ウマイヤ?モスク
(
アラビア語
:
?????? ??????
,
ラテン文字??
:
al-J?mi? al-Umaw?
,
英
:
Umayyad Mosque
)は、
ダマスクス
の
?市街
にある世界で最も古い
イスラ?ム?
の
??所
のひとつ
[1]
[2]
。ダマスクスのマスジド?ジャ?ミイ(金曜モスク、大モスク)である。
ダマスクスは
エジプト
と
メソポタミア
を?ぐ通商路の途中にあって上古より都市が?え、非常に古い時代から雷神
ハダド
を祀る神殿があった。4世紀末に神殿があった聖所の上に
キリスト?
の
??
が建てられ、
634年のムスリムによるダマスクス征服
(
英語版
)
後、8世紀前半に、??がモスクに改?された。?くとも6世紀には
洗?者ヨハネ
の首がここにあると信じられており、??は
洗?者ヨハネ
に奉?されていた。ヨハネの首はモスク建設中に?際に?見されたとされる。
ムスリム
の間には、
世界の終末の日
における
救世主イエス
の
再臨
がウマイヤ?モスクにおいて?現するという信仰がある。
十字軍
の侵略の時代においては各地のムスリムを?ぐ結節点となり、
サラ?フッディ?ン?アイユ?ビ?
の?廟は、このモスクの北側の壁に付?した小さな庭の中にある。
イブン?タイミ?ヤ
の
ジハ?ド
論は13世紀に?モスクにおいて?かれた。
立地
[
編集
]
21世紀現在ウマイヤ?モスクが立地している場所は、
?器時代
から何らかの聖所であった可能性がある。ダマスクスが
アラム人
の
都市?家連合
(
英語版
)
の首都であった頃には、雷雨の神
ハダド
を祀る?い神殿があった。
ダマスクス?立博物館
(
英語版
)
には、アラム王
ハザエル
(
英語版
)
治世下の日付が刻印されているハダド神殿の一部を構成した石が保管されている
。
紀元前2世紀にシリアを支配した
セレウコス朝
の
アンティオコス4世エピファネス
は、旺盛な建築欲を持つと共に支配地域の
ヘレニズム化
に熱心に取り組んだ
。アンティオコスはハダドを、同?に天候を司る神格である
ゼウス
に習合した
。また、ハダド-ゼウス神殿から東に500メ?トルほどの場所に
アゴラ
を設置し、神殿とアゴラを直線道路で連結した
。紀元前1世紀にシリアを支配下に置いた
ロ?マ人
はこれを受け?ぎ、神殿を、ゼウスと同一視される
ユピテル
を祀るものとし
、その?張をダマスクス生まれの建築家
アポロド?ロス
に行わせた
。
ダマスクスのユピテル神殿は、
エルサレム
のユダヤ?徒の神殿に??するものになることが意識されていた
。ロ?マ時代の前半を通じて、ダマスクスのユピテル神殿は頻繁に改修が行われ、そのたびに高位神官が富裕な市民から奉?を集め、改修後の儀式を行った
。神殿の東門は、
セプティミウス?セウェルス
の在位年間(193年?211年)に?張された
。その後、紀元後4世紀ごろまでには、二重の壁が築かれる。外側の壁は?いエリアを町から?し、?側の壁はユピテルを祀る聖域本殿を外界から?した。大幅に?張されたダマスクスのユピテル神殿は、ロ?マ帝?
シリア?州
の中で最も大きい神殿になった
。
その後、神殿は
皇帝崇?儀?
の中心になった
。ロ?マ帝?にキリスト?が浸透する4世紀も終わりごろの391年になると、ロ?マ皇帝
テオドシウス1世
がユピテル神殿を
キリスト?
の
カテドラル
に改?した。もっとも、この改?により直ちに洗?者ヨハネへの奉?が行われたわけではなく、ダマスクスの司?座がここに置かれただけである
。ダマスクスの司?座??は、
アンティオキアの大司?座
(
英語版
)
の次席に位置づけられた
。洗?者ヨハネへの奉?が行われたのは6世紀、ヨハネの首がこの地に埋められているという??が生まれて以後のことになる
。
?史
[
編集
]
ウマイヤ?モスクの建設
[
編集
]
634年に
ハ?リド?ブン?ワリ?ド
率いる
アラブ?イスラ?ム?徒軍
(
英語版
)
がダマスクスの街を包?し、?落させる(
634年のダマスクス攻??
(
英語版
)
)。661年から
ウマイヤ家
の
ムア?ウィヤ
が第5代目の
カリフ
に就き、ダマスクスを
イスラ?ム帝?
全土を支配するための首都に選んだ。ムア?ウィヤは680年に亡くなるとき、
息子のヤズィ?ド
にカリフ位を?がせた。ムスリムの?意によって決められるはずのカリフが世襲されたことへの反?から
フィトナ
と呼ばれる??が?生する。同年、ウマイヤ家に反旗を?したとされる
フサイン
が
カルバラ?
で殺害され、フサインの一族の女性たちがフサインの首と共に拘引された先がダマスクスであった。フサインの首は、後にウマイヤ?モスクとなる聖ヨハネ??堂の東南角にあったムスリムの??所に?された
[14]
:313
。
706年にムア?ウィヤから?えて6代目のウマイヤ朝カリフ、
ワリ?ド?ブン?アブドゥルマリク(ワリ?ド1世)
(在位705?715年)は、ダマスクスにモスクを建てる計?を立てた
[15]
。ここでいう「モスク」は屋根のあるイスラ?ム?の??所のことである。簡易な??所
ムサッラ?
(
英語版
)
)なら、洗?者ヨハネ聖堂の中庭の南東部に設けられてはいた。ワリ?ドは自ら工事を監督し、カテドラルのほとんどを一旦?すことを指示した。新しく建設されたモスクは、カテドラルのレイアウトに連?しないものになった
[16]
。キリスト??であったときは矩形で仕切られた聖域?の中心にカテドラルが設けられていたのに?し、モスクへの改築後の主たる??空間は、南壁に面する位置に設けられることになった
[16]
。キリスト??のア?ケ?ドとそれを支える柱は、一旦取り外された後に再配置された。改築後の建物は、金曜日に市民が集?を開くための公共の施設となるように設計された。キリスト?徒は移?に反?したため、ワリ?ドは、移?する代わりに、ダマスクスの征服時に接?したキリスト??のすべてをキリスト?徒に返還するよう命じた。モスクの建物はワリ?ドが?した直後の西?715年、次代カリフの
スライマ?ン?イブン?アブドゥルマリク
(在位715?717)の時代に完成した。
[16]
10世紀の?史家
イブン?ファキ?フ?ハマダ?ニ?
によると、改築プロジェクトには60万から100万
ディ?ナ?ル金貨
が費やされ、?計12000人の??者の出身地は、西は
マグリブ
から東は
インド
までに及び、ペルシア人もいればギリシア人や
コプト?徒
の職人もいたという
。また、ビザンツ帝?の工芸職人が雇われたという(後期ロ?マ?式で風景や建物を描いた彼らの制作したモザイクは21世紀現在でも?っている)
[20]
[21]
。イブン?ファキ?フはこの記載に?けて「モスクを建てている期間のあるとき、??者らは、地下の洞窟のようになっている??所を?見した。中に入った彼らは、そこで
ヤフヤ??ブン?ザカリヤ?
(洗?者ヨハネ)の首が納められた箱を見つけた。報せを聞き?分したワリ?ド1世は、まだ??が大理石で覆われる前のモスクを支える柱のいずれかの下に首を埋め?すように命じた。」といった?容のことを書いている
[22]
。
アッバ?ス朝、ファ?ティマ朝の時代
[
編集
]
8世紀中葉、
アッバ?ス革命
により
イスラ?ム帝?
の支配?はウマイヤ家からアッバ?ス家へと移り、政治?軍事上の中心もダマスクスから
バグダ?ド
に移った。
アッバ?ス朝
の?代
カリフ
は、ウマイヤ?モスクをキリスト?に?するイスラ?ム?の勝利の象?と考えて取り?しこそしなかったが、ダマスクスにある他のウマイヤ家の文化的遺産同?、モスク?部にあったウマイヤ家を?える碑文や銘のたぐいの文言を差し替えたり取り除いたりした
。アッバ?ス朝期(8世紀から10世紀)のウマイヤ?モスクを知るための文?資料としては10世紀の地理?者
マクディスィ?(ムカッダスィ?)
(
アラビア語版
)
の地理書がある
。
アッバ?ス朝はダマスクスに?して軍事?商業上必要な?心を?う以上のことはしなかった。そのため、アッバ?ス朝期のウマイヤ?モスクは??的に余裕がなかったとみられ、?改築の規模は大きくない
。21世紀現在もモスク中庭の東側に建つクッバ?サ?ア(
al-Qubbat al-S?'at
, (
最後の審判
の)時のド?ム)と、同西側に建つクッバ?ハズナ(
al-Qubbat al-Khaznat
, ?のド?ム)は、それぞれ780年、789年にアッバ?ス朝のダマスクス太守
ファドル?ブン?サ?リフ?ブン?アリ?
(
英語版
)
により建てられた
。モスク中庭の北、中央に建つマァザナ?アラウス(
al-Ma'dhanat al-'Araws
, 花嫁の
ミナレット
)は、アッバ?ス朝のカリフ?
マアム?ン
(在位813-833年)が831年に建てさせた
。
シリア
におけるアッバ?ス家カリフの支配?制は、10世紀始めには崩?し、シリアはエジプトの軍閥(
トゥ?ル?ン朝
)が?質的に支配した。970年には
シ?ア派
を奉じるエジプトの
ファ?ティマ朝
がダマスクスを得た。この時代のダマスクスの統治者によるウマイヤ?モスクの改修は、ほとんど記?されてない。その一方で、ウマイヤ?モスクの威信は多くの
スンニ?派
ウラマ?
をダマスクスに惹き付け、ファ?ティマ朝の宗?的?威からある程度?立した地位を彼らに?えもしたので、ダマスクスはこの時代の
スンニ?派
ウラマ?
の知的生産活動の中心になった
。ウマイヤ?モスクの北側には
ベルベル人
を主?としたファ?ティマ朝軍の駐屯地があったが、1069年にダマスクスの人?が反?を起こし、駐屯地を襲った。その結果、モスク北側の壁を中心とした?範なブロックが破?された
。
セルジュ?ク朝、アイユ?ブ朝の時代
[
編集
]
スンナ派王朝であった
セルジュ?ク?トルコ
は1078年にダマスクスを手に入れ、アッバ?ス朝カリフの名目的な支配を回復した。セルジュ?ク王
トゥトゥシュ
(在位1079年-1095年)は1069年に破?されたモスクの補修を始めた
。1082年に宰相
アブ??ナスル?アフマド?ブン?ファドル
(
英語版
)
は中央ド?ムを補修し、さらに?麗にした
。ド?ムを支える2本の柱が?化され、北側の
ファサ?ド
の?側にあったウマイヤ朝時代のモザイクがまっさらに補修された。21世紀現在、モスク北側に存在する
リワ?ク
(
英語版
)
(
イスラ?ム建築
における
柱列廊
の1種)は、1089年に再建されたものである
。
セルジュ?ク朝からダマスクスの統治を委ねられた
アタベグ
の1人であった
トグテキン
(
英語版
)
(在位1104-1128年)は、1110年にモスクの北壁を補修し、壁に設けた出入り口2箇所の扉の上方に設置した銘板に、自らの名前を刻み?ませた
。1113年には、
モスル
のアタベグ、
マウドゥ?ド?ブン?トゥンテギン
(
アラビア語版
)
(在位1109-1113年)がウマイヤ?モスクの中で暗殺されるという事件が起きた
。
ダマスクスには世界に比類なきモスクがある。その均整美、建築の確かさ、高いド?ムの安全さ、建築要素の配置の見事さは、世界のどこにもないものである。琺瑯びきタイルと?磨した大理石を使った豪華なモザイク?飾は、まったく?嘆すべきものである。
“
”
イドリ?スィ?
, 1154年
12世紀中葉になるとダマスクスは
十字軍?家
との間の??が激しくなった。ダマスクスの防衛と
エルサレム
の奪還を諸?のムスリムに呼びかける使者は必ずウマイヤ?モスクに立ち寄った。
イブン?アサ?キル
(
英語版
)
をはじめとしたウマイヤ?モスクの導師(
イマ?ム
)は
ジハ?ド
を?き、?際に1148年に十字軍がダマスクスに進軍した際は町の人?が集まってイマ?ムの??に耳を傾けた。ウマイヤ?モスクに集まった町の人?の抵抗にあい、十字軍は町の占領を最終的に諦めた
。
1154年からダマスクスは
ヌ?ルッディ?ン?ザンギ?
の支配下に入り、ヌ?ルッディ?ンの個人的命令によりウマイヤ?モスクの東門(バ?ブ?ジャイル?ン)の外側に「
ジャイル?ンの水時計
(
英語版
)
」という新たな記念碑的時計が建てられた
。水時計の設計者はムハンマド?サア?ティ?(Muhammad al-Sa'?ti)という建築家である。水時計は1167年に一度?失したのち、13世紀に入ってから、サア?ティ?の息子、リドワ?ンの手により再建され、14世紀までは存在したようである
。シチリアの地理?者
イドリ?スィ?
は1154年にウマイヤ?モスクを訪れた
。
ダマスクスの新しい統治者となった
アイユ?ブ朝
は、街にいくつかの宗?施設を新設したが、ウマイヤ?モスクは街の信仰生活の中心としての地位を保った。?時イスラ?ム世界を旅して回った
イブン?ジュバイル
は、ウマイヤ?モスクに複?の異なる
ザ?ウィヤ
(
クルア?ン
?習のための道場)が敷設されているさまを旅行記に書いている。1173年にモスクの北壁が再度出火により損傷したので、
スルタ?ン
?
サラ?フッディ?ン?アイユ?ビ?
(在位1174-1193年)はこれを修復した
。「花嫁のミナレット」も1069年の火事で?失していたため
、スルタ?ンは北壁の修復と同時に「花嫁のミナレット」も補修した
。サラ?フッディ?ンはウマイヤ?モスクの周?に埋葬され、彼の後?者たちの多くもこれに倣った
。
その後、アイユ?ブ朝の?紛でダマスクスは大きな損害をこうむり、1245年にはモスク東側に立っていた「預言者イ?サ?のミナレット」が倒れた。?時ダマスクスの
アミ?ル
は
マリク?サ?リフ?イスマ?イ?ル?ブン?ア?ディル
(
英語版
)
であったが、これを
マリク?サ?リフ?アイユ?ブ
が攻めた。「預言者イ?サ?のミナレット」はこのとき行われたダマスクスの包??で倒れ
、後年、再建されたものの?飾はあまり多くなされなかった
。
マムル?ク朝の時代
[
編集
]
アイユ?ブ朝の勢力下にあったダマスクスの町は、1260年から、十字軍?家と同盟を結んだ
キト?ブカ
率いるモンゴル勢の支配下に入った。占領を指揮した
アンティオキア王ボエモン6世
(
英語版
)
は、ウマイヤ?モスクで
カトリック
式の
ミサ
を執り行うよう命じられた。
。ダマスクスは1260年中に、
クトゥズ
や
バイバルス
率いるエジプトの
マムル?ク
軍人勢力が奪還した。1270年にはスルタ?ンになったバイバルスがウマイヤ?モスクの大規模修理を命じ、大理石やモザイク、金箔が補?されることになった。
イブン?シャッダ?ド
(
英語版
)
のバイバルスの?記によると、修理には2万
ディ?ナ?ル
の費用がかかったという。修復されたモザイクの中でひときわ大きい「
バラダ?川
のパネル」は、34.5×7.3m の大きさがあり、モスク西側の柱列廊を飾る
。バイバルスの事業の主要な目的は、モスクを?飾するモザイクの補修にあり、補修されたモザイクには
マムル?ク朝建築
の影響が色濃く反映された
。
1285年に?時を代表する
ウラマ?
の1人であった
イブン?タイミ?ヤ
が、ウマイヤ?モスクで聖典『
クルア?ン
』の解?を講義し始めた。1300年には
イルハン朝
の
ガザン?ハン
率いるモンゴル軍がダマスクスを?れた。イブン?タイミ?ヤはダマスクス市民に「
ジハ?ド
」、すなわち、各人が分を?くして抵抗すべきことを?いた
。マムル?ク朝の
カラ?ウ?ン
が街を奪還したが、エジプト軍がダマスクスに突入する際、モンゴル軍はウマイヤ?モスクに
投石機
を配備して??しようとした。エジプト軍が
ダマスクス城
(
英語版
)
の周りに火矢を放って投石機を燃やし、モンゴル軍の試みは失敗した
。
マムル?ク朝のシリア太守、
タンキ?ズ
(
英語版
)
は1326年から1328年にかけて、ウマイヤ?モスクの修復を?行した。この修復で
ミフラ?ブ
のモザイクが元通りにされたほか、堂?がすべて大理石のタイルで覆われるようになった。1328年の大改修をタンキ?ズに命じたのはスルタ?ンの
ナ?スィル?ムハンマド
である。スルタ?ンは、
キブラ
の方角にあたる南壁が不安定であったので、これを取り除いて立て直すこととしたほか、ズィヤ?ダ門をもっと東の位置に再配置した
。ところが、このときに大改修を受けた建築や造作の多くが、1339年の火事で損傷した
。なお、1392年にイ?サ?のミナレットが火事で?け落ちた
。
14, 15世紀のウマイヤ?モスクは
イスラ?ム?
の天文?に?する?術センタ?でもあった
[46]
。
マムル?ク
騎士たちの時代に入ると、モスクから街の人?に
??(サラ?ト)
への?加を呼びかける時刻を天文?測により正確に計るムワッキトという新しい職業が現れた
[46]
。ウマイヤ?モスクには
イブン?サッラ?ジ
(
アラビア語版
)
、
イブン?シャ?ティル
、
ハリ?リ?
(
英語版
)
といった天文?者がムワッキトとして集まり、盛んに太陽や星の位置を?測し、?測器械を改良し、新理論を案出した
[47]
。彼ら「ダマスクス?派」の著作はその後?百年間トルコ、シリア、エジプトで?照され、その天文知はヨ?ロッパにまで?播したであろうことが推定されている
[48]
。ウマイヤ?モスクの「花嫁のミナレット」には
イブン?シャ?ティル
が1371年に設置した
日時計
があり、?時の?測技術の水準を推し量ることのできる物的??になっている
[48]
。
1400年に
ティム?ル
がダマスクスを包?し、3月17日には町に火を放つ命令を下した。ウマイヤ?モスクはこのときの?火によりひどく損傷した。
イブン?ハルドゥ?ン
が?えるところによると東のミナレットが破?により瓦礫と化し、中央のクッバが崩落した
[49]
。
バフリ??マムル?ク朝
ほどウマイヤ?モスクの保守、修理、補修に意を注いだ王朝はほかにない。
イスラ?ム建築
の?門家、Finbarr B. Flood は、同王朝がこのモスクに「?迫?念症的?心」を持っていたと表現する
。1488年にバフリ??マムル?ク朝のスルタ?ン?
カ?イトベイ
はウマイヤ?モスクの南西端に新しくミナレットを建てさせた
[51]
。
オスマン朝の時代
[
編集
]
1516年に
セリム1世
が率いる
オスマン帝?
軍はエジプトのマムル?ク朝とシャ?ム地方北部の
マルジュ?ダ?ビクで?い
、これに勝利してダマスクスを得た。ウマイヤ?モスクにおいて、セリム1世の名前とともに執り行われる
金曜??
の第1回目は、スルタ?ン自身が出座した
[注? 1]
[53]
。
オスマン帝?は
ワクフ
と呼ばれる寄進制度を、支配地の地元住民の心を中央の?威に惹きつけるために利用する。ウマイヤ?モスクに設定されたワクフはダマスクスの街で最大規模になり、596人を雇用した。ワクフの監督官のポストは帝?中?から派遣される官僚のものであったが、宗?がらみの役職はほとんどが地元の
ウラマ?
たちのためにとっておかれた
[54]
。ワクフ財には課?されるのが通例であるが、ウマイヤ?モスクに設定されたワクフには課?がなされなかった
。1518年からダマスクス?督とウマイヤ?モスク?ワクフ監督官に任命された
ジャ?ンビルディ??ガザ?リ?
(
英語版
)
は街全?の再建を計?し、その一環としてモスクの修理と再?飾を命じた
。
1661年になると、ウマイヤ?モスクでは、著名なス?フィ?の1人であった
アブドゥルガニ??ナ?ブルスィ?
(
英語版
)
が、多くの弟子を導き始めた
[57]
。
近現代
[
編集
]
1893年にウマイヤ?モスクで火災が?生し、?い面積のモザイクと大理石が大きく損傷した
[58]
。火は??用の大?間の??にも燃え?がり、中央クッバが?け落ちた。オスマン帝?はモスクの修復を開始したが、修復作業中にも火事が起きた。工事の人足が吸っていた
水煙草
の火の不始末が原因だった。オスマン帝?はウマイヤ?モスクの元?の構造を最大限生かしながら、最後まで補修工事をやり遂げた
[59]
。
ウマイヤ?モスクの?書室には「クッバ?ハズナ?書」が非常に昔からあったが
[60]
、1899年にその大部分がドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に?渡され、?された少?の?書がダマスクスの帝?ア?カイヴに移された
[61]
。
ウマイヤ?モスクは、フランス委任統治領シリア時代の1929年から1954年にかけて大規模補修が行われ、シリア共和?の時代の1963年にも一度、大規模補修が行われた
[62]
。1980年代から1990年代にかけて、
ハ?フィズ?アサド
はモスクの大規模改?を命じたが
ユネスコ
から批判を受けた
[63]
。ウマイヤ?モスクは世界の?史?文化的?点からはどうであれ、シリアにおいてはさまざまな象?的意味合いを持つ建物であり、その象?性を時の政?が利用する方向に補修や改修が行われるのが常である
[64]
。2001年には
ロ?マ?カトリック??
の
法王
ヨハネ?パウロ2世
がウマイヤ?モスクを訪れた。名目上は洗?者ヨハネの聖遺物への??が目的とされたが「ロ?マ?カトリック??の法王が?史上始めてイスラ?ム?のモスクを訪れた」ことに象?的意義を含ませることを意?した訪問であった
[65]
。2011年3月15日に
シリア??
に?連した大規模な民主化要求デモがウマイヤ?モスクで行われたが、政府軍がすぐさま??し、金曜??の妨げになるからという理由でデモ隊を排除した
[66]
[67]
。
建築
[
編集
]
敷地と構成
[
編集
]
ウマイヤ?モスクは幅156メ?トル、?行き97メ?トルの長方形の敷地を持つ。この敷地は?に述べた通り、?か古代からハダド、ユピテルの神殿、そしてキリスト?の聖堂が置かれていた場所であった。
ダマスクス
はメッカの北にある都市のため、
メッカ
の方角へ向けて行われる
サラ?ト
(??)のために、建築複合?の南エリアに「
ハラム
(
英語版
)
」と呼ばれる??空間が配置され、北エリアには「
サフン
(
英語版
)
」と呼ばれる
中庭
が置かれた。
ウマイヤ?モスク全?の特?の1つは、この建造物が明確な正面(
ファサ?ド
)を持たないことであり、またその巨大な規模にもかかわらず、建物全?の外?も外部から見ることができるようになっていない。記念性の?い外?を保持しない一方、ハラム(??室)とサフン(中庭)からなる?部空間には華麗な?飾が行われ、中庭に向けて開口したハラムの入口が建物にとっての?質的な?のファサ?ドを?っている。建物の外?ではなく、ハラムとサフンを中心とする建物の?側を中核としたこうしたウマイヤ?モスクの空間構成は、モスク建築と
イスラ?ム芸術
の1つの性格を表している
。アンリ?スチ?ルランは全?の構成について以下のように評する。
華美さはことごとく??室(ハラム)や中庭の?部空間に置かれている。そして?の正面、中央の3連の入口の上に高い破風を戴く??室のファサ?ドは、この中庭に面しているのである。けれども、頂部まで豊かにモザイクで飾られたこのハラムの北正面は、外部から見ることができない。私たちの前にあるのは、もっぱら求心的な空間であって、モスクは?部において「??」されねばならないのである。一方は開き(中庭)、他方は閉じ(ハラム)、異質でありながら相補的な二つの空間が構成する境?の中庭において
。
中庭
[
編集
]
幅136メ?トル、?行58メ?トルの大きさを持つ?大なサフンは石で??されている。??面は本?、高さが均一であったが、モスクの長い補修と?築の?史の末に段差が?生するようになっていたところ、近年の補修によりウマイヤ朝時代の高さに再現された。サフンの周りは三方を「
リワ?ク
(
英語版
)
」と呼ばれる
列柱廊(ア?ケ?ド)
で?まれている。このリワ?クは下層の大ア?チの上にそれぞれ1?の小ア?チが?るという2層構成の列柱でできている
。中庭の側面(東?西)にはこのモスクに入るための2つの入口がある
。
ウマイヤ?モスクのリワ?クは
1759年の地震
(
英語版
)
で一度全?している。
[71]
??空間
[
編集
]
ウマイヤ?モスクのハラム(??用?間)の?部空間(左)と初期キリスト?建築の
バシリカ
の例(右、イタリア、
ラヴェンナ
の
サンタポリナ?レ?ヌオヴォ聖堂
)。ハラムにある?部の建造物は
洗?者聖ヨハネ
の首が納められていると信じられているほこら。ハラムの持つ?像?方向(東西)に伸びる身廊であるように見える視??果は、?究者たちにウマイヤ?モスクのハラムがキリスト?の??を?用したものである可能性を想像させた。
ダマスクスから見て南にあるメッカへ向けてサラ?ト(??)を行うため、ハラム(??室)は建物の南に配置された。ハラムの南面にはメッカの方角「
キブラ
」を示す「キブラ壁」があり、それと?行に3列のリワ?クが走っている。リワ?クはいずれも上下2層構造で、コリントス型円柱により持ち上げられた下層のア?チ1つあたり、2つのア?チが上層に配置される。このパタ?ンは上述したサフンのリワ?クと同じである。キブラ壁と?行の3列のリワ?クは、ハラムの中央からキブラと直交する方向に走る、ハラムで最大の2列のリワ?クと交差する。?該リワ?クの間(すなわちキブラ壁の中央)に、モスクの主
ミフラ?ブ
(キブラを示す
壁龕
)や
ミンバル
(
ムフティ?
が??する??壇)が配置されている
[71]
。
主ミフラ?ブを含めミフラ?ブは4箇所にあるが、副ミフラ?ブのうち東側にあるものは「
サハ?バ
のミフラ?ブ」と呼ばれる。9世紀の?者、
ム?サ??ブン?シャ?キル
(
英語版
)
によると、サハ?バのミフラ?ブはウマイヤ?モスクが建設された?初からこの位置にあり、イスラ?ムの?史の中で3番目に古いミフラ?ブである
[15]
。
ハラム全?の?さは東西136メ?トル、南北37メ?トルである
[15]
。この東西方向に極めて長い室?空間は、メッカがある南向きに幅?の空間として計?されているにもかかわらず、?方向(東西方向)の身廊として見えてしまうという錯?をもたらしている。このため、ウマイヤ?モスクの?究を行った初期の?門家はハラムの?部をリワ?クによって?切られた東西方向の袖廊と翼廊として語るという誤りを犯している
。そして、このような?長に見える?部空間は初期キリスト?建築の
バシリカ
を?く連想させるものであった。このキリスト?の??堂のように東西方向に建物の軸線が通っているかに見えてしまう視??果のために、ウマイヤ?モスクのハラムは?史家や考古?者によって、幾度となく「ワリ?ド?ブン?アブドゥルマリク(ワリ?ド1世)によって奪われたビザンティンの??堂そのものである」と論じられることになった
。?際には元?あったキリスト?の聖堂は一度解?されており、こうした主張は正しくないが、リワ?クに使われている列柱を始め、元のキリスト?の聖堂(洗?者ヨハネ??)から大きな影響を受けていることも事?である
。アンリ?スチ?ルランはハラム?部(および中庭)のリワ?クに用いられている円柱は、元?はユピテル神殿に?しており、洗?者聖ヨハネ??に?用されていたものを更に再利用したものであることはほぼ確?であるという。そして、モスクへの建て替え時に元?存在したア?ケ?ドの部材を有?に再利用しようとしたことが、ウマイヤ?モスクの全?設計とハラムの形?に大きな影響を?えたと推測している
。
穹?
[
編集
]
??用の大?間の天井に配置されたウマイヤ?モスクで最大のクッバ(
ド?ム
、穹?)は、外から見ると鷲の頭に見え、大?間の東西の?が鷲の?げた羽のように見えるので、「鷲のクッバ」(Qubbat an-Nisr)と呼ばれている
[75]
。「鷲のクッバ」は元?、木製であったが、1893年の火事で?け落ちた後は石造になった
[75]
。21世紀現在のクッバの高さは36メ?トルあり、八角形の基部の上にド?ム構造?が?る構成である。八角形の基部の各?にはア?チが形成され、ア?チの中に窓が2つ設けられている。基部は大?間から伸びる円柱(リワ?クの一部)により支えられている
[71]
。
尖塔
[
編集
]
ウマイヤ?モスクの宗?複合は、3基の
ミナレット
を有する。モスク北壁に位置する「花嫁のミナレット」(
Madhanat al-Arus
)は、正確な建築年代は不明であるものの、?モスクで最も古くに建てられたものである
。花嫁のミナレットの下層部は、9世紀、アッバ?ス朝の時代に建てられたという?が有力である
[76]
。ウマイヤ朝時代に建てられた可能性も完全に否定はできないが、モスク北壁がワリ?ド1世の最初の構想に含まれていたことを示す??が存在せず、アッバ?ス朝時代の985年に花嫁のミナレットを訪れたムカッダスィ?の地理書には、これが「最近建てられたものである」という記載がある
。花嫁のミナレットの上層部は1174年に建てられた
。花嫁のミナレットには螺旋?に設置された160段の石の階段があり、
ムアッズィン
はこれを使って街の人?へ
アザ?ン
(??の呼びかけ)を朗誦するための場所に上った
[77]
。
左から順に
- 花嫁のミナレット
- 預言者イ?サ?のミナレット
- カ?イト?ベイのミナレット
花嫁のミナレットは鉛で葺いた屋根が設置されている部分を境に、上下2層に分かれる。下層の主塔部は古く、方形をしていて、四方に側廊を有する
[77]
。 主塔部は大型の石材より新しい上層の尖塔部は化粧石で建てられている。主塔部は屋根近くに、馬蹄形ア?チにより構成された明かり取り用の開口部が複?ある。隣接する2つの馬蹄形ア?チの間、各ア?チを支える部分には略立方?の柱頭飾が置かれている。これら開口部の下には馬蹄形ア?チより小型の?曲した張り出しがあり、開口部の
持ち送り積み
を可能にしている
[78]
。「花嫁のミナレット」の名は、このミナレットの屋根を葺くのに使用した鉛を調達した商人の娘が、?時のシャ?ム地方の?督と結婚したというダマスクスに?わる??に基づく。花嫁のミナレットには14世紀の
イブン?シャ?ティル
が設計した日時計が取り付けられている。ただし現在の日時計は18世紀に制作されたレプリカである
[76]
。
ウマイヤ?モスクの宗?複合の南東角に位置する「預言者イ?サ?のミナレット」は、高さが約77メ?トルあり、3基のミナレットの中で最も高い
[79]
[80]
。預言者イ?サ?のミナレットの原型となる塔の建設はアッバ?ス朝時代の9世紀にまで遡るとする史料が複?存在するが
[76]
、ウマイヤ朝時代には?にあったとする史料もある。今ある預言者イ?サ?のミナレットの主構造?はアイユ?ブ朝時代の1247年、尖塔部はオスマン帝?時代に建設された
[80]
。主構造?のプランは四角形であるが、尖塔部分は八角形、上に行くほど次第に細くなり、先端に三日月の飾られている。壁で閉じた2列のリワ?ク(柱列廊)が主構造?に接?し、壁のない、同じく2列のリワ?クが尖塔部分に接?する
[77]
。ムスリムの信じる終末論では、審判のその日に預言者イ?サ?が反救世主に立ち向かうため天?から地上に降り立つ。イ?サ?はこのミナレットを目印に地上に降りてくるというのが地元ダマスクスの?承であり、このミナレットの名?のいわれである
[80]
。この?承と名?の由?は14世紀には?に定着しており、
イブン?カスィ?ル?ディマシュキ?
(
英語版
)
が著書でそのことを書いている
[81]
。
「カ?イトベイのミナレット」とも呼ばれる「西のミナレット」は、マムル?ク朝のスルタ?ン?
カ?イトベイ
が1488年に建設した
[76]
。西のミナレットには、マムル?ク朝期に典型的なイスラ?ム期エジプト建築の影響がよく見てとれる
[80]
。西のミナレットは八角柱形?をしており、三重列柱廊の西の端に建てられている
[77]
。西のミナレットとイ?サ?のミナレットが古代ロ?マ時代の神殿
テメノス (神殿)
(
英語版
)
の基礎の上に建っているという俗?があるが、?際にそれらの場所に神殿が存在しなかったため?術的には疑わしい
[80]
。
?飾
[
編集
]
中庭南側中央部からハラムへの入口を飾るモザイク(左)。中庭西側柱列廊?の「バラダ?川のパネル」と呼ばれるモザイク(中)、その一部の複製(右)。
ウマイヤ?モスク全?はもともと、中庭の周?もハラム全?も、人の背丈ほどの高さまである
大理石
の台座がめぐらされていた。これは
コンスタンティノ?プル
にある
アヤ?ソフィア
に類似したもので、その大理石面の上層にある壁とア?ケ?ドはくまなくモザイクで飾られた。
イブン?バットゥ?タ
はウマイヤ?モスクで1,200人ものギリシャ(ビザンツ帝?)の工匠が?いていたと語る。?際にこれらのモザイク?飾は非常にビザンティン的であり、コンスタンティノ?プルや
ラヴェンナ
で開花した初期キリスト?建築と共通する技法が使用されている
。一方で、こうしたビザンティンの?飾と決定的に異なるのは偶像崇?を忌避するイスラ?ムの信仰を反映して、人間の姿が全く描かれていないことである
。
中庭西側柱列廊?の「バラダ?川のパネル」と呼ばれるモザイク壁?は、こうしたウマイヤ?モスクのモザイク?飾の代表的な作品である
[84]
。「バラダ?川のパネル」は、高さ7メ?トル幅34.5メ?トルの大きさ、テッセラ(細片)ガラスを漆?に埋め?む手法により作成されている
[84]
。8世紀?時、ガラスは高度な技術を必要とする上、??集約性が高く、?石に次いで高?な?飾素材であった
[84]
。パネル制作者は、高?であってもガラスを用いることで自然光やロ?ソク、ランプの明かりにより壁?が輝いて見える?果を意?した
[84]
。「バラダ?川のパネル」は
オスマン帝?領
(
英語版
)
時代末期から
フランス委任統治
にかけてフランスの主導により保全が行われた
[85]
。このとき制作された精巧な複製が
ル?ヴル
の
イスラ?ム美術部門
(
フランス語版
)
に所?されている
[85]
。
ウマイヤ?モスクが?えた文化的影響
[
編集
]
最初期のモスク建築の1つであるウマイヤ?モスクは、ウマイヤ家を想起させるようなものこそ取り除かれてはいるが、それでも、8世紀始めごろの建築?初の構造と特?が21世紀現在でもおおむね保たれた希少な建築例である。ウマイヤ?モスクは、その建設以?、シリア地方のみならず全世界的に、金曜??モスク(ジャ?ミイ)の模範例とされてきた。美術史?者のFinnbar Barry Floodは、「ダマスクスの大モスクの建設は、ムスリムのヘゲモニ?が確立されたことを街の景?に不可逆的に刻み?んだのみならず、以後の?史においてシリア風モスクに「モスク建築の決定版」のような地位を?えることにもなった」と述べている
[86]
。ウマイヤ?モスクの
全?構想
は、世界中の大モスクのプロトタイプになっており、例えば、
カイロ
では
アズハル?モスク
(
英語版
)
と
ザ?ヒル?バイバルス?モスク
(
英語版
)
に模倣されている。スペインでは
コルドバの大モスク(聖マリア大聖堂)
、トルコでは
ブルサの金曜モスク
(
英語版
)
と
セリミエ?モスク
の全?構想にウマイヤ?モスクからの影響を確認できる
[87]
。
注?
[
編集
]
- ^
金曜??における??は時の?政者の名前に言及し、イスラ?ム共同?の指導者が誰なのかを街のコミュニティで確認する意味合いがある。
出典
[
編集
]
- ^
Hitti, 2002, p. 514.
- ^
Braswell, 1995, p. 26.
- ^
Qummi, Shaykh Abbas (2005).
Nafasul Mahm?m, Relating to the heart rending tragedy of Karbala‘
. Qum: Ansariyan Publications
.
https://www.al-islam.org/nafasul-mahmum-relating-heart-rending-tragedy-karbala-shaykh-abbas-qummi
2018年9月14日
??。
- ^
a
b
c
Grafman, Rafi; Rosen-Ayalon, Myriam (1999). “The Two Great Syrian Umayyad Mosques: Jerusalem and Damascus”.
Muqarnas
(Boston: BRILL)
16
: 1?15.
doi
:
10.2307/1523262
.
- ^
a
b
c
Takeo Kamiya (2004年). “
Umayyad Mosque in Damascus, Syria
”.
Eurasia News
.
2015年12月31日
??。
- ^
Rosenwein, Barbara H.
A short history of the Middle Ages.
University of Toronto Press, 2014. p. 56
- ^
Kleiner, Fred.
Gardner's Art through the Ages, Vol. I
Cengage Learning, 2013. p. 264
- ^
le Strange, 1890, pp.
p.233
?
p.234
- ^
a
b
King, David A. (1983). “The Astronomy of the Mamluks”.
Isis
74
(4): 531?555 [545?546].
doi
:
10.1086/353360
.
- ^
Charette, Francois (2003),
Mathematical instrumentation in fourteenth-century Egypt and Syria: the illustrated treatise of Najm al-D?n al-M??r?
, BRILL,
ISBN
978-90-04-13015-9
,
https://books.google.com/books?id=dgQNMNJe6B4C&dq=Ibn+al-Shatir+umayyad
p.16
- ^
a
b
King, David K. (1997).
"Ibn al-Sh??ir"
. In Selin, Helaine (ed.).
Encyclopaedia of the History of Science, Technology, and Medicine in Non-Western Cultures
. Springer.
ISBN
978-0-7923-4066-9
。
- ^
Ibn Khaldun; Fischel, 1952, p.97.
- ^
Ring, Salkin, La Boda, p.208.
- ^
Finkel, p.109.
- ^
Kafescio?lu, 1999, p.78.
- ^
Dumper and Stanley, p.123.
- ^
Christian C. Sahner (2010年7月17日). “
A Glittering Crossroads
”.
The Wall Street Journal
.
2011年2月27日
??。
- ^
Darke, p.90.
- ^
M. Lesley Wilkins (1994),
“Islamic Libraries to 1920”
,
Encyclopedia of library history
, New York: Garland Pub.,
ISBN
0824057872
, 0824057872
,
https://openlibrary.org/books/OL1397830M/Encyclopedia_of_library_history
- ^
Christof Galli (2001),
“Middle Eastern Libraries”
,
International Dictionary of Library Histories
, Chicago: Fitzroy Dearborn Publishers,
ISBN
1579582443
, 1579582443
,
https://openlibrary.org/books/OL3623623M/International_dictionary_of_library_histories
- ^
Darke, p.91.
- ^
Cooke, p.12.
- ^
Rudolff, 2006, p.194.
- ^
“Inside the Umayyad mosque”
.
BBC News
. (2001年5月6日)
.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/1315190.stm
2010年5月26日
??。
- ^
Protesters stage rare demo in Syria
.
Al-Jazeera English
. 2011-03-15.
Al-Jazeera
.
- ^
Syria unrest: New protests erupt across country
.
BBC News
. 2011-04-01.
- ^
a
b
c
Umayyad Mosque Profile
. Archnet Digitial Library.
- ^
a
b
Darke, p.94.
- ^
a
b
c
d
Darke, p.92.
- ^
a
b
c
d
American architect and architecture, 1894, p.58.
- ^
Rivoira, 1918, p.92.
- ^
Palestine Exploration Fund, p.292.
- ^
a
b
c
d
e
Mannheim, 2001, p.91.
- ^
Kamal al-Din, 2002, p.102.
- ^
a
b
c
d
“
How was the image made? -- Material Culture Q and A.
”. A project of the Center for History and New Media, George Mason University.
2018年12月25日
??。
- ^
a
b
“
Releves des mosaiques de la Grande mosquee de Damas (705-715)
”. Site officiel du musee du Louvre.
2018年12月25日
??。
; Fehmi Kabbani, Kamal Kallas et Nazmi Khair,
Releve des decors de mosaique de la mosquee de Damas
, Damas, 1929, aquarelle et or sur papier maroufle, sur papier secondaire puis sur toile, inventaires MAO 2074 a 2078, MAO 2092 et 2093, MAO 2096 et 2097.
- ^
Rudolff, 2006, p.214.
- ^
Rudolff, 2006, pp.214-215.
?考文?
[
編集
]
-
American architect and architecture
, J. R. Osgood & Co, (1894)
,
https://books.google.com/books?id=tuMxAQAAIAAJ&pg=PA58&dq=roof+minaret+bride#v=onepage&q=roof%20minaret%20bride&f=false
.
- Bowersock, Glen Warren; Brown, Peter Lamont (2001).
Interpreting late antiquity: essays on the postclassical world
. Harvard University Press.
ISBN
0-674-00598-8
.
https://books.google.com/books?id=qrnDF_BuCvgC&pg=PA193&dq=Bowersock+Brown#v=onepage&q&f=false
- Burns, Ross (2005).
Damascus: A History
. Cities of the Ancient World Series. Psychology Press.
ISBN
9780415271059
.
https://books.google.co.jp/books?id=SVR2cjWptCAC
- Calcani, Giuliana; Abdulkarim, Maamoun (2003).
Apollodorus of Damascus and Trajan's Column: from tradition to project
. L'Erma di Bretschneider.
ISBN
88-8265-233-5
.
https://books.google.com/books?id=wuT0eAOeX5wC&pg=PA28&dq=Jupiter+temple+Damascus#v=onepage&q=Jupiter%20temple%20Damascus&f=false
- Dumper, Michael; Stanley, Bruce E. (2007).
Cities of the Middle East and North Africa: A Historical Encyclopedia
. ABC-CLIO.
ISBN
1-57607-919-8
.
https://books.google.com/books?id=3SapTk5iGDkC&pg=PA122&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman#v=onepage&q=Umayyad%20Mosque%20Ottoman&f=false
- Finkel, Caroline (2005),
Osman's dream: the story of the Ottoman Empire, 1300-1923
, Basic Books,
ISBN
0-465-02396-7
,
https://books.google.com/books?id=9cTHyUQoTyUC&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman+1516
.
- Flood, Finbarr Barry (2001).
The Great Mosque of Damascus: studies on the makings of an Umayyad visual culture
. Boston: BRILL.
ISBN
90-04-11638-9
.
https://books.google.com/books?id=r5f8kxIyykQC&dq=Umayyad+Mosque
- Flood, Finbarr Barry (1997). “Umayyad Survivals and Mamluk Revivals: Qalawunid Architecture and the Great Mosque of Damascus”.
Muqarnas
(Boston: BRILL)
14
: 57?79.
doi
:
10.2307/1523236
.
- Grafman, Rafi; Rosen-Ayalon, Myriam (1999). “The Two Great Syrian Umayyad Mosques: Jerusalem and Damascus”.
Muqarnas
(Boston: BRILL)
16
: 1?15.
doi
:
10.2307/1523262
.
- Hitti, Phillip K.
(October 2002).
History of Syria: Including Lebanon and Palestine
. Piscataway, NJ: Gorgias Press LLC.
ISBN
978-1-931956-60-4
.
https://books.google.com/books?id=hDQqzz-tLgUC&pg=PA514
- le Strange, Guy (1890),
Palestine Under the Moslems: A Description of Syria and the Holy Land from A.D. 650 to 1500
, Committee of the
Palestine Exploration Fund
,
https://archive.org/details/palestineundermo00lestuoft
(
Ibn Jubayr
:
p.240
ff)
- Ibn ?a?r?, Mu?ammad ibn Mu?ammad (1963). William M. Brinner. ed.
A chronicle of Damascus, 1389-1397
. University of California Press
.
https://books.google.com/books?id=GsMMDmnmVaEC&pg=PA156&dq=Umayyad+Mosque+fire#v=onepage&q=Umayyad%20Mosque%20fire&f=false
- Ibn Khald?n; Fischel, Walter Joseph (1952).
Ibn Khald?n and Tamerlane: their historic meeting in Damascus, 1401 a.d. (803 a. h.) A study based on Arabic manuscripts of Ibn Khald?n's "Autobiography"
. University of California Press
.
https://books.google.com/books?id=PB9tAAAAMAAJ&q=inauthor:%22Ibn+Khald%C5%ABn%22&dq=inauthor:%22Ibn+Khald%C5%ABn%22
- Kafescio?lu, Ci?dem (1999). “"In The Image of R?m": Ottoman Architectural Patronage in Sixteenth-Century Aleppo and Damascus”.
Muqarnas
(BRILL)
16
: 70?96.
doi
:
10.2307/1523266
.
- Kamal al-Din, Nuha;
Ibn Kathir
(2002).
The Islamic view of Jesus
. Islamic Books.
ISBN
977-6005-08-X
.
https://books.google.com/books?id=dA2FnCiKtDAC&pg=PA102&dq=Minaret+Jesus+Umayyad#v=onepage&q=Minaret%20Jesus%20Umayyad&f=false
- Palestine Exploration Fund (1897),
Quarterly statement
, Published at the Fund's Office
,
https://books.google.com/books?id=jXwUAAAAYAAJ&pg=PA292&dq=roof+minaret+bride#v=onepage&q=roof%20minaret%20bride&f=false
.
- Ring, Trudy; Salkin, Robert M.; Schellinger, Paul E. (1994),
International Dictionary of Historic Places
, Taylor & Francis,
ISBN
1-884964-03-6
,
https://books.google.com/books?id=R44VRnNCzAYC&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman
- Rivoira, Giovanni Teresio (1918),
Moslem architecture: its origins and development
, Oxford University Press
,
https://books.google.com/books?id=4x8tAAAAYAAJ&pg=PA25&dq=Minaret+of+Qaitbey+Damascus#v=snippet&q=Minaret%20Damascus&f=false
.
- Selin, Helaine
, ed. (1997),
Encyclopaedia of the history of science, technology, and medicine in non-western cultures
, Springer,
ISBN
978-0-7923-4066-9
,
https://books.google.com/books?id=raKRY3KQspsC&dq=Ibn+al-Shatir+umayyad+sundial
.
- Walker, Bethany J. (Mar 2004). “Commemorating the Sacred Spaces of the Past: The Mamluks and the Umayyad Mosque at Damascus”.
Near Eastern Archaeology
(The American Schools of Oriental Research)
67
(1): 26?39.
doi
:
10.2307/4149989
.
- Winter, Michael; Levanoni, Amalia (2004).
The Mamluks in Egyptian and Syrian politics and society
. BRILL.
ISBN
90-04-13286-4
.
https://books.google.com/books?id=NBBMJJTEoKMC&dq=Mamluk+Umayyad+Mosque+Levanoni
- Van Leeuwen, Richard (1999),
Waqfs and urban structures: the case of Ottoman Damascus
, BRILL,
ISBN
90-04-11299-5
,
https://books.google.com/books?id=2K8dGsd2KCsC&pg=PA95&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman#v=onepage&q=Umayyad%20Mosque%20Ottoman&f=false
- Wolff, Richard (2007),
The Popular Encyclopedia of World Religions: A User-Friendly Guide to Their Beliefs, History, and Impact on Our World Today
, Harvest House Publishers,
ISBN
0-7369-2007-2
,
https://books.google.com/books?id=o9Ls4I5t5gIC&pg=PA57&dq=Minaret+Jesus+Umayyad#v=onepage&q=Minaret%20Jesus%20Umayyad&f=false
- Zaimeche, Salah; Ball, Lamaan (2005),
Damascus
,
Manchester
: Foundation for Science Technology and Culture
- スチ?ルラン, アンリ (1987-11).
イスラムの建築文化
.
原書房
.
ISBN
978-4-562-01896-3
- 深見, 奈?子 (2005-3).
世界のイスラ?ム建築
. 講談社現代新書.
講談社
.
ISBN
978-4-06-149779-5
?連項目
[
編集
]
外部リンク
[
編集
]
ウィキメディア?コモンズには、
ウマイヤ?モスク
に?連するカテゴリがあります。