アスコツト

出典: フリ?百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アスコツト
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1928年
死? 不明
チヤペルブラムプトン
種秀
母の父 インタグリオ?
生? 日本の旗 日本 千葉? 成田市
生産者 下?御料牧場
馬主 ドライバ?
調?師 尾形景造 東京
競走成績
生涯成績 35?17勝
獲得賞金 6万8423円
テンプレ?トを表示

アスコツト とは 日本 競走馬 である。尾形景造( 尾形藤吉 )が 調?師 騎手 を兼務し、 1934年 春季の 目? 帝室御賞典 など特殊競走( 重賞 競走)5勝を含む17勝を?げた。その引退後は 馬術 競技馬に?身し、「バロン西」の通?で知られる 西竹一 と共に ?合馬術 競技日本代表として 1936年 ベルリンオリンピック に出場した。

?時は 促音 の表記が許可されていなかったため、字はアスコツトであるが、?音は「 アスコット 」である。以下、同?に記述する。

?? [ 編集 ]

競走馬時代 [ 編集 ]

宮?省 下?御料牧場 生産。父は チヤペルブラムプトン 、母は 小岩井農場 イギリス より導入した牝馬 プロポンチス の直仔?種秀。1?年上の 全兄 には、?時最?馬の1頭であった ワカクサ がいた [1]

3?( 1930年 )秋に御料牧場主催の セリ市 に上場され、?時尾形の雇用主であった 多賀一 に落札された。全?に貧弱な馬?で、脚部の?態にも不安が見られたため、高額馬には1万5000円以上の値が付く中、その落札額は8000円であった [2] 。調?が始められてからも尾形は大きな手?えを感じていなかったが、性格は「?順、素直で、?えることをよくのみこみ、口向きが?い(騎?者の指示に敏感で、操?しやすい)」ことに非常に驚いたという [2] 。さらに調?が進むに連れて、尾形はアスコットの身底にある根性を?取し、?初心配されたほど脚元の?態も?くなかったことから、兄ワカクサと同?の活躍が期待されていった [2] 。馬主の多賀は元 宮?省 で御召馬車の馭者を務めており、この頃の??に基づき、脚元を丈夫にするため、尾形の知らないところで坂道を?日引き?かせていたという [3]

1933年、中山四千米優勝時。騎手?尾形景造、馬主?多賀一。

1931年 10月11日 、通常より半年?れの中山秋季開催でデビュ?。尾形が騎?し、初?勝利を?げた。翌週の新呼馬優勝?も連勝、翌月の目?開催を4?2勝とし、通算7?4勝?2着3回で?年のシ?ズンを終えた [2] 。翌 1932年 1月には 阪神 へ遠征し、 鳴尾競馬場 で行われた 大禮記念 に優勝。以後腸の具合を?くして [4] 、春季は8?3勝で終えたが、秋季開催では復調し、根岸?目?の帝室御賞典における2着2回を含む16?6勝とした [5] 。最後のシ?ズンとなった 1933年 春季開催では 中山四千米 に優勝の後、目?に?じて帝室御賞典に優勝、ほか目?記念、引退レ?スとなった5月の ?浜特別 に優勝し、6?4勝?2着2回、通算35?17勝?2着13回の成績で競走生活から退いた [5] 。?獲得賞金6万8423円は、?時の最多記?であった [6]

馬術競技馬時代 [ 編集 ]

アスコット引き渡しの翌正月、尾形邸にて。最前列中央に東久邇宮稔彦王、右2番目に尾形、右4番目に多賀。右6番目は少年時代の 尾形盛次
西竹一

競走馬引退後は種牡馬入りの道もあったが、オリンピック用の馬術競技馬として?用の話が持ち上がり、同年 5月25日 には多賀と尾形が 東久邇宮稔彦 邸を訪れ、アスコットを寄贈した [6] 。東久邇宮はアスコットの訓練を 陸軍騎兵?校 に依?し、 ロサンゼルス五輪 障害飛越競技の金メダリスト?西竹一が??者となった [5] 。西が金メダルを獲得した時の騎?馬? ウラヌス はフランス産馬であり、ベルリンでは?産馬でのメダル獲得が期待され、これを託されたのがアスコットであった [7] 。その後訓練が?けられ、 1936年 ドイツ ? ベルリン での夏季オリンピックに臨んだ。この大?には日本から3頭が出場し、障害飛越の代表馬は前回大?の優勝馬ウラヌスであった。

アスコツトは ?合馬術 での出場で、初日は 馬場馬術 であった。その馬?は競技委員長グスタ?フ?ラウより「非常に立派な、注目に値する日本産純血馬」との評?を受けたが、肝心の競技では西との呼吸が合わず34位と出?れた [8] 。しかし2日目の 野外耐久審査 では、途中で沼に?るアクシデントがありながら5位に入り、?合11位に上昇 [9] 。最終日の障害飛越も、設置障害の?木一本を落としたが無難にこなし、最終的に50頭中12位の成績でオリンピックを終えた [9] 。後に西は「綜合の順位では三着以?には入れなかったが、その功績は三等以?に入れる資格を持っていたと?言できる [10] 」「我が?産馬の能力が優秀で、堂?世界各?の駿馬に互して劣らないことを示したのが本大?の一大?穫だった [11] 」と??を送った。尾形は「アスコットが??の難?を切り?けて野外騎?でゴ?ルに入ったという報告を聞いたときは、競馬で勝った時よりうれしかった」と述?し、さらに「アスコットはもう1年も調?したら?際競技用馬として大成したと思う。何しろ素性がよく、精神がよいから、?えられたとおりによく?える馬だった」と語っている [11]

なお、アスコットの他に五輪馬術競技で日本代表となった元競走馬には、 1976年 モントリオ?ル大? の?合馬術に出場した インタ?ニホン 1988年 ソウル大? 1992年 バルセロナ大? の障害飛越に出場した ミルキ?ウェイ (競走名:シルバ?タイセイ)がいる。前者は野外耐久審査で途中棄?して失?(失格)、後者はそれぞれの大?で67位?39位という成績であった。

その後アスコットは 1940年 に予定されていた 東京オリンピック に向けての訓練を積んでいたが、 盧溝橋事件 の?生? 第二次世界大? 激化への過程で同大?は中止となり、アスコットの2度目の挑?もここで途絶えた [12] 。その後アスコットは 1941年 頃まで全?の馬術競技?に出場した後、 東京都長官 に寄贈されたと?えられているが、?況?化による混?もあり、?年や最期については明らかになっていない [13]

競走成績 [ 編集 ]

  • 1931年秋季 - 6?4勝
  • 1932年春季 - 8?3勝(1着 -大禮記念)
  • 1932年秋季 - 16?6勝(2着 - 目?帝室御賞典、?濱帝室御賞典)
  • 1933年春季 - 6?4勝(1着 - 中山四千米、目?帝室御賞典、目?記念、?浜特別)

血統表 [ 編集 ]

アスコツト 血統 マッチェム系 / St. Simon 5*5×4=12.50%、 Gallopin 5×5=6.25%?母?) (血統表の出典)

* チヤペルブラムプトン
Chapel Brampton 1912
栗毛 イギリス
父の父
Beppo 1903
?鹿毛 イギリス
Marco Barcaldine
Novitiate
Pitti St. Frusquin
Florence
父の母
Mesquite 1904
栗毛 イギリス 
Sainfoin Springfield
Sanda
St. Silave St. Serf
Golden Iris

種秀 1916
鹿毛 日本
* インタグリオ?
Intaglio 1899
栗毛 イギリス
Childwick St. Simon
Plaisanterie
Cameo Thurio
Light of Other Day
母の母
* プロポンチス
Propontis 1897
鹿毛 イギリス
Matchmaker Donovan
Match Girl
Marmora Adventurer
Milliner F-No. 4-d

祖母プロポンチスは小岩井農場が1907年にイギリスより輸入した 20頭の繁殖牝馬 のうちの1頭。子孫からは??の活躍馬が出ている。

?考文? [ 編集 ]

脚注 [ 編集 ]

  1. ^ 尾形(1967) p.131
  2. ^ a b c d 尾形(1967) p.135
  3. ^ 『日本の騎手』p.95
  4. ^ 山本(2005) p.196
  5. ^ a b c 尾形(1967) p.136
  6. ^ a b 山本(2005) p.197
  7. ^ 山本(2005) pp.199-200
  8. ^ 山本(2005) p.201
  9. ^ a b 山本(2005) p.202
  10. ^ 山本(2005) p.203
  11. ^ a b 尾形(1967) p.134
  12. ^ 山本(2005) p.204
  13. ^ 山本(2005) p.206