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"アンドレイ?タルコフスキ?"
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(
2015年6月
)
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アンドレイ?タルコフスキ?
(
ロシア語
:
Андре?й Арсе?ньевич Тарко?вский
, アンドレイ?アルセ?ニエヴィチ?タルコフスキ?,
英語
:
Andrei Arsenyevich Tarkovsky
,
1932年
4月4日
-
1986年
12月29日
)は、
ソ連
の
映?監督
。
人物
[
編集
]
「映像の詩人」と呼ばれ、?情的とも言える自然描?、とりわけ「水」の象?性を巧みに利用した?特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救?をテ?マとした作品を制作?監督する。
表現の自由
を求めてソ連から亡命し、故?に還ることなく、
パリ
にて54?で客死する。
生涯
[
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]
1932年
4月4日
、ヴォルガ川流域の
イワノヴォ
地?、
ユリエヴェツ
の近郊
ザブラジェ
で生れる。父はウクライナの詩人として著名な
アルセニ??タルコフスキ?
[1]
。タルコフスキ?の幼少期に父は家を出て別の家庭を作ったために、主に母親に育てられる(この間の事情は、自?的作品 『
鏡
』(1975年) に描かれている)。この幼少時にタルコフスキ?は、作曲家になる事を夢見ていたと言われる。
赤貧のうちに育ち、芸術?校でまず音?の勉?をしたが家にピアノが無いので練習不足で?念。次に?の勉?を始めるが結核で一年間療養生活を送る。東洋大?のアラビア語に入?するが一年半で中退。ちょうどアメリカ文化に影響を受けた「スチリャ?ガ」と呼ばれた若者が現れた時期であり、タルコフスキ?はその流行の先端を行くジャズと女性が好きな不良少年となった。心配した母親がシベリア地質調査隊に入隊させ、1953年から1年間をシベリアのタイガの森で過ごす。
その後、映?大?への進?を決意。父親の?力もあって
1954年
に全ソ?立映?大?に入?。落ちこぼれだったタルコフスキ?が名門のこの?校へ入?できたのは奇跡だったと友人達は?言している。
ミハイル?ロンム
のもとで映?を?んで
[2]
頭角を現し、後にやはりソ連を代表する映?監督となる
アンドレイ?コンチャロフスキ?
やその弟の
ニキ?タ?ミハルコフ
らと親交を結ぶ。アメリカかぶれは健在で3年生のときにヘミングウェイ原作の短編『殺人者』を製作。
タルコフスキ?の世代は、スタ?リン?制が終わりを告げて西側の文化がソ連に急速に流れ?んできた
雪解け
期が?年期にぶつかっており、タルコフスキ?もそうした文化に大きく感化されている。後に彼が書いた映?評論も、
ジャン=リュック?ゴダ?ル
から
ルイス?ブニュエル
、
?澤明
、
ロベ?ル?ブレッソン
、
アンディ?ウォホ?ル
、
フェデリコ?フェリ?ニ
、
オ?ソン?ウェルズ
、
ミケランジェロ?アントニオ?ニ
、
イングマ?ル?ベルイマン
など西側の映?への言及が多い。
卒業制作短編 の『
ロ?ラ?とバイオリン
』(監督)はニュ?ヨ?ク?際?生映?コンク?ルで第一位を受賞。1962年にウラジ?ミル?ボゴモ?ロフのベストセラ?小? 『イワン』 を原作とした 『
僕の村は?場だった
』に急遽代役起用され、長編映?監督としてデビュ?し、本作で1962年の
ヴェネチア?際映?祭
で金獅子賞を史上最年少(30?)で受賞(この記?は現在でも破られていない)。企?段階では?加していなかった作品ではあるが、「水」や「夢」など、??のタルコフスキ?作品を彩るモチ?フはこの時期から現れている。
??を?望されたタルコフスキ?は、1962年から63年末にかけてロシアの??的イコン?家の生涯を描いた?史大作映?『
アンドレイ?ルブリョフ
』の脚本を映?大?の後輩
コンチャロフスキ?
と共同執筆。大作ゆえの予算不足と??で苦しみながら1967年に完成するがソ連?局より「反愛?的」と指摘されて、??では5年間上映されなかった。海外では高い評?を受け、1969年のカンヌ映?祭で?際映?批評家賞受賞。ソ連では71年12月にモスクワで公開された後、地方都市でも公開されて全?で290万人を動員した
[3]
。
映?監督としての力量自?は
モスフィルム
?係者の中でも認められており、1972年には莫大な費用を費やした『
惑星ソラリス
』(
スタニスワフ?レム
原作)を製作。SF映?の?念を一?させたと評?された(ただし、原作者のレムには作品を批判された。詳細は
惑星ソラリス
を?照)。カンヌ?際映?祭審査員特別賞受賞。1975年に自?的要素の?い 『
鏡
』を完成、難解な映像が??で?しく批判される。1979年には
ストルガツキ?兄弟
との共同脚本で 『
スト?カ?
』 を撮影。??を巡ってタルコフスキ?と?局の確執は深くなる一方だったが、?自の映像芸術は世界中の映?評論家やファンを魅了し、?際的名?と評?は高まり?けた。決して??作品とは言い難い『
鏡
』を輸出する際、ソ連映?の超大作『
??と平和
』(1965-1967)より金額は高く提示したのだが、それでも?際市場では買い手はついたという逸話が?っている。80年には『スト?カ?』を含む全タルコフスキ?作品でダヴィド?ドナテロ賞受賞。
その後、あくまで芸術家の自律性と表現の自由を求めるタルコフスキ?は、ソ連を出?。イタリアにおいて
フェデリコ?フェリ?ニ
の映?に脚本家として?わっていた
トニ?ノ?グェッラ
を起用して『
ノスタルジア
』を撮影。1983年完成。カンヌ?際映?祭創造大賞、?際映?批評家賞、エキュメニック賞受賞。
ロンドンでオペラの演出などをした後
1984年
、ソ連?局からの??要請を撥ね付け事?上の亡命を宣言。ただ、事前に相談を受けた
コンチャロフスキ?
が助言したように、この頃のソ連は各種の規制緩和が進んでおり(
ミハイル?ゴルバチョフ
書記長の
ペレストロイカ
は1985年)、わざわざ亡命を宣言する必要は無かったと言われている。事?
コンチャロフスキ?
、
ニキ?タ?ミハルコフ
兄弟は亡命もせずに西側で映?を撮っていたのである。ソ連?局の??に?するタルコフスキ?の積年の嫌?と恨みはかくも?烈だった。
その後、スウェ?デンで主に
イングマ?ル?ベルイマン
の映?に携わっていたスタッフのもとで、核??勃?を背景とした 『
サクリファイス
』 を監督。1986年に完成。カンヌ?際映?祭審査員特別大賞、?際映?批評家賞、エキュメニック賞、芸術特別貢?賞受賞。映?撮影時に、末期の肺癌が判明してそのまま病床の人となる。
他方、祖?では、新たに
共産?書記長
に就任した
ミハイル?ゴルバチョフ
が公式にタルコフスキ?の名?回復を宣言し、??を認める?明を出すが、
1986年
12月29日
、パリにて客死。翌1987年1月5日、パリの聖アレクサンドル?ネフスキ?寺院で葬儀が行われ、同じく反?制亡命音?家で、友人の、
ムスティスラフ?ロストロポ?ヴィチ
が追悼の
バッハ
の
無伴奏チェロ組曲
を捧げた。
作品の評?
[
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]
主に「世界の救?」をテ?マに、夢と空中浮遊、あるいは犬や水や馬や火などを象?的に配して?自の映像美を追求した寡?な作品群は、難解という評?もある一方で、全世界に熱狂的なファンを持つ。現在ではソ連/ロシアを代表する映?監督であり、その冗長とも退屈とも取られる時間感?は「ロシア的」とも評されるが、かつての同僚
コンチャロフスキ?
は「彼はロシア文化より非常に西洋のカトリック文化の影響をうけている」という見方
[4]
をしている(ただし、コンチャロフスキ?自身の作風がどちらかと言えばアメリカ映?的であり、?際に1970年代後半以降はアメリカで監督として活動もしていた)。1970年代から1980年代初頭にかけて「停?の時代」のソ連では、宗?への回?は「作家の映?」における一特?をなしていた。タルコフスキ?の場合には、まさにこの時期にドストエフスキ?に?する映?の構想をきっかけとしてロシアの宗?思想への?心を深めつつ、19世紀ロシア?インテリゲンツィアの遺産を?承しようとしていた
[5]
。
タルコフスキ?を考える上で、更に見落としてはならないのがエリ?ト芸術家という自負心である。だが、その「エリ?ト主義」は、彼が生きた時代のソ連社?における
映?産業
の興隆や?家的威信の象?としてのステ?タス、およびソ連の映?人達自身が形成した?値?と無?係ではない。長編デビュ?作でヴェネチア映?祭の最高賞を獲得したタルコフスキ?は、雪解け期のソ連の映?界のみならず芸術界全?で、?際に「エリ?ト」として認められていたが、その後の彼の構想がソ連?局が求める公式的「社?主義リアリズム」とは相いれなかったため、絶えず?局との軋轢が起きた。タルコフスキ?は??映??社モスフィルムの映?監督であり、創作家としては特?階級であったとはいえ、その地位は決して??的に安定した生活を保?するものではなかった。後年には、家族を養うためにアルバイト的な脚本執筆の仕事をしたり、友人達から借金をせねばならなかった?情が、彼の日記からうかがえる。
彼の創作を評?する上で忘れてはならないことは、彼が19世紀インテリゲンツィアの精神的?統につらなるものとしての、ロシア的な芸術文化を?承していたことである。キリスト?的であり、芸術家のメシア的な役割を常に意識するその芸術文化において、タルコフスキ?の芸術家としての自負心は?なるエゴイズムや??心とは異なる、特殊な意味を?びていた。ソ連時代における?局との軋轢も、芸術の役割に?する宗?的と言ってよい信念が、無神論と唯物論に基盤をおくソ連の公式的イデオロギ?と?っ向から?立したということが、多分に影響していた。
エピソ?ド
[
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]
- 『アンドレイ?ルブリョフ』の撮影中には、どうしても必要だからと、怯えている他のスタッフを尻目に生きている牛に自ら火を放ち、『惑星ソラリス』の撮影中には、セットの一部から出火しスタジオを類?する火災が起きたが、タルコフスキ?は「芸術家は頭を下げないものだ」として?係者には決して謝罪しようとしなかったなどのエピソ?ドも?っている。
- ソ連を出?した後も、『ノスタルジア』の撮影中には最上級ホテルのスイ?トル?ムと最上級の食事を要求し、その上で西側のプロデュ?サ?の支?いが?いという愚痴を日記の中に延?と書き連ねているし、「芸術が大事なんですか?お金が大事なんですか?」とプロデュ?サ?に詰め寄ることもあったという。
- カンヌへの『ノスタルジア』の出品に際しては大賞受賞との交換?件での出品を?く運?サイドに要請。同時期に『ラルジャン』の出品で同?の要求をしていた、
ロベ?ル?ブレッソン
との板?みになった運?サイドは、『ノスタルジア』には特設賞の創造大賞を贈ることで決着を付けた。日本で??されている『タルコフスキ?日記』には、先にブレッソンが大賞受賞を?件にカンヌに出品したため、タルコフスキ?は?件を同じにするため運?サイドに同?の要求をしたという記述もある。また、ソ連映?の大作『??と平和』の監督
セルゲイ?ボンダルチュク
が、タルコフスキ?の受賞に?く反?していたとも言われる。
日本との?わり
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2022年4月
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|
- 若い頃から
俳句
や
日本映?
に深い?心を抱き、特に
?澤明
はタルコフスキ?のファンであり、タルコフスキ?も?澤を敬愛し、互いに親交もあった
[6]
と
溝口健二
にも傾倒していた。?澤が『
デルス?ウザ?ラ
』の撮影でソ連に?た際、タルコフスキ?は敬意をもって?待し、その後長く親交を結んだ。新しい映?を作る前には、必ず『
七人の侍
』と『
雨月物語
』を?る事にしていた、という言葉も?している。 『
惑星ソラリス
』制作の際には、未?都市の場面を大阪万博?場で撮影することを計?するが、?局からの許可が中?下りず、?日した際には?に万博は閉?していた。跡地を訪ねたもののイメ?ジ通りの撮影はできず、仕方なしに東京の
首都高速道路
の光景を撮影して使用した。?澤によれば、あの首都高の光景は、タルコフスキ?が宿泊していたホテルから?時の?澤の事務所までの道筋そのままだったという。?澤も、?時の日本で「難解」という世評が支配的だったタルコフスキ?を擁護して「タルコフスキ?は難解ではない。彼の感性が?すぎるだけだ」などと書いて、タルコフスキ?映?を??に?めるのに手を貸している。
- 『
惑星ソラリス
』では?島の
原爆
についての?話が交わされるほか、『
サクリファイス
』では、主人公の父親が自分の前世を日本人と信じており、
??
が起きた日に日本の木を植える描?がある。
- 日本の漫??アニメ?連では、
漫?家
の
手塚治?
などもタルのファンであり、スト?カ?の日本公開の劇場パンフに評を書き、このタルコフスキ?論も優れているという高い評?を受けている
[7]
。
宮崎駿
もスト?カ?を絶?しており、しかし「テレビで表?されていたのを途中からみただけ」であるが、それだけでも同作の映像に凄まじい力があると評し、同じような環境で見た
ビクトル?エリセ
の
ミツバチのささやき
と共に
?谷陽一
?談でスト?カ?を絶?
[8]
。
- 日本側では、作曲家の
武?徹
(1930年-1996年)がタルコフスキ?の作品に傾倒していた事は有名。タルコフスキ?の死を悼んで、弦?合奏曲『ノスタルジア--アンドレイ?タルコフスキ?の追憶に』を作曲し、タルコフスキ?に捧げている。
監督作品
[
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この他、1983年に
モデスト?ムソルグスキ?
の歌劇『
ボリス?ゴドゥノフ
』の舞台演出を手がけており、?後1990年の
ヴァレリ??ゲルギエフ
指揮 キ?ロフ歌劇場管弦??による上演が映像で?されている。上演時間は約220分で、タルコフスキ?が?わった作品では最も長い。
?連文?
[
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- タルコフスキ?の著作
- アンドレイ?タルコフスキ?(鴻英良?)『映像のポエジア : 刻印された時間』 (キネマ旬報社, 1988)
ISBN 4-87376-030-5
- アンドレイ?タルコフスキ?(鴻英良?佐?洋子?)『タルコフスキ?日記 : 殉??』(キネマ旬報社、1991)
- アンドレイ?タルコフスキ?(武村知子?)『タルコフスキ?日記 : 殉?? 2』(キネマ旬報社 1993)
ISBN 4-87376-049-6
- アンドレイ?タルコフスキ?(鴻英良?)『サクリファイス』(河出書房新社 1987)
ISBN 4-309-20093-1
- アンドレイ?タルコフスキイ(扇千??)『タルコフスキイの映?術』(水?社 2008)
- ?究文?
- Bird, Robert.
Andrei Tarkovsky: Elements of Cinema.
London: Reaktion, 2008.
- Chion, Michel.
Andrei Tarkovski.
Paris: Cahiers du cinema, 2007.
- Green, Peter.
Andrei Tarkovsky: The Winding Quest.
London: Macmillan, 1993.
- ピ?タ??グリ?ン『アンドレイ?タルコフスキ?: 映像の探究』(永田靖?、?文社 1994)
- Le Fanu, Mark.
The Cinema of Andrei Tarkovsky.
London: British Film Institute, 1987.
- Skakov, Nariman.
The Cinema of Tarkovsky: Labyrinths of Space and Time.
London: I. B. Tauris, 2012.
- Turovskaya, Maya.
Tarkovsky: Cinema as Poetry.
tr. by Natasha Ward. ed. by Ian Christie. London and Boston: Faber and Faber, 1989.
- ミシェル?エスティ?ヴ編、『タルコフスキ?』(鈴村靖爾?、?文社 1991)
- アネッタ?ミハイロヴナ?サンドレル編『タルコフスキ?の世界』 (キネマ旬報社 1995)
- 『タルコフスキ?、好きツ!』(ダゲレオ出版 1987)
- 落合東朗『タルコフスキ?とルブリョフ』 (論創社 1994)
- 馬場朝子編『タルコフスキ?: 若き日、亡命、そして死』 (?土社 1997)
ISBN 4-7917-5559-6
- 馬場?信『タルコフスキ?映?――永遠への?愁』(2002?みすず書房)
- 西周成『タルコフスキ?とその時代――秘められた人生の??』(2011?アルトア?ツ)
ISBN 978-4-434-15489-8
- ?井克朗『〈死〉への/からの?回としての映? : アンドレイ?タルコフスキ?の後期作品を中心に』(致良出版社 2011)
- 忍澤勉『終わりなきタルコフスキ?』 (??社 2022)
出典
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?連文?
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外部リンク
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- 殺し屋 (1956)
- Сегодня увольнения не будет...
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