織田家仕官と伊勢攻略
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大永
5年(
1525年
)に生まれたとされるが、
尾張?
の
織田信長
に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする?の立場からは、若き頃は
近江?
の
六角氏
に仕えていたとされることがある。『?永諸家系??』には「幼年より
??
に長す。河州(河??)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり
[6]
、?砲の腕前により織田家に仕官したとされている。後年に
水?藩
の
佐?宗淳
から
織田長?
に送られた書?には、「?川家はそれなりに由?ある家だったが、一益は
博打
を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている
。
信長に仕えた時期は不明であるが、『
信長公記
』首?によると、信長が踊りを興行した際に「?川左近衆」が
餓鬼
の役を務めた、という記述がある
[注? 3]
。また信長の側室の一人であった
慈?院
は一益の親族とされているが、慈?院は弘治年間(
1555年
-
1558年
)に生まれた
織田信忠
の乳母であったことから、一益もこの頃には信長の家臣であったと推測されている。『妙心寺史』では、慈?院は一益の娘であるとしている。
妙心寺
56世の九天宗瑞は一益の子である。
永?
3年(
1560年
)、北伊勢の桑名は
美濃?
との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得て
北?氏
や
?氏
に?し備えることを一益が信長に進言した。尾張?荷ノ上の土豪で
長島城
主の
服部友貞
の資金によって
蟹江城
を構築したが、やがて友貞を放逐して蟹江城主となった。永?6年(
1563年
)には
松平家康
(後に?川に改姓)との同盟交?役を?った(
?洲同盟
)。
永?10年(
1567年
)と
永?
11年(
1568年
)の2度にわたる織田家の伊勢?攻略(
北勢四十八家
を中心とする諸家を滅ぼした)の際には、攻略の先鋒として活躍している。伊勢?司
北?家
一門
木造氏
出身の源?院主玄(後の
?川雄利
)を通じ
北?具?
の弟の
木造具政
を調略し、具?が
大河?城
を明け渡した際には
津田一安
と共に城の受け取りを任された。?後は
安濃津
?
?見
?
木造
の三城を守備することを命じられ(
大河?城の?い
)、永?12年(1569年)に?えられた北伊勢5郡を本?地とした
[4]
。なお、このとき主玄(雄利)を還俗させて?川姓を名?らせ(娘?に迎えたとも言われる)、北?家に養子入りした信長の次男
織田信雄
の家老とした
[8]
。
津田一安は天正3年(1575年)頃から北?家の軍事行動を先導しており、一益と連携して
越前一向一揆
討伐や
大和?
宇陀郡
の統治を行っている
[9]
。
長島一向一揆と石山合?
編集
元?
元年(
1570年
)9月の
石山本願寺
の反信長蜂起に伴う
石山合?
の開始で
長島一向一揆
も一?に蜂起し、11月には信長の弟?
織田信興
が
小木江城
で討ちとられ、一益も
桑名城
に?っている。その後、北伊勢で長島一向一揆と?峙しつつ、尾張守備、さらに遊軍として各地を??することとなる。
天正
元年(
1573年
)の
一?谷城の?い
に??。4月末に義昭と信長家臣との間で起請文が交わされた。義昭が宛てた家臣の??は佐久間信盛??川一益??直政で、信長側の?給者は林秀貞?佐久間信盛?柴田勝家??葉一??安藤守就?氏家直昌??川一益であり
[10]
一益が重臣の地位にあったことをうかがわせる。
天正2年(
1574年
)、3度目にあたる長島一向一揆??に際しては
九鬼嘉隆
らと共に水軍を率い、海上から射?を行うなどして織田軍を援護した。この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を?領している。
天正3年(
1575年
)、
長篠の?い
に?陣し、?砲隊の?指揮を執る。また同年には
越前一向一揆
を攻略。天正4年(
1576年
)の
天王寺合?
、同5年(
1577年
)の
紀州征伐
に?陣。天正6年(
1578年
)の
第二次木津川口の?い
では、九鬼嘉隆率いる?船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、
?甲船
建造に?わっている。天正7年(
1579年
)11月まで?いた
有岡城の?い
では上?塚砦の守?を調略し、
有岡城
の守備を崩?させた。この2つの敗?により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は?るようになり、翌年4月、本願寺法主?
?如
は信長に降伏することとなる。
天正8年(
1580年
)、
小田原城
主?
北?氏政
が信長に使者を送った際には
武井夕庵
?佐久間信盛と?んで?東衆の申次を命ぜられる
[11]
。この年に
佐久間信盛
が追放されたことから、?東衆、特に
後北?氏
の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を?上した際にも申次を務めている。天正9年(
1581年
)には
伊賀攻め
に?陣し、甲賀口より攻め?んでいる。また、同年、京都
妙心寺
?に自らの子?
九天宗瑞
を開祖として暘谷庵を起こした(暘谷庵は
津田秀政
の死後に、長興院と改名された)。
武田討伐と?東?定
編集
ウィキソ?スに
北?五代記
の原文「北條氏直と瀧川左近將監合戰の事」があります。
天正10年(
1582年
)、信長が
甲州征伐
を企?し、嫡男の
織田信忠
に軍を?えて
信濃?
へ攻め?ませた。この際に一益は2月12日に出陣し、家老?
河尻秀隆
と共に軍監となり、
森長可
らと合わせて攻略?の主力となっている。一益はこの甲州征伐において
武田勝?
を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を?げている。また、
甲斐?
で北?氏政の使者が信長に?謁した際、やはり一益が申次を行っている。
?後?理として、武田遺領は織田家臣に分割され、3月23日に一益は
上野
一?と隣接する信濃
小?郡
?
佐久郡
を?えられ「?東御取次役」を命じられる
。また、
伊予守
に
補任
された(「?川一益事書」)
。
一益の任務は??東八州の?撫ばかりか、甲?信など東?全域の部?を糾合して上杉氏らの敵?勢力に?抗する役割を持っていた
[15]
。なお、『
北?五代記
』『
?八州古??
』など後代の
軍記物
によれば一益の地位は「
?東管領
」であったとされるが、?東管領は室町幕府?制において設置された役職であり、信長が
足利義昭
を追放していることと矛盾する(室町幕府や?東公方の役職を認める事になる)。さらに、同時代史料において一益が「?東管領」であったことを示すものがみられないため、これを疑問視する?もある
。
しかし一益は領地よりも
茶器
の「
珠光小茄子
」を所望したが?わなかったといい、三?一太?五?
[注? 4]
への手紙の中で「遠?にをかせられ候??茶の湯の冥加つき候」と悔しさを述べるという、名物の重みを感じさせる逸話が?っている
。信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し(『信長公記』)(『?八州古??』)、引き?き一益を?東統治の取次役にした。3月29日には、河尻秀隆が甲斐一?(穴山氏支配の河?領除く)と諏訪郡、森長可が信濃川中島4郡、
毛利長秀
が伊那郡を?えられ、
木曾義昌
が木?谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。
一益は、はじめ上野?
箕輪城
に入り、5月下旬、
?橋城
に移った
。また、
沼田城
には
?川益重
が入り、
西毛
の
松井田城
には
津田秀政
、佐久郡の
小諸城
には
道家正?
が入った。一益は新領地統治にあたり、?人衆に?して本領は安堵することを申し渡した?、近隣の諸?が人質を伴い次?と出仕した(
家臣??力
の項?照)。この時、
天?寺?衍
と
倉賀野秀景
は側近とされ、?東の北?氏政父子、
佐竹義重
、
里見義?
だけでなく、
陸??
の
伊達輝宗
、
蘆名盛隆
とも連絡をとっており、北?氏政に
下野
祇園城
を元城主?
小山秀綱
に返還させるなど、?大な?限を持っていた?子がうかがえる。また北?氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた
太田資正
、
梶原政景
父子は、信長の直?となることを望み、申し入れて許され、一益のもとに伺候している
[17]
。但し、
千葉邦胤
、
武田豊信
は出仕を拒否し、
足利義氏
とその家臣?
?田晴助
には一益からの連絡自?が行われていない。一益も室町幕府の役職である
?東公方
への??に苦慮したものと考えられる
。
同年5月上旬、一益は諸領主を?橋城に集め能興行を開催した
。嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている
[20]
。『群馬?史』は、この能興行は、一益の勢威を上野?衆に示すデモンストレ?ションだったとする
。同月23日、一益の命により沼田城主の?川益重が兵を率いて三?峠を越えて
越後?
に侵攻しようとしたが、
上杉景勝
方の?水城主?長尾伊賀守と樺?城主?
栗林政?
に破れたと?わる(『北?太平記』)
[21]
。
本能寺の?
編集
6月2日、信長が
本能寺の?
によって
?死
すると、信長の死を知った北?氏政は、6月11日付の書?において、深谷の
狩野一庵
から本能寺の情報を得た事を一益に?え、引き?き協調?係を??する旨を?えている
[22]
。しかし?際には6月12日に領?に動員をかけており、北?氏の上野侵攻は確定していた
[23]
。
一益が信長の死を知ったのは事?から5日後の6月7日であった。6月10日、一益は重臣の反?を押し切って、上州の諸?を集め信長父子兇?(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ?り織田信雄、信孝?公を守り、光秀と一?して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に?じ一益の首をとって北?に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく?いを仕かけるがよい。それがしは北?勢と決?を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと?わる(上毛古?記)
[24]
。
6月11日、一益は長昌寺(?橋)で能を興行しているが、?構を大竹にて二重につくるほどの?重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの?が北?高?の家臣らの間で流れるほどであったという
[20]
[22]
。
一方、一益は
6月12日
付けの書?で
[25]
、信長の安否を聞いてきた
小泉城
(東毛)の
富岡秀高
(六?四?)に?し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に?わったことはありません」
[26]
と書?を送っている。一益が集め??を告げたのは、上州諸?の?、
北?高?
などの主要な武?のみであったとも考えられる
[22]
。また、箕輪城を明け渡した?藤昌月は謀叛を疑われ、箕輪に身を寄せていた
保科正俊
、
保科正直
等と共に一門命運も?きたと?悟していたところ、本能寺の?の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵したという
[27]
。
本能寺の?の報に際し、
沼須城
主(北毛)の
藤田信吉
が反?を起こし沼田城を攻めたが、城主??川益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の?川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の?藤)とともに?けつけ??した
[28]
(
沼田城の?い
)。
?武田領では武田家?臣による一揆が起こり
6月18日
に北信の森長可が海津城を捨て美濃?へ去り
、同?に南信濃の毛利長秀も伊那を放棄し、甲斐?の
河尻秀隆
は同日に武田遺臣により殺害された。
神流川の?いと伊勢?還
編集
ウィキソ?スに
管窺武鑑
の原文「?東信州路次の士大?衆、何れも一益に人質を出して見?くる。?東律義の風にて、斯くの如し」があります。
6月16日
、信長の死に?じ、小田原城の
北?氏直
(氏政の嫡男)、
鉢形城
主?
北?氏邦
(氏政の弟)、北?氏政、
北?氏照
、
北?氏規
ら?勢5万6千の北?軍が上州倉賀野に侵攻してきた
[30]
。
一益は、?橋城に
?川忠征
、松井田城に津田秀政と?田九?の兵1,500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北?勢を迎え?ち、6月18日の初?は?川勢が勝利したが、翌
6月19日
の合?
[30]
では北?勢が勝利した。この時、篠岡、津田、太田、栗田など500騎が踏み止まって討死し
[31]
、上州衆では木部貞朝
[22]
、倉賀野秀景の子(五?太、六?太)等が討死した(
神流川の?い
)。
同夜、一益は倉賀野城を?て?橋に?り、城下の長昌寺において?死者の供養を行った(『依田記』『上野古??』)
[32]
[33]
。
6月20日
一益は人質であった北?高?の次男を返し
[20]
、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという
[34]
。一益は太刀、長刀、金銀、秘?の懸物等を上州勢に?え、その夜、箕輪城を旅立った。
一益は津田秀政の守る松井田城を?てその城兵1,500騎を加え2千?の兵とし、
?氷峠
を越え、
6月21日
に道家正?の守る小諸城に入った。この時、佐久?小?の人質を伴っており、この中には
依田康?
や
?田昌幸
の老母?
恭雲院
が加わっていたという
[35]
。一益は自身の本?である伊勢長島に退去するつもりであったが、
木?郡
の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた
[36]
。一益は義昌に「通してくれれば佐久郡?小?郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した
。
一益は、
6月27日
に小諸城を
依田信蕃
に引き渡して旅立ち、
6月28日
に義昌の居城?
福島城
で人質を引き渡し
[37]
、ようやく織田の領?である美濃?に入ることができた。一益は?洲にて三法師(
織田秀信
)に??後
[31]
、
7月1日
伊勢に?ったという
[37]
。なお、この途上にあった
6月27日
には
?洲?議
が開かれたが、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した(一方、佐久?小?郡の人質は、9月17日に木?義昌から
?川家康
に引き渡されている
)。なお、近年の新?として、?洲?議の前日である
6月26日
付で秀吉から一益に充てて家康と連携して北?軍を防ぐように求める書?が出されていることから、北?軍と?っている(と思われていた)一益は?議には間に合わないと考えられて、最初から呼ばれていなかったとする?もある
[38]
。
賤ヶ岳の?いと出家
編集
?洲?議後、信長の嫡孫?三法師が
織田氏
の後?者となったが、その中で一益が伊勢に?還した。?東を失ったために立場が弱くなった一益は今後の汚名返上のために織田家の遺領の再配分を求めたが、
羽柴秀吉
ら?洲?議に?加した重臣は?議の決定を覆しかねないこの要求を拒んだ
[39]
。その後、信長の三男?
織田信孝
は?議の決定に不?を持っていた?、三法師を擁立した
羽柴秀吉
と、信孝を後援する
柴田勝家
の?立に?展した。天正11年(
1583年
)正月元旦、一益は勝家に?して秀吉との?端を開いた。一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も
織田信雄
と
蒲生氏?
の兵2万近くの兵を
長島城
に釘付けにしたが、勝家が
賤ヶ岳の?い
で敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。?った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮?したが、7月には降伏。これにより一益は所領を全て??され、京都
妙心寺
で剃?、
朝山日?
の?を秀吉に進上し、
丹羽長秀
を?り越前にて蟄居した
[注? 5]
。その後、伊勢の所領は信長の次男?
織田信雄
のものとなった。
小牧?長久手の?いと晩年
編集
天正12年(
1584年
)、今度は織田信雄が?川家康と共に反秀吉の兵を?げた(
小牧?長久手の?い
)。一益は秀吉に?居から呼び?され、今回は秀吉方となった。この?いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と
前田長定
を調略し、6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。先に??された蟹江城から信雄方の
佐久間信辰
を追放し、更に、
下市場城
、
前田城
を占?した。?時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と?川家康の
?洲城
の中間に位置する重要?点であった。しかし、
山口重政
の守る
大野城
の攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包?されてしまう。一益は、開城交?も含め半月以上粘ったが力?き
7月3日
に開城した。しかし、退去中に攻?されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている(
蟹江城合?
)。
羽柴秀吉は、伊勢に
羽柴秀長
、
丹羽長重
、
堀秀政
ら6万2千の兵を集めて、
7月15日
に尾張の西側から?攻?を計?していたが、間に合わず中止となった(『?野家文書』)
[40]
。
7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の
一時
に1万2千石、自身に3千石をそれぞれ宛てがうとする判物を?給されたが、嫡男の
一忠
は敗?の責任を負わされ追放され、一時も羽柴秀長に身柄を預けられた。同年11月、信雄の家老??川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。
一益は
天?寺?衍
、
山上道及
等と共に秀吉の東?外交を?っており、天正12年(1584年)6月、秀吉から佐竹義重(
沼尻の合?
に??中)への返書の添?、天正13年(
1585年
)11月、梶原政景への書?にて、秀吉による
小田原征伐
を予告している
。彼らの活動は、その後の北?氏にとって不利に?いたと考えられる
。
天正14年(1586年)9月9日越前大野にて死去。
享年
は62と云われる。
子としては『
?政重修諸家譜
』に長男の
一忠
、次男の
一時
が?載されるほか、
岡山藩
に仕えた
辰政
、
鳥取藩
士や?師となった鳥取の
瀧川家
の先祖とされる
知ト?
が子孫の家系?に見える
[41]
。
長男の一忠は父と行動を共にしていたが、天正12年(
1584年
)の
小牧?長久手の?い
に?する
蟹江城合?
での不手際を豊臣秀吉に責められ、追放?分となる。以降生涯、仕官せずに暮らした。その子の
?川一積
は中村一角(
米子藩
主
中村氏
か)に仕え、のちに
旗本
に?じた(後述)。
次男の一時は秀吉から
?川家康
に預けられて2000石を?えられたが、
慶長
8年(
1603年
)に35?で死去した
[注? 6]
。嫡男の
一?
は幼年であったため、?兄の一積が呼び?されて2000石の名代となり、一?はそのうち250石のみを所持した。成人後、所領の返還を幕府に申し立てて750石が一?に返却され、さらに200石を加?。一?の死後、900石が長男の
一俊
、300石が四男の
一成
に分割相?され、この2家が旗本として
幕末
まで?いた。
慶長9年(
1604年
)に一?の名代として1750石を得た一積は幕府に
使番
として出仕し、一?から所領返還の申し立てがあってからも幕府の裁定により1000石を?されて別家を興した。ところが、一積は旗本となるより前に
?田昌幸
の娘(
趙州院
)を妻に迎えていた?で
?田信繁
の娘を養女として養育し、伊予松山藩
蒲生家
家老?
蒲生?喜
に嫁がせたことを咎められ、
?永
9年(
1632年
)に
改易
された
[注? 7]
。その後、
?文
3年(
1663年
)に子の
一明
が召し出されて旗本に復?し、300俵を?えられて子孫は幕末まで?いた。
三男の辰政ははじめ
織田信包
に仕え、
?野長政
、
石田三成
、
小早川秀秋
と渡り?いたのち、
?路藩
主の
池田輝政
に2千石で仕官し、
大坂の陣
で?功を?げ1千石を加?され、合計3千石となった。池田氏の移封に伴い、子孫は
備前
岡山藩
の
番頭
格の重臣として幕末まで?いた。維新後の子孫に
?川事件
で有名な刑法?者の
瀧川幸辰
がいる。
四男の知ト?は?未詳であるが、子孫の系?によれば身?に障害があって一生仕官せずに流浪したという。子孫の系?では辰政の嫡男?
宗次
は?は知ト?の?子とある。他の子の子孫に
因幡
鳥取藩
池田氏に仕えた鳥取藩士の?川氏と、鳥取で代??業を?んだ
瀧川家
がいる。
一益の養女と結婚した?に
津田秀政
がいる。秀政は織田一族で一益の寄騎として活躍し、子孫は江?幕府の大身旗本となった。
一益から?川の苗字を?えられた織田信雄家老の
?川雄利
は
片野藩
主となったが、雄利の子?
正利
の代に所領を返上し、子孫は旗本2家に分かれて幕末まで?いた。子孫には幕末に
大目付
になり、
鳥羽?伏見の?い
の先鋒を務めた
?川具?
、
?習隊
に入隊し
戊辰??
を通して活躍した
?川充太?
(具綏)がいる。具綏の弟
?川具和
は海軍少?となった。雄利を一益の養子または?とする?もあるが、系?には特にそのような記述はない。
同じく一益から?川の苗字を?えられた一益家臣の
?川忠征
は旗本から
尾張藩
家老に??され、子孫は旗本と尾張藩の重臣?
御附?列衆
に分かれて幕末まで?いた。忠征を一益の養子とする?もあるが、系?には特にそのような記述はない。
なお、明治以降の各家の子孫は略字の「?川」ではなく正字の「瀧川」を?籍上の氏としている。