラの?像とはやや赴きを異にする?像が多?制作されている。

ガンダ?ラやマトゥラ?など、?時クシャ?ナ朝が支配した領域で?く?像が制作され始めたことは、?像の誕生にクシャ?ナ人自?も深く?わっていたことを示唆する。なお、ガンダ?ラとマトゥラ?のどちらで先に?像の制作が始まったのかはわかっていない。

スルフ?コタル出土のバクトリア語碑文(1957年?掘)

言語 [ 編集 ]

クシャ?ナ人の使用した言語は、 中期イラン語 で東イラン語に?すと考えられる バクトリア語 である。 アラム系文字 で筆記される場合が多いイラン語としては唯一 ギリシア文字 系で筆記された。?存のギリシア文字24個に加え、 アイスランド語 の「 Þ 」に形?の似た[?]の音?を持つ文字を加えた25字が用いられた。現在?されている最古の資料は クジュラ?カドフィセス の子と目されるヴィマ?タクト王の銘になる碑文である。つい最近までバクトリア語の?究は貨幣?究と1957年にスルフ?コタルで出土したカニシカ王碑文など若干の碑文以外に資料が無く、ほとんど謎の言語であったが、近年 アフガニスタン で碑刻資料と皮革書簡文書が大量に?見されたことによって飛躍的に解明が進んだ。

特に、 ラバ?タク碑文 は1200字余20?行に渡る現存ではもっとも長いバクトリア語碑文で、クジュラ?カドフィセス、ヴィマ?タクト、ヴィマ?カドフィセス、カニシカに至る4代の王名が列?され、カニシカの命令が、

「ギリシア語の勅命を?してその後(治世の極初期に)ア?リア語(バクトリア語)にした、カニシカの統治第1年にインドの クシャトリア の王?の全てに布告した。(中略) カウシャ?ンビ? パ?タリプトラ 、スリ??チャンパ?まで偉大なる支配者と他の者たちの意?の?に置いた」

と、クシャ?ン朝の制度やこの時代のインド史を知る上で極めて重要な?容が書かれている。また、碑文の書式も アケメネス朝 の古代ペルシア語による王碑文やサ?サ?ン朝の王碑文などとの共通性が指摘されている。

碑文 [ 編集 ]

  • ダシュティ?ナウル碑文 』(ギリシア語?バクトリア語?未知の言語)…ヴィマ?タクトゥの?勝記念碑。1967年フランス隊が確認?解?。
  • ディルベルジン碑文 』(ギリシア文字/バクトリア語)…ヴィマ?タクトゥもしくはヴィマ?カドフィセスによる鑿井記念碑。1969年以降のソ連?アフガニスタン調査隊による?見。
  • スルフ?コタル碑文 SK-1』(ギリシア文字/バクトリア語)…カニシュカによる神殿建立記念碑。1952年 - 1965年フランス隊調査による?見。
  • 『スルフ?コタル碑文SK-2』(ギリシア文字/バクトリア語)…ヴィマ?タクトゥもしくはヴィマ?カドフィセスによるもの。
  • 『スルフ?コタル碑文SK-3』(ギリシア文字/バクトリア語)
  • 『スルフ?コタル碑文SK-4』(ギリシア文字/バクトリア語) - フヴィシュカによる鑿井記念碑。
  • アイルタム碑文 』(ギリシア文字/バクトリア語) - フヴィシュカによる水道建設?神殿復?記念碑。1979年ソ連が?見。
  • ラバ?タク碑文 』(ギリシア文字/バクトリア語) - カニシュカによる神殿建立記念碑。1993年?見。 ニコラス?シムズ=ウィリアムズ が解?。

[1]

?? [ 編集 ]

クシャ?ナ朝の領土は、同時代に中央インドで繁?を迎えてきた サ?タヴァ?ハナ朝 などと同じく交易によって繁?を迎えていた。かつてクシャ?ナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣??は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドでは が不足し、インド?パルティア人やサカ人の諸王朝が?行する銀貨は極度に品質の?いものとなっていた。

しかし、クシャ?ナ朝が北西インドを支配した時代、すなわちヴィマ?タクトとヴィマ?カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を?行し、特に北西インドで作られた金貨は質?流通量ともに向上した。ロ?マやインドの商人によってロ?マやインドへ向けて ? 香料 ? ?石 ? 染料 などが輸出された。これらの商品はロ?マでは原?の百倍もの?格で?れ、代金として金がクシャ?ナ朝にもたらされた [注? 6]

クシャ?ナ朝にとってロ?マとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが?行した金貨の?位からもわかる。クシャ?ナ朝は金貨の?位をロ?マの金貨?位にリンクさせており、その金貨は正確にロ?マの2 アウレウス 分の重量を持っていた。さらにロ?マの デナリウス はディ?ナ?ラとして、その通貨?位がクシャ?ナ朝に取り入れられた。

※?考: オクタヴィアヌス 時代の ロ?マの通貨 交換レ?ト

  • 1アウレウス(金貨) = 25デナリウス(銀貨)
  • 1デナリウス(銀貨) = 4セステルティウス(?銅貨)
  • 1セステルティウス(?銅貨) = 4アス(?銅貨)

クシャ?ナ史の論点 [ 編集 ]

王朝交代? [ 編集 ]

クシャ?ナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる?片的な記?に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャ?ナ朝の王統復元について長く支持されてきた?がクジュラ?カドフィセスとヴィマカドフィセスの?する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする?、すなわちカニシカ王による王朝交代?である。

これはカニシカ以後、「カドフィセス」から「イシカ」系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが?自の?を定めていること、?カドフィセス王時代のコインでは ギリシア語 の??を ギリシア文字 で、 プラ?クリット語 の??を カロ?シュティ?文字 で、?記する?式であったのに?し、カニシカ王以後は バクトリア語 の??をギリシア文字で記したものに?化していることなどを根?としている。

これとあわせて、 チベット の??に ホ?タン の王子 ヴィジャヤキ?ルティ が「カニカ」(Kanika)王とグザン(Guzan、おそらくはクシャン、クシャ?ナ)王とともにインド遠征を行ったというものがあること。漢??典の中にカニシカがホ?タン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが 小月氏 の出身であるとする?もある。

ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解?され、クシャ?ナ朝の?史について多くの新事?が明らかとなった。この碑文は 1993年 アフガニスタン ラバ?タク で偶然?見されたもので、 バクトリア語 で記された1200字あまりの文書であり、クシャ?ナ朝時代のものとしては最も長文の記?の一つである( ラバ?タク碑文 )。?容はこの地方のカラルラッゴ(?督)であったシャファロに?して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記?されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血?があったことが判明した。

この碑文の解?によって、曾祖父のクジュラ?カドフィセス、祖父のヴィマ?タクト、父のヴィマ?カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ?タクト [注? 7] は??全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャ?ナ朝の?史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャ?ナ朝時代に?行されたコインの中で、ソテル?メガスという??のみが記されたタイプの物がクジュラ?カドフィセスによるものか、ヴィマ?カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ?タクトのものであると考えられるようになり、クシャ?ナ朝の大幅な勢力?大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。

大月氏とクシャ?ナ朝 [ 編集 ]

貴霜翕侯(クシャ?ナ族)が元?大月氏に?し、大月氏の他の翕侯を?えた後、クシャ?ナを??として王と名?ったという『後漢書』の記?や、?統的な月氏の王の??を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャ?ナ朝は多分に連?性の?い政?であったと考えられる。

中?ではクシャ?ナ朝が?力を握った後も、その王を大月氏王と呼び?けた。『後漢書』には以下のようにある。

月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

(クジュラ?カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸?は彼をクシャ?ナ王と呼んでいる。漢では古い??を用いて大月氏と呼んでいる。

? 後漢書

また、 中? の三?時代にヴァ?スデ?ヴァ(波調)が に使節を派遣した際、魏はヴァ?スデ?ヴァに?し、「親魏大月氏王」の 金印 を贈っている。これは 倭? の王 卑?呼 に?するものと?んで、魏の時代に外?に送られた金印の例であることからよく知られているが、3世紀に入っても中?ではクシャ?ナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。

しかし、大月氏とクシャ?ナ朝を同一のものと見なしていいかどうかにはさまざまな立場がある。 ソグディアナ ホラズム 地方の大月氏系諸侯は、クシャ?ナ朝とは別に?立王?を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸?をクシャ?ナ朝が征服した痕跡は現在まで一切?見されていない。

?代王 [ 編集 ]

  1. クジュラ?カドフィセス (カドフィセス1世 - 80年 頃、『 後漢書 』によれば80?以上まで生きた)
  2. ヴィマ?タクト 1世紀 後半)
  3. ヴィマ?カドフィセス (カドフィセス2世、 2世紀 前半)
  4. カニシカ1世 2世紀 半ば)
  5. ヴァ?シシカ (2世紀半ば)
  6. フヴィシカ (2世紀後半)
  7. ヴァ?スデ?ヴァ 3世紀 前半)
  8. カニシカ2世 3世紀 前半、一時ヴァ?スデ?ヴァと共同統治?)

サ?サ?ン朝 の征服


脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ 後漢書 』西域?では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている。
  2. ^ 翕侯 (きゅうこう)とはイラン系遊牧民における“諸侯”の意。烏孫などにも見受けられる。ベイリによればイラン語で“統率者”の意で、 E.G.プ?リ?ブランク によればトハラ語で“?家”の意であるという。また、のちのテュルク系?家に見られるヤブグ(葉護:官名、??)に比定されることもある [ 要出典 ]
  3. ^ 江上波夫は五翕侯を大月氏によって任命された月氏人?士の封建諸侯であるとした [ 要出典 ]
  4. ^ ?一雄は大月氏における五翕侯を大月氏によって任命された土着有力者とした [ 要出典 ]
  5. ^ クジュラ?カドフィセスによるカブ?ル支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出?事である。それはクジュラ?カドフィセスがヘルマエウスと共同で?行したコインの中にヤヴガ (Yavuga) という??が刻まれている物があることから知られる [ 要出典 ]
  6. ^ プリニウス は?時インド人がロ?マの金を年間5千万 セステルティウス 持ち去っていると記しているが、これにはクシャ?ナ朝にもたらされた分も含まれているであろう [ 要出典 ]
  7. ^ ヴィマ?タクト (Vima takto) の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と?む?は確定的ではない [2]

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 小谷 1999 , pp.101-111.
  2. ^ 山崎 2007 , p. 139.

?考文? [ 編集 ]

  • 小谷仲男『大月氏 中央アジアに謎の民族を尋ねて』東方書店〈東方選書 34〉、1999年12月。 ISBN   978-4-497-21005-0  
    • のち改版。小谷仲男 『大月氏 中央アジアに謎の民族を尋ねて 新?版』 東方書店、〈東方選書 38〉、2010年3月。 ISBN 978-4-497-21005-0

?連項目 [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]