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ラジバグ
(
モンゴル語
:
???????
,
ラテン文字??
:
Razibaγ
)は、
モンゴル帝?
の第11代
カアン
(
元
としては第7代皇帝)。
『
元史
』などの
漢文
史料
では
阿里吉八
(?l?jib?,
アリギバ
)などと記される
[1]
が、これはチベット語名がモンゴル語風に訛ったものである。?際に、14世紀に編纂された『
フゥラン?テプテル
』などのチベット語史書では(
チベット語
:
????????
,
ラテン文字??
:
Ra khyi phag
)
[2]
、17世紀に編纂されたモンゴル語史書『
蒙古源流
』でも
???????
???????
(Razibaγ,
リギバ
)と表記されており
[3]
、これに?って
ラキパク
とも表記される。治世の
元?
を取って
天順帝
と呼ばれることもある。
生涯
[
編集
]
傍系からカアンに?位した泰定帝
イェスン?テムル
の長男に?たり、弟には
パドマギャルポ
、
ソセ
、
ヨンダン?ジャンボ
らがいる。母の
バブカン
は長らくカアンの后妃を輩出してきた名門姻族
コンギラト
氏の出で、
泰定
元年
3月20日
(
1324年
4月14日
)に5?で
立太子
された
[4]
[5]
。なお、イェスン?テムルは立太子の?日後に次男のパドマギャルポを晋王(
ジノン
=モンゴル高原の統括者)に任じ、また甥の
バラシリ
に
オルドス高原
のチャガン?ノ?ルへ出?するよう命じており、クビライ時代に皇太子
チンキム
?安西王
マンガラ
?北平王
ノムガン
が大元ウルスの「三大王?」をそれぞれ治める?制への回?(チンキムの立場がアリギバ、マンガラの立場がバラシリ、ノムガンの立場がパドマギャルポにそれぞれ相?する)を目指していたのではないかと推測されている
[6]
。
致和
元年
7月
(
1328年
8月
)、泰定帝が病により
上都
で崩御すると、泰定帝の寵臣であった
中書
左丞相
の
ダウラト?シャ?
によってカアンに擁立され、
9月
に上都で?位した
[7]
。
しかし泰定帝の急死は、仁宗
アユルバルワダ
の治世から不遇をかこっていたことに?し不?を募らせていた武宗
カイシャン
派の軍閥たちの決起を促した
[8]
。
8月
、もう一つの都である
大都
に駐留していた
キプチャク
親衛軍の司令官
エル?テムル
は反?を起こして大都の政府機?を占?し、武宗の遺?の擁立を呼びかけた。ダウラト?シャ?は梁王
オンシャン
(天順帝の?兄)を
平章政事
、中書右丞相の
タシュ?テムル
(
中?語版
)
を軍の司令官としてエル?テムルとの交?の準備を進めた
[9]
。
天順帝の?位と同じ9月、
荊湖北道
の
江陵
にいた?王
トク?テムル
(武宗の次男)が大都に迎え入れられ、天順帝に?抗してカアンを?した。天順帝を擁する上都側は反?を押さえ?むために大都へと侵攻したが、迎え?ったエル?テムルらの軍勢に敗北し、上都軍は潰走した
[10]
。
10月になると
?モンゴル
東部を領する?王
オルク?テムル
(
ジョチ?カサル
の子孫)が大都側について上都を?み、天順帝とダウラト?シャ?は完全に孤立した。ダウラト?シャ?ら上都側の首?は大都軍に投降し、?刑された。天順帝も混?の最中に?したが、どのような最期を遂げたかは不明である
[11]
[9]
[12]
。
泰定帝の?後に起こったこれら一連のカアン位?いは、トク?テムルの立てた元?をとって「
天?
の??」と呼ばれる。天順帝の死を知った上都側の支持者たちはエル?テムルに降伏する
[12]
が、天?の??は終結を迎えず、トク?テムルとその兄の
コシラ
の間で帝位を巡る?立が?くこととなる。
晋王カマラ家
[
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]
- セチェン?カアン(世祖クビライ)
(
Qubilai Qaγan
>忽必烈/h?bilie, ???????/Q?b?l??)
- 皇太子チンキム
(?inkim >?金/zh?nj?n, ??? ???/Ch?m k?m)
- 晋王カマラ
(Kammala >甘麻剌/g?nmala, ????/Kamal?)
- イェスン?テムル?カアン(泰定帝)
(Yesun Temur >也孫?木?/y?s?nti?muer, ????? ?????/Y?s?n t?m?r)
- ラキパク?カアン(天順帝)
(
Razibaγ
>阿吉里八/?jil?b?)
- 晋王パドマギャルポ
(Badima irgelbu >八的麻亦?間卜/b?demayierji?nbo)
- ソセ太子
(Sose >小薛/xi?oxu?)
- ヨンダン?ジャンボ太子
(Yondan zhangbu >允丹?卜/y?nd?nzangbo)
- 梁王スンシャン
(Sung?an >松山/s?ngsh?n, ???????/j?ng???)
- 湘寧王デルゲル?ブカ
(Delger buqa >迭里哥?不花/diel?g?er buhu?, ????????/delger b?q?)
出典
[
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]
- ^
「阿里吉八」の表記は『元史』?107宗室世系表に?る。なお、『元史』?29泰定帝本紀では「阿速吉八(?sujib?)」と表記されているが、これは「阿剌吉八(?lajib?)」の誤記であると見る?が主流である(岡田2004,p157)
- ^
佐藤/?葉1964,80頁
- ^
岡田2004,p157
- ^
『元史』?29泰定帝本紀1,「[泰定元年三月]丙午、御大明殿、冊八八罕氏?皇后、皇子阿速吉八?皇太子」
- ^
ド?ソン 1971
, p. 189
- ^
牛根2007,88頁
- ^
『元史』?30泰定帝本紀2,「[致和元年]九月、倒剌沙立皇太子?皇帝、改元天順、詔天下」
- ^
杉山 1996
, pp. 205?207
- ^
a
b
井ノ崎 1960
, p. 460
- ^
『元史』?31明宗本紀,「[?戊辰]時倒剌沙在上都、立泰定皇帝子?皇帝、乃遣兵分道犯大都。而梁王王??右丞相答失?木??御史大夫紐??太尉不花等、兵皆次于楡林、燕帖木??其弟撒敦?子唐其勢等、帥師??、?敗之。上都兵皆潰」
- ^
『元史』?31明宗本紀,「[?戊辰]十月辛丑、?王月魯帖木??元帥不花帖木?以兵?上都、倒剌沙乃奉皇帝?出降、?京道路始通」
- ^
a
b
ド?ソン 1971
, p. 197
?考文?
[
編集
]
- 井ノ崎隆興「天順帝(元)」『アジア?史事典』 6?、
平凡社
、1960年。
- 牛根靖裕「モンゴル時代オルドス地方のチャガン?ノ?ル分地」『立命館史?』第28?、2007年
- 岡田英弘
『蒙古源流』刀水書房、2004年。
- 佐藤長/?葉正就共?『フゥラン?テプテル チベット年代記』法?館、1964年
- 杉山正明
『モンゴル帝?の興亡(下)世界??の時代』講談社〈講談社現代新書〉、1996年6月。
- C.M.ド?ソン
『モンゴル帝?史』 3?、
佐口透
?注、平凡社〈
東洋文庫
〉、1971年6月。