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第十雄洋丸事件 - Wikipedia

第十雄洋丸事件

1974年に日本で?生した事故

第十雄洋丸事件 (だいじゅうゆうようまるじけん)とは、 1974年 昭和 49年) 11月9日 千葉? 木更津市 沖の 東京? 上で?生した LPGタンカ? の衝突?炎上事故 [1] [2]

第十雄洋丸事件
日付 1974年 (昭和49年) 11月9日
時間 13時37分頃(JST)
場所 日本の旗 日本 ? 千葉? 木更津沖 の東京??
死者?負傷者
33名死亡、7名負傷
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大型タンカ?「第十雄洋丸」に貨物船が衝突して 火災 が?生し、?方の?員計40名が死傷した。 海上保安? などによって多?の消防船が投入されて消火活動が?施されたが、最新?の 消防船 を投入しても火災を?火することができず、最終的に 海上自衛隊 護衛艦 による 砲? 等と ?水艦 雷? で第十雄洋丸を 太平洋 上で ?沈 ?分することによって事態が?拾された。

?過 編集

衝突事故の?生まで 編集

1974年(昭和49年) 11月9日 13時37分頃、 サウジアラビア から 京浜港川崎? へ向け、合計57,000トンの プロパン ブタン 及び ナフサ を積載して 東京? 中ノ?航路 水先 艇である「おりおん1?」の先導で航行中であった 日本 船籍 のLPG?石油混載タンカ?「第十雄洋丸」 [注 1] (?トン?:43,723トン)の右舷 船首 へ、 木更津港 を出港して中ノ?航路に入ろうとした15,000トンの 鋼材 を積んだ リベリア 船籍の貨物船「パシフィック?アレス」(?トン?:10,874トン)が正面から突っ?む形での衝突事故が?生した。

事故に至った原因は、「第十雄洋丸」側が中ノ?航路を航行していたことで船?が完全に 航路 を?けるまで 海上交通安全法 による 航路優先の原則 が適用されると考え、また、「パシフィック?アレス」側は中ノ?航路北側出口付近をかすめる航路をとったことによる 航路外 での 海上衝突予防法 による スタ?ボ?ド艇優先の原則 が適用されると考えたことにより、?方の船長が進路保持義務が自船にあると考え、衝突直前まで回避行動をとらなかったためであった。

炎上 編集

「第十雄洋丸」の衝突箇所には穴が開き、漏れ出た積荷のナフサが衝突時に生じた 火花 引火 して 爆? 、衝突箇所からは が噴き出して「第十雄洋丸」の右舷船首に食い?んだままの「パシフィック?アレス」を?き?む大火災に?展、さらに周? 海域 へ流れ出したナフサが 海面 で炎上したため、?り一面が火の海と化した。

海上保安? 巡視船 を動員して、事故に?づいて?ってきた「第十雄洋丸」の水先艇の「おりおん1?」とともに 救助 活動を開始した他、 消火 活動を行うために自前の 消防船 ひりゆう 」及び「しようりゆう」を出動させ、 海上消防委員? ?びに沿岸の 東京消防? ?浜市消防局 及び 川崎市消防局 にも?援出動を依?し、海上消防委員?からは所?する消防船「おおたき」が派遣された他、東京消防?、?浜市消防局及び川崎市消防局も所?する消防艇を派遣した。

こうして消火が開始されたものの、「第十雄洋丸」は?時日本最大のLPG?石油混載タンカ?で、合計57,000トンに及ぶ多量の 可燃物 を積んでいたため消火は困難を極め、16時40分頃には「第十雄洋丸」が積荷の可燃物に引火して大爆?を起こした。この間にも「第十雄洋丸」は「パシフィック?アレス」とともに衝突時の形態を保ったまま、現場から南西方向に 漂流 を?けていたため、衝突した?船を引き離すことが急がれ、19時頃に火勢が衰えたのを見計らって接近した タグボ?ト が「パシフィック?アレス」に曳索を掛けて引き離し、現場から10 kmほど離れた場所まで 曳航 した。

この時に至っても一方の「第十雄洋丸」は炎上し、 ?須賀市 方向へ向けて漂流を?けていたため、海上保安?は「第十雄洋丸」を安全な場所へ 座礁 させることにしたが、?時の海上保安?に大型船舶を曳航できる機材はなく、 深田サルベ?ジ建設 に曳航を依?した。深田サルベ?ジ及び現場のタグボ?トは、消防艇の放水支援の下、民間タグボ?トの船長が放水支援を受けながら船?後部に接近、直接船?を手で?って?度確認を?施した後、進入可能として船員3名が船尾のパイロットラダ? [注 2] より?船、船尾作業甲板に曳索を取り付けて曳航を開始し、 千葉? 富津 沖の??に座礁させた。なお曳航開始地点は?須賀市の 防波堤 から1.8 kmの位置であり、曳航に失敗した場合、?須賀市が焦土化する恐れもあった。

11月10日 以降、衝突した?方の船について ?索 が開始され、?火したものの?出者が確認されなかった「パシフィック?アレス」からは28名の?牲者及び1名の生存者が?見された一方、火勢の衰えた「第十雄洋丸」においても5名の?牲者が?見され、?索は 11月19日 まで行われた。

その後、地元の 漁業 ?係者から 抗議 を受けた海上保安?は「第十雄洋丸」を東京?外に移動させることを決定、曳索の取り付けられた「第十雄洋丸」はタグボ?トによって引き出され、?外へ曳航されていったものの、 ?潮 から外れた予定の地点に達する前に?っていた積荷のナフサが爆?炎上したことから?潮上で曳索を切り離したため、「第十雄洋丸」は?潮に?って炎上しながら漂流を始めた。

海上自衛隊による?沈?分 編集

要請に至る?緯 編集

11月21日、 海上保安? は「第十雄洋丸」の沈??分の決心を固め、22日の閣議決定を?た後、海上保安?長官は 防衛?長官 ? 宇野宗佑 に、「雄洋丸」のなるべく速やかな沈??分を目的とする災害派遣を要請した。同日夜、宇野は 自衛艦隊 災害派遣 により?分することを命じた [1]

事故?日の9日の夜以?、 海上幕僚監部 では、砲爆?による?沈を含め、海上自衛隊の支援について海上保安?との事前協議が行われていたが、海上自衛隊としては、?爆?射によって商船を?分するということが?民感情に及ぼす影響を考慮し、?重に??していた [1] 。?初、 自衛隊 の出番はないと考えていた 自衛艦隊司令官 ? 中村悌次 は、11月22日に宇野から打診を受けて?沈?分を了承した [2]

出動準備 編集

11月23日、下記のように?分部隊が編成され [3] 、?分期日を11月28日、予備29日となった [1]

11月25日午後、海上保安?の 第三管?海上保安本部 および雄洋海運(船主)各??者から、海上自衛隊への?況?明が行われた。?初、自衛隊では、軍艦よりも商船は防御力が脆弱であり、LPGのタンクに??の?丸を?ち?めば炸裂で誘爆するのではないかとの期待もあった。しかし?際には、同船は船?に複?のタンクを持つ 浮力 の大きなタンカ?であり、船?外板や上甲板および各タンクには8~20ミリ厚の 高張力鋼 が使用され、船?は極めて堅固な構造であるうえに、LPGを爆?させるには空?との相?な混合が必要で、砲?をタンク?で炸裂させても誘爆は期待できないことが判明した [3]

これらの情報を踏まえて、?施計?の大綱における方針は、2次被害を局限するため、成し得る限り重油の流出を避け、「雄洋丸」を?潮流域外水深1,000メ?トル以深の位置で沈?させることとし、射?による舷側破?、爆?による上甲板破?、雷?による水線下破?を適切に組み合わせ、ナフサとLPGの燃?を促進した上、船?浮力の喪失を?り、最小限の??類をもって沈?させることとした [1] 。この?施計?は、翌26日午後に行われた?分部隊の?究?において、部隊に?し示された [2] [3]

使用する魚雷としては、?初、最新?の直進魚雷で炸?量も多い 72式魚雷 が?討されていたが、制式化直後だったこともあり、約1ヶ月の整備期間を要することが判明して、急遽、 Mk.37 が使われることになった [4] 。この魚雷を調整できる水雷調整所が?だけであったため、現場最寄りの ?須賀 所?の?水艦を差し置いて、 ?基地 所?の「なるしお」に白羽の矢が立ったものであった [5]

Mk.37魚雷は誘導機能を備えたホ?ミング魚雷だが、漂流する「第十雄洋丸」にはその目標となるドップラ?がないことから、ホ?ミング魚雷ではなく直進魚雷として使用することになり、防衛??自衛隊およびメ?カ?である 三菱重工業 が突貫作業でドップラ?制限を外すための改修を?討??施した [4] 。この改修作業のために、「なるしお」の到着は航空機?水上艦よりも?れている [2]

?動 編集

水上部隊は 11月27日 ?に現場海面に到着 [1] 、巡視船「 みやけ 」「 のじま 」と合流した。「はるな」から?進した HSS-2 ヘリコプタ? の調査により、「雄洋丸」右舷の外板の一部が熱で?落していることが判明し、まずここを射?することとなった [6]

13時45分から14時5分にかけて、??陣同航?勢で5インチ砲による第1回射?を?施した。これにより、右舷3?4番ナフサタンクが破?されて大火災が生じ、また右舷が?くなったことで左へ約10度傾いた。?いて15時半から16時5分にかけて、今度は??陣反航?勢で第2回射?を?施し、左舷1?2番ナフサタンクを破?した [3] 。これらの射?によって積荷のプロパンやナフサが炎上し、火炎の高さは約100メ?トルに達した [1] 。水上部隊は周?を巡回しながら監視を?け、翌日に備えることとなった [3]

11月28日 は、9時から10時20分にかけて、航空機による射爆?が行われた [3] 。まず4機の S2F が2機ずつの 編隊 に分かれて127 mm ロケット? の射?を行った。?いて3機のP-2Jの ??爆? による爆?が行われた。P-2Jが?水艦を爆?する際には高度200フィ?ト (61?m)での低高度爆?を行っていたが、今回の攻?では高度3,000フィ?ト (910?m)からの水平爆?を行うことになっており、デ?タがなく照準器が使えなかったことから、航法用の偏流測定儀を使って照準することになり、太平洋??中の 艦上攻?機 の搭?員??者を中心にして徹夜で 射表 が作成された [3]

11時より、「なるしお」による雷?が開始された [3] 。1本目は、?射後規定の時間が?過しても航走を開始しなかったため、水打ち(艦外放棄)とした。しかしこのとき、魚雷に付き添って?水雷調整所から派遣されていたベテランの整備員(1等海曹)が、これ以降の魚雷でも?動?れが生じることを予想して、艦長に?し、2?目以降では60秒待つように進言した。艦長がこの進言に?ったところ、予想通り、いずれもやや?れて航走を開始し、2本目は左舷に、また3本目は船?中央付近に命中した。ただし4本目は、調定深度が深い魚雷を使用したために命中せず、船底を通過したまま行方不明となった [4]

その後も「雄洋丸」は健在だったことから、まず15時12分より「ゆきかぜ」?艦が同航?勢で右舷1番タンクに?し射?を?施したのち、16時16分にかけて、??陣反航?勢で左舷への射?を?施した [3]

18時47分、20日間炎上し?けた「第十雄洋丸」は 犬吠埼?台 の東南東約520 kmの海域に沈?した。「第十雄洋丸」の船?が水?した後も、船?がきしむ音が「なるしお」の ソナ? で記?されている [5] 。護衛艦各艦では、信?員がラッパで「悲しみの譜」を吹奏し、また 汽笛 で超長音を吹鳴して、見送った [3]

海難審判 編集

この事件は、?時日本最大級のLPGタンカ?の積荷が爆?炎上、多?の死者を出した他、東京?航路の根幹とも言うべき中ノ?航路を事?上、閉鎖?態にするという重大な事態を招いたために 運輸省 (?時) ?浜地方海難審判? (?時)によって指定重大海難事件とされて 海難審判 の?象となり、受審人として第十雄洋丸?係者から第十雄洋丸 船長 、第十雄洋丸三等 航海士 、第十雄洋丸次席三等航海士及び?時水先艇を務めていたおりおん1?船長が指定され、指定海難?係人には第十雄洋丸船舶所有者及びパシフィック?アレス運航者が指定されて1974年12月26日に第一回審判が開かれた。

海難審判では、 海難審判? の調査によって事故に至るまでの次の?過が判明している [7]

  • 「パシフィック?アレス」が 木更津港 からの出港前に 水先人 から使用していた 海? の不備を指摘されて修正を受けたこと。
  • 「第十雄洋丸」が水先艇との間隔を一定に保つべきところを時間の?過とともに距離が縮まっていったこと。
  • 「第十雄洋丸」が衝突の約6分前に「おりおん1?」とともに右舷38度弱の方向、約1.5 海里 の距離に「パシフィック?アレス」を視認していたこと。
  • ?船がともに衝突直前まで減速を含む回避行動を取らなかったこと。

その後、 1975年 (昭和50年) 5月23日 に「(判決?容)」との第一審の裁決が言い渡されたが、これを不服とする第十雄洋丸?係者から第二審の請求がされ、第二審は高等海難審判?(?時)において同年 8月26日 から同年 12月17日 までの間で審理が行われた結果、 1976年 (昭和51年) 5月20日 に衝突場所が航路外の場所であったものの、「第十雄洋丸」は衝突時において船尾の50 mほどを中ノ?航路?に?していたことから、このような形で競合する場合においては海上交通安全法による航路優先の原則が優先される旨の判?を下し、「本件衝突は、パシフィック?アレスの不?運航に因って?生したが、第十雄洋丸船長の運航に?する職務上の 過失 もその一因をなすものである」を主文とし、事故の主たる原因が「パシフィック?アレス」の不適?な航路の?切りにあることを認めながらも、第十雄洋丸船長が 海上衝突予防法 第29?(?時)に規定するグッドシ?マンシップに基づく「船員の常務」として行うべきである「パシフィック?アレス」との衝突を回避するための最大限の努力を怠った責任を追及する?容を理由として第十雄洋丸船長の 船長免? の?力を1ヶ月間停止する第二審の裁決が言い渡されて確定した。

なお、この海難審判においては、最終的に第十雄洋丸船長を除く受審人は全員が「過失と認めない」または「本件事故と?係なし」とされた他、指定海難?係人は全員が「本件事故と?係なし」として?理されている。

結果と?訓 編集

この事故においては、?船の衝突位置の?係とその後の火の廻り方から、「第十雄洋丸」では延?による積荷の大爆?を悟った第十雄洋丸船長による適切な時期での?員退船命令により、海へ飛び?む、延?していない救命艇を下ろす、 海上保安? 巡視船 や「おりおん1?」に移?するなどの方法で?出し、最後まで船に?っていた第十雄洋丸船長と同船甲板長も海上保安?の巡視船からの退船?告に?って11月9日14時5分頃に?出、?組員38名のうち、6名の負傷者を含む33名の第十雄洋丸?組員が救助され、死者が5名であったのに?して、「パシフィック?アレス」は第十雄洋丸に食い?んだまま船全?が一瞬にしてナフサの炎で包まれて閉じ?められたため、?出することも外から救助することもできず、?組員29名のうち機?室床面と船底の中間に?たるビルジウェルにいて火災をやりすごすことのできた二等 機?士 1名を除く船長以下28名が死亡した。

1965年 (昭和40年)の「機船ヘイムバ?ド?橋衝突事件」(ヘイムバ?ド?衝突炎上事件) [8] で整備された「ひりゆう」型消防船3隻を消火活動に?事させても?火に至らず、第十雄洋丸の曳航を民間企業に?らざるを得なかった反省から、 ひりゆう型消防船 「かいりゆう」「すいりゆう」が追加建造されたほか、現場 指揮 能力と船舶の曳航能力を持った たかとり型巡視船 が2隻建造され ?須賀港 高松港 に配備、さらにひりゆう型消防船を補完する ぬのびき型消防艇 が10隻建造、全?各地に配備された。この事件を?訓にして 羽田特殊救難基地 の前身となる特殊救難隊が創設されることとなった。

映像化 編集

脚注 編集

注? 編集

  1. ^ 海難審判所 のホ?ムペ?ジによる船名は、第 雄洋丸である。
  2. ^ 水先人 が?降するための 梯子

出典 編集

?考文? 編集

  • 海上幕僚監部 編「第1章 海上警備隊創設から4次防時代まで」『海上自衛隊50年史』2003年。 NCID  BA67335381  
  • 後藤, 博康「第10雄洋丸?分射?」『第1? 射?』 水交? 〈海上自衛隊 苦心の足跡〉、2010年、572-578頁。  
  • 齋藤, 隆 「海上自衛隊?水艦60年の?み (特集 海上自衛隊?水艦の60年)」『 世界の艦船 』第821?、 海人社 、2015年9月、69-77頁、 NAID  40020544314  
  • 中村, 悌次 『生涯海軍士官-?後日本と海上自衛隊』中央公論社、2009年。 ISBN  978-4-12-004006-1   中村は本事件時の自衛艦隊司令官。
  • 東, 裕一「第十雄洋丸にまつわる思い出」『第7? 固定翼機』水交?〈海上自衛隊 苦心の足跡〉、2017年、679-683頁。  
  • 山口, 春男「第十雄洋丸?分における魚雷整備について」『第4? 水雷』水交?〈海上自衛隊 苦心の足跡〉、2013年、344-353頁。  

?連項目 編集

外部リンク 編集