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エイレ?ネ? (東ロ?マ女帝)

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エイレ?ネ?
Eir?n? h? Ath?nai? / ?ιρ?νη ? ?θηνα?α
東ロ?マ皇帝
エイレ?ネ?の ノミスマ金貨
在位 797年 4月19日 - 802年 10月31日

東ロ?マ皇后
在位 775年 9月14日 - 780年 9月8日

出生 752年
アテナイ
死去 803年 8月9日
レスボス島
配偶者 レオ?ン4世
子女 コンスタンティノス6世
王朝 イサウリア朝
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エイレ?ネ?“アテナイア” ギリシア語 ?ιρ?νη ? ?θηνα?α , Eir?n? h? Ath?nai? 752年 - 803年 8月9日 )は、 東ロ?マ帝? イサウリア王朝 の第5代 皇帝 (在位: 797年 - 802年 )。同王朝第3代皇帝 レオ?ン4世 皇后 で、第4代皇帝 コンスタンティノス6世 の生母。 ロ?マ帝? 史上初の 女帝 である。中世ギリシア語?みでは「イリニ」で、「平和」の意である。渾名の“アテナイア”は「 アテナイ 人」の意であり、生地がアテナイであったことによる。

生涯 [ 編集 ]

前半生 [ 編集 ]

エイレ?ネ?は アテナイ 出身であったとされる [1] 。生い立ちについての資料は?されていないが、『テオファネス年代記』では孤?であったとエイレ?ネ?自身が告白したことが記?されている [1] 。 769年、16ないし17?のエイレ?ネ?は、皇太子であった レオ?ン4世 の后となるため、アテナイよりヒエレイア宮殿に入り コンスタンティノ?プル へ向かったとされる [1] 。 レオ?ン4世との結婚は聖ステファノス聖堂で行われた [2] 。 この結婚に際し、アテナイ出身であった彼女は 聖?像 への崇敬を行っていたが、夫となるレオ?ン4世は聖像破?運動( イコノクラスム )を進めていたため、聖像崇敬を行わないよう誓うこととなった [2] 。 結婚の翌年である771年1月14日、 コンスタンティノス6世 を産んだ [3] 。 775年に コンスタンティノス5世 がブルガリア遠征中に死去し、夫のレオ?ン4世が皇帝を?承したことで、エイレ?ネ?は皇后となった [3]

?位 [ 編集 ]

エイレ?ネ?の ノミスマ金貨

780年 、夫レオ?ン4世が死去したため、子のコンスタンティノス6世がわずか9?で?位することとなった [3] 。コンスタンティノス5世を崇?していたレオ?ンの異母弟たちが後ろ盾として機能するはずであったが、レオ?ン4世の義弟を旗印にク?デタ?が?策されたことなどから、エイレ?ネ?が ?政 に就任し、政治を執りしきった [3]

しかしコンスタンティノスが長ずるにつれ彼女の意に沿わなくなり、母子の仲は徐?に??になっていった [4] 。790年にいったんはコンスタンティノスが??を掌握したものの、792年の ブルガリア 遠征の失敗などから人望を失った [4] 。797年、エイレ?ネ?は軍を動かしてコンスタンティノス6世を捕らえ、?子であるコンスタンティノスの目をくりぬいた上で追放し [注 1] 、同年8月にロ?マ皇帝史上初の女帝として?位した。しかし、この前例のない?位は帝?西方では僭?として認められず、 800年 には ロ?マ?皇 レオ3世 によって フランク王? の?王 カ?ル大帝 が、エイレ?ネ?に代わるコンスタンティノス6世の正統な後?者として ロ?マ皇帝 に戴冠された [5]

失脚 [ 編集 ]

ロ?マ皇帝として戴冠された カ?ル大帝 は、自らの??を認めるよう東ロ?マ帝?へ使節を送った。この交?でエイレ?ネ?は、自身の女帝?位について帝?西方での承認を取り付けるべく、自分とカ?ルとの結婚を提案した [6] 。ロ?マ帝?を統一するこの結婚にエイレ?ネ?は?り?であった [7] し、カ?ルの側でも提案を好意的に受け止めた [8] という。しかし、失政(詳しくは 政策 の項を?照)の?くエイレ?ネ?の求心力の低下とフランク人への反?によりエイレ?ネ?への反?勢力が?まり、 802年 10月31日にエイレ?ネ?は財務長官ニケフォロスの宮廷ク?デタ?によって?位された [7] [9] 。これにより、イサウリア朝は?絶した。こののち、ニケフォロスは ニケフォロス1世 として?位し [7] ニケフォロス朝 が始まった。

802年11月、エイレ?ネ?はレスボス島へ追放され、翌803年8月9日に死去した [7] [9] 。9世紀後半、エイレ?ネ?の遺骸は?代の皇帝の墓所とされている聖使徒??へと移された。こののち、ギリシア正?の聖人とされている [10]

政策 [ 編集 ]

?位の?緯や女性であることから、帝?西方において彼女の皇帝??は僭?として認められなかった。 ロ?マ?皇 レオ3世 は「コンスタンティノス6世の?位によって正統なロ?マ皇帝は絶えた」と解?し、エイレ?ネ?の?位を無?としてロ?マ皇帝は空位の?態にあるとみなした [5] 。そして、 800年 サン?ピエトロ大聖堂 での クリスマス ?ミサの際、 フランク王? の?王 カ?ル を「ロ?マ皇帝」として戴冠した [5] [注 2] 。これによって、ロ?マ皇帝の唯一の?承者としての東ロ?マ皇帝の威信は大きく傷つけられた [5]

また、彼女は帝?の西方に限らず東方においても必ずしも人望があるわけではなかった。地方の テマ は彼女を皇帝と認めず反?を起こし、皇帝直?の タグマタ ですら彼女には批判的であった。彼らはエイレ?ネ?の政策を?力で妨害し、彼女を?位したク?デタにも?加していた [11] 。エイレ?ネ?は人望を得るために大幅な減?政策を採用し、???修道院への援助、貧民への慈善事業などを行ったが、これにより帝?財政の破綻を招いた [5] 。さらにイコン破?派であった テマ の長官を?するなど、イコン破?派に?して徹底的な??を行なったため、帝?軍の弱?化を招いた。?位の翌年から始まった アッバ?ス朝 [注 3] 小アジア 侵攻を許すことになり、帝?領は次第に削られていった [5]

宗?政策 [ 編集 ]

シリア 出身のイサウリア王朝の諸帝は イコノクラスム を推し進めてきたが、かつての ギリシア古典文化 の中心地 アテネ の出身であったエイレ?ネ?はイコノクラスムに反?であり、夫を?柔して破?政策を緩和してきた。784年、 コンスタンティノポリス?主? パヴロス4世 が引退すると、エイレ?ネ?は後?として俗人で官吏であった タラシオス を次の?主?に据えた [12] 。タラシオスはロ?マ?皇の ハドリアヌス1世 と連絡を取り合い、787年の 第2ニカイア公?議 を開催した [12] 。この公?議ではタラシオスが進行役となり、イコノクラスムを根?付けた754年のヒエレイア???議の決議は無?とされ [注 4] 、イコノクラスムを異端として宣告、聖像崇敬は公式に認められることとなった [12] [13] 。これにより、エイレ?ネ?はイコンに描かれ、テオドルスにより作られた修道院などでは聖人として扱われている。

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ ロ?マ皇帝の?位の?件には「五??足でなければならない」という不文律があった。このため、二度と帝位に就けないように、失脚した皇帝の目を潰したり、鼻や耳などを削いでしまうという?酷な?罰が行なわれることがあった。なお、コンスタンティノスは、この傷がもとで同年8月15日に死亡したと?えられるが、一?では妻と都でひっそり暮らしたともされる。
  2. ^ 古代ロ?マ時代から女性がロ?マ皇帝になったことはなく、女帝は西方には認められていなかった。エイレ?ネ?もこれを意識しており、自らを「バシリサ(英語で言う"empress", 皇后あるいは女帝)」ではなく男性形で「 バシレウス (皇帝)」と名?った。また、カ?ル大帝とエイレ?ネ?の再婚話やカ?ルの娘とコンスタンティノス6世の婚約話もあったというが、いずれも?現せずに終わった。東ロ?マ帝?は?初カ?ルの皇帝?を容易に承認しようとはしなかったが、エイレ?ネ?死後の 812年 に?者の間で妥協が成立し、東ロ?マはカ?ルの帝位を認め、その代わりカ?ルは 南イタリア の一部と商業の盛んな ヴェネツィア を東ロ?マ領として?り渡すことを承認した。また、フランク王?と東ロ?マ帝?の?係が?化したとき、カ?ル大帝はハ?ル?ン?アッ=ラシ?ドと提携して?抗しようとしている。「 シャルルマ?ニュの護符 」はこのとき、ハ?ル?ン?アッ=ラシ?ドより贈られたものと言われる。
  3. ^ ?時は第5代 カリフ ハ?ル?ン?アッ=ラシ?ド の下で全盛期を迎えていた。
  4. ^ かつてはこのヒエレイア???議が第七回全地公?議であったが??により取り消され、第2ニカイア公?議が第七回全地公?議となった。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ a b c ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), 孤?から皇妃へ
  2. ^ a b ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), ?りの誓いによる結婚
  3. ^ a b c d ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), 病の夫
  4. ^ a b ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), 「ヘレナ」と「ヘロデ」の?力??
  5. ^ a b c d e f ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), ?車に?る女帝
  6. ^ リンダ?ガ?ランド『Byzantine Empresses: Women and Power in Byzantium AD 527-1204』 Routledge 、1999年
  7. ^ a b c d ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), 女帝エイレ?ネ?の最後
  8. ^ ??一夫 『時間の民族史―??改革とノルマン征服の神?』 勁草書房、2003年
  9. ^ a b ビザンツ年代記の編纂 , p.825
  10. ^ ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), ?力に溺れた聖人 ―エイレ?ネ?の時代
  11. ^ 『西洋史? No.174』日本西洋史??、1994年
  12. ^ a b c ギリシア正? 東方の智 , 第二章 ??分裂の始まり, ③ビザンツ帝?の危機から聖?像論?まで, 第七回全地公?議
  13. ^ ビザンツ皇妃列? , 4 エイレ?ネ? (七五二頃~八?三年), 新しい「ヘレナ」の誕生

?考書籍 [ 編集 ]

  • 井上浩一『ビザンツ皇妃列?―憧れの都に?いた花 (白水uブックス)』 白水社 、2009年。 ISBN   9784560721094  
  • 井上浩一 (1998). “ビザンツ年代記の編纂過程と史料的?値 : 皇妃コンク?ル記事を中心に”. 大阪市立大? 人文?究 (大阪市立大?文?部) 50 (11). NAID   110000125118 .  
  • 久松英二『ギリシア正? 東方の智 (講談社選書メチエ)』 講談社 、2012年。 ISBN   9784062585255