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イマヌエル?カント - Wikipedia コンテンツにスキップ

イマヌエル?カント

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イマヌエル?カント
Immanuel Kant
イマヌエル?カントの肖像
生誕 ( 1724-04-22 ) 1724年 4月22日
プロイセン王国の旗 プロイセン王? ? ケ?ニヒスベルク
死? ( 1804-02-12 ) 1804年 2月12日 (79??)
プロイセン王国の旗 プロイセン王? ? ケ?ニヒスベルク
時代 18世紀の哲? 19世紀の哲?
地域 西洋哲?
?派 カント主義Kantianismus、 啓蒙思想 啓蒙時代 の哲?)
?究分野 認識論 形而上? 倫理? 宇宙進化論
主な?念 超越論的?念論( 超越論哲? )、 物自? 、批判哲?、 アプリオリ ヌ?メノン 、「あえて賢明であれ」、 定言命法 ?言命法 、目的の王?、??理性の優位、 星雲?
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イマヌエル?カント (Immanuel Kant ドイツ語:  [??maːnu?eːl ?kant, -nu??l -] 、?て字は「韓圖」 [1] 1724年 4月22日 - 1804年 2月12日 )は、 プロイセン王? 哲?者 であり、 ケ?ニヒスベルク大? 哲? ?授 である。

純?理性批判 』、『 ??理性批判 』、『 判?力批判 』の三批判書を?表し、批判哲?を提唱して、 認識論 における、いわゆる「 コペルニクス的?回 」をもたらした。

生涯 [2] [ 編集 ]

"Immanuel Kant and Guests" Emil Doerstling (1892/93)
"Immanuel Kant and Guests" Emil Doerstling (1892/93)

前批判期 [ 編集 ]

イマヌエル?カントは1724年、 東プロイセン の首都 ケ?ニヒスベルク (現ロシア領 カリ?ニングラ?ド )で馬具職人の第四子として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで?した。?親は ルタ?派 敬虔主義 を信仰していた。1732年、敬虔派宿泊施設であるフリ?ドリヒ校に通?し始める。?校では ラテン語 ?育が重視されたほか、哲?は正規授業としてあり、 ヴォルフ 派の哲?が?えられていた。1740年に ケ?ニヒスベルク大? に入?する。入?後次第に ニュ?トン の活躍などで?展を遂げつつあった 自然? に?心が向かい、哲??授 クヌッツェン の影響のもと、 ライプニッツ やニュ?トンの自然?を?究した。

1746年、父の死去にともない大?を去る。?資が?かなくなったのに加えて、最近の?究ではクヌッツェンにその ?創性 を認められなかったことも大?を去る動機になったと推定されている。この時に哲?部に ドイツ語 の卒業論文『活力測定考』(1749刊行)を提出している。卒業後の7年間はカントにとっては苦しい時期で、ケ?ニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭?師をして生計をたてていた。

1755年春、『天界の一般的自然史と理論』を刊行するが、印刷中に出版社が倒産したため、極少?のみが公刊された。この論文でカントは 太陽系 星雲 から生成されたと主張しており、この??は1796年に ラプラス が唱えた理論と似ていたため、19世紀には カント?ラプラス理論 と呼ばれた。4月にはケ?ニヒスベルク大?哲?部に哲?修士の?位取得のため、ラテン語論文『火について』を提出し、6月12日に修士?位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上?的認識の第一原理の新解明』で公開討議をおこない擁護に成功。冬?期より、同大?の私講師として職業的哲?者の生活に入る。カントの哲?者としての道のりは、『純?理性批判』出版の以前と以後に?分され、前批判期と批判期と?別される。

1756年、恩師クヌッツェンの逝去(1751)により欠員が出た 論理? ? 形而上? ?授職授の地位を得るため、『自然 モナド 論』を執筆。?時、正?授就任のためには少なくとも3つのラテン語論文を執筆し、公開討論審査で擁護しなければならなかった。4月10日に公開討論?がおこなわれ、擁護に成功する。しかし、プロイセン政府が オ?ストリア との 七年?? を開始し、財政的理由のため欠員補充をしない方針を打ち出したため、?授就任の話は白紙となった。

1764年、『美と崇高との感情性に?する?察』出版。直後の自家用本の書き?みによれば、カントは「何も知らない下層民を?蔑していた」が、「 ルソ? がその私を正してくれた」。「私は人間性を敬うことを?ぶ」とある [3] 。1765年、「1765-66年冬?期講義計?公告」のなかではじめて理性批判のアイデアが公にされる。また同年より始まった ランベルト との書簡の中では、自然哲?と ??哲? の形而上?的原理の構想が開陳され、自らの「あらゆる努力は、主として形而上?の本?的方法を、この方法を通じてまた全哲?の方法を目標としている」と述べられている [4] 。1766年には、批判期の到?を予感させる『形而上?の夢によって解明された視?者の夢』を出版。同書では、 スウェ?デン 視?者 ? 神秘主義 スヴェ?デンボリ が起こしてみせたと主張する超常現象を紹介すると同時に、現在の形而上?の粗野な方法論と?るべき展望について語られている。

1766年にケ?ニヒスベルク王立?書館副司書官に就任し、また博物美術標本室監督も兼任していたカントだったが、1769年に エアランゲン 大?の論理??形而上??授に招聘されるが固?、また1770年には イェナ大? から哲??授職への就任を打診されているが、これも?退、最終的に1770年3月、46?の時に、ケ?ニヒスベルク大?の論理??形而上?正?授に任命された。同年8月11日には正?授就任論文『 可感界 と可想界の形式と原理』が公開審査にかけられ、?くとも9月には出版。同書は「この後十年あまりにわたる沈?と模索の期間をへて公にされることになる『 純?理性批判 』に直接間接につながってゆく重要な構想のめばえを多く含むものであり、これを契機に〔…〕人間理性の限界の?としての形而上?という構想は、たんなる漠然とした模索の段階を?して、着?な?現の?についたといっても過言ではない」 [5] 。後にこの時代を振り返ったカントは、1769年に「大きな光」が?えられたと述べており [6] 、それは一般的に空間と時間の?念性の?見であると考えられている。

『純?理性批判』が出版されるまでの十年近い間は、先述のように「沈?と模索の期間」であった。しかしその間、カントが机の前で沈思?考し?けたと考えるわけにはいかない。むしろ大?業務は多忙になっていったと言えるだろう。1772年からは 人間? 講義が開講され、1776年には哲?部長に就任、同年夏?期の授業時間は週16時間にのぼっている。1779年冬?期には二度目の?部長就任、1780年にはケ?ニヒスベルク大?評議??員となっている。そして1781年、カントの主著『純?理性批判』が ハレ のハルトクノッホ書店より出版されることになった(以下『純理』と略記)。

批判期 [ 編集 ]

"Immanuel Kant and Guests" Emil Doerstling (1892/93)
"Immanuel Kant and Guests" Emil Doerstling (1892/93)

今でこそ『純理』は 近代哲? の基礎と目されることも多いが、この書物がすぐに哲?界を驚愕させ、思考の地平を一?させたと考えることはできない。『純理』はすぐに上梓されたが、反響はほとんどなく、?上も芳しくなかった。同時代の哲?者 ハ?マン メンデルスゾ?ン にはもっぱら不評だったと言われている。そのうえ、1782年に?誌『 ゲッティンゲン?報付? 』に出た匿名書評ではカントの思想が バ?クリ ?念論 と同一視されてしまっていた [注? 1] 。そのためカントは翌1783年に出版した『プロレゴ?メナ』や『純理』第2版「?念論反駁」の中で、こうした嫌疑をはらさざるをえなかった。同時代人の第一印象では、カントはバ?クリや ヒュ?ム と同?の ?疑論 者とみなされたのである。

批判哲?のプロジェクトは『純理』以降、自然????哲?(道?論? 法論 )? 美? ? ?史哲? ?宗?へと多岐にわたって展開される。とりわけ『純理』と『 ??理性批判 』(1788)、『 判?力批判 』(1790)を合わせた三つの書物は、慣例として「三批判書」と??され、それぞれ『第一批判』、『第二批判』、『第三批判』と?されることもある。自然?分野は『自然科?の形而上?的原理』(1786)や『判?力批判』第二部の中で展開され、??哲?は『人倫の形而上?の基礎づけ』(1785)や『??理性批判』(1788)、『人倫の形而上?』(1797)が主著となっている。美?については、同時代の バウムガルテン の影響を受けつつ大きく議論を展開させた『判?力批判』第一部が?まれなければならない。

批判期以降、カントは??な論?に?き?まれ、また自ら論?に介入していった。特に論?の場として重要だったのは、1783年に ゲディケ ビ?スタ? によって創刊された?誌『 ベルリン月報 』である。カントは十?本の論文を『ベルリン月報』に?載しているが、そのなかには「敢えて賢かれ、自らの悟性を用いる勇?を持て」 [7] という言葉が有名な小論「 啓蒙 とはなにか」(1784)も含まれている。この問いかけもまた、論?の産物だと言ってよい。同時期のプロイセンでは フリ?ドリヒ大王 のもと、「啓蒙」の有用性とその限界が議論されていたからである [注? 2] 。また、1785年には ヘルダ? の『人類史の哲?の理念』(1784-91)をめぐって、カントはヘルダ?と論?を繰り?げている。他にも、 スピノザ 主義をめぐって レッシング ヤコ?ビ 、メンデルスゾ?ンらが繰り?げた 汎神論論? に加わってもいる(「思考の方向を定めるとはどういうことか」(1786))。

1786年、カントは3月にケ?ニヒスベルク大??長に就任した。同年8月にはフリ?ドリヒ大王が崩御し、代わって フリ?ドリヒ?ヴィルヘルム二世 が?位する。前代が啓蒙君主と呼ばれるほどフランス啓蒙哲?に通じ、 自らの宮殿 ヴォルテ?ル ラ?メトリ を呼び寄せたほどだったのに?し、この新しい君主は守?的であり、 宗?神秘主義 にも傾倒していた。1788年には宗??文?行政を?っていた法務大臣 ヴェルナ? が宗? ?? を?布し、1792年にはカントが『ベルリン月報』に?表した「人間の本性における根源?について」が??に引っかかってしまった。この論文は??を通過したものの、次の「人間の支配をめぐる善現理と?原理の?いについて」は出版不許可の決定を受けた。?論文は1793年には『?なる理性の限界?における宗?』として?表されるが、1794年にはカントの宗?論が有害だという勅令が出され、カントは宗??神?に?する講述を禁じられてしまう。

カントはこうした??や勅令に??と?っていたが、他方で1789年に勃?した フランス革命 については、それが ジャコバン ?裁を?て過激化していった時代にもなおそれを??していた。?際政治情勢が激動する時代にあって、カントはそれに呼?するかのように、「理論では正しいかもしれないが??の役には立たないという俗言について」(1793)や『 永遠平和のために 』(1795)、『 人倫の形而上? 』「第一部?法論の形而上?的定礎」などで共和制と?際連合について論じた。

カントは晩年、身?の衰弱に加えて思考力の衰えを感じつつも、自然科?の形而上?的原理から物理?への移行という課題に取り組みつづけた。この課題は完成されなかったが、一連の草稿は『オプス?ポストゥムム』として知られている。今で言う老年性認知症が進行する中、1804年2月12日にカントは逝去した。最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに?したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと?えられている。 2月28日 、大?墓地に埋葬される。カントは簡素な葬儀を望んだが、葬儀は二週間以上にわたって?き、多くの?列者が死を悼んだ。

思想 [ 編集 ]

ロシア カリ?ニングラ?ド にあるカント像

?? [ 編集 ]

一般にカントの思想はその3つの批判の書(『 純?理性批判 』『 ??理性批判 』『 判?力批判 』)にちなんで 批判哲? と呼ばれる。ただ、カントが批判(Kritik)ということで企?していたのは、?の哲?のための準備?予備?であった。批判哲?が完成し、人間の理性能力の限界が確定された上ではじめて、?の形而上?としての哲?が築かれるべきだからである。

カントの思想は前批判期と批判期以後に大別される。前者は、『純理』刊行(1781)前、初期の自然哲?論考から就職論文『可感界と可想界の形式と原理』(1770)までを指す場合が多い(ただし、カントの 批判哲? の着想の時期がいつだったのかについては、論?がある [8] )。後者は、『純理』刊行以降、三批判書を含む著作以降を指す。

前批判期の仕事 [ 編集 ]

初期のカントの?心は 自然哲? にむかった。特に ニュ?トン の自然哲?に彼は?心をもち、『引力斥力論』などニュ?トンの 力? ニュ?トン力? )や 天文? を受容した上でそれを?り越えようとする論文を書いた。自然哲?においてはことに 星雲 による 太陽系 成立について?心を示した( 星雲? )。そこでは 銀河系 が多くの恒星が重力により集まった円盤?の天?であると正しく推論している。また1755年の リスボン大地震 から受けた衝?で、地震の?生メカニズムに?する論文を書いている。そのメカニズム自?はその後誤りとされたが、地震を超自然によるものではなく自然によるものと?定して考える先?的な試みと考えられている。

一方で、カントは イギリス??論 を受容し、ことに ヒュ?ム ?疑主義 に?い衝?を受けた。カントは自ら「??論のまどろみ」と呼んだ ライプニッツ ヴォルフ ?派の 形而上? の影響を?し、それを??にもとづかない「形而上?者の夢」とみなすようになる(『視?者の夢』)。自然科?と幾何?の?究に支えられた??の重視と、そのような??が知性の?みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。また、カントは ルソ? の著作を?み、その肯定的な人間?に影響を受けた。これは彼の道?哲?や人間論に特に影響を?えた。

こうして、知性にとって?象が?えられるふたつの領域とそこでの人間理性の?きをあつかう『可感界と可想界の形式と原理』(1770)が書かれる。この時点で後年の『純?理性批判』(1781)の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。

批判哲? [ 編集 ]

「批判 Kritik」とは、理性?悟性?感性?判?力からなる人間の認識能力の限界と能力を確定し、それぞれに相?しい役割を規定する企てである(「批判」という意味の英?語"critic"の由?となったギリシア語の"krino"は、良い物を選別(=吟味)するという意味)。『純理』においては、人間の認識が感性と悟性の協?によってのみ可能であり、??的認識において純?理性は統制的使用のみにその使用が制限される一方、『??理性批判』では、それと同一の純?理性が人間の道?性の根幹をなす能力を持ち、そこにこそ理性の可能性が秘められているということが明らかにされる。また、『判?力批判』では??(現象界)と理念(叡智界)を媒介する能力として判?力が?究され、第一部では美感的判?力、第二部では目的論的判?力の原理が論じられる。

認識論 [ 編集 ]

カントによれば、人間の認識能力は 感性 悟性 の二つの源泉からなる。感性は直?する能力であり、悟性は思考する能力であるが、それぞれに純?な形式(直?の形式は 空間 時間 、思考の形式は12 の純?悟性?念(カテゴリ?、すなわち 範疇 とも?する))がある。純?悟性?念は時間限定たる?式(schema)によってのみ感性と?係する。

我?はこの二つの認識源泉の協?によってのみ?象を 認識 し得る。したがって我?に「直?」として?えられ得ない理性?念は、我?の認識の?象ではあり得ない。理性推理による理念はいわば絶?者にまで?張された純?悟性?念である。 あるいは 超越者 がその代表例であり、これをカントは 物自? (Ding[e] an sich selbst)と呼ぶ。

いわゆる 二律背反 においては定立の側では完全な系列には無制約者が含まれると主張される。これに?し、反定立の側では制約が時間において?えられた系列には被制約者のみが含まれると主張される。このような?立の解決は統制的ではあっても構成的ではない理念に客?的?在性を付?する超越論的すりかえを避けることを必要とする。理念は?えられた現象の制約系列において無制約者に到達することを求めるが、しかし、到達して停?することは許さない規則である。

なお、『 プロレゴメナ 』によれば、純?悟性?念はいわば現象を??として?み得るように文字にあらわすことに役立つもので、もしも、物自?に?係させられるべきものならば無意義となる。また、??に先行しこれを可能にする超越論的(transzendental)という?念はかりに上記の?念の使用が??を超えるならば超越的(transzendent)と呼ばれ、?在的(immanent)すなわち???に限られた使用から?別される。

倫理? [ 編集 ]

理性?念が(直?を欠くために)理論的には認識されえず、?に思惟の?象にすぎないことが『純?理性批判』において指摘されたが、これら理性理念と理性がかかわる別の方法が『 ??理性批判 』において考察されている。『??理性批判』は、純???理性が存在すること、つまり純?理性がそれだけで??的であること、すなわち純?理性が他のいかなる規定根?からも?立にそれだけで充分に意志を規定しうることを示すことを目標としている。

カント道?論の基礎であるこの書において、人間は 現象 界に?するだけでなく 叡智 界にも?する 人格 としても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自?の秩序である叡智界における因果性の法則にも?うべきことが論じられる。カントは、その物自?の叡智的秩序を支配する法則を、 人格 としての人間が?うべき道?法則として提出する。

道?法則は「なんじの意志の格律がつねに同時に普遍的立法の原理として妥?するように行?せよ( Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten konne. )」という 定言命法 として定式化される。

カントは純?理性によって見出されるこの法則に自ら?うこと(意志の自律)において純?理性が??的に客?的に?在的であることを主張し、そこから自由の理念もまた??的に客?的?在性をもちうると論じた。道?法則に人間が?うことができるということが、叡智界にも?する存在者としての人間が自然的原因以外の別の原因を持ちうる、すなわち自由であるということを示すからである。

また、神? 不死 の理念は、有?さに比例した幸福(すなわち 最高善 )の?現の?件として要請される。

美??目的論 [ 編集 ]

最後にカントは?義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判?力について考察を加え、その一種である反省的判?力を「現?をあるカテゴリ?の下に包?する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判?力と目的論的判?力の二種に分けて考察を加えた。これが『判?力批判』である。この書は、その後展開される??論、美?などの基礎として評?されている。また ハンナ?ア?レント 以降、『 判?力批判 』を政治哲?として?む?み方が提示され、現代哲?においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。

批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗?? 倫理? への?心を?した。とくに フランス革命 にカントは重大な衝?を受け、?心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道?論や人間論にはその知見が投影されている。その道?論は 義務論 倫理として現在の二大 規範倫理? の一方をなしている。

?史哲? [ 編集 ]

カントは人類の?史を、人間が己の自然的素質を?現するプロセスとして捉える。人間にとっての自然的素質とは、本能ではなく理性によって幸福や完璧さを目指すことである。

法哲??政治哲? [ 編集 ]

カントの 法哲? ? 政治哲? の最も?系的な著作は『 人倫の形而上? 』「第一部?法論の形而上?的定礎」(1797)である。『人倫の形而上?』においては人倫の領域中、法と?が?別され、法は法則と外的行?の一致として定義され、?面の動機と法則との一致は度外視される。「 法論 」はいわゆる 自然法 ?の系譜に連なるものであり、自然?態における私法と市民?態における公法の二部門から成り立っている。自然法は理性によってア?プリオリに認識されるものであり、自然法が前提とされなければ ?定法 の?威は打ち立てられない [9] 。「法の普遍的原理」は「どのような行?も、その行?が、もしくはその行?の格率にしたがった各人の選?意志の自由が、万人の自由と普遍的法則にしたがって?立することができるならば、正しい」というものである [10] 。この原理にしたがって、各人には生得的な?利として、他者の選?意志の?要からの?立という意味での自由が認められる [11] 。生得的自由?が?的?利(?的な私のもの)と呼ばれるのに?し、取得を通じて獲得される?利が外的?利(外的な私のもの)と呼ばれ、「法論」の第一部「私法」では物??債??物?的債?という?利が論じられている。

カントの議論において特?的なのは、 ホッブズ プ?フェンドルフ ロック らと違って、自然?態を??的な人間本性の?察から導かず、むしろア?プリオリな理念として考察したところにある。?に?家が存在しない?態における人間相互の?係性を考察し、そこにおける法のあり方を捉えたのだ。その結果、自然?態はア?プリオリに非?法的な?態として記述されることになり、そこからの?出が義務化される。

「??から我?は、人間の暴力という格率を知り、そして外的な?力を持つ立法が現れる前には互いに?い合うものだという人間の?性を知るが、しかしそうした??があるから、それゆえそうした事?があるから、公的な法則による?制が必然的になるというわけではない。むしろお望み通り人間が善なるもので、法を愛するものだと考えるとしても、次のことはこうした(非?法的な)?態という理性理念の中にア?プリオリに含まれている。すなわち、公的な法則が存在する?態に達する前には、結合した人間や諸?民や諸?家は、決して互いの暴力から安全ではありえず、しかもこれは、自分にとって正しくまた良いと思われることをし、他人の意見に左右されないという各人固有の?利から生じる、ということである」 [12]

自然?態の?出後に設立されるべき?家は、まさに自然?態のこうした不正を解消するような?家でなければならない。カントはそうした?家がどのようなものであるかを、一切の??に依存せずに論じている。カントの?家論はこうして理性からア?プリオリに導かれた「理念の?家(Staat in der Idee)」、言い換えれば?家の「規範(Richtschnur, norma)」の役割を果たす [13] 。政?論としては、市民が立法?を持ち、立法??執行??裁判?が分離した「共和制 Republik」が規範的に優位なものとして展開される。このような理念の?家が可能であるとすれば、それにもやはり起源を考えることができる。カントの 社?契約論 においては、現?の?家の設立の起源ではなく、純?に??的に考えられた理性起源が問題となっている。カントは社?契約を「根源的契約(ursprunglicher Kontrakt)」と呼ぶが、それは「本?、?家の理念であり、これを基準にしてのみ、?家の適法性を考えうることができる」 [14]

??の法規範を司る?法に?し、カントはさらに?家間を司る ?際法 、?家とそれに?さない人?の?係を司る 世界市民法 を「法論」の中で論じている。人?の間の自然?態が?家設立によって解消されるのと同?に、?家間の自然?態も解消されるべき課題だが、カントは ドメスティック?アナロジ? に必ずしも?っていない。すなわち、諸?家間において主?を持った世界大の一つの?家を設立することは規範的に否定される。むしろカントは自由な?家の連合を推?し [15] 、それが?際連盟結成のための思想的基盤を用意したとしばしば考えられている。『 永遠平和のために 』では、?時の中?や江?日本の鎖?政策が、世界市民法の?点から評?されている [16]

宗?哲? [ 編集 ]

カントは宗?を、道?の基礎の上に成り立つべきものであるとしている。神は、幸福と?の一致である「 最高善 」を可能にするために要請される。この思想は理性宗?の立場であるが、啓示宗?を排除しようというものではない。

反ユダヤ主義 [ 編集 ]

カントは ヴォルテ?ル などと同?に 反ユダヤ主義 の思想を持っていたことでも知られている [17] [18] 。カントは『たんなる理性の限界?の宗?について』において、「ユダヤ?は全人類をその共同?から締め出し、自分たちだけが イェホヴァ? に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」と、 ユダヤ? 選民思想 について批判している [19]

また晩年の「?用的見地における人間?」においては、ユダヤ人は「追放以?身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根?がなくもない世評を被ってきた」として、ユダヤ人は保護を受けている?に?してその?の?民を欺いたり、また自分たち同士をさえ欺いて利益を得ていると非難している [注? 3] [20]

またカントは『諸?部の?い』で、ユダヤ人がキリスト?を公に受け入れれば、ユダヤ?とキリスト?の?別を消滅させることができて、ユダヤ?は 安?死 できると述べている [17] [21]

カントは メンデルスゾ?ン などユダヤ人哲?者と交流していたが、このようにユダヤ?とユダヤ人を否定的に理解していた。 オット??ヴァイニンガ? はカントの『人間?』の一節を「世界文?のなかでもっとも反ユダヤ的なテクスト」であると批判している [17] 。レオン?ポリアコフはカントは 人種差別主義 的というより、 キリスト?的な反ユダヤ主義 であったと論じている [17]

人間? [ 編集 ]

カントは、哲?には、「わたしは何を知ることができるか」(Was kann ich wissen?)、「わたしは何をなすべきか」(Was soll ich tun?)、「わたしは何を望むことが許されるか」(Was darf ich hoffen?)、「人間とは何か」(Was ist der Mensch?)という4つの問題に??する4つの分野があるとした上で、最後の問題について?究する?を「 人間? 」であるとした。 高坂正? は、カント哲?の全?を人間?の大系であるとしている。

地理? [ 編集 ]

カントはケ?ニヒスベルク大?で1765年から 自然地理? の講義を??し、 地理? に科?的地位を?えた [22] 。カントは地理?と ?史? の違いを場所的記述を行うのが地理?で、時間的記述を行うのが?史?であるとした [22] 。この見解は後世の地理?者の 常識 となった [22]

また、「道?地理?」(Die moralische Geographie)の講義では、日本と ラップランド で親殺しをした子に?する刑罰が異なる、具?的には日本では子の家族もろとも極刑に?されるが、ラップランドでは?けなくなった父を殺すことは母が子を扶養するならば許される、という事例を用いて、地理的環境が異なれば倫理や道?も異なると?いた [23]

人種論 [ 編集 ]

カントは現代の?際的な自由主義の?展に多大な貢?をしたことでも知られているが、他方で近年は、カントの 人種 理論(人種?)には 白人至上主義 などの問題点を指摘されており、 科?的人種主義 の父祖の一人とみなされている [24] [25] [26]

カントは1764年の『美と崇高との感情性に?する?察』において、アフリカの?人と白人種との差異は本質的な差異であると論じている [27] [28]

アフリカの?人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。ヒュ?ム氏は、どの人に?しても、?人が才能を示したただ一つの?例でも述べてほしいと求め、彼らの土地からよそへ連れて行かれた十万の?人の中で、そのうちの非常に多くのものがまた自由になったにもかかわらず、?芸や、その他なんらかの??すべき性質のどれかにおいて、偉大なことを示したただの一人もかつて見られたことはないが、白人の間には、最下層の民衆から高く昇り、優れた才能によって?望を獲得する人?が絶えず見られると主張している。それほどこの二つの人種の間の差異は本質的で、心の能力に?しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。 ? イマヌエル?カント『美と崇高との感情性に?する?察』第4章 [27]

ここでカントが引用した デイヴィッド?ヒュ?ム は、奴隷制に反?していた一方で、?人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような?創的な製品、芸術、科?を作り出せないと述べていた [29] [30] [31] [32] [25]

このほかに、カントは アラビア人 については、東洋で最も高貴で「アジアのスペイン人」といってよいが、冒?的なものへ退化した感情を持っているとしたり、 ペルシア人 は典雅で?細な趣味を持っており、「アジアのフランス人」といってよいと述べている [27] 日本人 は極度の?情にまで退化しており、沈着、勇敢、死の?視といった点で「アジアのイギリス人」といってよいと述べている [27] インド人 は宗?において異?な趣味を持っており、 中?人 は太古の無知の時代以?の風習を保持しており、畏怖すべき異?さを持つとする [27] 。?けてカントは東洋人は人倫的な美についての?念を持たないと論じる [33]

ひとえにヨ?ロッパ人だけが?力な傾向性の感性的な魅力を多くの花で飾り、多くの道?的なものと編み合わせ、この魅力の快適さを高めるばかりでなく、大いに品の良いものとする秘訣を見出したことが分かる。東洋の住民はこの点では非常に誤った趣味を持っている。 ? イマヌエル?カント『美と崇高との感情性に?する?察』第4章 [33]

さらに、女性は隷??態にあるという?人の?についてカントは以下のように述べる。

ラバ師の報告によれば、?人の大工に、彼の妻女たちに?する高慢な仕打ちを非難したとき、彼は次のように答えた。「あなたたち、白人はほんとに馬鹿だ。というのは、最初あなたたちは女たちに多くのことを許容し、その後、彼女たちがあなたたちの頭を狂?させたときに不平をいうのだから。」これには、おそらく考慮するに値するものがあるかのようであるが、要するにこいつは頭の先から足の先まで?かったのであり、それは彼の言ったことが愚かであった明らかな?明となる。 ? イマヌエル?カント『美と崇高との感情性に?する?察』第4章 [33]

カントはこのように人種を論じた上で、現在のヨ?ロッパ人によって「 崇高 の正しい 趣味 」が花開いたのであり、?育によって古い妄想から解放され、すべての 世界市民 (コスモポリタン) の人倫的感情が高まることを望んでいると論じた [34]

カントはその後も人種について?究を?けて、1777年の「??な人種について」では人間は共通の祖先を持つとした [35] [28] 。ほかに1785年の「人種の?念の規定」など??な論文を書いている [36] [28]

他方で、カントは以下に引用するように1756年から1796年まで?けられたケ?ニヒスベルク大?での講義『自然地理?』において、明確に白色人種の卓越性を論じ?けた。

暑い??の人間はあらゆる点で成熟が早めではあるが、??の人間のような完全性にまで到達することはない。人類がその最大の完全性に到達するのは白色人種によってなのである。すでに?色のインド人であっても、才能はもっと劣っている。ニグロははるかに低くて、最も低いのはアメリカ原住民の一部である。 ? イマヌエル?カント『自然地理?』第2部第1編第4節 「その他の生得的な特性に?した地球全?の人間に?する考察」 [37]

ここでは、最劣等にアメリカ原住民を置いており、必ずしも?人だけを最劣等に置いていたわけではないが、白人種を最優とすることについては生涯?化することはなかった [38] [39] [26]

この他にもカントは、ニグロは生まれた時は白く、 陰? の周?だけが?いが、 火傷 病? によって白くなるし、熱?地方に住むヨ?ロッパ人(白人)は多くの世代を重ねてもニグロにはならないと述べたり [40] 、肌の?さの原因はその地域の熱暑であるとしている [41]

このようにカントは多くの著作で白人優位主義を述べており、そこにイデオロギ?的な意?があったわけではないにせよ、カントは明確に白人優位主義を述べる 人種主義者 であり、 人種差別 的な限界があると指摘されている [24] [25] [42] [28]

カントの人種?の?究は、 ナイジェリア 出身で ポストコロニアル哲?者 E.C.エゼ や、セレクベルハン(Tsenay Serequeberhan)、Mark Larrimore、Robert Bernasconi、 ジャマイカ 出身の政治哲?者 C.W.ミルズ 等によって?展してきた [43] [25] 。エゼは、カントの政治的人間?は、ヨ?ロッパ的自己を中心にして、他の非ヨ?ロッパ人種の人間性を否定するという特殊性を前提として成立する人間の植民地化であり、普遍主義的な ヒュ?マノイド (疑似人間)を抽象化させることによって成り立っていると主張し、カント?究界をドラマティックに切?した [44] [43] 。セレクベルハンは、カントは、近代ヨ?ロッパが他の人間よりも優越しているという理念またはウソを作り上げた最も重要な哲?者の一人であるとした [45] [46]

他方で、カントの人種論に偏見はなく、到る所で白人の?暴をつき、?人の肩を持っているという指摘 [47] や、カントは人種の文化的生活を文化的な進?の議論 において捉えており、人種の差異は必ずしも重要な意味を?びるものではないと指摘されてもいる [48] 。クラインゲルドは1790年代にカントは心をいれかえて、人種理論との矛盾が完全に解消されたわけではないが、人種間のヒエラルキ?についての?念は後退したとしている [28]

?象? [ 編集 ]

カントは?象において、1756年4月にケ?ニヒスベルクで「風の理論の?明に?する新たな注解(Neue Anmerkungen zur Erlauterung der Theorie der Winde)」を?表した。これは、風に?して以下の5つの考えからなっていた [49]

  1. 加熱が持?する限り、場所による加熱の違いは風を引き起こす。
  2. 暖かい空?は、冷たい空?に置き換わる。
  3. 赤道から極への風は、地球の自?により次第に西風になる。
  4. 東風の貿易風も、同?に地球の自?による。
  5. モンス?ンは、3.の原因によっても?明される。

カントは、イギリスの?象?者 ジョ?ジ?ハドレ? による地球規模の風の考え方 [50] を?展させ、極向きの上層の流れが存在しているという結論に達し、この上層の風が地表風と接?するとき、さまざまな現象が起きると考えた [49] 。これが大規模な風同士が接?して?著な?象が起こることの初めての考えとなった。また、これら大?循環の原因に?する記述を含んだカントの自然地理?に?する?科書や講義ノ?トは19世紀になって出版され、?く使われた。カントの風に?する考えは、その後19世紀のドイツの?象?者?物理?者 ハインリヒ?ド?フェ が?展させ、イギリスの ロバ?ト?フィッツロイ 提督が行ったイギリス?象局での?象予報の根?の一つとなった。カントの?流同士の接?という考え方は、今日の?象?でいう 前線 という?念の元の一つとなった [51]

エピソ?ド [ 編集 ]

名と姿 [ 編集 ]

カントの?親は、彼をエマヌエル(Emanuel)と名づけたが、長じてカントは ヘブライ語 を知り、その知識からイマヌエル(Immanuel)とみずから改名した(「 イマヌエル 」??????とはヘブライ語で「神は我らと共にあり」という意味である)。カントの容貌については、弟子の?言によると、?く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な人物であった。身?は骨格、筋力ともにやや貧弱。正?する時には服が身?から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。身?の割に頭は若干大きめだった。??は貧弱であったものの、有名な規則正しい生活習慣など健康管理に心を配り、顔色も良く、最晩年まで大きな病?とは無?であった。

?少年?育批判 [ 編集 ]

カントは、規則で生徒たちを縛り上げる?格な?育方針で知られたフリ?ドリヒ?校に入?し、その?育方針を身をもって??した。しかし、後に彼は、この?校の?育方針について批判を記した。啓蒙の哲?者カントの面目躍如と言える。

?身主義者カント [ 編集 ]

カントは生涯?身を通した。彼が哲?の道に入る契機となったニュ?トンも?身であったが、彼の場合は、仕事に忙殺され?愛の暇がなかったと言われる。カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされる。?相は不明で、カントもまた、ニュ?トンのように仕事に忙殺されていた可能性も否めない。

?育者カント [ 編集 ]

カントはケ?ニヒスベルク大?の哲??授となったが、その授業の?子を、?時の弟子のひとりであるヘルダ?が?えている。ヘルダ?によれば、カントの講義は精彩に富み魅力あるものであった。カントはいきいきと語る熱心な?師であった。カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、?師としてのカントの姿が彷彿とされる。

規則正しい人カント [ 編集 ]

カントは規則正しい生活習慣で知られた。早朝に起床し、少し?究した後、午前中は講義など大?の公務を行った。?宅して、決まった道筋を決まった時間に散?した。あまりに時間が正確なので、散?の通り道にある家では、カントの姿を見て 時計 の狂いを直したと言われる。これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の?さの故に?僕ランペを解雇したあと、新しい?僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。

ある日いつもの時間にカント先生が散?に出てこないので、周?の人?はなにかあったのかと?ぎになった。?はその日、カントは ジャン=ジャック?ルソ? の「 エミ?ル 」を?みふけってしまい、いつもの散?を忘れてしまったのであった。カントはルソ?に?し、『美と崇高の感情に?する?察』への『?書』にて「わたしの誤りを ルソ? が正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを?ぶ」と述べている [3]

趣味人カントの食卓 [ 編集 ]

規則正しい散?の後、カントは、夕方から友人を集めて?食した。カントの論敵の一人である ヨハン?ゲオルク?ハ?マン は、同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事?の客となった。カントは、ウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の?さには?食者も感嘆した。しかし、客が哲?の話題に?れると、露骨に嫌な顔をしたと言われる。

近くにいた人物の回想で、ヤハマン『カントの生涯』 [52] に、多くの逸話がある。

著作?論文?講義 [ 編集 ]

カントの著作の全集(クリティカル?エディション)として現在最も一般的なものは、王立プロイセン?術アカデミ?編集版(Kant's gesammelte Schriften. Hg. von der Koniglich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin: G. Reimer und de Gruyter, 1910-)である。同版をもとにボン大?が電子版を公開しており、ウェブ上で??できる( https://korpora.zim.uni-duisburg-essen.de/Kant/ )。邦?版全集としては、理想社版(1965-)と岩波書店版(1999-)がある。

  • 1747年04月22日 - 『活力測定考』Gedanken von der wahren Schatzung der lebendigen Krafte
  • 1754年06月 - 「地球が自?作用によって受けた?化の?究」
  • 1754年09月 - 「地球は老化するか、物理?的考察」Die Frage, ob die Erde veralte, physikalisch erwogen
  • 1755年03月 - 『天界の一般的自然史と理論』Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels
  • 1755年04月 - ?位論文「火に?する若干の考察の略述」
  • 1755年09月 - 就職論文「形而上?的認識の第一原理の新しい解?」Principiorum primorum cognitionis metaphysicae nova dilucidatio
  • 1756年01月 - 「地震原因論」Von den Ursachen der Erdenschutterungen bei Gelegenheit des Unglucks, Welches die westliche Lander von Europa gegen das Ende des vorigen Jahres betroffen hat
  • 1756年 - 「地震におけるきわめて注目すべき出?事について」
  • 1756年 - 「?地震論」
  • 1756年04月 - 「物理的?子論」Metaphysicae cum geometria iunctae usus in philosohia naturali, cuius specimen I. continet monadologiam physicam
  • 1756年04月 - 「風の理論の?明のための新たな註解」
  • 1757年04月 - 「自然地理?講義草案および予告」Entwurf und Ankundigung eines collegii der physischen Geographie nebst dem Anhange einer kurzen Betrachtung uber die Frage: ob die Westwinde in unsern Gegenden darum feucht seinen, weil sie uber ein großes Meer streichen.
  • 1758年04月 - 「運動および?止の新?」
  • 1758年10月 - 「オプティミズム試論」
  • 1762年 - 「三段論法の四つの格」
  • 1763年 - 『 の存在?明の唯一の可能な?明根?』Der mogliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes
  • 1763年 - 「負量の?念を哲?に導入する試み」Versuch den Begriff der negativen Großen in die Weltweisheit einzufuhren
  • 1764年 - 『 と崇高の感情に?する?察』Beobachtungen uber das Gefuhl des Schonen und Erhabenen
  • 1764年 - 「頭?の 病? に?する試論」Versuch uber die Krankheiten des Kopfes
  • 1764年 - 『自然神?と 道? の原則の判明性』Untersuchung uber die Deutlichkeit der Grundsatze der naturlichen Theologie und der Moral
  • 1766年 - 『 形而上? によって解明された視?者の夢』Traume eines Geistersehers, erlautert durch Traume der Metaphysik
  • 1768年 - 「空間における方位の?別の第一根?」Von dem ersten Grunde des Unterschiedes der Gegenden im Raum
  • 1770年 - 『可感界と可想界の形式と原理』De mundi sensibilis atque intelligibilis forma et principiis
  • 1781年 - 『 純?理性批判 』第一版 1. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
  • 1783年 - 『 ?として現れるであろうあらゆる??の形而上?のための序論(プロレゴメナ) 』 Prolegomena zu einer jeden kunftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten konnen
  • 1784年 - 『 啓蒙 とは何か』Beantwortung der Frage: Was ist Aufklarung
  • 1784年 - 「世界市民的見地における一般史の構想」Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltburgerlicher Absicht
  • 1785年 - 『 人倫の形而上?の基礎づけ(道?形而上?原論) 』Grundlegung zur Metaphysik der Sitten
  • 1786年 - 『自然科?の形而上?的原理』
  • 1786年 - 『人類史の憶測的起源』Mutmaßlicher Anfang der Menschengeschichte
  • 1787年 - 『純?理性批判』第二版 2. Auflage der Kritik der reinen Vernunft
  • 1788年 - 『 ??理性批判 』 Kritik der praktischen Vernunft
  • 1790年 - 『 判?力批判 』 Kritik der Urteilskraft
  • 1791年09月 - 『弁神論の哲?的試みの失敗について』
  • 1792年04月 - 「根本?について」
  • 1793年04月 - 『?なる 理性 の限界?での 宗? 』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft
  • 1793年09月 - 「理論と??に?する俗言について」
  • 1794年05月 - 「天候に及ぼす月の影響」
  • 1794年06月 - 「万物の終焉」Das Ende aller Dinge
  • 1795年 - 『 永遠平和のために 』 Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf
  • 1797年 - 『 人倫の形而上? 』 Die Metaphysik der Sitten
  • 1798年 - 『 諸?部の?い 』Der Streit der Fakultaten
  • 1798年 - 『?用的見地における人間?』
  • 1800年9月 - 『論理?』 Logik
  • 1802年 - 『自然地理?』
  • 1803年 - 『?育?』 Uber Padagogik
  • 1804年 - 「オプス?ポストムム」Opus Postumum 遺稿

文?案? [ 編集 ]

入門書 [ 編集 ]

  • 石川文康 『カント入門』筑摩書房〈ちくま新書〉、1995年。 ISBN   9784480056290  
  • 石川文康『カントはこう考えた-人はなぜ「なぜ」と問うのか』筑摩書房〈ちくま?芸文庫〉、2009年。 ISBN   9784480092144  
  • 坂部? 牧野英二 有福孝岳 『カント哲?案?-カント全集別?』岩波書店、2006年。 ISBN   9784000923637  
  • 坂部?『カント』講談社〈講談社?術文庫〉、2001年。 ISBN   9784061595156  
  • 中島義道 『カントの?み方』筑摩書房〈ちくま新書〉、2008年。 ISBN   9784480064271  
  • 牧野英二編『新?カント?本』法政大?出版局、2018年。 ISBN   9784588150890  

法哲??政治哲? [ 編集 ]

  • 網谷?介『カント政治哲?入門:政治における理念とは何か』白澤社、2018年。 ISBN   9784768479698  
  • 木原淳『境界と自由 : カント理性法論における主?の成立と政治的なるもの』成文堂、2012年。 ISBN   9784792305291  
  • 金慧『カントの政治哲?:自律?言論?移行』勁草書房、2017年。 ISBN   9784326102648  
  • ケアスティング、ヴォルフガング、舟場保之?寺田俊?監?『自由の秩序:カントの法および?家の哲?』ミネルヴァ書房、2013年。 ISBN   9784623064366  
  • ヘッフェ、オトフリ?ト、北尾宏之?平石隆敏? 望月俊孝 ?『政治的正義:法と?家に?する批判哲?の基礎づけ』法政大?出版局、1994年。 ISBN   4588004476  
  • マウス、インゲボルク、浜田義文?牧野英二監?『啓蒙の民主制理論:カントとのつながりで』法政大?出版局、1999年。 ISBN   4588006487  
  • 三島淑臣『理性法思想の成立:カント法哲?とその周?』成文堂、1998年。 ISBN   4792302838  

脚注 [ 編集 ]

注? [ 編集 ]

  1. ^ この書評は クリスティアン?ガルヴェ の元原稿に ヨハン?ゲオルク?ハインリッヒ?フェ?ダ? が手を加えたものであり、「ゲッティンゲン書評」や「ガルヴェ?フェ?ダ?書評」と呼ばれ、『純理』の受容過程を見るために重要である。同書評については、小谷英生「?された友情 : 『ゲッティンゲン書評』をめぐるカント?ガルヴェ往復書簡について」『群馬大??育?部紀要:人文?社?科?編』第63?、2014年、55-68頁。
  2. ^ 「啓蒙とはなにか」という問いに?しては、メンデルスゾ?ンを含め、??な著述家が解答を?えようとしていた。そうした議論のきっかけの一つとなったのは、フリ?ドリヒ大王がベルリン王立アカデミ?に出させたという懸賞課題であった。Hans Adler (Hg.), Nutzt es dem Volke, betrogen zu werden? Est-il utile au Peuple d'etre trompe? 2 Bande. Stuttgart: Frommann-Holzboog, 2007.
  3. ^ カント「?用的見地における人類?」カント全集15、p138-139.カントはユダヤ人を「パレスティナ人」と表記している。

出典 [ 編集 ]

  1. ^ 井上円了『哲?要領 前編』哲?書院、1887年、96頁 ”. 哲?要領. 前編 (2022年1月30日). 2022年1月30日 ??。
  2. ^ 以下は、Manfred Kuehn, Kant. A Biography . Cambridge: Cambridge University Press, 2001. また菅?龍文?小谷英生「カント年譜:物語風に」牧野英二編『新?カント?本』法政大?出版局、2018年、348-68頁を?考にしている(というかすべきである)。とりわけ「カント年譜」は簡便である。以下では煩?を避けるため、引用以外は注として記さない。
  3. ^ a b アカデミ?版全集20:44。
  4. ^ アカデミ?版全集10:56。
  5. ^ 坂部?『カント』講談社?術文庫、2001年、152-3頁。
  6. ^ アカデミ?版全集18:69。
  7. ^ アカデミ?版全集8:35。
  8. ^ 例えば 坂部? 『理性の不安:カント哲?の生成と構造』( 勁草書房 、1976)は、『視?者の夢』(1766)にその一契機を見る。
  9. ^ アカデミ?版全集6:224。
  10. ^ アカデミ?版全集6:230。
  11. ^ アカデミ?版全集6:237。
  12. ^ アカデミ?版全集6:312。
  13. ^ アカデミ?版全集6:313。
  14. ^ アカデミ?版全集6:315。
  15. ^ アカデミ?版全集6:330、また『永遠平和のために』「第二確定?項」を?照。
  16. ^ 「だから中?と日本が、そのような(極?非道な)客人たちを試した上で、以下の措置を取ったことは賢明であった。すなわち中?は?航は許したが入?は許さなかった、日本はそれどころか?航さえもオランダ人というただ一つのヨ?ロッパ民族にしか許容しなかったし、しかも日本人はそのオランダ人さえ捕虜のように扱い、自?民との共同?係から排除しているのである」 平子友長「カント『永遠平和のために』のアクチュアリティ : ヨ?ロッパ帝?主義批判の書として」『唯物論 : 東京唯物論?究??報』第79?、東京唯物論?究?、2005年、27-42頁、 NAID   120001009884  
  17. ^ a b c d #ポリアコフ III ,p.248-251.
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  19. ^ #ポリアコフ III ,p.249. カント「たんなる理性の限界?の宗?について」カント全集10?、岩波書店、p168-169.
  20. ^ #ポリアコフ III ,p.249-250.
  21. ^ カント全集18?、岩波書店、p.73-74.
  22. ^ a b c ?野(1970):4ペ?ジ
  23. ^ ?野(1970):246ペ?ジ
  24. ^ a b Jon M. Mikkelsen 2013 , p. 3.
  25. ^ a b c d Charles W. Mills 2017 , p. 716.
  26. ^ a b Julie K. Ward 2016 .
  27. ^ a b c d e Beobachtungen uber das Gefuhl des Schonen und Erhabenen, Ch,4-III.久保光志?「美と崇高の感情にかんする?察」第4章、 #カント 2000 ,p.378-380。
  28. ^ a b c d e Pauline Kleningeld 2007 .
  29. ^ 高田紘二 2002 , pp. 91?92.
  30. ^ Aaron Garrett 2004 , pp. 130?132.
  31. ^ Aaron Garrett 2000 , pp. 171?177.
  32. ^ Andrew Vallis 2005 , pp. 132?139.
  33. ^ a b c #カント 2000 ,p.381-382.
  34. ^ #カント 2000 ,p.383.
  35. ^ Von den verschiedenen Racen der Menschen 1777(福田喜一??「??な人種について」『カント全集 第3?』岩波書店 2001年
  36. ^ Bestimmung des Begriffs einer Menschenrace 1785.(望月俊孝?「人種?念の規定」『カント全集 14』岩波書店 2000年)
  37. ^ #カント自然地理? ,p.227.
  38. ^ Jon M. Mikkelsen 2013 .
  39. ^ Charles W. Mills 2017 .
  40. ^ 「人間の?い色に?するいくつかの注目すべき点」(自然地理? 第2部第1編第2節)、 #カント自然地理? 、p.223.
  41. ^ 「この色の原因についての考察」(自然地理?第2部第1編第3節)、 #カント自然地理? 、p.225.
  42. ^ Todd Hedrick 2008 , p. 263.
  43. ^ a b Jon M. Mikkelsen 2013 , pp. 4?5.
  44. ^ Emmanuel Chukwudi Eze 1997 .
  45. ^ Tsenay Serequeberhan 1996 .
  46. ^ Jon M. Mikkelsen 2013 , p. 6.
  47. ^ 加藤?之 1957 , p. 27.
  48. ^ ??悠三 2010 , p. 71.
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  50. ^ ?象?と?象予報の?達史: ?象予測の考え方の主な?遷(4)大航海時代と科?革命 ”. ?象?と?象予報の?達史 (2020年4月8日). 2020年10月7日 ??。
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  52. ^ ヤハマン『カントの生涯』(木場深定?、 弘文堂 、1947年/ 角川文庫 、1953年/ 理想社 (改版)、1978年)

?考文? [ 編集 ]

和書 [ 編集 ]

洋書 [ 編集 ]

  • Robert Bernasconi (2001). “Who Invented the Concept of Race? Kant’s Role in the Enlightenment Construction of Race”. In Robert Bernasconi. Race . Blackwell Publishing, Oxford. pp. 11-36  
  • Robert Bernasconi (2006). “Kant and Blumenbach’s Polyps: A Neglected Chapter in the History of Race”. In Sara Figal and Mark J. Larrimore. The German Invention of Race . State University of New York Press. pp. 73-90  
  • Emmanuel Chukwudi Eze (1997). “The Color of Reason: The Idea of ‘Race’ in Kant’s Anthropology”. In E. C. Eze. Post-Colonial Africa . Blackwell Publishing. pp. 103-40  
  • Aaron Garrett (2000). “Hume’s Revised Racism Revised”. Hume Studies (The Hume Society) 26 : 171-177.  
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  • Julie K. Ward (2016年9月13日). “ The Roots Of Modern Racism ”. The Critique.. 2017年9月2日 ??。

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日本のカント?者(故人) [ 編集 ]

外部リンク [ 編集 ]