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紀元節 - Wikipedia
宮中祭祀 の主要祭儀一?
四方? ? ?旦祭
元始祭
奏事始
昭和天皇 祭( 先帝祭
孝明天皇 例祭(先帝以前三代の例祭)
祈年祭
天長祭 (天長節祭)
春季 皇?祭 ?春季 神殿祭
神武天皇祭 ? 皇?殿 御神?
香淳皇后 例祭(先后の例祭)
節折 ? 大?
明治天皇 例祭(先帝以前三代の例祭)
秋季皇?祭?秋季神殿祭
神嘗祭
新嘗祭
賢所 御神?
大正天皇 例祭(先帝以前三代の例祭)
節折?大?

紀元節 (きげんせつ)は、 古事記 日本書紀 日本 の初代 天皇 とされる 神武天皇 ?位 日をもって定めた 祝日 。日付は 紀元前660年 2月11日 1873年 明治 6年)に定められた。かつての 祝祭日 の中の 四大節 の一つ [1]

1948年7月20日の「 ?民の祝日に?する法律 」公布?施行により、紀元節を含む四大節は?止された [2] 1966年 (昭和41年)に同じ2月11日が「 建?記念の日 」として ?民の祝日 となり、翌年から適用された。

2月11日の日付は、 日本書紀 神武天皇が?位したとされる神武天皇元年 紀元前660年 1月1日 の月日を、 明治 に入り グレゴリオ? に換算したものである。

紀元節の制定まで

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8世紀 初めに編まれた『 日本書紀 』によれば、 神武天皇 の?位日は「 辛酉 年春正月、 庚辰 」であり、日付は正月朔日、すなわち 1月1日 となる。

辛酉年春正月 庚辰朔 天皇?帝位於?原宮 ??『日本書紀』卷第三、神武紀

しかし、 明治5年 11月15日 1872年 12月15日 )、明治政府は 神武天皇 の?位をもって「紀元」と定め(明治5年 太政官布告 第342?)、同日には「第一月?九日」( 1月29日 )を神武天皇?位の相?日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344?)。(新?による表示である) 1873年 1月29日 は、 新? 太陽? グレゴリオ? )で ?? 太陰太陽? 天保? )のまま?えなかったときの 明治6年 1月1日 に?たる日付(?行して二つの?を進めた時に重なる日)である。折柄、明治5年 12月2日 1872年 12月31日 )の翌日をもって明治6年 1月1日 (1873年1月1日)とし、新?が施行されることになっていた。

今般太陽?御頒行神武天皇御?位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ?ル?五日御祭典被執行候事
但當日服者 [3] ?朝可憚事

??「太陽?御頒行神武天皇御?位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342?)、 [4]

第一月?九日 神武天皇御?位相當日ニ付祝日ト被定例年御祭典被執行候事

??「神武天皇御?位祝日例年御祭典」(明治5年太政官布告第344?)

1873年 (明治6年)1月29日、神武天皇?位日を祝って、神武天皇御陵遙?式が各地で行われた。同月、神武天皇?位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。同年3月7日には、神武天皇?位日を「 紀元節 」と?することを定めた(明治6年太政官布告第91?)。

今般改?ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ?シ神武天皇?位日天長節ノ?日ヲ以テ自今祝日ト被定候事

??「五節ヲ?シ祝日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第1?)

神武天皇御?位日紀元節ト被稱候事

??「神武天皇御?位日紀元節ト稱セラル」(明治6年太政官布告第91?)

ところで、これらの太政官布告に先立って、明治5年11月9日(1872年12月9日)に出されていた 太陽? を施行する旨の太政官布告では、祭典等の日付は、??の月日を新?の月日には換算せずまったく同じ?字になるように施行するものと定めていた(明治5年太政官布告第337?)。

(略)
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事
(略)

??「太陰?ヲ?シ太陽?ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337?)??

これは、祭典の執行日を新?で固定し、?年??の月日から新?の月日に換算する煩?さを避けるための規定である。例えば、例年1月1日に新年を祝って行われる ?旦祭 は、??1月1日の新?相?日ではなく新?1月1日に行うということになる。

この規定の影響などもあって、紀元節は??1月1日、すなわち ?正月 を祝う祝日との誤解が?民のあいだに?まった。?民のこの反?を見て政府は、紀元節は神武天皇?位日を祝う祝日であるという理解が?まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、 孝明天皇 の命日( 慶? 2年 12月25日 (1867年 1月30日 )、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった [5]

そこで、政府は、 1873年 (明治6年)10月14日、新たに神武天皇?位日を定め直し、 2月11日 を紀元節とした(明治6年太政官布告第344?)。

年中祭日祝日等ノ休暇日左ノ通候條此旨布告候事
(略)
孝明天皇祭 一月三十日
紀元節 二月十一日
神武天皇祭 四月三日
(略)

??「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344?)

2月11日という日付は、 文部省 天文局が算出し、??者の 塚本明毅 が審査して決定した。その具?的な計算方法は明らかにされていないが、?時の?明では「 干支 に相より簡法相立て」としている。

干支紀年法 は、 後漢 元和 2年( ユリウス? 85年 )に 三統? を?止して以降は、60の周期で?純に繰り返すようになっている [6] 神武天皇 の?位年の「辛酉年」は『 日本書紀 』の編年( 720年 (養老4年)に成立)を元に計算すると 西? 紀元前660年 に相?し、?位月は「春正月」であることから 立春 の前後であり、?位日の 干支 は「庚辰」である。そこで 西? 先?グレゴリオ? )で 紀元前660年 立春 に最も近い庚辰の日を探すと新?2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「 」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は?法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。なお、現代の天文知識に基づき?時の 月? を計算すると、この日 [7] は天文上の朔に?たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を?位日としたと考えられている。

制定後から「建?記念の日」に?わるまで

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紀元節には、宮中 皇?殿 で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙?式も行われた。 1889年 (明治22年)には、この日を期して 大日本帝?憲法 が?布され、これ以降、憲法?布を記念する日にもなった。 1891年 (明治24年)には小?校祝日大祭儀式規程(明治24年 6月17日 文部省令第4?)が定められ、天皇皇后の 御?影 (??)に?する最 敬? と万?奉祝、校長による ?育勅語 の奉?などからなる儀式を小?校で行うことになった。 1914年 (大正3年)からは全?の神社で紀元節祭を行うこととなった。 1926年 (大正15年)からは ?年? 在?軍人? などを中心とした建?祭の式典が各地で開催されるようになった。

第二次世界大? 後の 1947年 (昭和22年)、 片山哲 ?閣により、 日本?憲法 にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建?の日」として盛り?まれていたが、 連合?軍最高司令官?司令部 により削除され、法は 1948年 (昭和23年)7月に施行された。日本が?立を回復した 1952年 (昭和27年)から復活運動がおき、1957年2月13日自民? ???三 らは、建?記念日法案を??に提出し、5月15日衆議院で可決(のち審議未了)、また 1958年 (昭和33年)に??へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に?否?論 [8] あるなか?度の?案と再提案を?て、1965年2月3日首相佐藤は全?知事?議で建?記念日は2月11日が適?、祝日法改正案は政府立法で??に提出すると所信を表明、 1966年 (昭和41年)に、「建?をしのび、?を愛する心を養う。」という趣旨の「建?記念の日」を定める ?民の祝日に?する法律 の改正が成立した。同改正法では、「建?記念の日」の具?的な日付について定めず、 政令 によって定めることとしていた。そのため、同年12月、 佐藤?作?閣 は、 建?記念の日となる日を定める政令 (昭和41年政令第376?)を定めて、「建?記念の日」を2月11日とした。同政令は?日施行され、翌 1967年 (昭和42年)の2月11日に?施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建?記念の日」として祝日となった。

1966年12月8日建?記念日審議?は建?記念日を2月11日と答申し、12月9日公布された(政令)。

紀元節祭

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紀元節が祭日とされていたときには、その?日、 宮中三殿 の賢所、皇?殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全?の神社においても、紀元節祭が行われた。

紀元節祭は、初めて紀元節とされた 1873年 (明治6年)1月29日に、宮中三殿の皇?殿において行われたのが最初である。このときには皇?殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御?が行われただけであった。 1914年 (大正3年)から、全?の神社でも紀元節祭を行うように定められ、 1927年 (昭和2年)の 皇室祭祀令 の一部改正によって、賢所、皇?殿、神殿において行われるようになった。

皇室祭祀令が定める大祭のひとつで、天皇が皇族および官僚を率いて親ら祭典を行う。天皇の出御は午前9時30分で、御??御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御?、皇族の御?がある。?列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の??が許された。?夜は賢所御神?の儀に準じて皇?殿に御神?の奏?があり、このとき天皇が御?して、入御ののち神?に移った。天皇は、神?が終わるまで就?しなかった。 伊勢神宮 、官?幣社以下の神社においては、 1914年 (大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。

1947年 (昭和22年)5月2日の 皇室祭祀令 ?止、 1948年 (昭和23年)7月20日の 休日ニ?スル件 ?止を受けて、 1949年 (昭和24年)以降、大祭としての紀元節祭は行われなくなった [9] 。ただし、 昭和天皇 は同年の2月11日より、宮中三殿において、 臨時御? (りんじぎょはい)として、旬祭と同じ作法で親?を行った [10] 。平成以降は 三殿御? (さんでんぎょはい)に名?が改められ、同?に天皇の親?が行われている [11] ?原神宮 へも 勅使 が派遣され [12] 、御神?奉納は 神武天皇祭 (4月3日)に?せて行われている。

民間では、一部の有志によって建?祭などと名?を?えて式典が行われている。また、 1967年 (昭和42年)の建?記念の日制定以降、全?の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。 神社本? などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮??はこれを拒否している。 右翼?? は21世紀にも 建?記念の日 に「紀元節」を奉祝する集?や 街宣活動 を日本各地で行う [13] [14]

唱歌「紀元節」

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高崎正風 作詞、 伊?修二 作曲の唱歌「紀元節」が 1888年 (明治21年)に?表され、 1893年 (明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。

一、雲にそびゆる?ちほの?ねおろしに艸も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎの?みくら千代よろづ世に動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ ??紀元節 高崎正風

紀元節の2月11日という日付の由?については、「建武年間記」「建武年中行事」によると、 延喜式神名帳 筆頭にある宮中?の座神「 韓神社 」の祭りを、建武2年2月11日に 後醍?天皇 が執り行ったことに由?するとする?がある [15]

その他

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紀元節には、 社?事業 ??を目的に 宮?省 から、業績が?著な病院(財?法人)等に?し、金一封が下賜された [16] 。また、都道府??位で社?事業功?者、?育功?者、産業功?者等に?する表彰?達が行われていた [17] 。表彰制度の多くは、第二次世界大?後も?けられているが、表彰日は他の節目に行われる例も多くなった。

天皇の?位など節目の年の紀元節には 恩赦 が行われた。 具?的には 1934年 (昭和9年)の紀元節では明仁親王誕生を記念した恩赦が、 1938年 (昭和13年)の紀元節では憲法?布50年を記念した恩赦が行われている、?時服役していた 五?一五事件 の首謀者の例では、刑期をそれぞれの恩赦時に1/4減刑されるなどの恩?を得ている [18]

脚注

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  1. ^ 四大節 は、?制度の4つの祭日で、紀元節(2月11日)、 四方節 (1月1日)、 天長節 明治節 を指す。
  2. ^ 小野雅章「 象?天皇制下における祝日?校儀式の展開過程?: 復古的天皇?と象?天皇?との相克 」『?育學?誌』第57?、日本大??育??、2021年3月、1頁、 doi : 10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.57.0_1 ISSN  02884038 CRID  1390850578954444160  
  3. ^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
  4. ^ ?閣官報局編『法令全書』、?立???書館?近代デジタルライブラリ?
  5. ^ この不都合を回避するため、 1873年 明治 6年)の「孝明天皇御例祭」(孝明天皇の命日の祭祀)は、1月23日と定められた。
  6. ^ 三統? までは 木星 の運行を考慮する「超辰法」が用いられた。
  7. ^ 天文?上の記法では?659年2月18日、 ユリウス通日 は1480407、 ユリウス? では紀元前660年2月18日となる。
  8. ^ たとえば、 三笠宮崇仁親王 は、科?的根?に欠けると?史?者としての立場から復活に批判的であった。
  9. ^ 大岡弘「『元始祭』?びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭?遇の?遷について」『明治聖?記念??紀要』、復刊第46?、2009年、p113
  10. ^ 大岡弘「『元始祭』?びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭?遇の?遷について」『明治聖?記念??紀要』、復刊第46?、2009年、p113
  11. ^ 三殿御? ”. 宮??. 2024年1月15日 ??。
  12. ^ 「皇室祭祀と建?の心」 日本?議
  13. ^ 最近の?外情勢 2017年2月
  14. ^ ?外情勢の回顧と展望 令和二年(二?二?年)一月
  15. ^ 林?梧『「日本書紀」の暗?―?相の古代史』講談社、日本、1990年。 ISBN  4062049635  
  16. ^ 富山市史編纂委員?編『富山市史 第二編』(p842)1960年4月 富山市史編纂委員?
  17. ^ 富山市史編纂委員?編『富山市史 第二編』(p900)1960年4月 富山市史編纂委員?
  18. ^ 山岸ら海軍側の三人も?出所『東京朝日新聞』(昭和13年2月2日夕刊)『昭和ニュ?ス?典第6? 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュ?ス事典編纂委員? ?日コミュニケ?ションズ刊 1994年

?考文?

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  • 日本文化?究?『神武天皇紀元論?紀元節の正しい見方』立花書房、 1958年 (昭和33年)3月。

?連項目

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