エジプト新王?
(エジプトしんおうこく、
紀元前1570年
頃 -
紀元前1070年
頃)は、
古代エジプト
史における時代?分。
エジプト第18王朝
の王
イアフメス1世
が
第15王朝
(
ヒクソス
)を滅ぼしてエジプトを再統一してからの時代が新王?に分類されている。古代エジプト文明が最も?えた時代であり、この時代に建てられた無?の記念建造物、文化遺産は現在に至ってもエジプトに?多く?されている。
?略
[
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]
第2中間期
に
下エジプト
(
ナイル川
三角州
地?)を中心に支配を?げていたヒクソス(第15王朝)を、
テ?ベ
(古代エジプト語:ネウト、現在の
ルクソ?ル
[1]
)の政?(
第17王朝
)が、
セケンエンラ?
、
カ?メス
、そしてイアフメス1世の三代に渡る?いの末に?逐し、エジプトを再統一した。第17王朝と第18王朝は連?した政?であるが、エジプト統一という点を重視し、イアフメス1世以後は第18王朝とされる。
イアフメス1世とその後?者達は上下エジプトのみならず近隣の
シリア
、
ヌビア
地方へ大幅に領土を?大し、エジプトはオリエント世界最大の?家の一つとして君臨するに至った。
トトメス3世
に代表される?代王達の征服活動は目?ましく、?大な征服地とともに膨大な?利品がエジプトへ流れ?み、エジプトは空前の繁?の時代を迎えた。
?代の王達は遠征の後に、?家神である
アメン
に?勝を謝するため、テ?ベにあるアメン神殿に多?の寄進を行うのが慣例となっていた。やがてアメン神殿はエジプトにおいて比類無い有力勢力となり、アメン神官?の動向は時として王位すら左右するようになった。第18王朝半ば頃になるとこうした神殿勢力の?大化に懸念を抱いた王達は、人事面における介入や他の神殿とのバランスをとる政策を中心として、アメン神官?の勢力をそぎ落としにかかった。こうして比較的アメン神官?を統御することが可能となった
アメンヘテプ3世
の時代には、?倒的な王?を背景に?多くの巨大建築が?された。
アメンヘテプ3世に?く
アメンホテプ4世
は更に進んでアメン信仰を排し、
アテン
神を唯一信仰するという新たな宗?改革(
アマルナ革命
)に?り出した。王はアテン信仰を盛り上げるべく、王名を
アクエンアテン
と?更し、首都を新たに
アケトアテン
へと遷した。新しく筆記語として?時の口語(新エジプト語)が採用された。そして
アマルナ美術
と呼ばれる新たな美術?式が生み出され、アテン神の?像表現も定まった。しかしアテン信仰は王とその側近以外にはほとんど?まらず、アクエンアテンの死後再びアメン信仰が?家祭儀の中心となった。
アクエンアテンの後は王位?承が混?し、軍人出身の王が?いた後第18王朝最後の王
ホルエムヘブ
から後?者に指名された
宰相
ラムセス1世
が?位して
第19王朝
が始まった。第19王朝においても新王?の繁?は受け?がれ、
セティ1世
、そして
ラムセス2世
はその威信を示す巨大建造物を多??している。特にラムセス2世は古代エジプト最大の王とも言われ、60年を超える彼の治世はエジプトが最も繁?した時代と解される。
その後興った
第20王朝
の王
ラムセス3世
の治世を最後に、新王?の王?は急速に衰退し始め、逆に勢力をのばした
テ?ベ
の
アメン神官?
が事?上の?家を樹立して上エジプトに支配を?げ、エジプトの統一は再び失われた。下エジプトでは
スメンデス
と言う名の男が新たに?力を握って
ラムセス11世
と?び立ち、やがて新たに
第21王朝
を開くことになる。
社?
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新王?時代には相次ぐ?外遠征によって齎された膨大な?利品がエジプトの社?に大きな影響を?えた。?に
中王?
時代の
ヌビア
への遠征によってエジプトに大量の金が齎されるなどしてはいたが、新王?時代になると、相次ぐ軍事的成功によって?利品の質、量ともに中王?時代とは格段の差が生じた。この?利品は王からの寄進という形をとって神殿へと流れ?み、エジプト各地の神殿勢力、とりわけテ?ベのアメン神殿はその勢力を飛躍的に?大した。また??中に捕らえられた外?人は捕虜奴隷としてエジプトに連れてこられ、神殿などへ寄進された他、各種の??に携わった。
土地?神殿領と王室領
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]
各地の神殿はそれぞれ?大な耕作地を支配する土地所有者であった。第20王朝の
ラムセス4世
時代に?された記?(
ハリス?パピルス
[2]
[3]
)によれば、この時代に神殿領はエジプトの全耕作地の3分の1、人口の5分の1を占めていた
[4]
。更に諸神殿の間でも著しい偏在が存在し、アメン神殿を含むテ?ベ神殿群が占める財産の割合は全神殿の4分の3に達し、次に規模の大きい
ラ?
神殿を含む
ヘリオポリス
神殿群にさえ大きく水をあけていた。
ハリス?パピルスに記された財産目?によれば、テ?ベ神殿群は86486人の奴隷、421362頭の
牛
、864168.25アロウラ
[5]
の土地、83隻の船舶、エジプトの都市56、シリア?クシュの都市9などを所有していた。第2位のヘリオポリス神殿群では奴隷12364人、牛45544頭、土地160084.75アロウラ、3隻の船舶を所有しているに過ぎない。ただし、都市に限れば103の都市を所有していた。第3位のメンフィス神殿群ではヘリオポリス神殿群のほぼ4分の1(土地は16分の1)に過ぎず、その他の地方神殿群は全て合計してもヘリオポリス神殿群の半分以下である。
この記?はアメン神殿が特に勢力を?した第20王朝時代に記?されたものであるため、アメン神殿の制御に力を注いだ第18、19王朝時代にはもう少し規模が小さかった可能性もあるが、記?が完全でないので比較が難しい。
これに?し王室領も存在した。王室領は、王の船着場領、王の農場、王のカ?ト領、王のミン領、王の?庫領、王妃領、そしてハレム領など構成された。
史料的制約のため神殿領?王室領の時期?の?遷や、??の?態を明らかにすることは困難である。これらの領土は更に直?領や小作?領などに分類されている。また私有地については良くわかっていないが、小作?領を耕作する小作農民の間で、小作地として割り?てられた農地の「小作?」を世襲することで事?上土地を所有した「自由農民」が存在したことが知られる。
奴隷
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多くの古代文明と同じくエジプトには古くから
奴隷
が存在した。主な奴隷供給源は??捕虜と
奴隷貿易
による購入、及び「奴隷から生まれた子供」であった。
中王?時代から第2中間期に至る時代まで、東地中海にはかなり整備された奴隷貿易網が存在していたと考えられる。中王?時代の
ブルックリン?パピルス
と呼ばれる文書に記された奴隷リストによれば、奴隷を構成するのは主にシリア?パレスチナ地方のアジア人奴隷とエジプト人奴隷であった。中でもアジア人奴隷が過半?を占める。また、エジプト人奴隷は主に犯罪によってその地位に落とされたと考えられ、
債務奴隷
は皆無である。このリストに載せられた奴隷のうち女性の占める割合が高いことから、??捕虜による奴隷はほとんど含まれていないと考えられている。他の史料からヌビア人奴隷や
?人
[6]
奴隷の存在も知られているが、例外的な部類に?しあまり?は多くない。
新王?時代に入るとその帝?的?張の影響を受けて俄かに捕虜奴隷が?加した。新王?時代最も領土を?張した
トトメス3世
の17回に及ぶ遠征では、記?の?るものだけで?計8231人以上、現代の?者による推計では15000人余りの捕虜?奴隷を得ている。?く
アメンヘテプ2世
は治世2年に行った遠征で
シェメシュエドム
、
オロンテス
、
イカチ
などの??で貴族550人以上、その妻子240人以上、
カナン人
640人、王子232人、王女323人、首長の女歌手270人を捕虜とし、治世9年の遠征では
ハビル
、
ベドウィン
など合計101128人を捕獲したと記?に?っている。記?を?していない王も多いが、大半の遠征で捕虜が獲得されたであろうことは想像に難くない。
こうして鹵獲された捕虜は主に、?有奴隷として?有地に集?で移住させられるか、政府高官及び?功ある家臣に?する恩賞として?えられ、また神殿に?する寄進として各地の神殿、特にテ?ベのアメン神殿に送られた。
また新王?時代後半になると特筆すべき?化が起きた。第2中間期以前にはほぼ見られなかった債務奴隷(債務返?の手段として奴隷となる)が登場するのである。新王?以前のエジプト奴隷制において債務奴隷が存在しないというのは大きな特?であり、その主たる原因が商業の未?達によるものであるという見解は?く支持されている。?ってその債務奴隷が出現したということは、新王?時代後半における商業資本の?達を意味すると考えられる。事?債務奴隷が登場する時代に初めてエジプト語に「
商人
」
[7]
を意味する?語も登場するのである
[8]
。
もっとも、新王?時代の奴隷の?加があっても人口、生産活動に占める奴隷の割合は低く、一部の特殊技能者を除けばエジプトにおける奴隷??の役割は補助的なものに過ぎなかったと考えられている。その業務?容もいわゆる「自由民」と差があるものではなく、ほとんど全ての賦役が奴隷??の?象となりえた。奴隷の地位、??の苛酷さは職業や所有者の個性によって千差万別であり、「自由民」の男性と結婚して解放された女奴隷や、所有者から事?上の家族として扱われ、養子?組を行って「自由民」となり財産の相?を受けた例さえ知られる一方、?有奴隷や神殿所有の奴隷の中で農業??に携わった人?の生活は苛酷であったらしく、しばしば逃亡者を出している。?時農夫(イフウティ)とは奴隷、非奴隷を問わず農業??に?事する職業の人を指す呼?であったが、「罪人を農夫とする」というような脅し文句がしばしば使われるほど苛酷な?役であった。
軍人
[
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]
第2中間期のヒクソスの支配を?てシリア?パレスチナ地方との?係が深まり、またヌビア地方へも遠征が行われて?大な異?の地を支配に置くに至った新王?では、これらの維持のためにこれまでに無い規模の遠征が繰り返された。このために常備軍の存在が要求され、遂に軍人が一つの社?層を形成するようになった。
古くより書記が社?の指導層にあったエジプトでは、書記になることは「小人」から「大人」への道であると言われ、書記を養成するための?校ではいかに書記が他の職業に勝った存在であるかが生徒に叩き?まれた
[9]
。しかし新王?時代の相次ぐ軍事遠征は、軍人から「大人」として上流階級に登る人?を出現させた。特に遠征に?加すれば?利品の分配に預かる機?もあり、また?功を立てて王に認められることもあった。このため?しい勉?に始まる書記よりも手っ取り早く成功できる可能性のあった軍に進んで?加するものもあった。
だが、こうした軍人の社?進出はそもそも指導層を形成していた書記達には不快感を?えたようである。というのもエジプトでは?統的に軍人の社?的地位が低かったためである。?時軍人の生活は書記の生活よりも?まれているという意見を述べた人に?し、いかに軍人の生活が辛く?めで危?に?ちているかを述べて考えを撤回するように諭す文書が?見されており、軍人の比重が高まることに?する嫌?が?かった痕跡が見られる。
結局こうした書記側の意見の方が優勢となっていき、新王?時代も後半になるにつれ軍人蔑視の風潮は再び?まり、進んで軍人となるエジプト人の?も減少していった。これには?時のオリエントの中でも外?への移住、移動を好まなかったエジプト人一般の傾向が影響したのかもしれない
[10]
。このため、新王?時代後半の軍隊では??補助兵力でしかなかった外?人傭兵が主力の座を占めるようになった。この外?人傭兵は報酬と引き換えに傭兵となる場合もあれば、もともと捕虜として捕獲された人?であった場合
[11]
もあるが、エジプト??に土地を?えられて家族とともに定住した。
シリアやヌビアなど周?諸地域を支配下においていたエジプトにとって、蔑視されているにもかかわらず軍人は必要不可欠な存在であり、軍人出身の有力者は輩出され?けていた。このため王の側近にも外?人傭兵出身者が占める割合が?えていき、その勢力は無視できないものとなっていった。やがて第3中間期、或いは末期王朝時代になると、こうした外?人傭兵であった
リビア人
の子孫が王朝を開くことになるのである(
第22王朝
)。
文化
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新王?は古代エジプトが最大の勢力範?、??力を持った時代であったため、多?な文化が花開いた。以下、大まかに??する。
王家の谷
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]
詳細は
王家の谷
を?照。
古代エジプトの王達は、?世への復活を万全のものとし自らの?威を示すために巨大な王墓を造?していた。新王?時代、第18王朝の王
トトメス1世
の頃にテ?ベ西側の?れ谷に初めて王墓が造?されて以降、?代の王達がこの地で次?に王墓を造?した。これが王家の谷である。第2中間期、第17王朝時代の王墓がメル墓(小ピラミッド墓)であったのに?し、第18王朝に入ると王墓の形式は?化した。葬祭殿と王墓が分離し、谷を掘って作る岩窟墓になったのである。
トトメス1世の時代に王家の谷に墓を造?した初期の責任者であった高官イネニの墓に?された石碑には以下のようにある。
「わたしは陛下の墓を掘る作業を指揮した。自分ひとりで、見られることもなく、聞かれることもなく。」
この碑文は王家の谷についての?究で頻繁に引用され、??王家の谷の王墓建設が秘密裏に?行されたことを示していると解?されてきた。しかし20世紀半ば過ぎにはニムスなどの?究者によって、これは秘密裏に?行したことを示すのではなく、監督?限がイネニのみにあったことを示すものであるという解?が提出され、支持を得ている。
巨大建築
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新王?時代の大規模建築は?多く現存している。以下に?代の王が行った建築活動のうち代表的なものを列?する。
- ハトシェプスト
- ハトシェプストは女王としては初めてエジプトの?質的な統治?を握った人物であった。彼女は
デイル?アル=ハバリ
にある
メンチュヘテプ2世
王墓の??に巨大な葬祭殿を建設させた。
- トトメス3世
- トトメス3世は「古代エジプトの
ナポレオン
」とも評される
[12]
征服王であった。彼はテ?ベのアメン神殿に第6塔門、4本のオベリスクなどを建設し、
ヘリオポリス
にも2本のオベリスクを建てた。トトメス3世が行った多くの建設事業は
宰相
レクミラ
によって監督されたと考えられている。
- アメンヘテプ3世
- 第18王朝が最も繁?した時代を統治したアメンヘテプ3世は空前の規模の建築活動を行った。取り分け重要なのはテ?ベのそばに作られた
マルカタ王宮
である。王宮は南宮殿、中宮殿、北宮殿からなり、その北にはアメン神殿が建てられた。また王宮には
ビルカト?ハ?ブ
と呼ばれる長さ3km、幅900mにわたる人造湖が作られ、ナイル川と結ばれて港?施設となっていた。
- アメンヘテプ4世(アクエンアテン)
- アテン信仰を追求し、他の神の排除を行ったアメンヘテプ4世の時代にはアテンのための新都
アケトアテン
が建設された。これは現在
アマルナ
と呼ばれており、ここから?見された多?の外交書簡などは古代史の解明に大きな役割を果たしている。また彼の治世には
アマルナ美術
と呼ばれる新しい芸術?式が普及した。
- トゥトアンクアメン(ツタンカ?メン)
- トゥトアンクアメン自?はそれほど目立つ王ではないが、ほとんど無傷で?見された彼の王墓から豪華な副葬品が出土し、古代エジプトの美術品の中でも最高水準のものを現代に?えた。?際には彼の王墓も2度の?掘を受けているが、王墓が異例なほど小規模だったことと、その後の工事の際に瓦礫の下に埋まってしまったこと、更にアテン信仰に?わった王の?史が後に抹消されたことなどが重なり、本格的な?掘を免れた。
- ラムセス2世
- ラムセス2世は古代エジプト史上最大の建築活動を行った王である。エジプト各地に彼の記念建造物が?されており、代表的なものとしてはヌビアに建設された
アブ?シンベル神殿
やテ?ベに建てられたラムセス2世葬祭殿(
ラメセウム
)が?げられる。
- ラムセス3世
- 最後の偉大な王とも言われるラムセス3世が建設したラムセス3世葬祭殿(
マディ?ナト?ハブ神殿
)は「海の民」に?する記?が碑文に刻まれていることから重要である。壁面にはラムセス2世の葬祭殿から複?された?勝記念碑文などが記載されている。
アマルナ美術
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]
アメンヘテプ4世(アクエンアテン)によるアテン信仰の追求は、古い芸術?式の否定と新しい美の基準を生み出した。これには王自身の意向が?く?いていたと思われ、?時の宮廷彫刻家
ベク
は、宮廷彫刻家とは「見た通りに表現するものである」と王から命ぜられたと言う。
こうして生み出されたアマルナ美術の特?は
リアリズム
にある。特に王像の表現における?化は?著で、それまでの理想的な姿を描いた王像と異なり、アクエンアテンの王像は細長い手足、垂れた胸、突き出た腹を持つ醜?な外見をしている。やがてこの王の?型が新しい基準となり、他の人物像もこれによくにた?型で表現されるようになった。
神像表現も?化した。アテン神は??一般的であった人型の神、或いは?面人身の表現をされず、太陽を示す円盤から多?の手が差し伸べられるという新しい?像で表現された。これは全ての人に手を差し伸べると言うアテン神の性質を表すために生み出された表現である。
こうしたアマルナ美術は、類型化、理想化の傾向が?かったエジプト美術に新しい息吹を吹き?み、その後の美術に少なからぬ影響を?した。
?外支配地の??
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シリア
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]
新王?時代のエジプトを特?付けるのがシリア地方の支配である。第18王朝最初の王、イアフメス1世がヒクソスの支配?を引き?ぐ
[13]
という大義名分の下にこの地域に進出して以?、新王?時代を通じてシリア地方の情勢はエジプト王の主要な?心事であった。?時シリア地方には無?の小王?が分立していた。代表的なものを?げれば
ハラブ
(アレッポ)、
ウガリト
、
アララハ
、
アムル
[14]
、
エブラ
、
カトナ
、
カデシュ
、
グブラ
(ビブロス)、
ダマスカス
、
ウルサリム
(エルサレム)などである。エジプトのシリア支配は基本的にはこれらの諸王?に?し宗主?を認めさせ、一定額の貢納及び軍役を負わせることで支配を確立するものであった。この点については同じようにシリアの支配を目指した
ヒッタイト
や
ミタンニ
も基本的に?わらない。エジプト、ヒッタイト、ミタンニの各?はシリアの支配?をめぐって激しく?立した。
エジプトのシリア支配に?機が訪れたのはトトメス3世による遠征の時である。トトメス3世は17回に及ぶ遠征の際、征服した各地の王?から長子をエジプトに連れ?り、テ?ベでエジプト式の?育を受けさせることとした。更にシリア地方に監督官(北の異?の長)をおいて現地の諸王?を管理させたが、後に以下の3つの州にわけられた。
- カナン州(州都
ガザ
)
- ウピ州(州都クミディ)
- アムル州(州都シュミラ)
州都にはエジプトの監督官が駐屯したが、その居住地は現地の領主達の館があった土地ではなく、政治的には「中立」の土地が選ばれた。この支配はしばしば植民地支配とも呼ばれるが、駐屯するエジプト人は軍人を含めても少なく、シリアへのエジプト人の移住はほとんど見られなかった。
シリア地方の諸王?は基本的に自立の?風が?く、ことあるごとに反エジプト政策を展開した。ヒッタイトやミタンニの支配下にある諸王?も同じように反宗主?の活動を頻繁に行い、他の大?の勢力を導きいれようとしたため、シリアをめぐる??は大抵の場合、敵の支配下にある?の反?と連動して攻?をかける形で行われた。また、シリアの諸王?はお互いに?立の?係にあったため、エジプト王に?して隣?を批判し罰するように求める書簡を送ったりもしていた。
こうしたシリア地方諸?の行動を記?している史料は、アマルナ(アケトアテン)から見つかった外交書簡(
アマルナ文書
)やヒッタイトの記念碑文、ウガリトに?されていた外交書簡などがあるが、特にアマルナ文書によって精密に外交?係が復元できる時代を
アマルナ時代
と呼ぶ。さまざまな事件、??が記?されているが、以下にこの時代のシリア地方の動?のうち幾つかを列?する。
- アメンヘテプ3世の時代、アムル州で
アブディ?アシルタ
という男が?力を握り、シミュラをも支配下においた。エジプトはこれを?認し、彼をシミュラの役所の「保護者」としたため、アブディ?アシルタは事?上の王?を築き上げた。これに?しグブラ(ビュブロス)の王リブ?アッディがアブディ?アシルタ討伐を求めた。しかしエジプトの救援はなく、アブディ?アシルタの後?者
アジル
の攻?を受けてリブ?アッディは
ビルタ
(ベイル?ト)へと亡命した。
- ヒッタイト王
スッピルリウマ1世
はミタンニの支配下にあったハラブ(アレッポ)、カトナやアララハを攻?し、ほとんど抵抗を受けずにこれを制?した。カデシュ王アイタカマだけは毅然としてヒッタイトに立ち向かったものの、結局破れヒッタイトに連れ去られた。その後彼はヒッタイトの臣下としてカデシュ王に封じられた。
- アムル王アジルはヒッタイトがシリアに進軍するとその覇?を認めて傘下に入ったが、ヒッタイト軍が撤退するとエジプトの宮廷を訪れエジプトの臣下という肩書きを得て??した。エジプトはこれに自信を?め、ヒッタイトの支配下に?まっていたカデシュを攻?したが、ヒッタイト側の反?にあってエジプト軍が?退されるとアジルは再びヒッタイトに臣?した。
- しばらく後、ウガリト王アンミスタムル2世はアムル王ベンテシナの娘を妃として娶っていたが、??の?立に伴いアンミスタムル2世はこの娘を疎んじ、離婚した。このため?者の間に生まれていた王子
ウトリシャッルマ
を巡って王位?承問題が生じた。しかしこのウガリト、アムル??はともにヒッタイトの宗主?下にあったため、ヒッタイト王
トゥトハリヤ4世
とヒッタイトの王子で
カルケミシュ
王、及びシリア地方におけるヒッタイトの副王だった
イニ?テシュプ
が離婚問題に介入し、ウトリシャッルマが王位を?承した場合と?承しなかった場合の相?の仕方を定めた。
- アムル王ベンテシナはエジプト王ラムセス2世が軍勢を率いてシリア地方へ進軍するとヒッタイトに反旗を?してエジプト軍とともに?った。しかし
カデシュの?い
の結果エジプトの進?が止まるとヒッタイトの手によって?位された。
こうした記?は枚?に暇が無いが、これだけを見ても?時のシリアを巡る混?した情勢を見て取ることができる。ただしこれらの事件の正確な時期は必ずしも明らかではなく、時系列順に?べることができない事件も多?ある。
エジプトのシリア支配は前進と後退を繰り返したが、やがてヒッタイトとの間に平和?約が結ばれるとやや安定した。しかし
前12世紀
末頃の「
海の民
」の移動に伴ってシリア地方が再び混?すると、?質的な支配?は後退した。そして新王?時代末期には遂にエジプトのシリア支配は終焉を迎えることになる。
ヌビア
[
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]
ナイル川上流の
ヌビア
は?に新王?時代以前からたびたびエジプトの組織的な支配が行われていた。このためヌビア地方に?する支配はシリアのそれに?するよりはるかに安定的かつ?力であった。?ち多?の現地王?に?する宗主?の行使という形をとったシリアと異なり、ヌビアはエジプト政府の直轄支配地とされた。
トトメス3世
による征服の後、ヌビアはナイル川第二急湍を境に下ヌビア(
ワワト
)と上ヌビア(
クシュ
)に分割され、それぞれに副?督が設置された。そしてその上に全ヌビアを統括する?督がおかれた。このヌビア?督は大抵中央政府から派遣された人物が着任したが、時に世襲する例も見られた。
ヌビアの行政機構はエジプト本?の縮小版とも言うべきもので、大きく民生部、軍部にわけられ、その下に官僚機構が作られていた。中王?時代の
センウセルト3世
などが建設した要塞が修復、改修されるとともに新規の要塞が多?作られ、ヌビア貴族の長子はシリア諸?の場合と同じようにテ?ベで?育を受けさせられることになっていた。
こうして万全の支配?制が敷かれたヌビアでは、シリアと異なり多?の巨大建造物が建てられた。その最も代表的なものは
アブ?シンベル大神殿
で、こうした建築活動が可能であったことはヌビア支配が非常に安定していたことを示す。この?力な支配の下、ヌビアではエジプト文化が急速に普及していくことになる。
ヌビアからは?年300kgと言われる
金
がエジプトに納められ、エジプトには塵のように金があるとまで言われるようになった。この金はエジプト政府の主要な財源の一つとして大きく役立った。
脚注
[
編集
]
- ^
紀元前3世紀
のエジプトの?史家
マネト
の記?では
ディオスポリスマグナ
と呼ばれている。これは
ゼウス
の大都市の意であり、この都市が
ネウト?アメン
(
アメン
の都市)と呼ばれたことに??したものである。この都市は古くは
ヌエ
と呼ばれ、
?約聖書
では
ノ
と呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王?時代にはワス、ワセト、ウェセ(?杖)とも呼ばれた。
- ^
大ハリス?パピルス
- ^
この文書は、ラムセス4世の時代に、前王ラムセス3世と?わらない寄進を行うことを保障するため、ラムセス3時代の寄進を記?した寄進リストである。
- ^
比率は書籍によって若干異なる。この?値は?考文?『世界の?史1 人類の起源と古代オリエント』の記述による。
- ^
1アロウラは約2735平方メ?トル。
- ^
エジプト人はヌビアより南の住民を??してネヘシと呼んだが、このネヘシを?人と?すことについては異論もある。?考文?『ナイルに沈む?史 ヌビア人と古代遺跡』?照。
- ^
この商人は?際のところ大半が特?を?えられたシリア人を中心とする外?人に過ぎず、?立した商人層がエジプト人の間に確立することは無かった。
- ^
ただしこの債務奴隷は一定の契約に基づいて定められた期間奴隷となるもので終身奴隷ではない。
- ^
エジプト中王?
の記事?、『
ドゥアケティの?訓
』などを?照。
- ^
古代オリエントや東地中海においてシリア地方のセム系集?や印?語族の集?が活?な移動を見せる一方、エジプト人は定住性が?くナイル川流域から離れることを嫌った。こうした傾向はナイル川が葬祭儀?と結びついており、?世を迎えるためにはナイル川のそばに埋葬されなければならないというような?念にも見られ、異?の地で親族が死んだ場合しばしば遺?の回?のしかたが問題となった。
- ^
例えばラムセス3世によって定住地を?えられた
リビア人
や、シリア地方への居住を?認された
ペリシテ人
など。
- ^
アメリカ
の?者、
ジェ?ムズ?ヘンリ??ブレステッド
による。
- ^
イアフメス1世は第15王朝(ヒクソス)の王女
ヘルタ
を後宮に迎え、ヒクソスの地位を?承したことを主張した。
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この時代にアムルと呼ばれた地域は、いわゆる
アムル人
の故地というわけではない。
エジプト新王?史を題材にした文芸作品
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?考文?
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