?宮創建の年代は不詳である。しかし『琉球宗?史の?究』
[2]
では、琉球八社は
?言宗
寺院に?置され、その創建の由?を見ると多くは社寺同時に創建されたものと考えられることから、?宮は
察度王
の御代、
護?寺
が開山した時期(貞治7年、1368年)に創建されたのではないかと推測している。一方、島尻勝太?は、1384年に亡くなった?重法印が
護?寺
を開山したことが通?になっていて波上宮の創建がそれ以前とされていることについては、異?を唱えている
[3]
。いずれにせよ創建は王?時代で、琉球八社は王府が管理していた官社であったが、?史書で創建年が明らかにされている神社は、長?宮(浮島神社)1451年、安里八幡宮1466年などで、15世紀頃には創建されていたとも考えられる
[1]
。
『波上宮 略記』
[4]
では、?か昔、人?が海の彼方の海神の?(
ニライカナイ
)の神?に豊?や平?を祈った聖地が?社の?座する波の上の崖端で、?所として日?の祈りを捧げたのに始まると述べている。?地での?に?して『海上の道』
[5]
では、波の上の丘陵の高みにおいて、?年、日を定めてこの付近の居留者が各?の故?の方角に向けて香?を置き、自身の本?に向かって??する「ネグミ?み」と言う祭りが近代まで行われていたことを紹介している。
天啓
3年(
1623年
、
和?
では
元和
9年)完成の『
おもろさうし
第十』には「?王?よ、今日の良き輝かしい日に
聞得大君
を敬って、?中の人?の心を集め?え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ?詣し給えば、神も?現も喜び給う。」
[6]
と言う意味の“
おもろ
”がある。『おもろさうし 上』
[7]
はこの中に詠われる「波の上、端ぐすく」が?宮?座地であると解?し、『日本の神? -神社と聖地- 13 南西諸島』では?宮創建を詠った“おもろ”ではないかと紹介している。
『神と村』
[8]
では、
グスク
は古代祖先達の共同葬所(風葬所)であり、納骨洞穴が?所になった場所は「テラ」と?される場合があると述べたうえで、上記“おもろ”
[6]
に記された「なみのうへ は げらへて はなぐすく げらへて ものまいり しよわちへ てらまいり しよわちへ」の「てら」が、古代「鼻(はな)ぐすく」と呼ばれた?宮?座地にある「波上洞穴遺跡」を指しており、この地が祖先達の葬所を根源とする「神の居所」であることが?われると述べている。
慶長
10年(
1605年
)に倭僧?
袋中良定
が著した『
琉球神道記
?第五』の「波上?現事」では?宮を琉球?第一大?現と述べ、さらに以下のような?宮の創設?承を記している。
南風原
の
崎山里主
という者が釣りをしていると、ある日浜?で「光り、ものを言う」?石を見つけた。この石に祈るたびに豊漁となるので、諸神がこの?石を奪おうとした。そこで
崎山里主
が?地へ逃れると「吾は
熊野?現
也、この地に社を建て祀れ、然らば?家を?護すべし」との神託があった。
崎山里主
は琉球王府にこれを奏上し、社殿が創建された。
上記の?承は、琉球の固有信仰として古くからあった石?信仰と熊野信仰が結合したものであろうと『古代文?講座11 ?異記?氏文??起』
[9]
では考察している。また、上記と同?の?承が
康熙
52年(
1713年
、和?では
正?
3年)に?王へ上?された琉球王府編纂の地誌『
琉球?由?記
?11』にも記されている。
正平
23年(
1368年
)、
?重法印
が?宮の
別?寺
として護?寺を建立、その後一時衰微し、
紀伊?
熊野から
補陀落渡海
の果てに琉球へ漂着した?言宗の僧侶
日秀上人
により
大永
2年(
1522年
)再興されたと俗?では語られる。再興にあたり日秀は熊野三所大?現の
本地?
である
阿?陀如?
?
?師如?
?
千手?音
を刻して安置している。
王?時代には寺社座の管理下にあり、?王や役人が公式行事として??した記?が?り、琉球八社の中で最も格式のある神社であった
[1]
。
?時の那覇は浮島で、1451年に長虹堤(ちょうていこう)と呼ばれる橋が建設され、那覇は沖?本島はつながり、それを機に大型の外?船が入港できる港が整備され、那覇にも多くの人が移り?展、薩摩の役人や中?からの渡?人など多くの外?人が住んだという。波の上は王?時代には「端城(はなぐすく)」とよばれて、那覇の突端であるとともに、神の居住地であることを意味したという。波上宮はもともと琉球古?の神に祈りを捧げる聖地??所であり、その周りに他?の信仰の場となる施設が建てられたとされる。
[1]
?永
10年(
1633年
)に社殿が?失したが、本地三尊像は護?寺に移されていて難を逃れた。?失した社殿は同12年(
1635年
)に再建されている。さらに
享和
3年(
1803年
)社殿が大破したため、それまでの本地三尊像を3殿に分けて安置する形式から1殿に安置する三?前として改築した。
明治
に入り
近代社格制度
によって
官幣小社
へ列格され、明治23年(
1890年
)5月17日に御?座告祭式を行った。この御?座告祭式の日が、明治26年(
1893年
)から例大祭の日となっている。『琉球宗?史の?究』
[2]
によれば、官幣小社へ列格される前年(
1889年
)に沖??が?幣中社の認定を申請していたが、皇室の祖神である伊?冊尊を祀っていたことを理由として格上げのうえ列格されたのだと言う。
昭和
10年(
1935年
)には御再興三百年祭を催行。さらに昭和13年(
1938年
)頃にかけて神苑を整備している。
太平洋??
末期の
昭和
20年(
1945年
)、?火が迫ったことから宮司がご神?を奉じて
摩文仁村
へ避難した。しかし境?は激しい
沖??
の中で鳥居を?し全てが灰燼に?してしまった。
沖??で?滅的な損害を被った?宮であったが、昭和23年(
1948年
)には
別表神社
へと指定された。昭和27年(
1952年
)宮司が復興に着手。翌28年(
1953年
)ハワイ
移民
の寄進により本殿と社務所を再建、本土へも呼びかけ昭和36年(
1961年
)には?殿が再建された。昭和47年(
1972年
)に
本土復?
を迎えて沖?復?奉告祭が行われ、皇室より幣帛料を賜っている。昭和62年(
1987年
)?社務所?びに?集所を撤去し、新しい社務所が新築された。
平成
2年(
1990年
)御大典を記念して一の鳥居を改築した。さらに平成の御造?により本殿と?殿を再建、平成5年(
1993年
)に完成して正遷座祭が催行された。翌6年(
1994年
)5月に全整備事業の終了により竣功奉告祭が催されている。平成15年(
2003年
)には第二社務所を新築、平成18年(
2006年
)長年に亘り信仰の場?景勝地として親しまれてきたことを理由に、?宮敷地一?が「波上(なんみん)」として那覇市より史跡?名勝文化財へ指定された。
現在、宮?には
沖??神社?
の事務所が置かれ、沖?における神道の活動?点の一つとなっている。