1828年
長府
印?(現?
下?市
長府印?町)で、
長府藩
狩野派
の御用?師だった
狩野晴皐
の家に生まれる。芳崖の狩野家は、
桃山時代
に
狩野松?
から狩野姓を許された松伯に起源を?し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用?師となり、5代察信(さつしん)の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に?たる。
芳崖も幼い頃から、父の後を?ぐべく?道に?んだ。少年時代の作品は10点近く現存しており、早熟の才能を示している。
弘化
3年(
1846年
)19?で、父も?んだ木挽町狩野家(
江?狩野
)に入門、
狩野雅信
(勝川院)に?ぶ。嘉永3年(
1850年
)には弟子頭となり、同年同日入門
[3]
し生涯の友になる橋本雅邦と共に「?虎」「勝川院の二神足」と?された。?塾修了の?として、勝川院雅信から「勝海雅道」の?と名を?えられる。この頃、父の修行仲間で?時?塾で顧問役を務めていた
三村晴山
の紹介により、近くで塾を開いていた
佐久間象山
と出?い、その?陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も?似したといわれる。
その後、藩から父とは別に30石の?を給され、御用?師として江?と長府を往復する生活を送る。
安政
4年(
1857年
)近?の?師の娘よしと結婚。幕末の動?期には、?勝祈願の?馬「
武?宿?
投珠?」(
忌宮神社
?)や、「
馬?海?
測量?」(
下?市立長府?書館
?)を描くなど、?時の社?と密接した芳崖の活動がうかがえる。この頃、自ら?套を?し一頭地を出る意味を持つ雅?を探り、
?
の「?の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という?えから、法外と音通の「芳崖」の?を使い始めた?えられる。
明治維新
後、いわゆる「武士の商法」で
養?
業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら
南?
風の作品や、近所の
豪農
や
庄屋
の屋敷に出向き、?や杉??を描いた。明治10年(
1877年
)?憺たる窮?に見かねた友人たちの?めで上京したが困窮は?わらず、日給30?で
陶磁器
の下?を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(
1879年
)芳崖の窮?を見かねた雅邦や同門の
木村立嶽
の紹介で、
島津家
雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「
犬追物
?」(
?古集成館
?)を制作する。
同じ年に生まれ、同時代を生きた
高橋由一
が、
日本
近代洋?の最初の?家だとすると、近代日本?史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人?家
ワ?グマン
との出?いが決定的であったのと同?、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家
フェノロサ
との出?いが重要であった。日本美術を高く評?していたフェノロサは、日本?の?統に西洋??の??や空間表現を取り入れた、新?日本?の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた
[4]
「仁王捉鬼?(におうそっきず)」は
鑑??
大?で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人??家となった
[5]
。フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼?を?時の?理、
伊藤博文
に見せて日本?の可能性を示し、
東京美術?校
(後の
東京藝術大?
)設立の契機とした。
フェノロサと知り合った明治15年(
1882年
)、肺を病み、すでに54?であった芳崖に?された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母?音」が誕生した。この?の?音像の衣文表現などには??や水墨?の描法が看取される一方、色彩感?や空間把握には西洋?の息吹が感じられる。芳崖は東京美術?校の?官に任命されたが、「悲母?音」を書き上げた4日後の
1888年
11月5日
、同校の開?を待たずに死去した。享年61。墓所は東京
谷中
の
長安寺
。芳崖の父の
菩提寺
である下?の
?苑寺
には、芳崖の座像がある。
弟子に、芳崖四天王と呼ばれた
?史?
を良くした
岡倉秋水
(
岡倉?三
(天心)の甥)、
山水?
に特色がある
本多天城
、「??師」と?した
高屋肖哲
、草花?を得意とした
岡不崩
など。芳崖死後、明治29年の『太陽』(二?二?)には、
河鍋??
、
菊池容?
と共に「近世の三大?家」と紹介されているが、芳崖本人は彼らの?に不?だったらしく、「
北?
や??は腕が余り達者過ぎて下品なものになったのだ。容?や
是?
なども器用が過ぎたのである」と弟子の岡不崩に漏らしている
[6]
。
作品名
|
技法
|
形??員?
|
寸法(?x?cm)
|
所有者
|
年代
|
落款?印章
|
備考
|
?馬?
|
板?著色
|
?馬1面
|
31.2x40.2
|
東西山?地?(
下?市立美術館
寄託
)
|
1842年(天保13年)
|
|
山口?指定文化財
|
?馬?
|
板?著色
|
?馬1面
|
109.2x82.4
|
忌宮神社
|
1856年(安政3年)
|
|
山口?指定文化財
|
??像
|
紙本著色
|
1幅
|
56.2x57.0
|
下?市立長府?書館
|
1860年(安政7年)
|
無
|
長府藩主?
毛利元運
息女??子が、安政7年2月同藩家老?細川周崔に嫁ぐ際に描かれた。
?
を抱いた立ち膝姿で表し、容貌には像主の性格がよく表れている。
|
武?宿?投珠?
|
板?著色
|
?馬1面
|
83.8x58.0
|
忌宮神社
|
1864年(元治元年)
|
|
山口?指定文化財
|
駿牛?
|
板?著色
|
?馬1面
|
37.2x57.5
|
菅原神社(下?市)(
住吉神社 (下?市)
寄託)
|
1864年(元治元年)
|
|
山口?指定文化財
|
韓信股??
|
板?著色
|
?馬1面
|
64.3x95.1
|
忌宮神社
|
1865-67年(慶?年間)頃
|
|
山口?指定文化財
|
予?裂衣?
|
板?著色
|
?馬1面
|
60.9x91.6
|
住吉神社 (下?市)
|
1865-67年(慶?年間)頃
|
|
山口?指定文化財
|
?老人?
|
紙本墨?淡彩
|
1幅
|
183.2x78.5
|
?岡?立美術館
|
1881-85年(明治14-18年)頃
|
|
|
犬追物?衝立
|
紙本著色
|
1基
|
95.1x158.5
|
三の丸??館
|
1882年(明治15年)頃
[7]
|
|
|
?音
|
絹本墨?淡彩
|
1幅
|
163.6x84.8
|
フリ?ア美術館
|
1883年(明治16年)頃
|
款記「芳崖」
|
第2回パリ日本美術???出品。後年の悲母?音?に先行する作品。
|
壽老人
|
紙本墨?著色
|
1幅
|
125.5x182.0
|
泉屋博古館分館
|
1877-86年(明治10年代)
|
|
|
柳下放牛?
|
紙本著墨?淡彩
|
1幅
|
58.7x112.85
|
福井?立美術館
|
1885年
|
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|
伏?羅漢
|
紙本著色
|
1幅
|
149.0x89.5
|
福井?立美術館
|
1885年
|
|
|
谿間雄飛?
|
紙本墨?淡彩
|
1幅
|
93.2x165.7
|
ボストン美術館
|
1885年
|
|
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江流百里?
|
紙本墨?
|
額1面
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61.6x136.7
|
ボストン美術館
|
1885年
|
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仁王捉鬼?
|
紙本著色
|
1幅
|
123.8x64.0
|
東京?立近代美術館
|
1886年
|
|
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不動明王
|
紙本著色
|
1幅
|
158.0x78.8
|
東京藝術大?
|
1887年
|
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重要文化財
。原?は
フリ?ア美術館
が所?している
|
大鷹
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絹本墨?
|
1幅
|
325.3x203.9
|
東京藝術大?
|
1888年
|
|
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悲母?音
|
絹本著色
|
一面
|
195.8x86.1
|
東京藝術大?
|
1888年
|
|
重要文化財。絶筆。
|
-
仁王捉鬼?(1886年、東京?立近代美術館)
-
伏龍羅漢(1885年、福井?立美術館)
-
不動明王(1887年、東京藝術大?)重要文化財
-
獅子?(1886年頃、東京藝術大?)
-
江流百里?(1885年頃、ボストン美術館)
-
大鷲(1888年、東京?立近代美術館)
-
壽老人(1877-1886年頃、泉屋博古館分館)
- ^
『
狩野芳崖
』 -
コトバンク
- ^
鑑??
に?加した頃、芳崖?雅邦?
狩野友信
の三人が酒を?んでいると、
?
についての話が始まった。その時芳崖は、「オイ雅邦さん、俺とお前は
天狗
ではないが、世間の奴の?に??の力で?は描かないぜ。なぜならば、これから二人でこれから二人で西洋各?の人?に頭を下げさせる?な
神品
を描こうと思って居るぢゃないか。全?世間の奴は??でもやるとね、
河童
の?のような?を描いて?味だの何のなのと云って喜んで居るが、それは
茶人
の玩具になるのさ(後略)」と言い、手を叩いて二人して大笑いしたという(狩野友信「雅邦翁?談」『日本美術』109?、明治41年(
1908年
)3月)。こうした逸話から、?者を芸術の上でも同士であり、日本?の革新運動を進めた二人の姿を見て取ることが出?る(『
重要文化財
白雲紅樹
橋本雅邦筆
』展??、東京藝術大?藝術資料館、1992年、46頁)。
- ^
狩野養信
「公用日記」4月18日
- ^
荒井?、高林弘?、二宮修治、新免?靖、難波道成、佐藤香子、松崎?子、伊東?、?井基充「
狩野芳崖筆「仁王捉鬼」の?光X線分析による顔料調査報告
」『東京?芸大?紀要 芸術?スポ?ツ科?系』第59?、東京?芸大?紀要出版委員?、2007年、43-57頁、
ISSN
18804349
、
NAID
110006471835
。
- ^
『日本の?家-近代日本?-Color books deluxe』 第42?
細野正信、保育社, 1974
- ^
岡不崩「志のぶ草」日英社、明治43年(
1910年
)12月(『?後百二十年 菊池容?と明治の美術』
練馬?立美術館
、1999年、19頁)
- ^
宮??三の丸??館編集 『駒競べ―馬の晴れ姿 三の丸??館展????No.73』 宮??、2016年7月9日、第6?。
- 展????
- 山口?立美術館編集??行 『開館記念特別展 生誕150年狩野芳崖??』 1979年10月6日
- 京都?立博物館
編集 『?後一??年記念 特別展 狩野芳崖─近代日本?の先?─』 京都新聞社、1989年2月28日
- 古田亮
ほか編集 『狩野芳崖 悲母?音への軌跡 ―東京藝術大?所?品を中心に―』 芸大美術館ミュ?ジアムショップ (有)六文?、2008年8月
- 野地耕一? 平林彰 椎野晃史編集 『狩野芳崖と四天王 近代日本?、もうひとつの水脈』
求龍堂
、2017年9月23日、
ISBN 978-4-7630-1723-9
ウィキメディア?コモンズには、
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