1862年
(
文久
2年)、
土佐?
佐川村(現:
高知?
高岡郡
佐川町
)で、近隣から「岸屋」という屋?の
商家
(
?貨
業)と
酒造業
を?む裕福な家に生まれた
。平民身分であったが苗字?刀も許されていたという
。
元は「成太?」という名であったが、3?で父の佐平を、5?で母の久壽を、6?で祖父の小左衛門を亡くしたころ、「富太?」に
改名
している
。その後は小左衛門の後妻である血の?がらない祖母の浪子に育てられた
[7]
。
10?より西谷にある土居謙護の?える
寺子屋
へ通い、11?になると
義校
である名?館
[注? 2]
(めいこうかん)に入り
儒?者
伊藤蘭林
(
1815年
-
1895年
)
[8]
に?んだ
。?時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港?工?の父」
?井勇
らがいた。漢?だけではなく、
福?諭吉
の『世界??』、
川本幸民
の『?海?瀾?義』などを通じ西洋流の地理?天文?物理を?んだ。
名?館は
?制改革
により、校?はそのままに
佐川小?校
となった
。そこへ入?したものの寺子屋や塾で習熟した授業?容に嫌?が差し、2年で中退して植物について??で?ぶようになった
。小?校を中退した理由として、
造り酒屋
の跡取りだったので、小?校などで?業を修め、?問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている
[11]
。
酒屋は祖母と
番頭
に任せ、?ままな生活を送っていた
[11]
。15?から佐川小?校の「授業生」、すなわち臨時
?員
としておよそ2年間?鞭をとった
。佐川で勉?するだけでは物足りなくなった富太?は、植物の採集、
?生
、?察などの?究を?けながら、17?になると
高知師範?校
の?師永沼小一?を通じて?米の
植物?
に?れ、?時の著名な?者の知己も得るようになる。牧野は自??で「私の植物?の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。
そして、
江?時代
の
本草?者
小野蘭山
の手による「
本草綱目啓蒙
」
[13]
に出?い、
本草?
、とりわけ植物?に傾倒する。自らを「植物の精(
精?
)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19?の時、第2回
???業博??
見物と
書籍
や
?微鏡
購入を目的に、番頭の息子と
?計
係の2人を伴い初めて上京した
[11]
。
東京市
では博物局
[14]
の
田中芳男
と
小野職?
の元を訪ね、最新の植物?の話を聞いたり
植物園
を見?した。
??した
1881年
(
明治
14年)、富太?は2?年下の
?妹
でかねてから
許嫁
の猶(
?姓
=山本)と
祝言
を?げ、牧野猶は
本家
岸屋の若
女?
となる
[15]
[16]
。
1884年
(明治17年)、富太?は本格的な植物?を志し、22?の時に再び上京する。そこで
東京大?
理?部(後の
帝?大?理科大?
)植物??室の
矢田部良吉
?授を訪ね、同?室に出入りして文??資料などの使用を許可され?究に?頭する。そのとき、富太?は
東アジア
植物?究の第一人者であった
ロシア帝?
の
カ?ル?ヨハン?マキシモヴィッチ
に標本と?を送っている。富太?は天性の描?力にも?まれており、マキシモヴィッチから?を絶?する返事が?いた。やがて25?で、同?室の
大久保三?
や
田中延次?
?
染谷?五?
らと共同で『
植物??誌
』を創刊
[注? 3]
。同?誌には
澤田駒次?
や
白井光太?
、
三好?
らも?加している。
1887年
(明治20年)、育ててくれた祖母、浪子が77?で死去。
26?でかねてから構想していた『日本植物志?篇』の刊行を自費で始めた。
印刷工場
に出向いて
石板印刷技術
を?び、?は自分で描いた。これは?時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う
植物?鑑
のはしりであり、マキシモヴィッチからも高く評?された
[注? 4]
。
この時期、富太?は東京と?里を往復しながら?究者の地位を確立していくが、その?究費は亡き祖母浪子に代わって猶が工面し、富太?の求めるままに東京に送金したため、?家岸屋の??は瞬くうちに傾いていった
[11]
。
富太?は佐川の
?家
に本妻の牧野猶がいたが、
1887年
(明治20年)12月ごろ、菓子屋の看板娘小澤壽衛(14?)に一目惚れし、親の承諾を得ないまま
下谷?
根岸
の御?殿(
輪王寺宮
門跡
の別邸)跡の離れ家で一?に暮らしはじめ、翌年(明治21年)10月、第一子長女?園子(
1888年
-
1893年
)が生まれる
[17]
。
1889年
(明治22年)、27?で新種の植物を?見。『植物??誌』に?表し、日本ではじめて新種の
ヤマトグサ
に
?名
をつけた。
1890年
(
明治
23年)、28?のときに
東京府
南葛飾郡
の
小岩町
で、分類の困難な
ヤナギ科
植物の花の標本採集中に、柳の傍らの
水路
で偶然に見慣れない
水草
を採集する機?を得た。これは世界的に点?と
隔離分布
する
ムジナモ
の日本での新?見であり、そのことを自ら正式な
?術論文
で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
しかし同年、植物??室の?書の無?持ち出しなどが問題となり、矢田部?授から植物??室の出入りを禁じられ、?究の道を?たれてしまう。失意の牧野は日本の植物標本とともにロシアに亡命し、マキシモヴィッチの下で?究を?けようと企てたが、
1891年
にマキシモヴィッチがインフルエンザで急死したことにより、?現しなかった
[注? 5]
。
1891年
(明治24年)、
?家
の岸屋がついに破綻し、家財を精算するために??する。このとき?主の富太?は、猶と
番頭
の井上和之助を結婚させて店の後始末を託す
[18]
[注? 6]
。
一方、富太?は?里の高知に??中、地元の植物の?究をしたり、
西洋音?
の
演奏?
を開いて自ら指導し、時には
指揮者
として指揮棒を振ったりしていたが、長女園子の急死の電報を受け、遺産相?分の代金(約60万円)を受領し、急遽?京。
1893年
(明治26年)、矢田部非職後に東京帝?大?理科大?の主任?授となった
松村任三
?授に呼び?される形で
助手
となった。助手の月給で一家を養っていたが
[注? 7]
、文?購入費などの?究に必要な資金には事欠いていた。それでも、?究のために必要と思った書籍は非常に高?なものでも全て購入していたため多額の
借金
をつくり、ついには家賃が?えず、家財道具一切を
競?
にかけられたこともある
[注? 8]
。
その後、各地で採集しながら植物の?究を?け、多?の標本や著作を?していく。ただ、
??
の無いことと、大?所?文?の無?借用や返却の?延などにより、?究室の同僚との軋轢が絶えなかった
[11]
。
1900年
(明治33年)から、未完に終わった『日本植物志?篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店?出版社であった
丸善
から刊行された。だがこれも松村の妨害により、4?で中?してしまった。
1916年
(
大正
5年)には個人で
『植物?究?誌』
(
英語版
、
wikidata
)
を創刊(3?までは自己負?による?刊)。?刊間隔が空いたり、
池長孟
からの援助が打ち切られたりするなど、その刊行??は必ずしも順調ではなかった
[20]
。支援者であった
中村春二
の死去により再び行き詰まった後、
1926年
(大正15年)に
津村重?
(後には?社としての
津村順天堂→ツムラ
)の財政的援助を得て復刊にこぎ着けている
[注? 9]
。
1912年
(明治45年)
1月30日
(牧野49?)から
1939年
(
昭和
14年)
5月31日
(77?)まで東京帝?大?理科大?講師を勤める。この間、??を持たず、?威を理解しない牧野に?し、松村?授など??から何度も?力があったが、?長の
箕作佳吉
の庇護もあり結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代(
1893年
(明治26年)
9月11日
)から計約46年間、大?に留任している。
牧野富太?墓碑
1927年
(昭和2年)4月、65?で
藤井健次?
や
池野成一?
たちの推薦により、東京帝?大?から理?博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」
[22]
。同年に?見した新種の
笹
に、翌年死去する妻の名をとって「スエコザサ」(?名:
la ramosa var. suwekoana
)と名付けた。
1928年
(昭和3年)、牧野壽衛が病?、死因は子宮癌と推察される。享年55?
[23]
。
1937年
(昭和12年)、
朝日文化賞
を受賞。
1939年
(昭和14年)、東京帝?大?講師を?任。
1940年
(昭和15年)、壽衛の他界から12年後、富太?が78?のとき、?究の集大成である「牧野日本植物?鑑」初版を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販?されている。
1945年
(昭和20年)、
山梨?
北巨摩郡
?坂村
(現?
?崎市
)に疎開。
1949年
(昭和24年)、
大腸カタル
で一旦
危篤
?態となるも、回復。
1950年
(昭和25年)、
日本?士院?員
。
1951年
(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、
朝比奈泰彦
科??究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員?」が組織。
文部省
から30万円の
補助金
を得て翌年にかけて標本整理が行われた
[24]
。同年設立された第1回
文化功?者
の?象者となる。
1953年
(昭和28年)、91?で
東京都名?都民
。
1954年
(昭和29年)ごろから病?がちとなり、??むことが多くなった。
1956年
(昭和31年)、「植物?九十年」?「牧野富太?自??」を刊行。同年12月、?里の高知?佐川町の名?町民。また、高知?に牧野植物園が設立されることが決定された。
1957年
(昭和32年)、
死去
。
享年
96(?94??)。?後
?三位
に?され、
?二等
旭日重光章
と
文化?章
を追贈された。墓所は東京都台東?谷中の
天王寺
。?里の佐川町にも分骨されている。
高知?立牧野植物園
牧野富太?記念館本館
1958年
(昭和33年)4月、高知?高知市
五台山
に
高知?立牧野植物園
が開園した
[25]
。また、同年、東京都立大?の一施設として、遺族から寄贈された標本をもとに、牧野標本館が設立された(一部公開)。
2008年
(
平成
20年)、
練馬?
名??民
に選定
[26]
。