?洲?
に渡って水産?社を興した父のもとに誕生。父の事業成功により家は裕福であったが、終?直前の
1945年
(昭和20年)7月に父が召集され、翌月にはソ連軍の侵攻に遭い、逃避行の生活を?いられた
[4]
。
翌
1946年
(昭和21年)10月に??
[1]
。
1948年
(昭和23年)に父が??し、
長崎?
で水産加工?社を始めたことで一時的に生活が安定したものの、後に倒産。
1958年
(昭和33年)に新天地を求め、一家で
神奈川?
藤?市
へ?居した
[4]
。藤?では、若山は父の事業失敗から大?進?を?念し、
資生堂
に就職した
[1]
[5]
。
若山は就職後、社の山岳部に所?した
[1]
。不慣れな地で友人がいなかったことや、??で人見知りの?い性格もあり、山の美しさ、登山の面白さに魅了された。
丹?山
をはじめ、
谷川岳
、
日本アルプス
を踏破。次第に
ロッククライミング
に傾倒し、才能が開花した
[1]
。
登山の時間を確保するため、資生堂を退職。
鎌倉彫
を習い始め、持前の器用さでたちまち腕を上げた。登山で見た雲のデザインを彫刻に取り入れるなど、?自のセンスも好評を得た。趣味の範疇を越え、師の受注品を請け負うようになり、その?入は貴重な登山費用となった
[5]
。
後に山岳?を通じて新進登山家の
新倉?行
と知り合い、新倉の誘いにより
加藤?男
(
加藤保男
の兄)の設立した山岳?「ジャパン?エキスパ?ト?クライマ?ズ?クラブ」(JECC)に?加
[5]
。加藤の指導のもとで本格的な登山を始め、谷川岳や
?高岳
などで訓練を積んだ
[1]
。
1965年
(昭和40年)には?風東稜四峰松高、右岩稜Dフェ?ス?風鵬翔の連?登攀を果たした
。
折しも?時の日本は
高度??成長
の最中であり、
1956年
(昭和31年)の
?有恒
らによる
マナスル
登頂の成功もあり、登山ブ?ムが?き起こる時代であった
[5]
。
1967年、JECC中心人物の1人である今井通子が女性だけの「東京女子?大隊」を企?すると、若山もその企?に刺激されて隊に?加し、念願の女性のみでのマッタ?ホルン登攀に挑むこととなった
[1]
[3]
。
6月23日に今井らと共に?浜港を?ち、7月1日にジュネ?ブに到着。オ?バ?グレッチャ?でのトレ?ニングを?て、マッタ?ホルンでは今井とトップを交代しつつ氷壁を42時間かけて登り、
7月19日
、マッタ?ホルン北壁の4477.5メ?トルの頂上に到達した
[4]
[7]
。その後も
モンテ?ロ?ザ
や
モンブラン
などに登頂し、9月14日に??した
[8]
。
この若山と今井の快?は、日本??外で大きく報道された
[3]
。しかし若山はその寡?な性格、および登頂自?が目的であったことから、取材攻勢に次第に疲弊した。?時の若山の手記には、??時の新聞記者やテレビ局の取材攻めにあったことが「いやなことだ
[* 1]
」と書かれている。またマスコミの中には、女性2人での登頂にトラブルや不?がなかったか詮索する者、さらには若山の寡?さを今井との不和にこじつけようとする者もいた
[8]
。
この取材攻勢は、若山の家族にも及んでいた。若山の母が娘に宛てた手紙には、23時頃から新聞社や?誌社の電話の??に追われ、深夜1時頃まで眠れなかったとある
[8]
。
取材攻勢への嫌?から、若山は次第にロッククライミングから遠ざかった
[1]
。それまでの登山仲間やJECCからも、距離を置くようになった
[8]
。その後も、今井が登山家として目?ましく活躍する一方で、若山の山行記?などには、「大勢で行くのはどうも苦手だ
[* 2]
」「一?に行く人が欲しい
[* 2]
」「自分の引っ?み思案がいやになる
[* 2]
」などと書かれている
[9]
。
1969年
(昭和44年)、
田部井淳子
らと共に「女子登攀クラブ」を設立し、世界最高峰
エベレスト
への女性だけによる登山を計?した
[1]
。1973年、?時所?していた藤?の山岳?「ブロッケン山の?」のリ?ダ?、4?年下の岡本昭二に求婚され、結婚。谷川岳での祝賀?では100人近い登山仲間に祝福を受けた。しかし同年の新婚旅行でマッタ?ホルンを登頂中、リオンヌ陵の3600メ?トル付近で足を滑らせ、夫とザイルに?がれたまま滑落死した。?33??
[3]
。
夫妻の遺?は奇跡的に、美しいままで寄り添うようだったと?えられる。遺?はヘリコプタ?で地元警察に?容され、
トリノ
で?毘に付された
[3]
。?格だった若山の父親は、娘の遺骨を抱いて「俺は美子が生まれてから、初めてこの子を抱いた
[* 3]
」と?を詰まらせた
[9]
。墓碑は?岡?の
?士?園
にある
[1]
。
田部井は
1975年
(昭和50年)に女性初のエベレスト登頂を果たし、夢半ばで死去した若山の??を山頂に埋めた
[1]
。
同1975年に小?家の
新田次?
が、若山と今井をモデルとした登山小?『銀嶺の人』を刊行した。新田は?初、今井1人だけをモデルにする予定であったが、若山の存在に惹かれ、主人公を2人に?更したという逸話がある
[3]
。
若山が今井と共にマッタ?ホルン北壁の登頂を果たした7月19日は、後に2人の快?を記念して「北壁の日」に制定された
[10]
(
7月19日#記念日?年中行事
も?照)。
若山の登攀技術は、JECCでの活動時から、女性登山家として群を?くものと評?されていた
[1]
。その?力を知る登山家は、誰もがザイルを共に組みたがっており
[3]
、多くの若い登山家の尊敬を集めていた
[2]
。
?後は、存命であれば女性登山史を塗り替えたはずの?力者と、その死が惜しまれた
[3]
。今井も後に山岳?誌『
山と溪谷
』の田部井との?談企?で、若山を「彼女は天才クライマ?だったんですよ。技術は?群だったし、寒さこらえが?い人で
[* 4]
」「パ?トナ?としては最高のひとでしたね
[* 4]
」と評している
[3]
。