ガイウス?ノルバヌス
(
ラテン語
:
Gaius Norbanus
、 -
紀元前82年
または
81年
)は
紀元前1世紀
初期の
共和政ロ?マ
の政治家?軍人。
紀元前83年
に
執政官
(コンスル)を務めた。
出自
[
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]
?史家フリ?ドリヒ?ミュンツァ?は、ノルバヌスの
ノ?メン
は
ウォルスキ
の街であるノルバに由?し、
ロ?マ市民?
を得た際にノルバヌスに改名したと考えた
[1]
。「新市民」であった彼の名前は明らかに
ラテン語
以外の言語に由?するものであり、非ラテン系の名前で執政官となった人物は、
マルクス?ペルペルナ
に次いで2人目である。エルンスト?バディアンは、ノ?メンや
コグノ?メン
は必ずしも出身地を表すものではない事を示し、また改名の時期についても疑問が?るため、ノルバヌスの名前はエトルリア起源のものであることを示唆している
。
??
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]
護民官
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]
ノルバヌスは、その政治?において、「新市民」であるがゆえに
ノビレス
(新貴族)からの抵抗にあっていた。これがノルバヌスが
ポプラレス
(民衆派)となった主な理由と思われる。ノルバヌスが最初に記?に登場するのは
紀元前103年
である
[3]
。このとき彼は
護民官
であり、同僚護民官の
ルキウス?アップレイウス?サトゥルニヌス
の同盟者でもあった
[4]
。この年の主な出?事は、紀元前106年の執政官で、元老院でも大きな影響力を持っていた
パトリキ
(貴族)である
クィントゥス?セルウィリウス?カエピオ
の裁判であった。2年前の
紀元前105年
に、カエピオは
アラウシオの?い
でゲルマン人に大敗していた。ノルバヌスはこれを口?にカエピオを告訴した
[3]
。
その法的根?はサトゥルニヌスが成立させた下位反逆罪に?するアップレイウス法(Lex Appuleia de maiestate minuta
)であった。これはロ?マの?威を傷つけることを罪とみなす法律で、特別審問所(quaestio extraordinaria)によって審理された。審判人たちはカエピオに死刑判決を出すことを公然と議論した
[6]
。おそらくノルバヌスは、カエピオを敗北の責任だけでなく、「
トロサの?金
」の消失に?わる?領罪でも告訴したと思われる(Lex Norbana de auri tolosani quaestione
)
[8]
。この裁判はロ?マ?部の?力??も影響を?えていた。訴追人はカエピオを憎む
エクィテス
(騎士階級)や、元老院の?力を減らそうとするデマゴ?グに支持されていた。何人かの元老院議員はカエピオを弁護した。
キケロ
はウルバヌスの「暴力、排斥、石打ち、?酷な法廷?力の行使」を書いている。元老院筆頭であった
マルクス?アエミリウス?スカウルス
は被告の弁護を行ったが、石を投げられて頭を負傷した。ノルバヌスの同僚であった二人の護民官、
ティトゥス?ディディウス
とルキウス?アウレリウス?コッタは拒否?を行使しようとしたが、?制的に議場から排除された
[9]
。カエピオは敗北の責任を問われて有罪となった。またロ?マから追放されただけでなく、彼の財産は全て競?にかけられた。
ティトゥス?リウィウス
によれば、このような個人資産の差し押さえが行われたのは、
共和政ロ?マ
の?史の中で初めてのことであった
[10]
。ウァレリウス?マクシムスは、カエピオは死刑を宣告されて?刑されたと主張している
[11]
。
財務官
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]
カエピオを有罪にしたことはノルバヌスにとって大成功であった。同年(紀元前103年)末の選?で、ウルバヌスは
クァエストル
(財務官)に選出され
[12]
、?統的な出世コ?スである
クルスス?ホノルム
に?ることができた
[3]
。彼は
キリキア
の海賊との?いを任されていた
プラエトル
(法務官)
マルクス?アントニウス?オラトル
に同行して東に向かった。この作?の?態に?しては良くわかっていない。?際、オラトルが通常の?州?督として
アシア?州
を支配下に置いたのか、あるいは?督としての統治?は持たず、キリキアに?する軍事指揮?のみを?えられたのかは不明である
[13]
。
東方の任地に向かう途中、オラトルとノルバヌスは
アテナイ
[14]
と
ロ?ドス
[15]
に何日も?在した。
コリントス
の記?には「執政官代理(名前が消されているがおそらくマルクス?アントニウス)が指揮する艦隊が
コリントス地?
を越えて
パンフィリア
へと移動し、一方でアテナイでは別の部隊の?備が整えられていた」とある。これがオラトルのことか、あるいは息子の
マルクス?アントニウス?クレティクス
のことか不明であるが、?史?者R. ブロ?トンとM. アブラムゾンはオラトルであると考えている
[16]
[17]
。
おそらく、この執政官代理は海と陸の?方で海賊に?して軍事作?を行ったのだろう。
リカオニア
からタウルス山脈の峠を通ってキリキアに侵攻したのかもしれない。いずれにしても、この作?は大規模なものではなかった。?連する資料で?っているは、プリフェクトゥス(野?地責任者、
レガトゥス
、
トリブヌス?ミリトゥム
に次ぐ地位)のマルクス?グラティディウスが?死したことである。グラティディウスはキケロの親戚で
[18]
、その子
マルクス?マリウス?グラティディアヌス
(
英語版
)
は
ガイウス?マリウス
の甥にあたる
。その結果、ロ?マは海岸沿いに多くの要塞を築いた。?究者の中には、これらの?点が新しい行政?位である
キリキア?州
に?展したと考える者もいる
[20]
。
法務官
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]
ノルバヌスがロ?マに?った日付は不明である。しかしオラトルがロ?マに?ったのが
紀元前99年
12月であるから
[21]
、それ以前と言うことはない。しかし、?史?者F. ミュンツァ?は、ノルバヌスの出世は
ルキウス?リキニウス?クラッスス
によって妨げられたと考えている。クラッススは紀元前95年に執政官に就任するが、任期中に
ロ?マ市民?
を持たない
イタリア人
に?してロ?マから退去する法案を制定した
[3]
。
その後、カエピオの
息子
がノルバヌスを告訴した。これがいつのことか正確には分からないが、裁判が行われたときにオラトルは
ケンソル
(監察官)??者であり(
紀元前97年
)、キケロの『弁論家について』では
紀元前91年
のできごとを述べるに際して、ノルバヌスの裁判を「過去の事件」としている。これらのことから、ほとんどの?史?者はこの裁判は紀元前95年から紀元前94年に行われたと考えている。E. バディアンは紀元前95年初めとしている
。告訴側弁護人は若く??性がある弁論家として知られていたプブリウス?スルキピウス(紀元前88年護民官)であった。スルキピウスはカエピオ父の裁判の際に、ノルバヌスが同僚護民官の拒否?を暴力で阻止したことを訴えた。加えて、スカウルスもノルバヌスに?する?言を行った。?して、ノルバヌスの弁護をオラトルが行ったことは、多くの人?を驚かせた。オラトルは、キリキア遠征時に彼の下で財務官を務めたノルバヌスを「先祖代?の習慣に?って、私との?係ではなく、私の子供の一人として、また私の名?と財産をかけて」弁護した
[23]
。オラトルはスカウルスの?言にも反論し
[24]
、無罪を勝ち取った
[25]
[26]
。
この裁判での勝利の後、ノルバヌスは政治家としてのキャリアを再開した。
紀元前88年
または
紀元前87年
に、ノルバヌスは法務官に就任し、
シキリア?州
?督を務めた
[27]
。キケロは彼を嫌ってはいたが、良い?督であったことは認めている
[28]
。
農地の?地に?する裁判はなく、アルテミドルス?コルネリウスのような裁判官はおらず、シキリアの政務??者は農民が必要とする農作物を取り立てることもなく、??請負人に1ユゲラ(0.25ヘクタ?ル)あたり3メディム(約156リットル)を要求することもなく、農民は追加でお金を支?うこともなく、追加で穀物の3/50を?める必要もなかった。それでも十分な量の穀物がロ?マに送られた。
キケロ
『ウェッレス?劾』、III, 117.
[29]
加えて、ノルバヌスは紀元前88年に始まった??に、シキリアが?き?まれないようにした。紀元前87年、スッラ率いる
ロ?マ軍
がバルカン半島に侵攻すると、イタリアでは反スッラ(マリウス派、民衆派)の活動が盛んになった。
シケリアのディオドロス
によると、マルクス?ランポニウスおよび他の
イタリック人
の指導者は、
レギウム
を占領して、そこからシキリアに渡ろうと計?して街を包?した。しかしノルバヌスは「直ちに大規模な軍隊を組織し、それを見せつけることでイタリック人に恐怖を?え、レギウムの人?を救った」
[28]
[30]
。
執政官就任と最期
[
編集
]
紀元前80年代半ば、イタリア本?とロ?マ西部の?州はマリウス派(民衆派)が支配していた。紀元前84年、マリウス派はスッラのイタリア上陸に備えていた。この年の初めに、4度目の執政官を務めていた
ルキウス?コルネリウス?キンナ
は、兵士の反?により殺害されていた。キンナの死後に??で執政官を務めていた
グナエウス?パピリウス?カルボ
は、翌年の執政官に彼と妥協できる人物を選んだ。一人は名門パトリキの
ルキウス?コルネリウス?スキピオ?アシアティクス
で、もう一人が「新市民」の代表であるノルバヌスであった。このときノルバヌスは?に60?前後であった
[31]
。
スッラはイタリアに上陸し、紀元前83年5月に新たな??が始まった。このとき、スッラには??で鍛えられてはいるものの3-4万人の兵士しか持っていなかった。一方、スキピオとノルバヌスは合計18-20万人の兵士を率いていた
[32]
[33]
。しかし、理由は不明だが?執政官は別?に行動し、さらに、海岸を守るために必要な措置を講じなかった。その結果、スッラは
ブルンディシウム
に抵抗なしに上陸して
カンパニア
に進?した。しかし
アッピア街道
と
ラティ?ナ街道
が交わる場所で(
カプア
近郊)、ノルバヌスが待ち構えていた。スッラは和平交?のために軍使を送ったが、
ティトゥス?リウィウス
によれば「虐待された」
[34]
。このため?軍は??に入ったが、ティファタ山での最初の??でノルバヌス軍は敗北した。古代の資料によれば、ノルバヌス軍の6,000-7,000が?死し、6,000が捕虜となったのに?し、スッラ側の?死者は70人もしくは120人としているが
[35]
[36]
[37]
、これは明らかに誇張であろう。ノルバヌスはカプアに退却した
[38]
。
この後直ぐに、スキピオ?アシアティクス隷下の兵士達がスッラ側に?返った。その前にスキピオはノルバヌスに?してスッラとの和平を模索するための軍使を送ったが、ノルバヌスは返答をしなかった。スキピオはスッラとの和平交?中に?返り工作を受けており、アッピアノスによると、ノルバヌスも欺瞞工作の?牲になることを恐れていた
[39]
[40]
。
翌年、ノルバヌスは
プロコンスル
(前執政官)として
インペリウム
(軍事指揮?)を維持し、北イタリアを??した
[41]
。しかし、
ファウェンティア
の?いでスッラ軍の?軍の一人である
クィントゥス?カエキリウス?メテッルス?ピウス
に大敗した。9,000 - 10,000が?死し、さらに6,000がスッラ側に?返った。ノルバヌスには?千人の兵士しかおらず、
アリミヌム
に籠城した
[42]
。この敗北の後、マリウス派の北部?線は崩?した。アリミニウム現地軍の指揮官であったプブリウス?アルビオノウァスは、ロ?マ軍幹部を晩餐に招き、殺害した後にスッラ派に加わった。ノルバヌスは晩餐に行かなかったために生き?った。アリミニムの住民もスッラ派についた。ノルバヌスは再起を信じて
ロ?ドス島
に逃げた
[43]
[44]
。
??に勝利したスッラは、?家の敵リストに
小マリウス
、ノルバヌス、セルトリウス、スキピオ、
グナエウス?パピリウス?カルボ
の名前を?げた
[45]
。ロ?ドス政府は、ノルバヌスを引き渡すように要求された。これを知ったノルバヌスは、街の?場で自決した
[42]
。別の?によれば、?にノルバヌスは拘束されていたが、自決することができた
[46]
[47]
。
子孫
[
編集
]
ノルバヌスに同名の息子がいた。その息子、すなわちノルバヌスの孫が紀元前38年の執政官
ガイウス?ノルバヌス?フラックス
である。
評?
[
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]
キケロはノルバヌスを極めて低く評?している
[28]
。すなわち、「反抗的で冷酷」
[48]
、「何の役にも立たない反逆者」
[49]
、「優柔不?で勇?が欠如している」
[50]
、と辛辣である。
脚注
[
編集
]
- ^
Norbanus 5, 1936, s. 927.
- ^
a
b
c
d
Norbanus 5, 1936, s. 928.
- ^
Broughton R., 1951, p. 563.
- ^
Mommsen T., 1997 , pp. 133-134.
- ^
Gruen E. 1968, p. 162.
- ^
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- ^
リウィウス『ロ?マ建?史』、Periochae 67.3.
- ^
ウァレリウス?マクシムス『有名言行?』、VI, 9, 13.
- ^
Broughton R., 1951 , p. 569.
- ^
Abramzon M., 2005 , p. 48-52.
- ^
キケロ『弁論家について』、I, 82.
- ^
キケロ『弁論家について』、II, 3.
- ^
Broughton R., 1951, p. 568; 572.
- ^
Abramzon M., 2005, p. 46-47.
- ^
キケロ『ブルトゥス』、168.
- ^
Abramzon M., 2005, p. 52-54.
- ^
Korolenkov A., 2014, p. 66.
- ^
キケロ『弁論家について』、II. 200.
- ^
キケロ『弁論家について』、II, 203.
- ^
Korolenkov A., Smykov E., 2007, p. 138.
- ^
Norbanus 5, 1936 , s. 928-929.
- ^
Broughton R., 1952, p. 41.
- ^
a
b
c
Norbanus 5, 1936, s. 929
- ^
キケロ『ウェッレス?劾』、III, 117.
- ^
シケリアのディオドロス『?史叢書』、XXXVII, 2, 13.
- ^
Norbanus 5, 1936, s. 929-930.
- ^
Korolenkov A., 2003, p. 75.
- ^
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- ^
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- ^
アッピアノス『ロ?マ史:??』、Book I, 84.
- ^
プルタルコス『?比列?:スッラ』、27, 4.
- ^
オロシウス『異?徒に反論する?史』、V, 20, 2.
- ^
Korolenkov A., Smykov E., 2007, p. 274-276.
- ^
アッピアノス『ロ?マ史:??』、Book I, 86.
- ^
Korolenkov A., Smykov E., 2007, p. 280.
- ^
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- ^
a
b
アッピアノス『ロ?マ史:??』、Book I, 91.
- ^
Korolenkov A., Smykov E., 2007, p. 292-293.
- ^
Norbanus 5, 1936, s. 930.
- ^
オロシウス『異?徒に反論する?史』、V, 21, 3.
- ^
リウィウス『ロ?マ建?史』、Periochae 89.8.
- ^
Korolenkov A., Smykov E., 2007, p. 305.
- ^
キケロ『弁論家について』、II, 198.
- ^
キケロ『義務について』、II, 49.
- ^
キケロ『ウェッレス?劾』、V, 8.
?考資料
[
編集
]
古代の資料
[
編集
]
?究書
[
編集
]
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Leges publicae populi romani
. Societa Editrice Libraria
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Franz Steiner Verlag
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- Gruen E. Roman Politics and the Criminal Courts, 149-178 V.S. - Camb. , 1968.
- Munzer F. Norbanus 5 // Paulys Realencyclopadie der classischen Altertumswissenschaft . - 1936. - Bd. XVII, 1. - Kol. 927-930.
?連項目
[
編集
]